三、


 字の付け方には、原則がある。

 

 まず、二文字であることが多く、一文字は兄弟の中での生まれた順番を表すことが、また多い。よくある兄弟序列を示す文字としては、長男より伯・仲・叔・季といい、伯を孟に代えることもある。もう一文字は、兄弟及び一族の同世代で共通の文字を用いることもあれば、諱と似た意味を持つ別の文字をあてることもある。


勿論これはあくまで原則であり、遵守しなければならない金科玉条というわけではない。全て字をつける者、即ち賓に委ねられている。


 恪の「元遜」という字は、凡にして伝統的なものであった。


「元遜」の「元」は「はじめ」、つまり恪が諸葛瑾の長男であることを示している。「遜」は即ち「へりくだる」であり、恪の諱に近い意味がある。諱の「恪」は「つつしむ」の意である。恪と遜には「相手を敬って一歩下がって身を慎む」という共通の字義があり、それ故に賓の張承は恪に、「元遜」の字を授けたのである。


 ここまでは、何も奇異なことなど存在しない。恪の字が宣言されたとき、親戚のささめきや恪の怒りや恨みを誘ったのは、恪の人格が、諱にも字にも真っ向から対立していることにあった。つまり恪は、不敵にして傍若無人、傲岸不遜にして、しかも有能で弁舌爽やかなこと、同世代に比する者がいなかったのである。その恪に、改めて「へりくだる」という意味の「元遜」という字を贈った賓の張承の思惑、そして張承から必ず事前に聞いてそんな字をつけることを承諾した父の諸葛瑾の思惑は、恪にもっと謙虚になれと、つまりはそういうことであった。


 恪は元遜の字を贈られたことで、しかし、特に謙虚になることはなかった。むしろ成人して王太子・孫登そんとう僚友ごゆうじん係として朝廷に出仕するようになると、早々と他の僚友の先頭に立つようになり、皇太子の覚えもめでたくなった。そしてその弁舌で、自分よりも頭と舌の回転に劣った人々を屈服させしめるようになった。


 息子がいらぬ怨恨を買い続けているのを傍観しているわけにもいかず、諸葛瑾はある日、恪を咎めて言った。


「恪、お前、殿下に失礼なことを申し上げたんだってね?」


「失礼? さて、俺と殿下の間柄に失礼なやり取りなどありえますか?」


 恪は図々しく言い放った。悪びれた様子は微塵もない。息子の返答の仕様に、諸葛瑾はいつもは穏やかに平らかな眉間にしわを寄せながら、


「何でも殿下がお前に、「元遜は馬糞を食らうべし」と言を弄されたときに、」


「ああ、その話ですか。何、既に巷間に流れている通りですよ」


 恪は諸葛瑾の言葉を遮って、話を切り上げようとする。「待ちなさい」と諸葛瑾は珍しく語調を強めて、


「大体、いくら戯れ言とはいえ、どうして殿下がそう仰ったのか、ひとまずそれは措くがね、恪、お前は殿下に何とお答え申し上げた?」


 父の問責に、恪はただ肩をすくめて「既にお聞きの通りに」とだけ言った。その態度は諸葛瑾の、怒りよりもむしろ危惧を煽った。恪は、諸葛瑾が近しいがための親しさ、あるいは憎さから、こういう立ち振る舞いをしているのではない。誰に対してもこうなのである。目上には皮相の丁寧さがある、つまり慇懃無礼であるという差異こそあるものの、万人にこうである。つまり、いつ人から怨恨のために刺し殺されても文句を言えないような態度を、誰に対しても取っているのである。諸葛瑾が危惧するのは、まさにそのことであった。


 諸葛瑾は堪忍を重ねて話を続けた。


「殿下がお前に馬糞を食らうべしと戯れて、お前は殿下に「鶏卵を召し上がって頂きたい」と返した。そうだね?」


 諸葛瑾は言葉を止めて、恪の顔をちらりと見た。息子は、務めてしらばっくれている。諸葛瑾はあきらめて言った。


「なぜなら、馬糞も鶏卵も、同じ所からでるから、と」


「ええ」


 恪は頷いて、うっすら得意そうな色を顔に昇らせながら、


「陛下はこの話をお聞きになり、大笑あそばされていました」


「そういう問題ではない!」


 思わず諸葛瑾は一喝をしたが、された恪は蚊に刺されたよりも平然としている。諸葛瑾は頭に鈍痛を感じながら、陛下も陛下だと内心毒づいた。陛下、つまり諸葛親子の仕えている呉王・孫権は今年で齢四一、諸葛瑾よりも八つ若いが、しかしもはや不惑も過ぎた。というのに、どうもいつまでも少年の面影が抜けきらないお人である。その陛下なら、このような下らない話も笑うだろう、爆笑だろう、目に浮かぶようだと諸葛瑾は思いながら、しかしやはりそういう問題ではないと思った。諸葛瑾は一向に澄まし顔を崩さない息子に、堪忍を重ねて言った。


「恪、真の友というのは、互いの欠点を改めさせてくれるものだ。聞けば、殿下は君臣の礼におおらかな節があるが、恪、だからといってお前たちが馴れ馴れしくしていいわけではないよ」


 父の訓辞を聞き終わった恪は言った。


「さて、何のことだか恪には分かりかねます」


 こう言われて、諸葛瑾はなおも堪忍した。自分の意見を頑なに押しつけず、時を措いてから相手の理解を乞うというのが、諸葛瑾のやり方であり美徳であった。主君の孫権も、だからこそ諸葛瑾に信を置いていた。よって今もまたその美徳が発揮された、わけでもなかった。


 諸葛瑾は半ばあきらめかけていた。恪も、もはや二十を過ぎた。もう折檻する齢でもないし、折檻したところで自らを矯める玉でもないことは重々わかった。ただ恪の傲岸さは、成人してから、冠礼の後から、その程度はさらに甚だしくなった。まるで元遜という字をつけられたことに意趣返しでもしようとするかのように。どんな名をつけられ字をつけられようと、俺は俺だと声高に主張しようとするかのように。


 そう思うと、諸葛瑾はひどく悲しく、寂しかった。「元遜」、親友の張承がこの字を考え出してくれたとき、諸葛瑾はさすが我が友と嬉しかった。張承も諸葛瑾と同じく恪の傲慢さを危ぶみ、心配してくれているのが嬉しかった。そして親として子ども時代の恪へできる最後の忠告として、元遜の字を贈った。しかし、元遜、最後の忠告も、恪には全く響かないばかりか逆に恨まれていると、感ぜられた。


「いいかい、恪」


 諸葛瑾は心がくたびれているのを感じながら、もう一つ、咎めなければならないと決めていたことを持ち出した。「お前、頼むから張公ちょうこうには楯突かないでおくれよ。先の宴、お前ったら師尚父ししょうほの故事まで持ち出して、無理に張公に酒を勧めたりなんかして、」


「楯突いておりませんし、無理にではありません」


 恪は、やはり諸葛瑾の言葉を半ばさえぎるように言った。「陛下がおっしゃられたではないですか、恪が張公を言いまかせられたのなら、張公はさらに一杯、杯を重ねるであろう、と。恪は陛下のお言葉に従っただけです」


 諸葛瑾はうめきたくなった。張公、というのは張昭ちょうしょう、呉の元老ともいうべき人物である。呉王である孫権ですら、決して強くでられないような大人物であった。


 その元老・張昭を、諸葛恪の頭脳と弁舌を借りて黙らせてやったときの、あの孫権の楽しそうな顔といったら、なかった。張昭は主君である孫権に、まるで厳父のように接する節がある。そんな風に接するのは、一つに張昭が、孫権の実兄である先代・孫策そんさくに臨終の床で孫権を託されたからでもあり、また何より張昭の、秋霜烈日を体現したような厳しい性格のせいでもある。その張昭を、まだ成人したばかりの若い恪がやりこんでくれたとあっては、孫権は実に痛快であっただろう。諸葛瑾にはどうも、孫権と恪が悪童の親分・子分のように見えて仕方なかった。


 それに恪にしても痛快愉快であったにちがいないと、諸葛瑾は恪の、むずむずと喜色満面を隠そうとして隠せていない顔を見て思った。張公、張昭、かの人物は諸葛瑾と恪にとって、他人ではなかった。


「恪」


 諸葛瑾は、胸に痛みを覚えて言った。


「お前、そんなに仲嗣のことが憎いのかい?」


 恪の唇の片端が、ぴくりと動いた。仲嗣は、張承の字である。張公こと張昭は、恪の冠礼で賓を務めた張承の、実父であった。恪があの宴の席で、張昭相手に振るった弁舌が、やけに嬉々として見えたのは、そのことと無関係ではあるまい。


「……」


 恪は、珍しくだまりこんだ。黙って、諸葛瑾を見た。恨めしそうだった。


 諸葛瑾はまた少し、恪の良心のちがう箇所を責めて言った。


「張公はあの子の義父でもあるじゃないか。恪、妹がかわいそうだと思わないのか?」


「……」


 恪はついに、むすっと完全に黙り込んだ。恪の冠礼から日を置いて、諸葛瑾の娘、つまり恪の妹である諸葛氏は、張承に嫁いでいった。実兄が義父に恥をかかせたとあって、諸葛氏の婚家での立場が苦しくならないわけがないではないかと、諸葛瑾は責め立てたのである。無論、張昭も張承も、兄の恪と諸葛氏とを別に考えてくれる人格者であった。が、世の中にはそういう人々ばかりが生きているわけでもない。


「恪」


 諸葛瑾は珍しく良心の呵責を感じているらしい恪に、重ねて言った。「お前の言動は、お前だけのものではないのだ。気を付けなさい」


 恪は黙ったままである。諸葛瑾は頃合いかと、恪を訓戒から解放した。そしてやはり、恪を危うんだ。妹の婚家の体面すら気遣えない恪は、あまりに軽率である。いつの日か、恪は一族のみならず縁戚の者全てに破滅をもたらしはしないか。だから元遜の字を贈り、今もまた身を慎むように戒めのだが、果たして。……


 その後、恪が謙虚になることはなかった。


 むしろかえって、頭脳の冴えを大いに誇示し、他者を打ち負かして黙らせるようになった。恪は、自分が有能であり勝者であると、信じて疑わないらしかった。たとえ周囲にいるのが無能ばかりでも、侮辱された怒りや恨みをきっかけとして、数を頼みに有能な者に襲いかかるのだということ、そして有能と無能、勝者と敗者は、案外あっけなく交代してしまうのだということを、全くわかっていないらしかった。恪は他者に完全に敗北を喫したことがなかったからである。


 それを見て、諸葛瑾は己の無力さに震えた。そして一日でも早く、恪が何か失敗しないかと切に望んだ。失敗し挫折し、恪自身が己の不全さを痛感すること。それでしかあの驕慢さは直ることはなく、恪が真に大人になることもあるまいと、諸葛瑾は踏んでいた。そして挫折も失敗も、早ければ早いほうがよい。まだこの父、諸葛瑾が達者であるうちに、しでかしてはくれまいか。諸葛瑾は切にそう願うようになった。失敗でも挫折でも、まだこの父が尻拭いしてやれるうちに、しでかしてはくれまいか。……


諸葛瑾が生前に恪の失敗や挫折を見ることは、遂になかった。


 父の死から十二年後、恪は生まれて初めて失敗を犯した。大失敗であった。遠征先で、率いていた将兵の多くを失った。そして恪は、失敗を償う方法について何も知らなかった。そうこうしているうちに、恪は周囲にうずたかく積もった怨恨に圧しつぶされるようにして、死んだ。恪によって築き上げられた怨恨の山は高くその崩落は大規模で、恪の縁者全員を呑み込み、皆殺しにした。

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冠と字 久志木梓 @katei-no-tsuru

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