8・青い春
僕と雛子さんは最寄りの広見駅へ向かった。帰宅ラッシュの落ち着いた、薄暗く仄かなオレンジが残る時間帯。僕たちは飛び込むようにしてホームを抜ける。
「ここに、
息を切らして訊く彼女に、僕は首を横に振った。
「いや、僕はいつも隣駅から乗るんですが……ここ二日、電車の中の景色が変わったんです。幽霊しかいない、電車に」
雛子さんは黙っていた。どう反応したらいいのか分からないのだろう。
しばらく、トンネルの向こうから来る風を受けながら電車を待っていた。
暗闇の奥で、光が見えてくる。ヒューッと風が通り抜ける音がホームに響く。
到着して停まった電車は偶然にも、僕が毎日乗っている銀色の車体だった。
ドアが開き、乗っていた乗客たちが降りてくる。
疲れきった顔が全て降り切ると、僕は無意識に雛子さんの手を取って、電車の中を潜った。
――頼む、会わせてくれ……あの人達に……!
『ドアが閉まります。扉にご注意ください』
アナウンスの声で、瞑っていた目をゆっくりと開いた。
そこは……
「……あの、山田さん」
傍らで不審げな声が上がる。一方の僕は、目の前に広がる光景に愕然とした。
「どうして……」
そこに広がっていたのは、何の変哲もない電車の景色だった。
仕事帰りのサラリーマンや、制服を着た高校生、中学生、買い物袋をぶら下げたおばさんなど。
とにかく生きている人間しかいない、本来の景色だった。賑やかとはほぼ無縁の、それでも幽霊電車のような無人であって無人ではない空間ではなかった。
全身が脱力し、ドアにもたれかかる。そして、手で顔を覆った。落胆の表情を隠すように。
「山田さん」
雛子さんの心配そうな声は耳に入っていた。
隠しているのにも関わらず、それでも顔を覗きこもうとする彼女に僕は背を向ける。
「雛子さん……ごめん」
「いえ、そんなの……山田さんの気持ちは伝わってますから」
慰めてくれる。でも、それが酷く僕の心に突き刺さる。
揺れる電車は酷く耳障りな音が響いていて、うるさい。
あの静けさが懐かしい。こんな風の唸りではなく、豪快な笑いと明るい声が欲しい。
ようやく気づいた。
初めて、一人の
いつもクラスメイトが仲良く騒いでいる様子を見ていて、羨ましく思っていた。
寄り道や部活をしている同級生たちが羨ましかった。
気兼ねなく話せる相手が欲しくて堪らなかった。
それがあの二日ですんなりと出来てしまったのだ。
憧れていた場所に僕を連れて行ってくれた、あの友人たちに、ただ「ありがとう」と言いたかった。
僕は知らず知らずのうちに支えられていたのだと、ようやく気づいた。
それなのに……遅かったのか。
「山田さん。もしかすると、英子たちは無事に辿りつけたんじゃないですか?」
ふと、ぽつりと浮かぶその言葉。
振り向いて彼女を見つめると、その表情は声と同じように優しい。
「実は今日で四十九日なんです。死んだ人はみんな四十九日、時間をかけて天に昇っていく。昔、おばあちゃんにそう言われました。多分、それでみんな……」
「でも、朝はいたんだ」
そんな素振り、彼らは微塵も見せなかった。
いや、違う。
唐突に、引っかかっていた疑問の糸がスルスルと解けた。
彼らの言っていた『最後』の意味……今日で四十九日だから、この電車が『最後』ということ。
でも、僕の感情はワガママだった。あれが最後だなんて思いたくない。
ゲンさんは笑って、ハナコさんは手を降って、アサマさんは不器用に片手を上げて、僕を送り出してくれた。
本当に、あれが『最後』だなんて。もう会えないなんて、認めたくない。
『……終点です。この電車は回送になります』
いつの間にか電車の終着まで辿り着いていたらしい。アナウンスが無情に流れるも、僕は動けずにいた。
そして、雛子さんも黙ったまま降りようとはせず、窓から向かいのホームを見つめていた。
地下鉄はいつも暗い。
透明な窓ガラスには、僕と彼女の浮かない顔だけを映している。
『まだ迷っているのかい?』
唐突に、声が聞こえた。聞き覚えのある、しゃがれた優しい響き。
慌てて首を回し、音の出処を探す。
『山田さん、笑った方がいいって言ったでしょ? もう、なんて顔してるのよ』
どこだ? どこにいるんだ……
『ほらな、やっぱりまた会えると思ったんだ』
僕の目は、雛子さんが見つめる向かいのホームへと止まった。
そこに、薄らと見える三人の影。
「――いた……」
笑顔で手を振る彼らの姿が。
「え? どこ?」
僕の声に反応した雛子さんが慌ててホームを見回す。急いで、向かいのホームを指し示した。
「あそこ! ベンチの所……真正面の……」
しかし、彼女の目には三人の姿が映し出されてはいなかった。しきりに的外れな位置を探している。
そうだった。彼らは僕にしか視えないのだった。
「――楽しそうに、笑っているよ」
「本当?」
彼女も視えないと分かったのだろう。僕の視線を辿るように、向かいのホームを見つめて訊ねてくる。
「ハナコさんもゲンさんも、アサマさんも。みんな、手を振ってる」
僕は彼らのいる場所をずっと、指しておいた。そんなことをしても、彼女に視えるわけがなく気休めにしかならなかったが、ないよりは全然いいはずだ。
「……ハナちゃん、いるんだね」
しばらくして、彼女はそう呟く。その目にはうっすらと涙が浮かんでいた。
「ハナちゃんの馬鹿。いつもいつも、人のことばかり気にして……自分のことなんか後回しで……私、寂しいよ……」
みるみるうちにその涙は堰を切ったように溢れてくる。嗚咽混じりに出てくる言葉が、僕の胸を締め付けた。
一方で、当のハナコさんは困ったように頬を掻きながら僕に言った。
「ヒナちゃん、馬鹿だなぁ。なんて顔してんの! もう泣かないでよね。まったく、しょうがない妹だなぁ!」
それを伝えろ、というのか。僕は気まずい面持ちで雛子さんを見やった。
「ハナちゃん、なんか言ってました?」
「え? あ……いや……」
どうにも答えづらい。そんな困惑の顔を見て、彼女は涙を拭った。
「ハナちゃんのことだから、『ヒナの馬鹿』とか『しょうがない妹だ』とか言ってたんじゃないかな」
「えっ……」
「当たっちゃった」
おどけるように小さく笑う。先ほどまで泣いていたのに、涙に濡れた頬をぷくりと膨らませて、口の端を伸ばしている。
「……ハナちゃん、またね」
その餞の言葉に、姉は大きく頷いた。どうやら伝わったらしい。
それなら僕も伝えよう。彼らに。
「ありがとう、みんな」
電車がゆっくり動き出す。
回送電車は車庫に戻る。真っ暗なトンネルを潜り、彼らの姿が見えなくなるまで僕は手を振った。
『がんばれよ、山田くん!』
『二人共、笑顔を忘れずにね!』
『また、いつか会おう』
声が、あの賑やかな声が天に昇っていく……
***
あの不思議な出来事から早くも一ヶ月が経過した。
あれからも、雛子さんとはたまに話すことがあったが、一度だけ会ってからはメールだけだった。
ちなみに先日、アサマフラワーへ行った。
優しそうな笑顔で出迎えてくれた小柄な女性が、恐らくアサマさんの奥さんなのだろう。
ただ、様子を見に来ただけだったので、花屋に来てもどうしたらいいか分からず、ただ商品を眺めていた。そんな所に、彼女が優しく声をかけてくれたのだ。
「プレゼントですか?」
「あ、いや。えっと……はい……まぁ」
会話にぎこちなさが残るのは、まだ大目に見てもらいたい。
「大事な人ですか?」
買うつもりがなかったことを反省し、僕は財布の中身をぼんやり思い出しながら慎重に答えた。
「えーっと、はい……友人にお礼をしたいので」
「まぁ、そうなんですか。それなら……」
彼女は出入口に置いていた黒いバケツから鮮やかな赤い花を引っ張り出した。丸っこい花弁が可愛らしい。
「これね、ポピーっていう花なんですよ」
「ポピー?」
聞いたことはあるが、こういう形だったのか。
花をじっと観察していると、奥さんは「ふふふ」と嬉しそうに笑った。
「ケシ科の花なんですけどね。知ってます? 花言葉。『慰め』とか『感謝』という意味があるんですよ」
「へぇぇ」
そんな意味があるなんて知らなかった。さすがは花屋だ。
感心していると、彼女は何やら照れくさそうに眉を下げて、満面の笑顔を苦笑へと変えた。
「……まぁ、ウチの主人の受け売りなんですけれどね。花言葉、すごく詳しくて」
なるほど。アサマさんの意外な特技がここで暴露されるとは。恐らく彼も予想外だったに違いない。
「じゃあ、そのポピーを七本」
「かしこまりました」
花を二本ずつ束にしてもらい、綺麗なラッピングが施された。受け取った僕はそのうちの一束を、アサマさんの奥さんに手渡した。困惑の顔を浮かべている彼女に、あわあわとアサマさんの名前を出してみる。
拙い説明にも彼女は笑顔で応じてくれた。
それからも彼女とあれやこれやと話をしていると、アサマさんの息子さんが僕と同い年だと判明し、こちらまでも驚く結果になった。
あとの二束と余りの一本を抱えて、次に僕はゲンさんの家へ向かった。
雛子さんからあらかじめ、家の場所は聞いていたので道に迷うことなく行けた。
出迎えてくれたのはお孫さんで、確かにゲンさんの言う通り綺麗な人だった。僕より三つ上の看護師だそうだ。
最後にハナコさんの家へ。
ポピーを渡し、ハナコさん写真に手を合わせて、早々にお暇した。あの出来事の後、雛子さんに顔を合わせるのがどうにも気恥ずかしかったのだ。お詫びに今度、何かを奢るという約束をさせられる羽目に。
そんな優しくて緩やかな時間を過ごした後、ようやく『あのひと』がいた電柱で足を止めた。
あれはもういない。
どこへ行ったのか、ちゃんと成仏が出来たのか、あるいは……いや、考えるのはやめよう。もう後ろ向きに歩くのはうんざりだ。
僕は残りの一本であるポピーをそこに置いて、振り返ることなくその場を離れた。
***
僕はまたいつも通り地下鉄を使っていた。
『まもなく、四番乗り場に電車が参ります……』
機械的なアナウンスの音が流れる。押し合いへし合いのホームで、僕は真っ黒なトンネルからやって来る電車を見つめた。
今日も、平凡な一日が始まる。
退屈でつまらない、いつもと変わらない、そんな一日が……。
しかし、今までの僕とは違う。まだ、自信を付けるには時間が必要だが、ゆっくりとこの調子を保てばいい。
そんなことを考えていると、背後から強い衝撃が襲った。
「わわ! すみません!」
慌てふためく声。唐突にぶつかったのは、僕と同い年くらいの青年。優しそうな目が印象的だった。
「僕は全然……えっと、そっちは大丈夫?」
「あぁ、はい。ちょっと急に押されただけなんで」
優しそうな円らな瞳が、どこかしらアサマさんを重ねてしまう。
妙な確信を得てしまし、僕は思わず口を開いた。
「えーっと……もしかして、アサマ君だったりする? 違ったらすみません」
彼はキョトンと僕を見た。そして、怪訝そうに眉を寄せる。しかし、すぐに納得したらしく、彼の顔が華やぐように綻んだ。
「あぁ、もしかして君が山田くんかー、母さんから話を聞いたんだ」
どうやら、当たりだったようで胸を撫で下ろす。
彼はとにかく社交的な人物だった。歯を見せて笑う彼の雰囲気は、実にアサマさんそっくりで、僕はすんなりと打ち解けてしまった。
「浅間陽介っていいます。いやぁ、偶然にも会えるもんなんだねぇ」
「そう、だね」
その通りだと思う。だって、僕がアサマさんに出会えたのも偶然だったのだから。これも何かの縁なのだろう。
「確か、大学一緒だったっけ。一緒に行ってもいい?」
彼の明るい声に、僕は呆気にとられながらも頷く。
そうやって賑やかさとぎこちなさが織り交ざったところに、風が吹いた。それと共に電車が過ぎり、やがて停まるとドアが開く。同時に、僕らは人の波に飲まれながら電車の中へ。
いつもと違う、そんな朝のことだった。
《地下鉄の中で・完》
地下鉄の中で 小谷杏子 @kyoko
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