7・絶望の淵に思わぬ縁

「――大丈夫ですか?」


 遠く彼方からそんな優しい声が聞こえてくる。両方の瞼をゆっくり開けた。

 目の前に、僕を心配そうに覗き込む少女の姿がある。その顔に……なんとなく見覚えがあるが誰だったか瞬時に思い出せない。


「あの……大丈夫ですか? 聴こえます?」


 尚も彼女は問いかける。


「どうしよう。やっぱり救急車を呼んだ方がいいのかな……」


 そう呟いて彼女はどこかへ行こうと立ち上がる。同時に僕はようやく正気に戻った。


 ここはどこだ。

 知らない景色――広くて高い天井を目の当たりにして、勢いよく体を起こした。敷き詰められた畳に、黒檀の仏壇が堂々と佇むだけの空間が広がる。


「あ、気がつかれましたか。良かった」


 心底安心しきったその声を耳に入れ、頭を回転させる。そして、彼女が誰なのかがようやく分かった。


「ハナコさん……」


 僕の口からその言葉が出てくる。


 そうだ。この子はだ。

 見たことのある制服姿と、違和感のある大人しそうなストレートヘアー。それに顔立ちもそっくりハナコさんである。


 しかし、彼女は驚いたように目を丸くしていた。そして、怪訝そうな顔で「どうして?」と口だけで言葉を紡いだ。


「どうして……英子はなこの事を知っているんですか?」


 恐ろしいものを見るように、彼女は訊く。


「どうしてって……」


 言いかけて口をつぐむ。僕は彼女の肩越しに見えたあるものに目を奪われた。

 黒檀の仏壇に、細い煙が立ち上る線香、その中心の台に写真が立てかけてある。

 ここ二日で見慣れてしまった眩しい笑顔に、ツインテールがよく似合う……ハナコさんがいた。


「そんな……」


 僕は写真と目の前にいる少女を見比べる。上手く頭が回らない。

 でも分かりきっていたことじゃないか。僕が出会ったハナコさんは死んでいるということを。


 しかし、目の前の彼女はハナコさんと瓜二つだ。そこから導き出される答えは、彼女はだということ。


 彼女は僕をジッと見つめ、緊張の糸を緩めるように眉を下げた。


「電柱の所で倒れられてたんですよ。そこの……家の前で」


 唐突な彼女の言葉に上手く反応が出来ない。

 しかし、意味が分かると僕は慌てて頭を下げた。


「あ、す、すみません! 助けて頂いたんですよね。ほんと、ご迷惑を……」

「助けますよ、そりゃあ……だって、ものすごく苦しそうだったし……」


 なんだかお互いぎこちない。僕は地味に痛む背中を摩りながら、状況を整理した。


 確か、僕はあの悪霊に憑かれて……意識がなくなって……考えると頭痛がする。酷く痛む頭に顔をしかめた。

 そして、咄嗟にある思いに辿り着き、僕はちらりと彼女の様子を窺った。


「あの……怪我とかしてませんか?」

「え?」

「いや、なんというかその……」


 わけの分からない質問に、彼女は首を捻るばかりだった。

 当たり前だ。倒れていたのは僕であって、彼女が僕の事情を知っているわけではないのだから、当然の反応だろう。

 しかし、このことから、僕は昔のように暴走したわけではないようだ。それが分かっただけでも安心する。


 だが、どうして急に悪霊が僕から離れたのだろう。

 僕は頭痛を無視して、記憶の糸を手繰り寄せた。


 そう言えば……昔、祖父に言われた事がある。


『困ったときは仏壇に相談しなさい』


 祀られた神様やご先祖様が守ってくれる……と言うのだが、その時も今までも僕は信じていなかった。

 まさか、それが本当だったとは。そして、こんな僕を助けてくれたのは……あの写真の中で微笑む彼女なのだろう。


「あの。すみません」


 僕は咳払いをして声を整える。そして、息を大きく吸い、ハナコさんの妹さんと向かい合った。


「改めてお礼がしたいので、お名前を伺ってもいいですか?」


 すると彼女は何故か、両手をブンブン振って顔を赤らめた。


「お、お礼なんて! そんなの、いいです……」

「いや、それはさすがに……お名前だけでも」


 自身でも驚くくらい、強い口調で言う。すると、彼女は恥ずかしそうに俯いて口を開いた。


雛子ひなこです……えっと、私も聞いてもいいですか? お名前」


 こちらに返ってくるとは思わず、なんだか僕もなんだか恥ずかしくなってくる。


「あ、えっと……山田です」

「山田さんですね」


 ホッとしたように雛子さんが微笑む。その笑顔はやはりハナコさんにそっくりだった。


「あ、あの! 山田さんこそ、大丈夫ですか? 私、力はあるんですが、さすがに抱えることが出来なくて、そのぅ……引きずってしまったんです」

「あ、いえいえ! 別に、全然引きずってもらっていいんで……」

「え?」

「いや……なんでもないです」


 上手く伝わらなくてやきもきする。

 しかし、それは彼女も同じだったのか、途端に動揺しだした。


「いえ、こっちこそ……私ったら、何を言ってるんだろ……」


 こうもぎこちない会話が続くと、やはり気まずい。しばらく沈黙が訪れる。

 僕は会話が下手くそなので何を言ったらいいのか、こういう時どうしたらいいのか、まったく思いつかなかった。自分の不甲斐なさに唇を噛み締める。


「――あの……さっき、ハナコって言いましたよね?」


 何分かの沈黙後、雛子さんが口を開いた。


「あの子は私の姉です。双子の。もし、この写真と同じ英子だって言うのなら、山田さんは英子のお友達なんですか?」


 恐らく迷っていたのだろう。僕が口走った言葉にずっと違和感を覚えていたはずだ。


 双子の妹……写真と雛子さんの顔立ちから、ようやく僕の疑問が解消される。


「お友達、というか、つい最近知り合ったというか……」


 包み隠さず言えば、どうにも不可思議な言葉になってしまう。

 しかし、雛子さんは特に踏み込んではこなかった。「そうですか」と小さく返す声が今にも泣き出しそうで直視できない。


「英子は……見ての通り、亡くなりました。今日で四十九日。線路に落ちた子供を助けようとして。電車が来る直前だったので、子供は助かったんですが英子は……」


 唇を震わせ、スンと鼻を啜って、取り繕った笑顔を僕に向ける。


「すみません。英子の交友関係の方には全て連絡をしたつもりだったんですが……それにしても、英子の命日に亡くなった方がいて……こういう不幸って重なるものなんですね」


 彼女はただ言葉を連ねることで、辛い気持ちを押さえつけているようだった。その言葉に、僕は気まずいながらも耳を貸す。


「近くに住む大きなお屋敷のお爺さんも亡くなって。それに駅前の花屋さんも。私達がお世話になっていたものだから、余計に寂しくなっちゃって……」

「お爺さんと花屋さん?」


 思わず訊いていた。それも一際大きな声で。

 それに驚くのも無理はないだろう。雛子さんは目を丸くさせてしどろもどろに返した。


「えぇ、はい。この辺じゃ大きなお屋敷は黒田さんって言うんですけれど……まさかご存知ですか?」


――黒田……


 僕は愕然とした。黒田と言うお爺さん、つまりはゲンさんのこと。そして、花屋さんは……


「黒田さんは小さい頃にお世話になったんですよね。よくお菓子をもらいに遊びに行っていたんです。近所に住む子達もお世話になってて……山田さんも近所なら、もしかすると会っていたかもしれませんね」


「そう、ですね……」


 僕は半ば上の空でその話を聞いていた。彼女の言う通りかもしれない。

 忘れているだけで、本当はゲンさんにもハナコさんにもアサマさんにも、いつの間にか出会っていたのかもしれない。あの出会いは単なる偶然ではなかったのかもしれない。


 ただの、何の確信もない憶測だけど。


「……あの、山田さん? どうかしました?」

「あ、いや……」


 黙り込んだ僕に、心配そうな顔で見つめる雛子さん。

 僕は挙動不審にも、目が泳いでいたと思う。地下鉄での出来事を彼女に言うか言うまいか迷っていたのだから。


 どうせ、言ったところで信用されない。変に思われて、もしかすると不審者扱いされるかもしれない。

 それでも、僕は彼女にハナコさんを会わせたかった。彼らに確かめたいこともある。


「本当に大丈夫ですか?」


 気が付くと、彼女の目が僕の近くにあった。

 こんなに、人の目を間近で見たのは初めてのことで、僕は驚いて飛び退いた。


「大丈夫です! 僕は幽霊が見えるだけで、決して怪しい者でもオカシイ人でも断じてないです!」


 頭の中が真っ白になっていたので、早口でそう言い放った。


 しん、と静まる空間。


 僕は、一体、何をやっているのだろう。絶対、彼女は呆れている。顔を見ずともそれは分かる。僕は恥ずかしさで居たたまれなくなり、その場から逃げようと立ち上がった。


「……ごめんなさい。僕、帰りますね」


「え? あ、ちょっと待って!」


 その声と同時に、シャツの裾が掴まれる。それにより、僕の足がよろけた。すぐに体勢を整える。


「待って、ください……」


 見ると、彼女は俯いていた。


「それじゃあ、山田さんは……死んだ英子に会った、ってことですか?」


 思わぬ質問に、僕の方が引いてしまう。

 まさか、信じたと言うのか? そんなこと、あっていいのか。


「だって、おかしいと思ったんです。あの子に年上の、それも男性の友達がいるなんて……」


 あぁ、なんだ。僕の誤魔化しは最初から効いてなかったということか。

 なんだか張っていた気が一気に引いてしまう。


「それに、山田さん言ってましたよね? 英子にはつい最近知り合ったたばかりって」

「そう、ですね」

「最近ってことはここ数日のことですよね? どこで英子に会ったんですか」


 食い気味な雛子さんに、僕はしどろもどろ。

 いつでも挙動不審ではあるけれど、こんな展開になるとは全く予想していなかった。


「えーっと、地下鉄……の中で」

「地下鉄?」


 僕の呟きに反復する。そして、ぎゅっと口を結んだかと思うと、また開いた。


「英子は今もそこにいますか?」

「え? でも……」

「私、あの子に言いたいことが山ほどあるんです。それに、私、どうしても受け入れられなくって……あの子が死んだって……」


 彼女の目から一粒の涙がこぼれ落ちた。今までもたくさん泣いたはずなのに、それでもまだ枯れることはないのだろう。


 どんなに些細なことであっても、残された人というのは相手がいなくなってから、初めて伝えたい気持ちがあることに気づく。

 そして後悔する。何故、後回しにしてしまったのだろう、と。生きているうちに伝えておきたかった、言いたいことが山ほどあるのに、些細なこともどんなことも……気づいた時には遅すぎる。



――後悔がうんと教えてくれたよ。幸せってやつをな。



 その言葉が脳裏を掠める。あぁ、そうだ。その通りだ。悲しみや後悔を生むということは、幸せだったということだ。


 でも。

 僕には、その幸せを引き伸ばすことが出来る。


「――雛子さん」


 僕は彼女の目線までしゃがむと、もう迷うことなく、はっきりと言った。


「行こう。僕もあの人たちに伝えたいことがあるんだ」


 まだ、間に合うかもしれない。

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