6・墨の海

 暗い。冷たい。


 ここはどこだろう。


 息苦しくて仕方がない。嫌な匂いもする。


 目を開けて確かめようか。でも、それが怖い。薄目でゆっくりと、様子を窺うように瞼を開く。


 段々と、視界が広がった。


 ここはどこだろうか。いや、なんなのだろうか。

 暗くて冷たい、寂しい場所。真っ暗な道が永遠と続いている。

 僕はその道の真ん中に立っていた。途端に足がふらつく。全速力で走ったように身体がだるく、呼吸がしづらい。


 答えが分からないまましばらく佇んでいると、遠くから水の流れる音が聴こえてきた。

 ここは下水道なのだろうか。


 いや、違う。ここは――地下鉄のトンネルだ。


 足元にある線路で、そう判断したのだろう。


 そうこうしているうちに、水が流れてきた。勢い良く。激しく荒れ狂って。波が、僕をさらっていく。


 すぐに目を瞑った。抵抗も身構えもしなかったから、そのまま水に捕まった。一気に、水の中を漂っている感覚に襲われる。


 目を開けてみた。本当に開けられたのか、それが瞬時に分からなかった。それくらいに、ここは真っ暗で黒い。


 息を吸おうと口を開ければ、真っ黒な水が流れ込んで苦しくなる。息をつく暇も与えてくれない。


――何故、そこまで生きようとする?


 誰かが耳元で囁いた。女でも男でも子供でも老人でもない。判別不可能なガサガサとしたノイズが混じった声。


 そうだった。

 僕はもう生きたくなくて『あれ』を受け入れたんじゃないか。


――苦しかったでしょう? 辛かったでしょう?


 うん。本当に。

 声は僕の耳に侵入し、全身へと伝わっていく。流れる水のように。絶え間なく、一定のリズムで。


――もう、苦しまなくていい。


 そうだね。もう、何も考えなくていいんだ。

 僕を受け入れてくれない世界なんてさっさと見切りをつけて、逃げ出して、それでいいじゃないか。これほど楽なことはない。


 楽だ。

 頭がぼうっとする。気分がいい。どうして僕はこの水が苦しく思えていたのだろう。


 あぁ、どうでもいいか、そんなこと。楽に溺れてどうとでもなればいい。


――良かったね。


 また声が聴こえる。うるさいな。せっかく気分が良くなっていたのに。


――もう、誰にも会わなくて済むよ。


 そうだね。誰にも……あの女、あの馬鹿みたいに笑う女、思い出すだけで吐き気がする。

 あいつも、あいつも。小学生の時に、僕をいじめた奴、誰だっけ? 中学は? 高校は? 思い出せないな。まぁ、そいつらに会わなくて済むなら……


「あれ?」


 ふと、僕は水の苦しさを再び思い出した。

 黒い水のせいで濁っていた記憶が、僕の頭の中を過ぎっていく。


 姉と遊んだ記憶、母に褒められた記憶、父に怒鳴られた記憶、祖父母に抱かれた記憶……走馬灯ってやつなのだろうか。

 これが無性に温かだった。でも周囲の冷たさと相まって、その温度差に上手く対応できない。むせ返る。

 息が出来ない恐怖に再び襲われて、水から出たいとその一心で僕は無我夢中に足で蹴った。

 しかし、思うように動かない。重たい。


 それでも。


 水の流れに逆らって、掻き乱すように蹴り続ける。

 もう一度、触れられるだろうか。あの温かい記憶に。触れて見て確かめたい。


 でも、そんな僕を嘲るように、水はわらう。わらって僕にまとわりつく。

 必死に温かさ求めて、水中を彷徨った。思えば思うほど、欲が湧き上がる。


 にも。あの人達にも聞いて確かめたい。


 ふと思い浮かんだのはおかしな人々。こんな僕と話をしてくれた老人と、女子高生と、熊のような男。


 僕の理想とした「友人との会話」がまさにあの時間だった。

 まったく、酷いことをしてくれる。せっかく諦めて納得していたのに、あんな時間を過ごしてしまったら戻れないじゃないか。



 その時。

 僕の身体が真っ赤な火に覆われた。


 水の中にいるはずなのに、何故、僕は燃えている?

 分からなかった。ただただ、叫んだ。熱い。熱くて熱くて、痛い。冷たいのに、熱い。

 皮膚がただれていく感覚。水と同じようにまとわりつく炎は、僕を焼き尽くそうと飲み込んでいく。


――ぬくもりを求めても失敗する。余計に自分の惨めさに気づく。


 じりじりと身が焦げる中、その声だけはしっかりと聴こえていた。


――そして、絶望に貫かれる。


 唐突に、僕の腹の辺りで鈍い衝撃が走った。身を裂くような鋭い刃が二つ。大きな刃が僕を貫く。


――だから、いらない記憶を捨ててしまえばいい。


 捨てる……その言葉に、僕の身体は動きを止めた。


――ステテシマエバ、イイノニ。


……あぁ、そうだね。僕は一体、何を考えてしまったのだろう。ここまできて意思の弱さを見せつけられるなんて。


 優柔不断な自分、弱い自分、怠惰な自分、頭の悪い自分、無気力な自分、人を羨む自分。それら全部ひっくるめたらなんと醜い。


 あの時、もう少し上手くやっていたら……そんな後悔という波が僕の身体を撫でていく。

 どこまでも冷たくて痛い。そんな波だった。

 いつの間にか冷たさも熱さも痛みも心地よいものに変わっていた。あんなに苦しかったのに。


 気づいてしまって認めれば、やっぱりそれは「楽」なものなんだ。




 どのくらい、漂っていたのだろう。

 僕は、この黒い水を「墨の海」と呼ぶことにした。漂い、流され、沈んでいく。終わりが見えない水の中。それはまさしく海だった。


 光なんてない。優しさもない。ぬくもりも、癒やしも、何もない。

 聴こえるのは静かな声だけ。囁く声だけ。


――……!


 また、何か言っている。


――……、……。


 なんだろう?

 今までのノイズとはまた違う。


――……いじょうぶ……?


 しきりに、同じ言葉が繰り返された。


 それは――


「大丈夫ですか?」


 声は、そんな言葉を創り出していた気がする。

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