5・感情感染
「それで、夜中にトイレで起きると、廊下を徘徊していた子供の霊が僕の方を向いて……」
一旦、そこで言葉を切る。全員がゴクリと喉を鳴らして生唾を飲み込んだ。
「『目が見えないよ』って言って。その子供には目がなく、自分の目玉を持っていたんです」
「ぎゃぁああああっ!」
ほぼ二重の叫び声が上がる。主はハナコさんとアサマさんだった。驚愕の顔で僕を見ている。
「怖っ! 何それ! てゆーか、よくそんなことをサラリと言えますね!」
「まったくだ!」
「いや、だから、毎日視えるから当たり前になってるんですよ……」
様相以上の反応に苦笑しながら言う。何せ、二人の怖がり方が新鮮だった。それに彼らは自分こそが霊だと完全に忘れている。
「そうは言うが、ハナコちゃんも相当怖いぞ」
一人、平然としているゲンさんが茶々を入れる。ハナコさんは、自分の失くなった腕と足をまじまじと見た。
「うーん。だって、電車に轢かれちゃったんだもん。仕方ないよね」
サラリとした言葉が返ってくる。そこまで平然とされたら、もういっそ清々しい。不謹慎にも笑いさえ込み上げてしまう。
「ハナコちゃんさぁ……」
アサマさんが呆れた声を出した。
「なんでそんなこと、あっさり言えるの?」
「だって、ホントのことだし」
「まぁ、そうだろうけど……」
「もういいじゃん。最後なんだし。花屋さんも開き直ろうよ。それに、そんな死因なかなかないからレアだと思うなぁ、私は」
アサマさんはもう何も言わなかった。隣ではゲンさんが大声で笑っている。
こんなに陽気な幽霊も、僕はレアだと思った。
そんな中でふと、彼女の発言に引っかかりを見つける。
僕は怖い話をせがまれてすっかり忘れていたけれど、確かアサマさんも言っていた「最後」という言葉。この意味が分からない。
聞いてもいいだろうか。
ぐっと、拳を握り、僕は彼らの会話に滑り込むようにして「あの」と小さく言った。すると、全員がしんと黙ってくれる。聞こえていたことに嬉しさが湧くが、今はそれに浸っている場合じゃない。
「あの、『最後』ってどういう意味ですか?」
その質問に、全員が顔を見合わせる。
「そりゃ……」
ゲンさんが口を開きかけたその時。
『大川公園前、大川公園前、降り口は……』
アナウンスが無情に流れる。速度を落としていく電車の中で、僕は名残惜しく彼らの顔を見た。
「……ほれ、山田くん。乗り過ごすぞ」
ゲンさんが追い立てるように僕の肩を叩く。ヒヤリとする感触には既に慣れてしまっていた。
「あ、いや、でも……」
いいところで話が終わるのは心許ない。僕は次に、ハナコさんとアサマさんを見つめた。二人共、満面の笑みで見返している。
「なんか、また会える気がするよ、山田くん。元気でな」
「そうそう。二回も会えたんだから、次もまた会えますよ」
ドアが開いていく。
「ほら、山田くん」
ゲンさんに押され、アサマさんに背中を叩かれ、ハナコさんに手を振られる。それらを眺めて電車から飛び降りと、閉まるドアの隙間が段々と狭くなった。
三人の微笑みがガラス越しに視えたのが最後。瞬きをするともう、あの無人の景色はなくて、がやがやと人混みの中に放り出されていた。
夢から覚めた気分で、しばらくぼーっと佇んでいる。そうして僕はゆっくりと、うるさい世界へ帰った。
***
午後の講義が終わり、もう家に帰ろうかと静かに廊下を歩く。
時間が経てば、今朝のモヤモヤした気持ちも薄れており、僕は俯き加減に歩いていた。
――そうやって猫背に座るから、そんな風になるんだろう。背筋を伸ばせい!
突然に、ゲンさんの声が脳内を横切った。思わず背筋を伸ばす。
背中に意識が向くだけで、これまでの視界とは大いに違った。広がる世界は、見たことがないくらいに鮮やかだ。
背筋を伸ばすだけでこんなにも変わるものなのか。僕は大きく一歩を踏み出した。
大股で歩いてみよう。急に思い立ち、風を切って歩いた。ただの廊下なのに。それでも、知らない世界と色のせいで気分は軽やかだった。
僕は自身でも気づかないくらい、実に単純なんだろう。
ふと、前方から賑やかな明るい声が聞こえてくる。
数人の女子学生が向かってきていた。楽しそうに喋る彼女たちの中に、見覚えのある顔が一人だけ。なかなか人の顔を覚えられない僕でも、彼女だけは一目瞭然だった。
磯村という女子生徒。下の名前は聞けなかったけど、それだけは知っている。
同じ学部で講義もほぼ一緒。黒髪が綺麗な女の子で、何より笑顔が可愛い。最近よく隣の席になるので、話しかけられたりもする。面と向かってきちんと話すことは出来ないのだが。
今日は講義が違ったので、この日初めて顔を合わせる。
まぁ、挨拶なんて出来るはずもない。ただ黙って通り過ぎようとしていたら、段々近づいてきた彼女たちの会話が僕の耳を通過した。
「ミクったら、またそうやって。なんか新しい人見つけたって聞いたんだけど」
「え? 誰よ……あぁ、あいつかな?」
「え、なになに。カレシ、また変えるの?」
「はぁ? ちょっと引っ掛けやすかったから、探りを入れてただけだし。ほら、新しいバッグ欲しいし」
「うっわ、ほんと性格わるぅい〜」
「だってさ、普通にニコニコして話しかければ誰だって寄ってくるじゃん? 女は愛嬌って言うし。大体、タイプでもな……」
会話はそんな感じで、彼女たちはとても楽しそうに笑っていた。
磯村ミクが僕に気づくはずがない。何も気づかず、僕の横を通り過ぎてもごく自然に。
彼女は大きく口を広げた蛇のような顔をして笑っていた。
それに何故か落胆してしまう。伸ばしていた背が縮んでいく。
この時、僕は初めて彼女に好意を持っていたのだと自覚した。
そうなると途端に、逆剥けを思い切り引き剥がしたように胸が痛くなる。
脆くて危ういのに、それをあたかも克服した気になっていたんだ。うっかりしていた。僕が、こんな人間だということをすっかり忘れていた。
『自分が楽しいと思える人生を作るのが一番いいに決まっとるだろう?』
――いいや。人生なんて、こんなものだ。
『山田さん、笑った方がいいのに』
――笑ってなんになる? 僕はあんな風に笑いたくなんかない。
『いいことじゃねぇか。生きてるなんて』
――生きてて苦しいこともあるはずだ。
僕はどうしても変われない。人のせいにしたくないのに、込み上げる思いはそればかり。
どうやら僕は自惚れていたのだろう。
あんな夢のような時間に、いとも簡単に変われる気になっていたのだ。馬鹿だ。大馬鹿だ。
僕はフラフラと大学を出た。
家路にはつかない。ただ、歩きたかった。
それなのに、気がつくと僕は昔住んでいた家に向かっていた。
――事件を起こした、あの場所……。
あの後、僕たち一家は同じ地域ながら、こことは少し離れた場所へ引っ越した。周囲の目があるというのもあったが、何より、あの悪霊が未だに居座り続けているのだ。祖父は一時的に僕から悪霊を離しただけであって、存在自体を消したわけではなかった。
駅を抜け、商店街を通り、住宅街へ入る。
そうだ。この通りを歩けば、元、僕の家がある。近くには、昔通っていた保育園が見える。
ああ、確かそうだったな。
朧気な記憶なのに、慣れた足取りで道を進む。やけに大きな日本家屋があり、その隣にはこじんまりとした現代風の一軒家がある。
確か、この辺りの電柱に――……いた。
僕は太い電柱の影にうずくまっている真っ黒な煙を放つ女を見下ろした。
「……まだそこにいたんだ」
ゆっくりと女が顔を上げる。
それはもう原型を留めておらず、顔なのか何なのか分からない。何年もさまよい続けていたのだろう。その結果がこれだ。
「あの時のこと、覚えてる?」
訊くとそれは小首を傾げるように動く。
「僕は今の今まで覚えていなかったんだけど……やっと思い出したよ」
――どうして、みんな離れていくの?
彼女はそう言って、僕の体を乗っ取った。何故、そう言っていたのかは分からない。分からないけれど……彼女の周囲には誰もいなかったことは予想できる。
「……僕もそうなんだ。一人ぼっち。変わろうとしたけど、やっぱり出来なかった」
自分の立ち位置くらいは弁えている。
そして、悪い気持ちと邪気に当てられて、まともな思考ではないことも薄々気付いていた。
僕の体が徐々に冷たくなっていく。
目の前で見下ろしていたあの女がいない。それに気が付いた時、胃の中がひっくり返ったような気分の悪さに陥った。
吐き気がする。いきなりだったので、思わず呻いてしまった。体が震える。息遣いが荒くなり、まるで酷い熱があるかのように、体が重たい。
あの時と同じだ。
絶望的な感情が僕を支配する。感覚から思考まで。意識が薄れ、自分が自分じゃなくなる感覚が蘇ってきた。
このまま、消えてしまえばいい。
僕なんてこの世から消えてしまえばいい……。
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