4・熊さんと花

「え? 何か言いました?」


「だから、話しかけてみい。あいつに」


 ゲンさんは、人差し指で示した。

 その先にいた人は、とても大きく、例えるなら熊。もっと外見を言えば、スキンヘッドにサングラスが特徴に挙げられるだろう。


 軽々しく話しかけるなんてものにこれほど不向きな人選はないだろう。とにかく怖い雰囲気オーラを醸し出している大男である。

 僕は落としたリュックを拾い上げながら苦笑した。


「……いやいやいや」


 後ずさり、元の車両に戻ろうと回れ右。しかし、素早く首根っこを掴まれた。どうやら回避は許されないらしい。


「変わるチャンスだぞ、山田くん! あの男に声をかけることが出来たら、君は強くなれる! どうせ死人じゃ。殺されるわけでもあるまい」


――殺される以外に何かあるかもしれないじゃないか!


 無理矢理に背中を押すゲンさんに、僕は非難の目を向けた。


「いや、待って! 待って! 何かあったらどうするんですか!」

「むぅ? 何かあったら……あー、その時はその時じゃ。行くだけ行ってみろ!」


 なんて無責任な。しばらく揉み合い、しかし老人の力は強くて若いはずの僕は呆気なく負けた。そうこうしているうちに思い切り押し出される。


「う、わっ!」


 とん、とん、とん、と片足で三歩つんのめる。バランスを崩し、あろうことか、大男の前ですっ転ぶ。べシャッと音がしそうなほど派手に倒れた。


「………」

「………」


 顔が上げられない。

 確認するまでもないが、大男は僕を見ているはずだ。視線を僕の背中に突き刺している。そんな気がして、しばらく動けなかった。


 そういえば、熊に遭遇した時って死んだふりをしたらいけなかったんじゃなかったっけ。唐突にそんな考えが脳内を横切る。


「えっと……大丈夫か、お前」


 上から降ってくる声は唸るように低いのだが、腹の底が響くようによく轟いている。僕は本能で察知した。

 僕は「あ……」とか「う……」とか、その場凌ぎの音を発するだけで、まともに男の顔が見れない。


「おい」


 まずい。とうとう、怒らせたか。

 僕は、そろりそろりと起きると、いまだ顔を上げずにそのまま正座した。


「す、すみません……あの……僕、怪しい者じゃないです」

「おいおい、何を謝るんだ。意味が分からんぞ」


 慌てた声が返ってくる。僕はチラリと前髪越しに目を上げた。

 相変わらず、黒いサングラスとスキンヘッドが怪しい光を放っていたが、大男は困ったように僕を見下ろしていた。


「なんだ? お前も俺のことが怖いのか」

「い、いえ! そういうわけじゃ……」

「嘘をつくな。見りゃ分かる」


 図星を突かれて更に動揺してしまうが、彼は悲しげな溜息を吐くだけ。

 しかし、真っ暗なサングラスのせいで、表情が上手く読み取れない。目が合いそうになるとすぐに逸した。


「……で、何しに来た? 冷やかしなら、お断りなんだが」


 うんざりした口調。その音の低さに凄まれる。


「ひ、冷やかしなんて、滅相もないです」

「どうだか。皆、俺の死因を聞いて、笑うんだよ。まったく、どいつもこいつも葬式だってのに……、葬式……」


 段々、声が小さくなってくる。

 どうしたのだろう。圧の壁が薄くなり、僕は思わず顔を上げた。


「えぇ……」


 なんと、彼はサングラスの下から大粒の涙をこぼし始めたのだ。


「え? ちょっ、えぇ?」


「いや、いいんだよ。確かに、あんな死に方したら誰だって笑うよな……葬式、やっぱり見に行くんじゃなかった……」


 急な展開についていけず、おろおろする。一方、大男は涙をぼろぼろこぼす。


 いや、待て。なんなんだ、この状況は! どうしたらいいか究極に分からないぞ。

 僕は助けを求めようと、ゲンさんの方を向いた。


――ちょっと!ゲンさん! 助けてください!


 口だけでそう伝える。しかし、ゲンさんはニコニコして「もっと話せ」というジェスチャーをしている。

 ダメだ。まったく当てにならない……。


「まぁ、座れよ。いつまでそんなとこに座ってるんだよ」


 鼻をすすりながら、僕に手を差し出す大男。気まずいどころの話じゃない。しかし、これを断るのも気が引ける。


「あ、はぁ……」


 僕はそろりと手を出した。形のある僕の手から、大男の手を象った冷たい煙のような指がスルリと通り抜ける。


「あれ……お前、生きてんのか」

「え? あ、すみません!」


 咄嗟に出たのはその言葉。男は呆気にとられていたが、やがて盛大に吹き出した。


「何、謝ってんだよ。いいことじゃねぇか。生きてるなんて。まぁ、死んでからそういうのに気付くもんなんだけどな」

「はぁ……」

「俺なんかな、いきなり頭に植木鉢が落ちてきてよ、即死だぜ。ホント、有り得ねぇよな。まさか、死ぬとは思わなかった……次から気をつけないとって言っても次は来世かぁ」


 冗談なのか本気なのか。どちらにせよ返答に困る。

 僕はもう顔を引きつらせているしか出来ず、意味もなく頭を掻いた。


「いやいや、すまんのう」


 ようやく重たい腰を上げたゲンさんがヒョコヒョコとやって来る。


「そこの友人がな、あんたと話をしたいと言っててなぁ」


 白々しい。そして、僕の身に覚えのない話をするもんだから、思わず睨んでしまう。


 しかし、そんな分かりやすい茶番も大男は気づいていないようで、サングラスを外してまたも鼻をすすった。可愛らしい小さな瞳が露わになり、僕はまだしもゲンさんまでもが驚いて目を丸くした。


「俺さ、こんなナリだから、だーれも近づいてくれなくってなぁ。最期のに話しかけてくれるなんて……」

「そうかい、そうかい。いやぁ、良かったなぁ」

「あぁ、俺は幸せなヤツだよ」


 鼻をかむ音が轟く。そんな大男の肩をさするゲンさんの目が優しい。


 話が盛り上がっているが「もし幸せなら、植木鉢を頭にぶつけて死ぬなんてことはなかったんじゃなかろうか」という素朴な疑問が僕の中で浮かび上がる。

 しかし、そんな指摘をするほど僕は野暮ではない。そして、そんな勇気は一つもない。ぐぐっと喉の奥に押し込み、追いやった。


 彼らは一瞬のうちに意気投合している。


 絶対に言葉を交わすどころか顔も合わせるはずがない、九十代の老爺に強面の男、脆くて消えそうな僕が並んで座っている。


 これが普通の電車だったら……顔を見ることも話すことも、ましてや互いを認識し合うこともなかっただろう。


 ヘンテコな場所で、ヘンテコな人に出会って、ヘンテコな状況になっている。

 とにかく奇妙な組み合わせだ。


 僕は久しぶりに顔が緩んだ。自然と笑いたくなる、なんていつぶりだろうか。

 初対面なのに泣いたり、笑ったり、話をしたり……現実の世界では有り得ないことを目の前で体験している。そして、少しだけ分かったような気がした。


 幽霊彼らも、僕も普通の人間なのだ、ということを。


「あーっ! こんなとこにいた!」


 いきなり甲高い大きな声が響き、僕たちは揃って驚く。

 僕らのいる反対方向のドアから、見知った女子高生が怒った顔でこちらにやって来た。


「なんだ、ハナコちゃんかい。脅かすんじゃない」


 ほっと胸を撫で下ろすゲンさんは、なんだか叱られる子どものようでとても年長者には見えない。

 一方、怒るハナコさんは頬をぷくっと膨らませていた。


「もう! 散々探したのよ! どこに行っても無人だし、まさか誰にも会えないままへ行くのかと思ったら、悲しくなってきて……って、あれ? 山田さんっ?」


 僕の存在にようやく気がついたらしく、彼女は大きく仰け反ってこれまた大袈裟なリアクションを披露する。


「えっと、また来たんですか?」

「いや、僕も別に、来たくて来たわけじゃ……ダメだった?」

「ダメじゃなくって!」


 ハナコさんは慌てて首を振った。


「まさか、連続で会えるなんて思わなかったから……びっくりしちゃって」


 しどろもどろに言う。そんな慌てぶりが必死で、僕は笑うまいと顔をしかめていた。しかし、それは上手く出来ていないことは彼女の安堵した顔で分かる。


「ほれ、ハナコちゃんも座りんさい。こっち空いとるよ」

「こっちって言うか、全部空いてるよね」


 ゲンさんの言葉に揚げ足をとるハナコさんは、僕の隣に腰掛ける。


「あ、じゃん。まさか、花屋さんもここにいたの? これはまたご愁傷様です」


 ハナコちゃんがゲンさんの隣にいる大男に向かって片手で拝む。


 言葉を脳内変換するのに時間を要してしまうも、なかなか上手くいかずに首を捻った。


「はな、や……?」


 思わず声に出して訊くと、ハナコさんが頷く。

 この僕の疑いは、ゲンさんも同じように抱いたらしく、この老爺は呆れた素振りで口を開いた。


「いやいや。ハナコちゃん、いくらなんでもそれは失礼だろう。この男が花屋なんて可愛らしい仕事してると……」

「ちょっと、ゲンさん!」


 なんだか雲行きが怪しそうだと本能的に察知し、僕はゲンさんの声を遮った。自分でもびっくりするくらいの大声で。

 その慌ただしい様子に、ハナコさんと大男がキョトンとする。そして、しばらくの沈黙の後、二人共揃って吹き出した。

 押し殺そうとしている笑い声が次第に大きくなり、やがて、車内は二人の笑い声で満杯になっていく。



「なんじゃ、まさか……本当に? 花屋?」

「おい爺さん、人を見かけで判断しちゃ駄目だぜ。駅前にある花屋、あそこが俺の家であり、店なんだ。正真正銘、花屋だよ」


 彼の説明に僕とゲンさんは口を開いて呆気にとられた。

 いや、だって、そんな……確かに見た目で判断するのは悪いけど、予想の斜め上を行き過ぎて。あぁ、やっぱりついていけない。


「え? じゃあ、何? ハナコさんは知ってたの?」


 僕が訊くと、彼女はまだ笑いながら大きく頷いた。


「そうなの。私がまだ生きてる時に、よく通ってたんだ。強面で熊さんみたいな花屋さんのこと、妹に聞いて冷やかしに行ってたら、いつの間にか常連にね」

「来たことないか? アサマフラワーって言う店なんだけど」


 その花屋、アサマさんが鼻を掻きながら言う。僕は直ぐ様、首を横に振った。


「そうかい……」


 残念そうに肩を落とされても。うーん……今度、きちんと見に行ってみよう。

 そう決めた時、彼は寂しそうに溜息を吐いた。


「今は、嫁だけで店を切り盛りしてるんだ。大黒柱が情けない死に方したせいで、息子にも迷惑かけちゃってなぁ……でもまぁ、なんとかしてくれるだろう」


 そう言うと、彼はもう涙を見せることはなく、つぶらな瞳を細めて笑った。

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