3・迷子の記憶
翌日。
いつものように、地下鉄を使う。ホームではたくさんの人が溢れかえり、様々な世代の人間が規則正しく並んでいる。
僕は無気力世代を代表して、昨日と同じ列の最後尾に立っていた。
欠伸が連続で出てくる。もう十回くらいは出てるんじゃなかろうか。破棄のない顔つきなのは、皆同じなのだから大して目立つことはなくて助かる。
ぼんやりと足元を眺めていると、トンネルの向こうから風が吹いた。
電車が勢いよくやって来る。規則正しく並んでいた足達が一斉に動いた。僕もその波に流されて動く。この時点で車内は人が溢れており、入りきれるか不安な気持ちになった。
いや。大丈夫そうだ。
まったく、一限なんてサボってしまえば楽なんだろうけど、単位が危ないからどうしようもない。ただただ平凡でつまらない皆とは違う日常を今日も送ろう。
ようやく車内へ足を踏み入れ、瞬きを二、三度する。
「――え……」
目を開ける前に感じる、圧迫感のない空気に不審な思いが過ぎる。
「まさか」
僕は辺りを見回した。
「おや。山田くん。なんだい、まーた来たか」
声のする方を見やり、顔を引きつらせる。
目の前の景色は昨日とまったく同じな真っ白の箱の中。先ほどまで大量に人で溢れかえっていたはずなのに、誰一人生きた人間はいない。
そう。幽霊だけしか乗れない、あの電車である。
「ゲンさん……」
目線の先に、浅黒い肌に真っ白な頭が映える、あの老爺がニコニコしていた。皺だらけの顔を更にくしゃっとさせ、無償で笑顔を振りまいている。
「また、会いましたね……」
「本当になぁ。お前さん、まだ迷っとるのか」
そう呆れたように手招きする。今日は、素直にゲンさんの右隣に座った。
七人掛けの無人の座席が僕の重みで少しだけへこむ。
「――あの……ゲンさん」
「なんじゃい」
「ええっと……」
なんだか口ごもってしまう。なんとなくだが、この老爺に抱えていることを話してもいいものか。
しかし、今の僕に判断する材料など頭の中にも、胸の中にもどこにもない。しばらく、口の中でもごもごとした後、ようやく観念した。
「その。昨日から思ってたんですけど……僕、もうすぐ死ぬんでしょうか?」
「はぁ?」
ゲンさんは一際大きな声で驚くと、僕の不安など吹き飛ばしてしまうほどに大笑いした。
「なんだ、なんだ。山田くん。君、死にたいの?」
「いや、そういうわけじゃ……」
「じゃあ、どうしてそんな考えに」
「うーん……なんとなく?」
特に、これと言って決め手はない。強いて言うなら、ゲンさんが昨日に話してくれた奥さんとの話か。
それと、僕の今のつまらない生活も含む。
このままダラダラと何を目標にするでもなく生きていくのは、どうにも世間様に失礼な気がしてくるのだ。
それが理由でもいいか。
すると、ゲンさんが急に僕の背中を叩いた。思い切り。
パーン! という弾ける音がして、ビリビリと痛みが走る。
「いっ! 何するんですか!」
「やかましい! はっきりせんのは俺は好かん! 最近の若いやつはすぐ『別に』やら『微妙に』やらで済まそうとするから、ちーっとも分からん! なんだか、胃の中がモジャモジャしてくる」
「はぁ……」
そう言われても。
世代が違えばそりゃ、考え方も変わってくるだろう。僕にとってはゲンさんの考え方についていけない。それと行動か。突然、何の前触れもなしに背中を叩かれちゃ身が持たない。
あ、あと、最近の若者は〜って言い方、僕は特に嫌いだ。
「そうやって猫背に座るから、そんな風になるんだろう。もうちょっと、ほら、シャキッと! 背筋を伸ばせい!」
「いや、猫背は関係ないでしょ……って、うわっ!」
また背中を叩かれた、と思ったら違った。ゲンさんの手は僕の背中から腹を通り抜けた。途端に胃の中に寒気が走って気持ち悪くなる。
僕は俯いて、リュックに顔をうずめた。
「おお、すまん。加減が出来んくてな」
そう謝るけれど、顔は笑っている……この爺さん、わざとだな。
出会い頭に散々な目に遭い、既に疲労が溜まっている。僕は隣の老爺に構わず、大きく溜息を溢した。
「――そう言えば、山田くん。君は幽霊が視えると言ったね」
「え? はい。そうですけど?」
いきなりの質問に面食らう。そもそも、僕が幽霊を視ることが出来なかったら、ゲンさんと話すことなんて出来ないのだが。
「じゃあ、日常的に、この電車以外でも視えるってことか」
「まぁ……そうですね」
「ほぉ」
ゲンさんはしげしげと僕を見つめた。
なんとも今更な確認に、僕はリュックにうずめた顔を上げ、怪訝に見返す。
無意識に眉をひそめていたからか、ゲンさんはおどけるように笑って口を開いた。
「いや、ただの興味でな。これまで、どんなものを視たのかね?」
あぁ、そういうことか。
ゲンさんは悪びれる様子もなく、ただの興味本位で訊いていた。
悪い人ではないのだが、少し警戒する。というのも、今までもそういった人はいたからだ。
幸い、僕と同じ体質の家族にいるから、守ってももらえていたし、アドバイスを受けることも出来る。そして、幽霊が視えると言うだけで、興味本位に近づく輩が好意を持って自分に接しているというわけではないことも、家族から散々聞かされ、疑うことを教えられてきた。
――でないと、自分が損をする。
ちょっと変わってる家庭環境だと気づいたのはつい最近なのだが、身に染み付いている以上、これは僕の中でも普通なのだ。
だから、どうしていいのか分からない。
信用できるだろうか?
その問いが脳の片隅でくすぶり、気持ちを揺さぶる。
僕はゲンさんを見た。優しそうな瞳に、労と幸が深く刻み込まれた皺、人生を全うしたことの証である白髪が、僕の目に映る。
「えーっと……」
どうやら、僕の口は親の言うことをきかないらしい。
しかし、僕もいつまでも子供ではない。損か得かはもう自分で決めていいはずだ。
……というのは後付で、本当は考えなしに口を開いていた。
「僕が物心つく前の話で、母から聞いたんですけど」
そう前置きして、僕はポツリポツリと話し始める。
「小さい頃の僕は、まだ耐性がなくて、よく、幽霊にとり憑かれていたんです。結構、呼び込んじゃう体質らしくて……気づいたら、僕が僕じゃなくなる、みたいな……そんなだから、やっぱり保育園でも浮いちゃうし、先生とかにも迷惑かけてたみたいで……」
「それで?」
ゲンさんは静かに促した。その顔は笑ってはいない。
だから、もう、全部を吐き出すしかなかった。ただただ溢れる「言いたいこと」を。まんべんなく。
「それで、ある日、事件が起きたんです」
僕は記憶にはない、作り出されたような映像を脳に描いた。
そう。頭では覚えていないのだ。
でも、体は覚えている。あの、恐ろしい現実を――
「僕が母と一緒に保育園から帰っている時のことでした。ある幽霊にとり憑かれてしまって……周囲の人を、母を傷つけたんです」
想像が僕を締め付ける。
あの日、家に帰る途中に、僕は急に体が縛られたように動けなくなった。
その正体は、強い恨みを持った悪性の霊で、身体を乗っ取られてしまったのだ。
そして……幸い、僕がまだ幼かったから被害は小さかった。でも、母さんの顔や腕、足、背中には消えない傷が残った。
当時、家族でただ一人だけ霊感のないのが母さんだ。幽霊に対する知識がごく僅かで、その時はただ必死に僕を家に引きずって帰ったという。
それからすぐ、祖父に助けられたものの僕の体は衰弱していた。二週間程、生死をさまよったらしい。
後から分かったが、その霊は強い恨みを持って自殺した女の霊だったという。
それからの僕は、次第に口数が減り、笑うことも出来なくなった。傷が目立つ、母さんの困ったような笑顔が僕の頭にこびりついている。
それだけは、何故か記憶にある。母さんは僕を怖がっている。そう思った。
少なくとも、あの頃に色々な罪悪感を背負ってしまったのだろう。
そんな暗い話を、ゲンさんに全て吐き出した。胸の内をさらけ出すように、目の前の幽霊に話している。
「ふむふむ……そりゃあ、大変だったなぁ」
ゲンさんの感想は、ゆっくりとした調子だが、なんだかあっさりとしているようにも思えた。
「それで、君は周囲を拒むようになったわけだな。お母さんは今でも、そんな風なのかい?」
そんな風……つまり、僕を恐怖の対象で接しているのか、ということだろうか。
「いや、今はどちらかというと、僕が避けてる感じです。なんか、色んな感情が渦巻くというか……ちょっと気恥ずかしいみたいな。そんな感じなんで、関係にヒビが入っているとか、そんなんじゃないです」
僕はもうとっくに母親との関係は修復している。
あまり拘らない性格だからか、自分以外の人間が幽霊を認識しているからか、その環境に慣れたからか、定かじゃないけれど、ともかく僕の母親は強い人だ。
「それじゃあ、なんじゃ。君は、家族以外の人間が怖いのか?」
ゲンさんが不思議そうに問う。僕は少し考えた。
「はぁ……怖い、って言うんですかね。あんなことがあってから、僕のことは近所でも有名になりましたから……」
多分、そうだ。あれから周囲の目が怖くなった。
その時にはわからなくても、大人から聞く言葉の数々は決していいものではなかった。
「ふうん。なるほどなぁ」
ゲンさんは頷くと、自分の膝をポンッと叩いた。
「山田くん。君の事情はよぅく分かった!」
「そうですか。分かってくれましたか」
ほっと一息つく。
さすがのゲンさんも分かってくれただろう。だから、昨日みたいに「笑え」とか「自信を持て」とか無責任なことを言わないで欲しい。
しかし僕の気持ちとは裏腹に、ゲンさんから出た言葉はなんともお節介なものだった。
「山田くん、君にいいことを教えよう」
「え?」
「聞きたいかね?」
ニィッと笑うゲンさん。歯が何本か欠けている。
「山田くん、君に起こった災難は、確かに普通とはかけ離れておる。だから周囲に理解されないのもまた当然のことだろう。しかしだ。君にも非はある。それはな、君が過剰に他人を怖がりすぎていることだ」
僕は正直、聞きたくなかったのだが、黙っているせいでどうやら肯定ととられてしまったらしい。
なんだろう。老婆心という名のいらぬ説教だろうか。
頷きもせず否定もせず、ただ顔をしかめて話を耳に入れておく。
「自分と言うのは、結局のところ誰にも理解はされない。当たり前じゃ。他人なんだからな。いくら家族でも、自分以外の人間、すなわち『他の人』になる。自分の気持ちは自分にしか分からん。そうだろう?」
「まぁ……」
家族でも他人と言い切るのは、少し違うのではなかろうか?
そういうものなのだろうか?
「だから、受け入れる気持ちがないとダメなんだ。理解されたいのなら、自分以外の他の人にも耳を傾け、受け入れる。時にはぶつかるだろう。それもまた人の世がある限り、越えねばならん試練のようなもの。
そう得意げに言うとゲンさんは、ゆっくりと立ち上がって手招きした。呼ばれたなら仕方がない。僕も一緒に席を立った。
電車はまだ走っているのに、不思議と揺れはない。
ゲンさんは隣の車両に向かった。相変わらず人はいない。だが、幽霊はいる。
そして、僕たちがいる場所からは遠い席に、一人、腕を組んで座る大柄な人物がいた。
「どれ、あいつに話しかけてみい」
それをいとも簡単に言い放つゲンさん。一体何をするかと思えば、この爺さん、とんでもないことを言う。
僕は持っていたリュックをその場に落とした。
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