しあわせな人

小谷杏子

しあわせな人

「あーあ、まったく」


 車のエンジン音に紛れるよう、そっと愚痴を溢した。

 家までの道のりがまだ遠く、募った思いを言葉にして出さないと胃の中のアルコールがただの気持ち悪いものになってしまう。


「酒はやっぱり、楽しんで飲むもんだろ」


 何が悲しくて苦手な上司と飲まなきゃならないのだ。

 気を遣ってあれこれと機嫌を取りながら飲む酒なんて、不味くて仕方がない。飲みニケーション? そんなもの、今は流行っていない。結局は仕事の延長だ。


 三十代に突入したのも数年前。社会人生活もかれこれ十余年は経つが、こういった無駄な時間を過ごすのは未だに慣れなかった。


「まぁ、いいや。帰ったらミカに何か作ってもらおう」


 連れ立って数年の彼女の顔を思い出し、すっかり重たくなった体に鞭打って、歩道橋の階段を駆け上った。



***



「ただいま」


「お帰り」


 家に帰れば、すぐに出迎えてくれる。

 どんな時でも明るく振る舞うミカの姿は、いつ見ても何度顔を合わせても飽きがこない。


「今日は遅かったのね。残業?」

「あぁ、まぁ。部長にね、誘われて……これも仕事の一貫というか」

「それは大変ね。お疲れ様」


 器量の良さも抜群にいい。

 こういう時、実家の母は、帰りが遅くなった父を怒鳴りつけていた。それに比べて彼女は心が広い。


 ミカは「飲んできたなら、どうしよっか」と呟き、こちらの様子を窺っていた。

 夕飯は用意しなくていい、と事前に言ってあったので心配することはないのだが、実のところ、上司に合わせてつまみしか口にしていない。

 何か胃に入れておきたいが……あまり食欲は湧かない。


「……それなら悪いんだけど、何か軽いものが食べたいかなぁ。もう有り合わせでもいいから」


 言うと、ミカは「ふふふ」と口元に手を当てて笑った。


「分かった。用意するね」

「ありがとう」


 パタパタとスリッパを鳴らして台所へ向かうミカ。その後姿をぼんやり眺めながら、のろのろとリビングへと向かう。くたびれた背広を脱げば、全身に回る疲れと安堵が混ざり合った。

 こういう時は飲み直す方がいい。アルコールは充分に摂っていたが、気疲れのせいで上手く酔えていない。


「アキオ、用意出来たよ〜」


 耳に心地いい高い声。アキオは慌ててスウェットに着替えた。



 用意してくれていたのは、少し大振りな茶碗に盛られた白米と、ふりかけのような小袋、そして湯を入れたケトルだった。


「お茶漬けか」

「あら、駄目だった?」

「ううん。そんなことないよ」


 これくらいが丁度いい。

 そう言えば、冷蔵庫に発泡酒があったような。


 思案していると、彼女は心を読んだように500mlの長いアルミ缶を出してくれる。ひんやりと冷たい缶を片手に掴んだまま、更に冷蔵庫の奥へ手を伸ばし、小さなタッパーを探り当てた。


「この間、お義母さんに貰った漬物があってね。あ、あと梅もあるし、ほら、わさびも。インスタントだけじゃ、やっぱり味気ないでしょ」


 テーブルに一つずつ並べていけば、随分と賑やかになった。

 茶漬けの素を白飯にふりかける。緑の粉末と海苔、香ばしさを思わせるあられ、その上にチューブの練わさびをたっぷり絞る。ケトルの湯を碗に流し込めば、ほんのりと磯の香りが湯気とともに立ち上った。


「いただきます」


 あられがふやけてしまう前に口へ運ぶのがいい。カリカリとした食感が楽しく、絞りすぎたわさびがツーンと鼻の奥を刺す。


「そんなに慌てなくてもいいじゃない」


 目の前に座るミカは頬杖をついて、にこにこと眺めていた。その視線に思わず箸を止めてしまう。


「何?」


 怪訝に思ったのか、ミカが小首を傾げた。


「あぁ、いや……やっぱり、女性が目の前に居たほうがいいよなぁって」

「仏頂面のおじさんを前にしちゃ、気が滅入るってこと?」

「そういうこと」


 投げるように言うと、彼女はクスクスと笑った。それを見れば、不思議と先ほどまでの疲れや食欲不振が消えていく。

 アキオは、碗に口をつけると茶漬けを掻き込んだ。濃くも薄くもない味が舌を流れる。ひとまず胃の中へおさめると、今度は漬物に箸を伸ばした。


「ゆっくり食べていいのよ。アキオは本当、早食いなんだから」


 茶化す声も柔らかく温かいものだから、気持ちはどんどん晴れやかになっていく。こうしたなんでもない日が特別しあわせに思えてしまうのも、彼女のおかげなのだろう。


 アキオは、目の前に座るミカを見つめながら、口に含んだ漬物を冷たい発泡酒と共に流し込んだ。


 一息つく。目の前に座る彼女は、にこにことしたまま動かない。


「僕はミカと一緒にいられて、しあわせだよ」


 ぽつりと、その言葉を、食べかけの茶漬けに落とした。


 ミカは自分の理想そのものだ。

 言って欲しい言葉を掛けてくれるし、ずっと笑顔でいてくれる。そんな存在が、目の前にいてくれるだけで充分に満たされるし、何よりしあわせを実感できるのだ。

 例え、彼女が、動かぬなんだとしても。

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しあわせな人 小谷杏子 @kyoko

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