萩 ― はぎ ―

花岡 柊

萩 ― はぎ ―

 とても静かで、仄暗い。

 足元は裸足――――。ううん、赤い鼻緒の草履だ。縁取りには子供らしい縮緬の柄があしらわれている。

 ……子供らしい?

 首筋にゆるく風が通り過ぎる。長かったはずの髪の毛が、首筋で揃えたおかっぱ頭になっていた。子供の頃によくしていた髪型だ。夜風が首筋を撫でていくのが心地いい。

 小さくなった足を前に踏み出せば、砂利がぶつかり合って音を立てる。

 鼻緒が少しだけ足の指にあたって痛い。この草履を履くときには、絆創膏が欠かせなかったことを思い出した。痛みは、まだ浅い。


 サクリ サクリ サクリ。

 砂利が鳴く。

 サクリ サクリ サクリ。

 僅かな痛みを感じるも、これがうつつではないことを私は知っていた。

 サクリ サクリ サクリ。

 長い上りの石段が現れた。


 ここは、神社?

 幼い頃に訪れた記憶がある。夏には祭りがあって、捕まえられない金魚に泣く私を困った顔で――――。

「誰……?」

 人の気配に思考が逸れる。

 目を凝らして見てみると、石段の途中でこちらを振り返る姿は、子供だった――――。

 私と同じ真っ赤な鼻緒と、口紅など塗っているはずがないのに、鮮明に色を見せつける紅が目を惹きつける。少女は口角を上げてから踵を返すと、弾むように石段を上っていく。

「待って!」

 どうしてか、楽しそうに上っていく少女の後姿を追いかけた。鼻緒が足を痛めつけ、表情が歪む。先を行く少女の背中が霞む。

少女を追いかけながら、石段の両端がぼんやりと明るいことに気がついた。

 なんの灯りだろう。

 目を凝らして見てみても、視界ははっきりとしない。見えるのは、足元の石段と痛みに赤くなり始めた自身の足の指だけ。

――――摘んじゃいけないよ。

 どこからともなく耳へと届く声。

――――家が火事になってしまうよ。球根は毒だからね、摘んじゃいけないよ。

「そう。……見るだけ。見るだけで、触れてはいけないのよね」

 思考に語りかける声は懐かしく、誘われるように更に石段を上っていった。

 息を切らせ長い石段を上った先には、神社もなければ仏閣があるわけでもなく、どこかで見たような小さな路地か現れた。

 ここは、どこだっただろう。

 煩雑としていて入り組んだ道のある田舎の下町。口を開くことのない幾人かいる住人の目は、一様に私を見ていて体が竦む。

 音のない無言の圧力に体が竦みそうになり、視線を逸らし振り切るように路地へと入り込んだ。

 人一人通れるくらいの狭い道には、空の木箱やゴミや空き壜が、行く手を遮るように道をふさいでいる。木箱を避け、ゴミを跨ぎ、壜を蹴って割らないように進む。薄い緑色をした空壜の中で、ビー玉が揺れていた。

 あれが欲しいとねだった想い出が懐かしい。逆さにしても、壜を上下に振っても、中におさまるビー玉は出て来なかった。

 どうして?

 訊ねる私の頭を愛しそうに撫でる温かな手。あの手が大好きだった。

 懐かしさに蓋をして先を進みながらも、道に迷っているのは明らかだった。不安を感じても、進む足は止まらない。何かに突き動かされるように、小さな足を繰り出した。

 しばらく行くと、拓けた道に出た。道路には、屋台のような店がいくつもある。キョロキョロと怯えるように進み行くと、小さな食堂に目を奪われた。油と熱気にまみれていて、昼食時なのだろうか、今にも壊れそうな丸椅子に腰かけた沢山の人々が、料理をかき込むようにお腹を満たしている。昼間っから漂う、アルコールの臭いが鼻につく。

 眉間に皺を寄せていると、テーブル席に座っていた男が不意に言った。

「近道だ」

 口が全く動いていないのに、声だけが耳に届いた。男に見覚えはない。どこか人を試すような雰囲気で、じっとこちらを見ている。その男の視線は、厨房へ続く通路の奥へと向いていた。

 男の言葉を信じていいのか。

 その試すような視線を探るようにし、厨房の方へ目を向けた。食器やフライパンの立てる音が賑やかに鳴り響く奥には、求める何かがあるような気がして足が向いた。

 男の言葉を信じて進むと、古びて油まみれのドアが現れた。ノブはほぼ壊れていて、外れたねじ穴が黒く油まみれの口を開けている。

 握ってはみたけれど、ノブが回ることはない。油で滑るぬめるノブを引っ張ると、ドアは難なく開いた。ドアから雑然とした食堂を出ると、そこは薄暗い通路だった。心細さに足が速まる。まるでアリスのウサギを追いかけるように、気持ちが急き立てられ通路を進んでいった。いくつものドアが通路の両端に見えても、直感でそこじゃないと通り過ぎた。

 たどり着いた行き止まりには、所々ベニヤの剥がれた古びたドアが現れ確信を得た。

 ここだ。

 手をのばして握ったドアノブは、壊れていない。捻るとギィと嫌な音を立てる。ドアの向こうには、腰ほどまで積み上げられた段ボール箱が、室内いっぱいに置かれていた。人参、長ネギ、玉ネギ、ジャガイモ。どれもが食材の箱で、祖母の住んでいた田舎の地名が産地として印刷されていた。簡単な地図の絵が印刷されているものある。

 とても、懐かしい。小学生の頃は、夏休みや冬休みになると家族で訪れていた。近くを緩く流れる川辺には、石で囲まれた小さな池が造られていて、そこには裏庭で取れたスイカやきゅうりにトマト。私の為にと、ラムネが冷やされていた。ラムネを取り出すために透明な川の水に手を入れるのは、とても気持ちがよかった。

「よおく冷えてる」

 目がなくなるほどくしゃりと笑った祖母がラムネのビー玉を押すと、勢いよく炭酸の溢れ出る様に二人で声を上げて笑った。いつもの夏は、それが楽しみだった。

 目の前に沢山ある段ボール箱の中身は、入っているものといないものがあり、土の匂いがする。そのずっと奥に目を向けると、隠れるようにしてもう一つドアが見えた。

「あれだ」

 段ボール箱をよじ登り、空箱に足を取られ、土臭い埃に目を瞬かせる。

 ――――そこは、もう使えないんだ……。

 どこからか声がして、動きを止めた。周囲を窺っても誰もいない。声は、さっき食堂で「近道だ」と言った男の声と似ていた。

 また試されている?

 心の奥底を覗かれたように、気持ちのあり方を問われてでもいるみたいだった。

 けれど、自信はあった。ここまで来た道のりで感じていた不安は、いつの間にか心の中から掠れ消え、今度の試すような男の言葉は違うと思えた。

 使えないはずがない。

 男の声を振り切り、箱の上を這い、小さな身体でドアに向かっていく。

 息を切らせドアノブを握り、勢いよく開けて転がるように飛び出した。

 男の忠告を聞かずに開けた先には、懐かしい町並があった。さっきの煩雑とした町とは違う、薄明るくて、見知った商店が軒を連ねていた。八百屋、魚屋、肉屋に駄菓子屋。どこの店主も顔見知りだけれど、店内に人の気配はない。

 間違いなどなかった。そう思うのと同時に、誰もいないその場所に再び少しの不安が訪れる。どこへ向かへばいいのか、気持ちだけが焦る。

 どこへ行けばいいの?

 当てもなく歩き続けながらも、石段を上っていた少女を探して周囲を窺っていた。

 一歩、また一歩。ジワリジワリと迫りくる何かに、出す足の間隔が狭まる。

 急ぎ足に、駆け足に。

 走る。

 走る。

 走る。

 切れる息。

「そんなに急がなくていいのよ」

 聞こえてくるのは声だけ。

 どこにいるの?

 路地を横切る影が目に入った。

「待ってっ!」

 もつれる足。息が苦しい。心臓の音が煩い。

 狭い路地裏に迷い込み、見失った影に項垂れながら、激しく呼吸を繰り返す。

 どこへ向かっているのか。どこへ導かれているのか。

 呼吸が少し治まると、自分の陰が濃くなり地面と同化していることに気が付いた。厚い雲が月を隠しているようだ。

 顔を上げると、雲が流れているのが解った。地上はこんなにも静かで風もないのに、上空は風が強いらしい。黙って空を仰いでいると、雲が去り、月が顔を出した。出番を待ち構えていたかのように、現れた月が煌々と輝いている。

 月の明かりに導かれるように足を踏み出していくと、いつの間にかさっき上ってきた石段が現れた。

 同じ場所?

 足を踏み出し、今度はゆっくりと下る。

 一つ下る。

 両端には行燈の灯りと、曼殊沙華の花。行燈の仄かな明かりを受け、炎のように咲き誇っている。

 二つ下る。

 月が眩しく、影が再び存在を現していた。

 三段下りて、四段下りて、漸く人影が見えた。

 少女?

 ……違う、あれは――――。

 いつも何気に目にしていた卓上カレンダーの日付が頭を過ぎった。

 そうか、今日は彼岸の入りだ。

 懐かしい、背の曲がる姿に使い込まれた割烹着。母に叱られて泣いていると、いつもこっそり飴をくれた。溢れる涙に飴を握りしめ、祖母の割烹着に縋りついた。

 一人で寝るのが心細くなった時、和室の部屋に忍び込み、祖母の隣にするりと潜り込んだ。

「眠れないのかい」そう訊ねる優しい声に頷けば、私はすぐに眠りにつくことができた。

 働き者の皺々の手を握り、買い物へついていくのが好きだった。

「お祖母ちゃん」

 忘れていた私を、怒っているのだろうか。

 素足に刻まれた鼻緒からの痛みは、感じている心の痛みなのかもしれない。


 一日目、分け与えなさい。

 二日目、規律を守りなさい。

 三日目、怒りを捨てなさい。

 四日目には、ご先祖様に感謝をし。

 五日目に努力をして、六日目に心を安定させる。

 七日目には智慧を――――。

 御萩は小ぶりに、牡丹餅は大きめに。花と一緒だよ。

 小豆は、悪いものを払ってくれるからね。半紙を半分に折って載せるんだよ。


 沢山の皺を刻んだ笑顔で、いつも丁寧に教えてくれた。

 真西に沈んだ太陽の代わりに、月が見守るように照らしている。

 この夢から覚めたら、御萩の作り方を母に訊ねなければ。小豆の煮方には、お祖母ちゃんからの秘伝があるはずだから。

 半紙は、確か神棚にあったはず。

 御萩を丁寧に作る祖母の笑顔を思い出せば、心が穏やかになっていく。

 そうして、私はそっと瞼を持ち上げた――――。

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