終章

エピローグ

「ハッピーバースデー!」


 大悟がクラッカーを鳴らし、景気の良い音が室内に響き渡った。

 里依紗と咲がキッチンから色とりどりの料理を運んでくると、食卓はぐっと華やかになった。


「さあ、腹減り男子たちよ。幸せを噛みしめて食べたまえ……」


 ただの一つも料理をしなかった咲が、なぜか芝居がかった口調で言う。

 里依紗と咲はエプロン姿だった。なぜか咲のエプロンは猟奇的なゾンビの絵が描かれている。里依紗は、パステルストライプのエプロン姿で、いつものポニーテールではなく髪を左右のお団子にまとめていた。


「ローストチキンは、もう少し待っててね。与一君、そのサラダみんなに取り分けてくれるかな」


 今日は、いつも仕切りたがる咲ではなく、里依紗のほうが張り切って指示を出している。


「うひょぉ、うまそう! じゃ、いっただっきまーす」

「こら、滝本! 手ぐらいちゃんと拭いてからにしてよね。まったくがさつなんだから……与一君を見ならいなさいよ」


 手当たり次第に料理を取っていく大悟の横で、与一が感嘆のため息をついた。


「船戸さん、本当に料理上手なんだねぇ。なんか圧倒されちゃった……」

「えへへ、ありがとう。えぇとね、与一君が苦手って聞いたから、いつもならキッシュにほうれんそう入れるんだけど、今日はブロッコリーで作ってみたの。どうかな?」

「あ、うん。じゃあさっそく……うわぁ、めっちゃ美味しいです!」

「良かった! 食感が残る感じにうまく焼けるか心配だったんだ。信也もこれ食べてみて」


 信也は、差し出されたキッシュを手づかみでパクりと食べる。


「ああ、うまいよ」


 嘘はついてない。

 美味しいが、普段から里依紗の料理を口にしている信也には、それ以上気のきいたセリフは思いつかなかった。しかし、この場にはさらに気の利かない感想を述べるものがいた。


「いや、マジうまいよこれ。なんつーのこの……肉!」

「はあ、滝本には何食べさせても同じだわ……どうせ、豚肉と牛肉の違いもわかんないんでしょ」

「いいわよ滝本君ありがと。これだけ喜んでくれると作りがいがあるもの。だって、誰かさんは……いつも黙ってバクバク食べてるだけだもんね。最近はほとんどあたしが作ってあげてるのに」

「だって俺、おばさんとお前の料理の味の違いなんてわかんねぇもん」


 信也は、横目でにらむ里依紗に気づかないふりをしながら話題をそらした。


「そういえば、今日おばさんは?」

「うん、お友達とランチするからって、朝からお出かけしちゃった」


 咲がその話を聞いて里依紗の方に身を乗り出す。


「そんなの、娘のボーイフレンドが来たから席を外したに決まってるじゃない」

「も、もう咲ったら」

「だいたいね、信也くん。幼なじみの手料理なんて、ふつう男子にとっては最高のご褒美だよ。わかってる?」

「そりゃ……感謝はしてるけどさ、でもいつもはカレーとかそんな感じだぞ。どうやってほめればいいんだよ。しかも、俺だってちゃんと作るの手伝ってるし……」

「どうせジャガイモの皮むきぐらいじゃない? ピーラー渡されてさ」

「そ、そんなことないわよ。信也にジャガイモは無理だけど、お米研いでくれたり、あたしがちょっと外してる間、焦げないように混ぜてくれたり、本当に助かってるの」


 あれ? なんか、みじめな気持ちになってきた……。

 フォローになってない里依紗のフォローにへこまされた信也は、グラスのジンジャーエールをぐいっと飲み干した。


「あ、そろそろチキンができたかな」

「あ、手伝うよ」


 信也は生春巻きをほおばる咲にピースサインを作ると、空のグラスを持ったまま里依紗の後に続いてキッチンへと向かう。そこは信也の家の倍は広く、妹のさやかと三人で立っても十分に移動できるスペースがあった。


「ちょっと早いかな……」


 真剣な表情でタイマーを確認する里依紗の横顔は、普段とまったく変わりない。信也は、冷蔵庫から残り少ないジンジャーエールを取り出すと空っぽになるまでグラスに次ぎ一口飲んだ。

 そういえば、大事なことを見失うなって誰かさんが言ってたよなぁ。


「なあ、大丈夫か?」

「え? 何が?」

「貧血で倒れたじゃん。こんなに料理いっぱい作ったりして……無理してないか?」

 里依紗はきょとんとした顔で信也を見つめ、それから笑い出した。

「大丈夫よ。だって何も覚えてないし、本当にそんなことがあったのかなって。今まで貧血で倒れたことなんてなかったから、後で聞いてびっくりしちゃった」

「ふーん。覚えてないんだ」

「もしかして、覚えられたら困るようなことでもした?」


 里依紗がオーブンを覗き込みながらいたずらっぽく言った。


「ばーか。するわけないだろ」

「だって、妙に気にしてるんだもん。あ、もういいかな」


 里依紗がオーブンのふたを開けると、あたりには香ばしい匂いが立ち込めた。里依紗は手際よく取り出し大皿に移す。


「じゃあ、これ向こうに運んでくれる? あっ」


 里依紗がよろめいて信也の右腕につかまり、彼女の手を離れた皿は重力に引かれて落ちる。ゆっくりと、スローモーションのように落下していく皿に信也は左手をそっと伸ばし、落ち着いて受け止め、そしてしっかり支えた。

 あの時と……同じだ。

 ぼんやりと薄暗く音がまったく聞こえない世界で、フックにかかったキッチンタオルがスローなリズムを刻み、グラスのジンジャーエールは水面をねっとりと揺らしながら緩慢な速度で泡を吐き出す。やがて脈絡もなく始まった大地の身震いは、何事もなかったように静かに遠ざかり、信也は動揺に気づかれないようにゆっくりと深呼吸した。

 信也の腕につかまっていることに気づいた里依紗が、ぱっと手を放した。


「ご、ごめんね」

「ああ……」


 信也は曖昧にうなずいた。

 聞こえている。

 間違いなく里依紗の声だ。いつのまにか感覚は戻っている。


「地震……なんだか最近多いわね」


 地震、か。

 それは、全てが始まったあの日の記憶を呼び覚まし、信也にとっての現実を突きつける。

 生徒会長選挙が世界の命運を決める?

 そんな馬鹿げた話を信じ、すがり、命すら賭けようとする人々が今、この世界を動かしているのだ。だからこそ、信也に受け入れる以外の選択肢はない。

 日常との決別を。

 友達や幼なじみと過ごす他愛もない休日。そんな平凡でありふれた時間を過ごせるということが、どれだけ恵まれたことだったのか、今の信也には痛いほどわかる。

 いや、何もわかっていない。

 信也の常識を根底から揺さぶって、そして粉々にしたあの日。信也の周りを何か徐々に侵食する言いようもない不安。この先に何が起こるのか、信也の未来について宣託は何も語ってはくれない。

 それでも。

 信也はローストチキンの皿をそっと里依紗の手に戻すと、鼻の頭を掻きながら言った。


「あー、ところで。ちょっと用事を思い出した」

「どうしたの?」

「また高砂プリント忘れちまった。ええと、そうそう確かP波とS波だっけ」

「それ地学…… じゃなくて! 今から学校にいくの?」

「だって明日が提出日だし。みんなには適当に言っといてくれ」


 信也は里依紗に軽く手を振って玄関に向かう。


「でも、今日は特別にケーキも焼いたのよ?」

「俺の分、残しておいてくれよ。じゃあな」


 あっけにとられた里依紗を振り返りもせず、信也は手早く靴を履くと外に出た。


「もう、信也の、ばかぁーーー」


 恨めしそうな里依紗の声が閉められたドアの向こうから聞こえるが、それを気にも留めず信也は走り出し、クルーガーを音声起動する。


「場所はどこだ?」

「二百めーとる先ノ路地ヲ右デス。終了オーバー


 耳元に鳴り響く合成音の案内に導かれて入ったのは、生活感漂う住宅街の裏路地だった。そこには、黒髪をなびかせた一人の少女が立っている。

 出会ったときと同じように。

 何かを打ち倒そうとする凛としたオーラを、その可憐な制服姿はまとう。

 何かを貫こうとする決断的な意志を、その澄んだ瞳は伝える。

 少女は、右手に握った武骨な木刀を突きつけて、信也に言った。


「遅い!」


 その声は不機嫌な感情を全力で伝えてはいたが、もちろん敵意はない。


「わりぃ」


 信也は大仰に肩をすくめてウインクをした。そして何も言わずに走り出す少女の背中を追う。

 それでも、今は進むしかないんだ。

 日常と決別するのではなく、取り戻すために。

 アルタレギオン。

 世界が選択されるその時まで。

 もう一つの理を持つ世界の中を、信也は駆ける。

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想国のアルタレギオン 藤良群平 @kevin0129

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