蜜柑色のひと

新樫 樹

蜜柑色のひと

「そろそろ出かけるから。戸締りしてくれる?」

 部屋から出てきたわたしを見て、姉が口早に言いながら玄関に向かう。

「うん……」

 そういえば今日は深夜勤だったっけ。

 ぼんやりと紺色のカーディガンの背中を見ていた。

 きゅっとまとめ上げた髪はいかにも看護師って感じだけれど、わたしは長く下ろしたさらさらのいつもの髪の方が似合うと思う。

「明日の朝ご飯は作ってあるから。あんまり根を詰めちゃだめだよ」

「……うん」

 行ってきます。小さくてもよく通る声。

「いってらっしゃい。気を付けてね」

 にっこりと笑んだ顔がドアの向こうに消えた。




 わたしの描くイラストには、パッションが足りないと先生が言った。

 でもわたしには、その言葉の意味がわからない。

 同じ科の子は、うまいけど優しすぎると言った。

 やっぱり、わたしにはわからない。

 わからないけれど、わたしには描き続けることしかできない。

 うまいとか下手とか全然わからなくても、パッションが、優しさが、そんなものなどちっともわからなくても、今のわたしにはただ描き続けることしかできない。

 息をするように描くのね。

 呆れたように笑う姉の顔が大好きだ。

 小さいころからそうだった。

 他のことはあまり覚えていないのに、初めてわたしが描いた絵を見たときの姉のことはよく覚えている。

 幼稚園で描いた、オレンジのクレヨンで描いた丸。

 ただの丸。

 その丸を、小学生だった姉は目を輝かせて見てくれた。

「みっちゃんうまいよ! すごいね!」

 わたしは得意になって絵を描いた。

 姉はわたしの絵をすごく喜んでくれる。

 どんなに嫌なことがあっても、姉の喜ぶ顔を見るとなぜか全部忘れた。

 小学生のときに県の絵画コンクールで特選をとったときには、普段はおとなしい姉がまるでお祭りみたいにはしゃいでくれた。 

 あれからずっと、わたしには絵を描くことが生活のほとんどだった。

 姉の言うように息をするように描いていた。描くことが、わたしの呼吸だった。

 十も離れた妹の面倒を見続けてくれた姉にとって、わたしはきっと妹というよりも娘に近いような人間なのかもしれない。

 仕事人間の父はとうとう家族よりも仕事を選び、同じように仕事人間の母はなんの感情も見せることなく父に別れを告げ、自分もまた仕事の世界で生きている。

 ふたりはきっと、家庭の中では息ができなかったのだろう。

 いまは、少しそう思う。

 小さいころから、わたしと手を繋いでくれたのは姉だった。

 白くてきれいな姉の手。

 ちょっと冷たくて、ほっそりしたその手に握られると、わたしはここにいていいのだと思えた。

 望まれて生きているのだと、思えた。

 その姉が、わたしの描く絵を喜んでくれる。

 それだけで満たされた。

 すっからかんのわたしの中に、まるで甘い水がなみなみと注がれるように、ほうっと息をつくような幸せが満ちる。

 だからわたしは、絵を描き続ける。

 今夜はもう少し描こうと思っていた。

 課題はもうすんでいる。

 いま描いているのはコンクールへの提出用のものだった。

 さほど大きなコンクールではないけれど、先生が強く勧めていて、どうやら審査員の中にかなり有名なひとがいるらしい。

 授業で先生が何か言っていたけれど、よく覚えていなかった。

「もしかして、美月みつきも出すの?」

「……うん」

「マジで? あれって学校代表に選ばれたやつだけなんでしょ。出品できるのって。美月が出るんじゃ無理じゃん、あたし」

「そんなこと……」

 ないよと言おうとしたところに、他の子が割って入った。

「テイスト全然違うじゃん、イケるかもよ」

「そうだっけ?」

「どっちかっていうと、美月っていうよりも香奈実でしょ」

「あぁ~、なるほどね」

 二人は何か話し合いながら去っていく。

 香奈実。

 どんな絵を描く子だったっけ。

 ふうっと息を吐いて、カバンにテキストを詰める。

 もっと様々なものに関心を持たなくてはいけない。

 わかってはいる……。

 たくさんいいものを見た方がいいと、前に先生が教えてくれた画集を全財産を投げうって買ったことがあったけれど、どうしてか心に響くものは何もなかった。

 馬鹿正直に先生にそう言うと、お前には才能がないと言われた。

 絵を描くことに必要なことが才能だけとは思わない。

 でも、そのときの先生の、吐き捨てるような声色が、わたしの心を震え上がらせた。

 才能がなかったら、描けなくなるのだろうか。

 描けなくなったら……いつか描けなくなったら、どうしよう。

「はぁ、やっぱりいいね。みっちゃんの絵は。癒されるわぁ」

 その日の夜。ビールの缶を片手に言った姉の見ていた絵は、先生の言葉に不安でしかたなくなったわたしが、もがくように描いた絵で。

「どうしたの? やだ、ちょっと!」

 姉がびっくりした顔でやってきて、お風呂上がりに自分の首に掛けていたタオルでわたしの顔を拭いてくる。

 そのときになってやっと、わたしは自分が泣いているのに気が付いた。

「……なんか、あった?」

 ううん、と首を横に振りながら。

 わたしは、描こうと思った。

 描けなくなったって、描こう。

 しがみついて、しがみついて、描き続けよう。

 姉が喜んでくれるなら、それだけでいい。

 それから、描けなくなったらって考えるのはやめた。

 けれど、道はまだ見えない。

 迷わなくてもわからなくなる道は、あるらしい。

 そうしてわからないまま、いま、わたしはここにいる。

 深い霧の中にいるわたしの唯一の道しるべは、紺色のカーディガンの似合うすらりとした背中。呆れたように笑う優しい目。

 みっちゃんの絵、大好きよ。そう言う、凛と響く温かな声。




 コンコンとノックがした。

「みっちゃん、手紙だよ」

「……手紙?」

 相変わらずの部屋だねぇと、床のものが邪魔をして中途半端にしか開かないドアから顔を覗かせる姉のところに、画材で足の踏み場もない中を小さな隙間を見つけてひょいひょい飛んでいく。

 受け取った封筒はとてもきれいだった。切手はない。

 縦長の大人びた白いそれには、ところどころに花の透かしが入っている。

 藤村美月様。

 流れるような文字が乗っていた。

「小百合が店で預かったんですって」

 誰だろう。

 今どき手紙なんて寄越す友人はいない。

 みんな手っ取り早く電波を飛ばし合うだけで、誰かのために時間をかけて言葉を綴るなんてこと思いもしない。

 不安が頭をもたげる。

「買い物行くけど、何か要るものある?」

 姉が思い出したように言った。

 ここのところ、ろくに眠れなかった。

 とろとろと眠ってもすぐに目が覚める。

 覚めたら絵を描かずにいられなくなる。

 つかめそうでつかめない、もやもやしたものを追いかける。

 そうして気付いたら、もう空は色を変え始めているのだ。

 体よりも疲れ切っている頭は、甘いものを欲しがっている。

 ケーキ食べたいなぁ。そう思ったけれどなんとなく言えなかった。

 言い淀んでいると。

「そうそう。知ってる? 駅前に新しいケーキ屋さんできたの。お土産に買ってくるね」

 思わずぽかんとしたわたしに微笑んで、姉はドアの向こうに消えた。

 しばらくそのままドアを見ていた。

 胸がほんわりと温もる。

 頭をもたげた不安が、その温もりに溶けた。

 手紙に目を落とす。

 そっとひっくり返すと住所はなく、「橙子」という名だけがあった。

 たぶん「とうこ」と読むのだろう。

 そんな知り合いはいなかった。

 封を、切った。


『はじめまして。突然このようなお手紙を差し上げてしまい、きっとあなたを驚かせてしまいましたね……』


 ふうっと心に流れてくるような言葉。

 温かな人柄が、文字から匂い立つようだった。


『……先日、コトリカフェにうかがいましたとき、あなたの絵を見てとても心癒されました。お聞きしましたら、専門学校の学生さんが描かれたものだとか。驚きました。まだお若いあなたが、こんなにも人の心に寄り添う絵を描かれることに、感動いたしました。素晴らしい絵を、どうもありがとうございます……』


 手紙は最後にこう綴られていた。


『どうかいつまでも、あなたにしか描けない絵を、描き続けてください。

 自信を持って』




「え? 手紙?」

「はい、わたしに手紙をくれたひとって、どんなひとだったんですか?」

 そうだなぁ、と健さんは振り返って小百合さんと顔を合わせる。

 翌日、わたしは手紙のことを聞きにカフェに行った。

 コトリカフェは姉の友人夫妻の店だ。

 オーナーの健さんと小百合さんは姉とは高校時代からの付き合いで、店を出すときにも姉はあれこれ雑務を手伝っていた。

 そんな繋がりでたまたまわたしの絵を見た二人が、店に飾る絵を描いてくれないかと言ってきたのだった。

 買い取ると言ってくれたけれど、まだまだ勉強の身だからと姉が断って、そのかわりに発表の場として小さなものを何点か飾らせてもらっている。

「よく覚えていないの。ちょうどその日はとても忙しくて」

 健さんの代わりに小百合さんが答えると、手を拭きながらカウンターから出てきてくれた。

「ごめんなさいね」

 うつむいたわたしの背中に、そっと手が添えられる。

「でもね、たぶん、感じのいいひとだったと思うわよ。そうでなかったら、いくらなんでも手紙なんて預からないし、春香はるかにも渡さないわ」

「なにか、嫌なことが書いてあったのか?」

 いいえと首を振ると、二人は安堵の笑みを浮かべた。

「なら、そのひとの気持ちだけ、受け取ればいいんじゃないか?」

「そうね。もしかしたらまた、いらっしゃるかもしれないし」

 そうか。

 そうかもしれない。

 わたしの絵を気に入ってくれたのなら、またここに見に来てくれるかもしれない。

「あの、すみませんが、そのひとが来たら教えてくださいませんか?」

「いいけど……必ず来るとは言えないわよ? なにより、わたしたちはそのひとのことを覚えていないんだし。もしわかったら、よ?」

「いいんです。それで、いいので」

 ……わかったわ。

 小百合さんが目を細めた。

 あの手紙は、まるでわたしの心を見透かしたようなものだった。

 たった数枚の小さな絵を見ただけで、どうしてこんなにもわたしのことを知ることができたんだろう。

 自分でもはっきりとつかめないわたしの胸の中の混沌を、橙子さんというひとはすっかりわかっているような気がした。

 わかって、励ましてくれた。

 橙子さんという見知らぬひとへの想いは、どんどんと膨らんでいく。

 思ってもいなかったところから心をノックされているような、感覚。

 そこを開いたら霧が晴れていくんじゃないかという、予感。 

 じっとしていられないような気持ちになる。

 いますぐ、絵を描きたい。

 帰り道。わたしはひとり歩きながら、心に決めた。

 今度のコンクールで学校代表になる。

 いまのわたしのすべてをかけて、描く。

 そうして、結果を出す。

 どうしてだかわからないけれど、そうすれば橙子さんに会えるに違いないと思った。




 こんなに必死になったのは、はじめてだった。

 姉以外の誰かのために描いているのも……いや、そうじゃない。わたしはいま、わたしのために描いている。

 荒れ狂う溶岩の波のような感情が、体の中を埋め尽くしていた。

 奥深くに置き去りにしていた、熱くてどろどろしたものが一気に吹き上げてくる。

 その色の名をわたしは知らないけれど、その色をわたしはよく知っていた。

 怖い色だ。

 飲み込まれたら自分の絵が死んでしまうような恐怖。

 そういう、色。

 わたしの奥底に閉じ込めてずっと見ないできた、色。

 いま、その色が、わたしの中いっぱいに逆巻いている。

 いつ眠って、いつ食べたのか、覚えていないような数日が過ぎた。

「もう。こんな無茶は、駄目よ」

「……ごめんなさい」

 できた。

 そう思って筆を置いた瞬間、ふっつりと何かが途切れた。

 どうやら倒れたらしいわたしは、気付いたときにはベッドの中だった。

 大きな物音で飛んできた姉が倒れているわたしを見つけてくれ、大急ぎで往診中のかかりつけ医を捕まえてくれて、今に至るようだった。

「たまたま私がいたからいいものの。心臓止まりそうだったわよ。眠っているだけだってわかって、涙出たんだから」

「……ごめん」

 もう、とおでこをコツンとされて、なんだか子どもの頃を思い出した。

「すごい絵ができたわね」

「うん……」

「おめでとう。よく頑張ったね」

「……」

 ああ、姉は知っていたのだと、ぼんやりと思った。

 道がわからなくなっていることを、わかっていたのだと。

 そうしてこの絵が、答えであることを。

 窓から夕日が見えている。

 その大きなオレンジに目を奪われて、姉が藍色のシルエットになった。

 美しいシルエットは、蜜柑色の甘い光を連れて、わたしを見下ろしている。

 優しい、少し冷たい白い手が、わたしに差し伸ばされる。

 ……そうだった。

 あの、遠い昔に、初めて描いたオレンジの丸は……姉だった。

 姉の顔を、描いたのだ。

 ひとりぼっちの寂しい夕暮れを、あたたかく変えてくれるひと。

 だから、姉を描こうと思った。

「これ、わたし? みっちゃん、うまいよ! すごいね! ありがとう!」

 喜ぶ姉がうれしかった。

 とってもとってもうれしかった……。

 ふっと、私の頭の中で、細い糸が結ばれた。

 ぼんやりとした頭ではそれを深く考えることはできなくて、思いついたものをそのまま口にする。

「お姉ちゃん……」

「ん?」

「あの手紙、お姉ちゃんが書いたの?」

 姉が、はっとしたのがわかった。

「……どうして、そう思うの?」

「だって、お姉ちゃんは、夕日の色なんだもん。橙子さんの橙って、だいだいだもんね……それに、あの手紙は、お姉ちゃんじゃなきゃ、書けないよ」

 言いながら自分でも、そうだったのかなんて納得していた。

 変な気分。

「あんたって、妙なところで鋭いのよね」

 しばらく黙ってわたしを見ていた姉は、やんなっちゃうわって言いながら笑った。

「描けたのね」

「……え?」

「私のためじゃない絵を、描けた」

「……お姉ちゃん」

「子どものときからずっと、苦しいときや悲しいとき、あんたの絵にどれだけ救われたかしれないの。だから、恩返し。あんたはもっと、欲を出していいんだよ。貪欲に求めてもいいの。もっともっと、自由でいいの」

「欲?」

「そう。欲。私は絵のことは詳しくないけれど、あんたの絵にはずっと何か足りない気がしてた」

「……それが、欲なの?」

「そうねぇ。平たく言えば。たぶん」

 姉が絵を見る。

「わたしが喜んでくれたらそれでいいって思って、描いてなかった?」

 こくりと頷いた気配を感じたのだろう。絵を向いた横顔が微笑んだ。

「うれしかったわよ。とっても。さっきも言ったけど、家が辛かったときも学校が辛かったときもいまも、あんたの絵が励ましてくれた。でもね、そろそろ妹離れしなくちゃって思ったのよ」

「……わたしが、姉離れじゃ、ないの?」

「違うわよ。わたしが、妹離れ」

 本当にいい絵ね。

 小さく呟いて姉はこちらを向いた。

「あんたはもう、自分の欲をもっと大事にした方がいい」

「……わかんないよ。欲って、なに?」

「目標を、高くってことかな」

 目標……。

「高みを目指して練磨する、みたいな? あの絵、そういうこと考えて描いたでしょ。わかるよ。私にも」

 そうだったろうか。

 わたしは、ただ、自分の中から湧き上がる激流のままに描いただけだ。

 あれが、姉の言う、欲なんだろうか……。

 あの……名前のわからない、けれどもよく知る、色が。

 わたしのなかの。

「本当によく、頑張ったね」

「……うん」

 姉の言おうとしていることを、全部わかったわけではないと思う。

 けれど、わたしは頷いた。

 確かにわたしの世界は変わった。

 新しい扉が開かれて、新しい世界が垣間見えている。

 胸は、躍り始めている。

「もう少し、眠る?」

「うん……そうする」

 本当はもう絵が描きたくなっていたけれど、体は動きそうになかった。

 少し冷たい手が、さらさらとわたしの頭を撫でる。

 子どもじゃないんだからと言おうとしたけれど、なんだかもったいなくて黙ってされるままになっていた。ゆるゆると眠りが近づいてくる。

 目を閉じる間際。

 チェストの上で静かに夕日に染まっている手紙が目に映る。

 この世で一番、きれいな色だと、思った。




 一皮むけたな。

 絵を見た先生はそう言って、深く頷いた。

 学校代表には、香奈実とわたしの二点が選ばれ、コンクールに出品された。

 結果はまだ先だけれど、わたしは次の作品に取り掛かっている。

 できれば、コンクールに出そうと思う。

 飛び出た新しい世界の向こうにもまた、新しい世界があることを知ったからだ。

 いまは、早くその世界を見たい。

 そうしてまた、扉を開く。

 たとえそこに無限に広がる荒野があっても、わたしは大丈夫だ。

 いつだってわたしの胸の中には、蜜柑色のひとがいるのだから。

 どんなところでだって、この世界で一番きれいな色は、一日の終わりを彩ってくれるのだから。

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蜜柑色のひと 新樫 樹 @arakashi-itsuki

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