6. Are you sure you’re making the right decision?

 倉庫の小さな窓の外は、かなり暗くなっていた。

 どうやら居眠りをしてしまったらしい。

 一体今は何時なんだろう。携帯を確認する気にもなれない。


 顔の違和感を取り払おうと手で拭うと、鼻水とよだれがべっとりと糸を引いていた。花も恥じらう女子高生にあるまじき顔になっている事は間違いない。


 外は大雨と言って差し支えないほどの天気で、それ以外の音も聞こえなかった。


 完全下校時刻は過ぎてしまったんだろう。帰りが遅くなるとは母にも小吉にも伝えてあるから良いんだけど。


 目の前には閉じられた大理石柄のバインダーがある。全部目を通して、全部見直した。


 最後の項目は「Property / Real Estate」だった。

 つまり不動産とか、売れば大きなお金になる所有物とかの事。これについては父が母の所有物について一切の権利を行使しない事、自分には不動産が無い事を証明する内容だけだったので、すぐに終わってしまった。


 これで、僕が出来る事は全て終わってしまった。多分だけど、後は付箋を付けた場所に母がひたすらサインをし続ければ良い。

 そしてそれが終わり、日本の役所にも紙切れを一枚提出すれば、母も小吉も他人になる。


 バインダーを持ち上げようとしたが、変に重たく感じて持ち上がらなかった。

 本当は大した重さなんて無いはずなのに。なんとかして自分のバックパックへ入れなくてはならないのに、持つどころか、動かす事も出来ない。


 これが、未練の重さなのかな。

 昨日は人生最良の日と言える日だった。母と小吉に初めて会った日も嬉しかったけど、それを超えてしまった。


 ハンバーガー屋から家までは徒歩で一時半間以上かかるのに、小吉は僕の歩きたいという願いを叶えてくれた。そして、歩いている間、ずっと手を握ってくれていた。

 もちろん手が離れてしまう事もあったけど、すぐに握り直してくれた。

 思い出すだけで、顔が綻んでしまう。


 あれはなんというか、兄妹なんていう関係には感じられないような時間だった。

 それよりずっと特別な関係だったように思う。そう思いたい。

 妹と他人の狭間にいる僕に、どうしてそこまでしてくれたんだろう。

 僕に、女性としての魅力があったからとは思えないから、実の妹として扱ってくれていたのかもしれない。なんだか、少し複雑だ。


 ふと、変な事を考えてしまう。

 小吉の彼女って、どんな子がなるのかな。

 きっと、驚くほど可愛い子だと思う。

 そもそも顔がそこいらの女子より可愛いから、まずは釣り合う子じゃないと。


 それは間違いなく、僕じゃない。

 突然髪の毛を同じにしろと理容師に言ったり、一人で出来るくせに掃除を手伝えとか、腰を揉めとか、一緒に寝させろとか、高いハンバーガー食わせろとか、気が済むまで手を握ってくれとか、甘ったれた図々しい要求をしたりはしない子だ。

 間違いなく、自分ではない。


 僕は妹だ。妹だから大事にされていたんだ。昨日の事は、もうすぐ妹でなくなってしまう僕への手向けだ。


 このバインダーに母が必要事項を記入し、父へ返送したら、自分が母と小吉の元から去るまで、それほど時間はかからない。父が引越を告げるのはいつも突然で、口を挟む余地もくれない。


 大丈夫、すぐにでも対応できる。

 僕の荷物は大きめのスーツケース一つに、バックパックと大きめのダンボール一つでもあれば十分だ。

 本や漫画は古本屋へ。スマートフォンはSIMフリーだから海外だって平気。消耗品は捨てて、わざわざお揃いにしてしまった食器類は置いていく。

 未練にならないように。


 昨日ずっと手を握ってくれていた事は、きっと何度も思い出すだろうな。思い出せば、どんなに辛い時も乗り越えられると思う。


 後少しで、僕と小吉はこの兄妹と他人の狭間を抜け出す事になる。

 会いたいと願っても父と母の手前、きっと叶わない。

 そもそも、二度と会えないほどずっと遠くへ行くことになる気がする。


「ああ、馬鹿だなぁ」


 本当に馬鹿だ。

 最初からずっと妹らしくしていれば良かった。でも、僕は妹になりきれていなかった。

 痩せたのは食生活の改善だけではなくて、頑張ったからだ。

 頑張れた理由なんて明白だ。小吉と二人で歩く事があっても、少しでも釣りあえるようになりたかった。


 少しでも見映えがよくなりたくて、母に前髪の決め方とか、スキンケアも習った。友達にも教えてもらった。

 でも、僕はその時正気ではなかった。

 僕は自分の立場を忘れていた。僕は妹だった。妹だから兄に愛情をかけてもらえていたんだ。


 だから、頭の中の人格から性別という概念を取り払った。

 頭の中では「僕」と称するようにして、兄を兄として慕う気持が狂わないようにしたんだ。

 でも、今はそれが正しかったか、正しくかなかったのか、分からない。

 急に倉庫の中が暑く感じてきた。なのに、何度鼻をかんでも鼻水が溢れてくる。

 頭皮から汗が止めどなく溢れて、顎から滴り落ちていく。汗でないものまで混じっている気がした。鼻水とか、唾とか、目から出る来る厄介なやつとか。

 こんな顔、誰にも見せられない。


 嫌だ。

 離れてしまう事が嫌という意味ではない。

 この期に及んでも小吉に会いたくて仕方なくて、助けて欲しくて仕方ないと思う自分がすごく嫌だ。

 今の家を出たくないと、この学校に通い続けたいと、わがままを言いたくて仕方がない。

 こんなどこかの法律事務所と銀行が共作した財産分与書類を母にサインしてもらわなくてはならない事も嫌だ。

 傷だらけの母に、こんなものを見せなくてはならない事はもっと嫌だ。


 体の震えが止まらない。頭の中に大量に液体が流れ込んで来て、パンパンになってしまっている感覚に襲われる。

 これ以上流れ込まれたら、頭が破裂してしまう。


 どうしてこんなに苦しまなければならないのか。何をどうすれば良いのか。このままでは本当に破裂してしまう。


 でも、この頭の痛みは時間さえ経てば治る事も知っている。

 ひたすら収まるまで体を小さくまるめて痛みに耐えるなんて、何度もしてきた事だ。

 でも、今のは経験した中で一番痛い。

 この痛みを取り去るにはどうすれば良いのか分からない。心の弱さまで父にそっくりだ。あの心の弱い父が一大決心で脱サラして独立して、しかも結婚まで決めたんだ。すごいよ。尊敬するよ。

 こんな事にはなってしまったけど、思い出だけは残してくれた。


 思い出だけは残るんだ。

 でも今はそれが全く納得できない。いつもそうやって飲み下していたわだかまりが、のどの奥からはみ出してしまう。


 思い出ってなんだ、それが何になるのか。

 今までもずっと、引っ越す度に何もかも思い出にし続けてきた。


 僕は一体、いつまでこれを続けるんだろう。このバインダーを父の思うまま母に渡すことで、僕は大切な物を全て失ってしまう。


 この感覚はなんだ。

 初めての感覚だ。父の顔を思い出すと、心の奥が冷え込んでから、耐え難い程熱い何かが込み上げてきた。


 多分、憎しみだ。怒りではない。

 もう父に翻弄されてたまるか。

 ライトを点灯させたスマホを机の上に起き、もう自分から開く事がないと思っていたバインダーの表紙を開く。

 どうせ明日は授業のない土曜日だ。必ず、あの父が得をするような項目があったら全部訂正させてやる。


 しかし、酷い湿気のせいか、うまくバインダーの表紙が剥がれなかった。


「あれ……?」


 バインダーの表紙裏に紙がへばりついていた。

 見返しなんてこのビニール製のバインダーに付いているはずがないのに、どうして気づかなかったんだろう。

 その紙を丁寧に剥がしてみる。かなり重要なことでも書いてあるのか、周囲に装飾が印刷された厚紙だった。


 その内容に、目が釘付けになった。


「Are you sure you’re making the right decision? If yes, go on」


 あなたは本当に正しい判断をしているのか? イエスなら、進めなさい。


 それだけ大きく書いてある紙だった。いかにもアメリカらしい、粋な計らいともいえる一言だった。


 待てよ。僕は昨日、小吉に全く同じ質問をされた。

 これは、この紙に書いてある父と母に向けられた質問なのは分かっている。でも、利害者の一人として、自分にも問われている気がする。


 僕の答えは明白だ。

 良いはずがない。こんな状況ありえない。認めたくない。

 だからといってどうすれば良いのか。ただ拒否するだけでは何も進まない。


 もう一度父と話すのはどうだろうか。いや、駄目だ。父はすぐに逃げてしまう。これまで何度逃げられた事か。

 小吉にお願いしても難しい。きっと同じように逃げてしまう。

 母にだってそんな事は頼めないし、もう八方塞がりだ。そうだ、最後の最後、小吉と一緒に、知恵を絞ろう。

 携帯を取り出して、一番上に登録されている小吉の名前をタップする。

 電波がないのか、掛からなかった。


「繋がってよ!」


 何度でも繋がるまでかけてみようと思った矢先だった。

 地響きのような音が響いた。これは、何か大きな機械の音。

 多分、貨物エレベータの音だ。もう完全下校時刻は過ぎて、全てのドアは施錠されているはずだから誰も入っては来れないはず。


 一階の壊れた排煙窓から出入り出来る事を、僕と小吉以外にも知っている先生か生徒がいるのかもしれない。

 手押しカートのような独特のガラガラ音が響いた。

 人が来る。

 ここに来るのか、それとも別の目的なのかは分からない。恐くてたまらない。

 震える手で小吉を呼び続ける手から、スマートフォンが落ちてしまった。

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