3. In the gap of unclear relationship

 今、僕は狭間にいる。

 家族と居候の狭間、兄と他人の狭間。

 母と、他人の母の狭間。


 父と母の仲違いは、間違いなく小吉の件が関わっている。


 折角結婚したのに、すぐ海外を転々として家にも帰って来ず、しかも大事な息子を連れ回し、過酷な労働をさせた上に円形脱毛症まで患わせ、その挙句に留年させてしまった。

 母の父に対する怒りは並大抵のものではないだろう。


 だけど、小吉自身は父を恨んでなんていなかった。

 お陰で高校一年のくせに北米から欧州まで津々浦々回ることが出来たのは貴重な経験だったと、本人は喜んでいる。

 父とは僕より頻繁にスカイプ通話しているのも知っている。正直、小吉が相手にしてくれてて助かってる。


「ただいー!」

「なんだよその中途半端なただいまは」


 二人で家に入るなり、洗い桶に漬け置いてあった朝食の食器を洗いつつ、小吉に風呂のヌメリを点検させ、リビングのカーペットにたくさん落ちている毛をコロコロクリーナーで一網打尽にする。長かった頃の自分の毛ばかりひっつく。

 完全下校時刻まではまだ一時間ほどあったが、僕と小吉は帰宅を選んだ。

 正しくは僕が早く帰って、部屋の片付けを万端にし、母に褒めて貰いたかった。


 母には財産分与書類の存在は気付かれていないと思う。

 宅配便を受け取ったのは小吉だったし、海外からだったので僕に渡してくれたのは幸運だった。

 あのバインダーは予定通り学校の倉庫に置いてきてある。見つかってしまう恐れを極力防がなくてはならない。

 既に小吉が父に届いた旨報告しているので、父もわざわざ母に確認する事はないと思う。


「ふぅ……兄者、我がスポンジのごとき繊細な腰を押しておくれ」


 べしゃっと兄のベッドに寝転がりつつ、理不尽な要求をしてみるのはいつものことだ。今日も夕食を食べ過ぎて腹がパンパンだ。


「妹者、スポンジということは柔らかくほぐれてるということではないのか?」

「うーんビート板くらい固くなっているでござる」


 我ながら意味不明だ。そもそもなんでスポンジなんて表現使ったんだか。


「それでもわりかし柔らかくはござらぬか?」

「いいから我が腰押してくれなもし……ぐえぇぇ!」


 小吉の手のひらが背骨の付け根辺りにめり込む。元軟式テニス部なのに、非力な小吉の力加減はとても良い。


「兄者、尻の玉の横も頼む。フォォォ!」


 掌底は反則だ。鼻血が出そうになるくらい痛い。


「痛いって! ヌフォオオ!」


 降参の印に何度もベッドをタップしているのに。


「うるさいなぁ。満足したならベッド返せよ」

「まだもう片方が残っておろう! 布団敷くのめんどいんじゃ」


 僕の部屋はベッドが無いので、丸まったムアツの敷き布団を広げてシーツをかけなければならない。そんな面倒な事をしていられるか。


「ベッド買うって言ってなかったっけ?」

「いや、高校デビュー代わりにベッドは買おうとしていたのだ……ぐぬぅ! いつつ!」


 今日の重労働は大殿筋に堪えたらしい。

 兄とはいえ男に尻を揉ませるのはどうなんだろうという疑問はつきまとうが、自分でもはっきりと解せないんだから仕方ない。母にこんな疲れる事は頼みたくないし。

 うん、我ながら良い兄を持った。


 一応、ベッドは買う予定だった。

 もう目をつけてるベッドもあるけど、残念ながら今買うべきではないだろう。

 僕の荷物はこの二年でそこそこ増えたが、元々一年単位で引っ越しばかりを繰り返す家庭で育っているからか、自分の手で運べない大きさの物は持っていない。ベッドなんて夢のまた夢だ。


「小吉?」


 しまった。僕が黙ってしまったから小吉が気まずそうにしているではないか。


「ほれ、寝転がるがよいぞ兄者」


 素直に従ってくれたな。

 さぁ、腕によりをかけて報復してやろう。そして先程のベッドを買うだのいう話を忘れてしまえ。


「あんまり強くしないでよ……ぐえええ!」


 元デブの腕力をとくと味わうが良い。我が大殿筋に掌底を叩き込んだ罪は重いのだ。


 結局馬鹿兄妹によるマッサージ対決は、リビングで海外ドラマを見ていた母に一喝されるまで続いた。

 僕も母と一緒にドラマを見たいんだけど、母は吹き替え派だ。僕は字幕派というか、英語であれば字幕ですら無い方がいい厄介な手合だ。吹き替えを見るのはちょっと辛い。


 母は頭が良いと素直に思う。僕達を黙らせるために、二つに分割出来るビニールパックに入ったアイスを持参して怒鳴りに来たのだ。僕が一番好きなアイスだ。

 兄妹でアイスを分け合うなんて、なんて素晴らしい経験なんだろう。これもあと少しか。


「んへへぇ」

「また変な笑い方」


 仕方ないんだよ小吉さんよ。


「まだ兄妹なんだね。へへ」


 小吉が少し暗い顔になった。


「ああ……うん」


 小吉の暗い顔はなんというか、見ていて嬉しくなってしまう。小吉も、この時間を惜しんでくれている事が分かるからだ。

 僕と一緒に同じ狭間にたたずんで、途方に暮れている。


 こういう考え方を「良かった探し」というのは分かっている。でも、こうして不幸中の幸いを探し続けないと、自分が保てなくなってしまう気がする。

 ずっとというのは願い過ぎだけど、最低でも高校卒業くらいまでは、こんな風にしていたかったのに。


「今日ここに寝ていい?」

「そんなに腰辛いの?」


 ベッドで寝たいという意味ではなくて、部屋にお泊りしたいって意味なんだけど。

 本当に腰が辛くてベッドで寝たかったら母の部屋で寝るし。腕枕してもらうし。あ、その方が良いも。

 いや、今日は小吉に甘える日だ。今そう決めた。


「ここにムアツ持ってくるってこと」

「え? お泊り会は週末にしてくれよ。ずっと話しかけてくるんだから」


 それは自覚がある。

 なんだか興奮してしまって眠れなくなってしまうんだから仕方ない。


「今日こそ我慢する」

「絶対無理でしょ」


 ここまで信用がないとは。ある訳無いか。

 でも、なんだか腹に据えかねる。

 アイスを吸い尽くしてから、投げ出されている小吉の足の裏をぐいっと押す。今日こそ一本取ってやる。


「その程度か。修行が足らぬよ」


 小吉め。相変わらず足ツボマッサージには強い。

 しかし、握力で攻撃するのは邪道だ。あくまでツボを探してみるが、無駄だった。


「手!」

「ほぉう」


 小吉が素直に差し出す。馬鹿め。


「あいたた! やりすぎ! やりすぎだって! 痛いよ! こんのぉ!」


 しまった、小吉に足を取られた。


「あ、それずるい! ぐえええ! ひいい!」


 空いてる手で足ツボに攻撃とは兄者、卑怯なり。


 なんだかなぁ。高校生にもなって肩を怒らせながら部屋へと突入してきた母の拳骨を食らう事になるとは。


 安易にこんな言葉を使いたくはないんだけど、幸せってこういう事だ。普通の事の積み重ね。


 この暮らしはもうすぐ終わってしまう。だから今まで浪費してきた毎日を大切にしないといけないんだ。

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