4. Lack of blood relationship... means what?

 どこで暮らしていた時の記憶だろうか。恐らく、国力世界一を自称する西の大きな国に移住した時の記憶が蘇ってきた。一番戻りたくない頃の記憶。


 前が突き出た黄色いスクールバスを降りる時は、警備担当の先生に玄関に入るまで見ていてもらう。

 家の中に異常を感じないか確認したら先生に挨拶をして、玄関の鍵を締める。


 すぐにテレビを点けて、音声は少し大きめに。

 外の明るさは常に意識して、暗くなってきたら一階の部屋の灯りは全部点灯し、二階の明かりは二部屋だけ点ける。


 リビングにはお菓子が入ったカゴ、分厚い毛布、そして百以上チャンネルがあるテレビがあるだけ。ダイニングキッチンにはテーブルと椅子が二脚、備え付けの巨大な冷蔵庫、これまた備え付けだが、ベーコンがカリカリに仕上がるパワフルな電子レンジだけ。

 後は各部屋に備え付けのベッド。それで家具はほぼ全てだ。

 転居を繰り返す事を前提としていたので、とにかく物は少なかった。


 本当は、テレビなんて見ていられたものではなかったのだけど。

 アメリカのアニメは何故か毎日一話完結のエピソードをランダムに流し続けるという、日本では有り得ない放送の仕方をする。

 日本の続き物アニメを放送する時も一緒だ。同じエピソードを一週間か二週間流し続けて、次のエピソードをなかなか放送してくれない。


 でも、テレビを見る以外に時間を潰せる選択肢なんて無かった。ゲーム機すら持っていなかったし。

 友達の家は車が無いと行けやしないから、約束がなければテレビを見ながらお菓子を食べる事しか出来なかった。

 お菓子のカゴの中身は、父が無言で補充していく日本メーカーのポテトチップスとチョコレートスナックだけ。他は何を食べても甘くて薬臭くて食べられなかった。

 僕はそんなグルメなつもりではなかったんだけど、日本メーカーのお菓子が買えて良かった。いや、良くなかったか。

 ただただ面白くもないテレビを眺めながらお菓子を食べていたもんだから、パンパンに太ってしまったんだ。


 住んでいた場所も良くなかった。

 一見平和できれいな街だったけれど、父は絶対一人で外へ出るなと僕に言い含めていたし、どんなに歩いてもコンビニ一つ無いのは分かっていたので、出歩くつもりも無かった。

 父が帰ってくるまで、ぼうっとしているだけ。宿題があったらやるだけ。

 父が決められた時間に帰って来なかったら、電子レンジに冷凍食品をセットするか、食材がある時は自分でなんとか料理して食べた。

 あの頃の生活には戻りたくない。心の底からそう思う。

 だけど、戻る事になりそうな予感がする。


「えくしっ! うぇぃ」


 くしゃみで我に返った。

 そっか、体育館の秘密の部屋にいたんだっけ。

 最近、こんな事が増えた。起きているつもりが、頭の中で色々な考えが過ぎったと思うと、意識がどこかへ吹っ飛んでしまう。

 目の前の物を処理しなくてはならないのに。


 第二章は「Portfolio」、金融資産の事らしい。株とか債権とか、そんなものだそうだ。

 正直、全く理解出来ない。

 そもそも株の他に債権というものがある事自体初めて知った。何度も読めば少しは分かるだろうと思ったけど、脳に疲労感を覚えてしまうばかりで、何も分からなかった。


 母がサインしなくてはならない紙の枚数は、数えるだけ無駄だった。

 バインダーの最後だけでなく、バインダーの中盤に突然サイン項目が出てくる事もあるので、一枚一枚読み進めなくてはならなくて、どんどん付箋紙まみれになっていく。


 サインだけでなく、『私はこの内容に同意し、異議を申し立てない』という宣誓めいた文章を手書きで写さなければならない欄まであった。


 小見出しその1の「Stock」を読み進める。要するに株式だ。均等分割する方法が書かれているが、なんだか本当に訳が分からない。

 この辺は株式購入時に利用した銀行やら証券会社にも何らかの手続きをしなくてはならないらしい。


 現金の財産分与の合計額は思った以上に小さかった。

 たったの二年分だからというのは分かる。

 でも、その半分は小吉を世界中でこき使い、僕の大事な母に心労をかけた時間だ。

 それに見合うとは到底思えなかった。


 そもそも結婚だって突然だった。正直、『結婚』なのか、『再婚』なのかすら僕は知らない。物理的な母について、父は一度として話してくれたことがない。

 突然日本に帰国して、僕にホテル暮らしを強いたと思ったら、同窓会で昔好きだった幼馴染みにときめいちゃったとかデートしてくれるよどうしようとか言いながら、まるで高校生男子みたいに目を輝かせていた。


 こんな駄目父に情をかけてくれる聖母がどんな相手かと思ったら、信じられないくらい綺麗な人で。その息子も美形というか、女子めいた子で。


 あれよあれよと結婚決めたと思ったらあれよあれよと離婚宣言だと。一時の仲違いだけかと思ったらこんな書類送りつけてきやがって。


「ふわぁ」


 大きなあくびが出た。我が父の事ながら情けない。


「寝てないの?」


 良かった、横に小吉がいてくれた。しかもコーヒー牛乳持参とは。

 本当に、僕には過ぎた兄だ。


「うー……うん」


 確かに、突然夜中に目が覚めてしまう事が増えた。寝不足ではないつもりなんだけど、何をしている時でも、ふと妄想の中に入り込んでは現実に戻ってくる事を繰り返して、酷い疲労感と眠気を覚える。

 これが全く解消できないのは困りものだ。


「そういえば小吉、部活は?」

「辞めたよ。ダブりで部活するのはちょっとね。友達に生徒会所属にしてもらったんだ。所属先は一緒だね」


 一緒というのはちょっと嬉しい。

 僕も担任の先生の計らいで生徒会所属扱いだからだ。この高校の部活なり何なりの団体に所属しないといけないという本当に余分なルールがある。

 僕については生徒会に少しだけ事情を話して容赦してもらっている。

 これに型がついたら、残りの学校生活は生徒会での滅私奉公で終わるだろう。

 でも、それで良い。短い期間でもこの倉庫の無断拝借のお返しをしなくては。


「Stock」の項目は分からないから適当に飛ばした先で、心臓が止まりそうになった。


 二つ目の小見出しは「Debt」、僕にも分かる。債務の項目だ。

 急いで読み進めるが、母の住宅ローン以外特に無いらしい。今僕が住んでいる、いや、住まわせてもらっているきれいな戸建ての住宅ローンは、残り年数全てを父がカバーすると書かれていた。

 これによって色々と税金がかかるようだが、父はこれについて同意するとしたサイン付き書類のコピーが添付されている。

 あんな親父でも、人の心を失っていなかったようだ。


「はぁ……良かった」


 思わず口をついてでてしまった。


「どうしたの?」

「あ、ああ、なんでもない」


 英語の教科書を読み込んでいる兄の顔を見る。少なくとも、兄の今後の人生に土地付き一戸建ては残りそうだ。

 父が払えなくなったら僕が引き継ぐ。何をしてでも払い続けてやる。


「何? また女子っぽいとか言いたいんだろ?」


 思わず小吉の顔を見つめてしまっていた。


「言わないよ。兄者はちゃんと男子してるから自信持ってよ。それより、こんな所いるのつまんなくない?」


 思わずしてしまったけど、これは随分酷い質問だ。

 小吉が、僕に対して良くない答えを返す事なんて無いのは分かっている。

 僕はこういう質問をして、自分にとって良い返事を貰って悦に入る卑怯な人間だ。


「つまんないよ」

「え?」


 ああ、小吉を見くびっていた。でも、それは僕に嘘を吐かないでいてくれているという意味でもある。ただ、その言葉を浴びせられるのは結構辛い。


「だからそれ閉じて。せっかく小遣いいっぱいあるんだから外出るよ」


 思ってもみない答えが返ってきた。

 言いながら小吉がバインダーを閉じてしまった。しおりも挟んでいないのに。まあ良いか。


「キョロ子起動!ぬぅん!」


 両脇に手を差し込まれてぐいっと持ち上げられる。小吉の必死な顔が面白い。

 小吉の首に腕を回して助け起こしてもらう。

 可愛い顔を裏切らない非力さ。それでこそ我が兄だ。


「どこ行くの?」

「高いハンバーガー屋!」

「まじでか!」


 ああ、過分だ。また過分な幸福だ。

 二人でオシャレなハンバーガー屋に行くなんて。こんな幸福を享受する事に慣れてはいけないのに。

 でも、そこらの平均的女子に過ぎない僕はその誘惑に勝てない。


「アボっていいの!?」

「ああ、アボればいいさ! アボカドバーガーアボカド追加肉抜きとか女子力高い事すればいいさ!」

「いや抜かない! 肉重要!」

「なら肉もプラスせい! 俺はする!」

「さすが顔以外男らしいぜ兄者!」

「だろう! いや待てコラ!」


 本当に、馬鹿な兄妹の会話だ。

 階段室の出入口に人がいない事を確認してから、急いで体育館の外へ出る。


 グラウンドにいた生徒会の女子メンバーと目が合うと、小さく手を振られた。


 こちらも小さく手を振り返す。僕達がしている事を見逃してくれているのかもしれない。そこまでお堅い集団ではないみたいだ。

 今も小吉の腕にまとわりついているけど、それについても特に何も言われなかった。

 兄妹のスキンシップはセーフだからかな。


 早めに歩く小吉に縋ったまま、あたふたしながら付いて行くと、ちょうどバスが到着するところだった。

 小吉に促されて二人がけの席に座る。

 なるほど、これは計画的な犯行だ。ちょっと鼓動が早くなってしまう。


「出来るな兄者。釣り餌にアボカド、おなごを待たせぬ時間配分、さり気なく窓際の席へ誘導とは。これでオチぬ女子高生などおらぬぞ」


 茶化していないと、なんだかおかしな気分にさせられてしまう。


「ははは。三年目の兄者は伊達ではないぞ妹者」


 僕が知っている限り、小吉は彼女なんて作ったことがなかった。口を開けば彼氏だの彼女だのの話ばかりの高校生なのに、色っぽい話を聴いたことは一度としてない。


「ねえ、毎日妹の面倒ばっかり見てくれるのは嬉しいんだけどさ、彼女とか作らないの?」


 ここまで完璧にエスコートされたら、そんな質問もしたくなってしまう。


「ん? さすがの兄者も人体錬成には通じておらぬからな」


 お馬鹿会話スイッチがまだオフになっていなかったか。


「それなら、欲しくないの?」

「喉から百万本手が出る程欲しい」


 百万本か。しかし、人間の咽喉はそんなに大きくない。


「百万本も喉から出したら一本辺りが細すぎて人なんか掴めないよ?」


 小吉が深く納得したという顔で思案する。


「そうか。では一本にしておこう」

「いや、その遊んでる両手で掴めよ」

「いきなり掴んだら通報されるであろう」

「それもそうか……いや、喉から出た手で掴まれたら警察で処理出来ないし! 陰陽師的なの呼ぶしかないし!」

「ふん、返り討ちにしてくれるわ!」


 何だこの会話。

 当事者は楽しくてたまらないけど、周りの生徒達に笑われるのは恥ずかしい。


 小吉に腕を掴まれて通報する女子は少ないだろうに。

 女顔な小吉だが、一見して女に完全に間違われるという程ではないから自信を持って欲しいところだ。

 一応、性癖が特殊方面なのではないかと心配になって、小吉のパソコンの中身はチェックしたが、保存されている画像も動画もちゃんと男女が絡んでいた。もちろん大変興味深かったのでたっぷり見させてもらった。

 となると、原因はやはり僕というコブが付いているからだろう。とはいえ、あと少しでそのコブは取り払われるから安心して欲しいところだ。


「キョロ子、あれ覚えてる?」

「あ、学童!」


 バスの窓から見えていたのは、僕と小吉の第二の家。

 小学校の隅っこに建てられた学童保育所だ。小吉と初めて出会ったのはここらしい。母とも顔を合わせているかもしれない。


「キョロ子の事はなんとなくしか覚えてないんだよな。引っ越しちゃったのは覚えてるんだけど」


 残念ながら小吉の事は全く記憶に無い。

 同級生の学童仲間はお互いを覚えていたんだけど。

 ここにいたのは小学校一年生から二年になる寸前まで。その後、すぐ県外へ引っ越してしまった。


 物心ついての初めての引っ越しだった。

 それから二度三度と各地を転々とする内に、色々な事に未練を残さない人間になってしまったのかもしれない。

 いや、未練ならあるけど、ありすぎたお陰で、気持にあまり波を立てなくなってしまったというのが正しいかな。


 小学校一年生の終業式直前、突然父が引っ越すと言った時の衝撃は未だに覚えている。

 そして先日、あんな大理石柄のバインダーを送りつけられた事は、その倍以上の衝撃を受けたはずなのに、どこか気持は冷めている。


「また引っ越しかぁ」

「え……?」


 口をついて出てしまった言葉に、小吉がぎょっとしたような目で僕を見ていた。


「小吉?」

「あ、いや、そうだったと思って。なんていうか、完全に忘れてたかも」


 忘れていたんだとしたら、それはそれで嬉しい。

 特に何かがある訳でも無いのに、こうしてデートめいた事をしてくれるんだから。未練が増えてしまうのはあまり良くないけど。


「んふふ。二年間ありがとね」

「まだそうと決まってないだろ」


 少し怒気を孕んだ小吉の小さな声に、体が強張ってしまった。 

 体が強張っているのは小吉も一緒だった。何気なく、ぐっと握りこまれて震える小吉の拳に手を重ねると、上を向いた小吉の手に、そのまま握られてしまった。同じ学校の生徒で満たされたバスの中で、これは相当恥ずかしいんだけど。


 指を一本一本挟み合うこの握り方は特別な相手とする手の握り方だと思う。

 妹歴三年目のルーキー紛いにこんなことをするのはもったい無いというか、禁断というか、周囲にあらぬ誤解を産んでしまう気が。それはこの学校に残る小吉にあまりメリットがないような気がするのだけど。


「あ……」


 忘れていた。意識の外だった。

 元々小吉と僕は他人だった。

 いわゆる家族という関係性を証拠付ける血縁というものがない。だから、物理的な意味では特別な関係になれてしまうんだった。


「ほら、降りるよ」


 小吉に手を引っ張られる。例の握り方のままで。


「あ、いや、これは」


 まずいって。これは誰がどう見ても、要するに、この行為は、その、校則違反に該当することだ。

 もしくは近親なんとかではないのだろうか。

 いや、それは血縁者に対して適用される言葉であってだ、これは、これは、これは一体、どんな状態と解釈すれば良いのだろう。

 誰か。教えてよ。

 冷房がきつい車内で小吉の手が暖かくて、脳の回路が焼き切れてしまいそうだ。

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