2. I know. I'm doting too much on my brother

 十一歳から十四歳の間だけ、僕は太平洋の向こうにある国力世界一を宣う国で生活していた。


 あまり心の強くない父が、何の歯車が狂ったのか、アメリカとヨーロッパで貿易商を始めると宣言し、本当に実行してしまった。

 貿易の仕事にずっと憧れて、英語だのスペイン語だのを習っていたらしい。夢に向かって真っ直ぐなところは少し格好いいけど、同時に少し馬鹿なのかと疑った。


 やたら転勤の多い過去の仕事から脱却したいと常日頃から言っていたのは良いのだが、今度はアメリカかと、幼いながらに呆れてしまったものだ。

 そして突然帰国して生まれ故郷に骨を埋めると宣言したかと思うと、結婚、いや、再婚なのかもしれないが、そんなとてつもない大事まで決めてしまっていた。

 でも、その決断には今も感謝している。僕に母と兄を与えてくれた。たったの二年だけでも、その点については感謝したい。


 特に、母には感謝してもし足りない。

 だから母のためにも、このアメリカの銀行の財産分与についての書類なんて高度な内容を、少しでも分かるようにまとめるのは僕がやるべきことだ。

 僕と父以外英語は一切出来ない。つまり、母を助けられるのは自分だけだ。母のために頑張らなければ。

 物理的な母親については顔すら知らないから、今の母こそ僕にとっての実の母親で、その考えを譲る気はない。

 ただ、いずれその関係も忘れなくてはならない。

 だからこそ、この糞みたいな書類に書いてある意味をまとめるくらいの貢献をしてから出て行きたい。そうでもしなければ、二年余り母でいてくれた人に顔向け出来ない。


 今日だっていつもと変わらず、仕事の合間を縫って夕食の献立をメールしてくれていた。

 早く食べに帰りたい。いや、早く母の顔が見たい。


 こんな状況にあっても、母の料理は美味しくて沢山食べてしまう。

 アメリカ帰りでぱんぱかりんに太っていた僕が、母と兄と暮らすようになって、毎日たくさん喰い散らかしていたというのに、すぐに適正体重に戻る事が出来て、再会した幼馴染達につけられた腹周りパッツンパッツンのパツ子というあだ名を一年余りで返上し、元のキョロ子に戻れたのは全て母のおかげだ。


 最低限の女子の嗜みしか分からなかった僕に、女子が知らなくてはならないあらゆる事柄を教えてくれたのも母だった。

 そう、今の楽しい生活は、全部母がもたらしてくれたといっても過言ではない。

 うん、お母さんが大好きだ。


 だからこそ、こんな反吐が出るような書類を母には絶対に見せたくない。母の目に触れさせるのは一瞬だけ、必要事項を記入をする時だけにしたい。だから見つからないように、この部屋で全て作業する。

 発つ鳥後を濁さず。我ながら完璧な計画ではないか。

 発ちたくないという本音はこの際置いておいて。


 ぶいんと携帯が震えた。

 画面に表示されている「小吉しょうきち」という名前は、僕の一歳年上の兄のあだ名だ。母親がいない事と同様、僕には今まで兄などいなかったので、小吉こそ兄第一号であり、僕の中では実の兄という事になっている。居場所を告げると、携帯はすぐに切れた。

 金属製の小さなドアが開き、小吉が四つん這いになって入ってきた。


兄者あにじゃ、我が秘密基地はどうよ?」

「流石は我が妹者いもうとじゃ


 相変わらず女声に女顔の兄者こと小吉だ。女子人気もまあまあの自慢の兄だ。

 友人の一人が学園祭で小吉先輩に女装させたいとか言っていた事にも、遺憾ながら同意する。


 小吉というあだ名は別に小さいからではない。一応男子の平均身長程度はあると思う。

 小学生の頃に達成した四年連続で小吉を引くという偉業からついたんだそうだ。


「うわ、英語しかない」


 僕と違って小吉は英語が苦手だ。この高校は普通科でも結構レベルが高いはずなのに。

 英語と言うか、英会話以外の勉強がまるで駄目な僕は国際科という胡散臭い科に紛れ込む事が出来たので、こうして兄と同じ高校にいられる。


 横に座り込んだ小吉の手が、僕のうなじを撫でる。刈り上がった部分の手触りをチェックしているらしい。どうして手を動かす度に笑いを噛み殺すのか。


「うむ。今日もなかなかの手触り」

「であろう?」


 褒められた事が照れくさくて武士語になってしまう。


 数日前、結構長くしていた髪を刈り上げレベルまで切ってしまった。上から後ろ髪がかぶさっているのであまり見えないが、うなじは見事な刈り上げ状態だ。

 でも、そのヘアスタイルを褒めてくれたのは小吉だけだった。

 母は僕の大きく変わったヘアスタイルを見て泣き崩れてしまった。母にごめんと叫ばれたのは誤算だった。親の決断に流されているだけの僕なんかより、愛した相手と別れる母こそ一番傷ついている事に、その時やっと気付いたのだ。


 でも、僕には僕で気分を変える必要があった。もうあと何ヶ月もすれば、この母の子ではなくなってしまう。それが嫌でたまらなかった。

 髪が長かった時、二日に一度は母が色々とケアしてくれていた。仕事帰りで疲れているのに、たくさん時間を掛けさせて申し訳ないと思っていた。

 まさか僕の髪の毛を梳かすことが母の楽しみだったなんて、全く気付いてもいなかった。

 そんな事に時間を使うよりも、母にベタベタ甘えたかったという本音を告げると、思いっきり僕を抱きしめてくれたけど、母の涙は止まらなかった。母を傷つけてしまった。


「妹者、中学時代の俺みたいな刈り上げにしたいなんて床屋のオヤジに頼んだんでしょ? 兄者は複雑な気分なんだけど」

「いやぁ、求めてる短さの度合いを知って欲しくてだね」


 この髪は、毎回お願いしている美容師さんは絶対に切ってくれないと思ったから、小吉が通う床屋で髪を切ってもらった。

 二年前の小吉の見事な刈り上げ頭が印象的だったので、そうしてくれとお願いしたまでだ。あんなにクラシックな理容室ではどう髪型を注文して良いか、検討もつかなかったし。


 でも、僕は床屋のオヤジの底力を甘く見ていた。

 結局僕の願いは刈り上げという部分だけ叶えられ、まるで青山の美容院でカットされたようなツーブロックのベリーショートにされてしまった。青山の美容院なんて行った事無いけど。


「母者、この髪型嫌いかな?」


 少し不安になった。


「嫌いだったら毎朝なんていうんだっけ? ヘアアイロン? 当ててくれないだろ。いつまでも洗面台占領して。多分髪の毛長かった時より楽しんでるよ母者は」


「そうであったか! うえへへ」


 顔がほころんでしまう。ちなみに、「何々者」という呼び方は兄妹間でブームになっているだけで、普段からそう呼び合ってる訳ではない。


「あ、そうそう! 顔剃りしてもらったから今ほっぺたトゥルットゥルだよ! トゥルットゥル!」


 小吉の手がうなじから頬へと移る。


「ほう、これはなかなか」

「であろう?」


 褒められて気分が良い。というか、小吉の少しざらついた手に触れられるだけで気分がやたらと良くなる。せっかく家族になった僕達の関係をぶち壊す書類を前にしているのに、無駄な元気が出てしまう。


 横に座る小吉に体重を預け、書類を少しずつ読み進めていく。こんなに仲良くしている兄妹も珍しいと、友人に褒められた事があるので、こうしているだけでも優越感を覚えてしまう。


「こんなの読めるのすごいな」

「ふふ、妹者のスペックの高さを誇るがよいわ」


 とはいえ、分からない単語は電子辞書を使おうが、ネット辞書を使おうが全く理解出来ないと悟ったので、記入欄に何を書けば良いのかを探ることくらいしか出来ないんだが。


 今の所、住所氏名年齢を書く欄がある事だけしか分からない。アメリカのソーシャルセキュリティナンバーなんて母は持ってないから空欄で良いだろう。


 母にとって不利な条項があるかは心配にはなるが、あの気が小さい父がそんな非道な事はしないとは思う。

 いや、英語の書類をどかんと送りつけている時点でかなり非道か。ちょっと父が許せなくなってきた。


 気分がくさくさした時は、少し首の角度を変えて、小吉の顔を見るれば解決する。相変わらず可愛い。一つ年上に対して失礼極まりないけど。


「こめかみ、目立たなくなったね」

「ああ、十円ハゲ? うん」


 小吉はこの短期結婚・離婚騒動の一番の被害者だ。

 母が再婚し、突然湧いて出た妹に一生懸命気を遣って接してくれた。当時受験生だったのにだ。

 受験まではうまく切り抜けたものの、僕の父親に振り回され、か細い神経を病ませてしまった。僕の父が普通の人間だったらこんな事にはならなかったのに。


「ごめん、馬鹿父のせいで」

「僕の父でもあるよ」


 そうだった。忘れていた。

 でも父だからといって、息子を自由にして良いなんて道理はない。


「大変だったけど、また海外には行きたいとは思うよ」


 駄目父へのフォローなんていらないのに。

 役立たずだった娘の僕を日本に放置して、父は結婚してから半年余り、小吉をあらゆる国へと連れ回した。しかも学校には体験学習だのなんだのと言って、公休にさせてしまう徹底ぶりにはため息が出た。

 男親にとっては息子の方が可愛いのかな。


 まぁ、僕は確かに可愛げという要素を一切持っていない自信があるから仕方ない。

 そして、小吉は度重なる重労働付きの海外行脚の後に倒れ、出席日数に加えて単位不足で、僕と同じ学年になってしまった。

 でも、今となってはかなわぬ夢だけど、その時は小吉と一緒に卒業出来るのは嬉しいと思ってしまった。

 だけど、こんな気持ちになっている自分が嫌いだ。自己中心的な父の血が自分に流れている事を思い知ってしまう。


「……海外行かないでって、僕がお願いしたらどうする?」

「僕?」


 まずい。脳内人格が表層に現れてしまった。


「僕なんて言ってないよ? どうなの?」


 恥ずかしい。流して欲しい。


「頼まれなくても行かないよ。さすがにキョロ子と一緒に卒業したいよ」


 至近距離で顔を見ていると、小吉がまずったという顔をしたのが分かったけど、気付かないふりをしよう。


「へへ、一緒に卒業か」


 なんて素敵な響きだ。同じ事を考えていてくれたなんて。

 分かっている。僕はもうすぐこの学校にいられなくなる。でも、そうならない未来を想像することくらいは自由だ。


「ふん。笑うがいいよ」


 軽く頭突きを食らわされる。留年した事を馬鹿にしてなんていないのに。一緒という言葉が嬉しいんだ。


 どうしてだろう。心臓が痛むほど多くの血を循環させようともがき始めた。

 思考回路は言わずもがな、自分でコントロール出来ない内臓すら喜びに震えている。困ったもんだ。

 これがあれか、ブラザーコンプレックスというやつか。

 勿論この財産分与書類を前にして、同じ高校のまま、同じ卒業式に参加するのは絶望的なのだけど、今はこの気分に浸っていたい。


「んっふふー」

「キョロ子っていつも変な笑い方するよな」

「んふふ、そうかな?」


 それは自覚しているけど、やめられないんだ。

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