狭間にたたずむ僕達は
アイオイ アクト
1. Division of Property
狭くてカビ臭い。
でも、落ち着く空間が出来上がった。
きっと今、僕の目は大きく見開かれていることだろう。誰かが見ていたら、今にも
キョロ子という
変なあだ名だけど、眼が大きいことを褒められて嬉しくない女子は少ないと思う。
最近は極端なイメチェンによってカリアゲ子と呼ばれる事もあるけど、それは語呂が悪いのでやめていただきたいところだ。大体からして髪の毛をめくり上げなければ刈り上げ部分は見えないのだし。
この空間を掃除するために買った百均のゴム手袋を外して放り投げ、汚れ防止に着ていたジャージの上下を脱ぎ捨て、体育着姿になる。
五分丈くらいあるハーフパンツに分厚い綿シャツは恐ろしくダサい。
昨今は防犯上の理由でゼッケンの縫い付けすらされていないただの白シャツというのがせめてもの救いか。
「さて、始めますか」
独りぼそっと呟く。
愛用している男物の無骨なバックパックから、分厚いバインダーを引っ張り出す。海外の弁護士事務所と銀行らしき名称が箔押しされた、大理石柄のビニールが張られたバインダー。
それは父から母への氷塊の如く冷たく、死刑宣告の如く陰惨なラブレターだ。
一番最初のタイトルページからしてげんなりする。
「でびじょん・おぶ・ぷろぱち~!」
とりあえず、気分が沈まないように書いてあるタイトルを必殺技風に叫んでみたが、無駄だった。
『Division of Property』、要するに、離婚時における財産分与の手続書類だ。
僕が通う田舎にあるまじき莫大な生徒数を誇る県立高校は、一人になれる空間というものに乏しい。どこにいても人だらけで、うっかり暗がりに入り込めば、お楽しみ中のカップルが脱兎の如く逃げていくなんて事もしばしばある。
そんな中、確保できる時間を注ぎ込み、ありとあらゆる場所を探し回ってやっと見つけ出したのが、今僕がいる空間だった。
重層構造の大きな体育館は謎に満ちた空間を沢山含んで建っているんだという、僕の妄想は間違っていなかった。
普段殆どの生徒が立ち入らないというか、見たことすら無いだろう貨物用エレベータがある廊下の更に奥。まるで打ち捨てられたかのような空間がぽっかりと空いていた。
そこはコンクリートで囲まれた非常階段室という空間で、かの有名な緑に光るピクトさんすらその輝きを失っている程に忘れ去られていた空間だった。階段の蛍光灯は辛うじて点灯するが。
その階段の三階と四階の踊り場に、人の背の半分程度しかない金属製の扉を見つけたのは先週の事だった。
その中は完全に忘れ去られた、四帖くらいの倉庫だった。
もちろん階段の真下なので、天井はその角度のままになっている。
少々低めな僕の背でも、部屋の中央より先では頭をぶつけてしまう。
中はボロいパイプ椅子や机、それに風化しそうなくらい古い非常持ち出し袋が何十個も重ねられていた。
非常持ち出し袋は中にあった銀色の防災頭巾数枚を残して捨ててやった。
乾パンの缶に書かれた賞味期限は十年も前。女子高生の特徴の一つである常時空腹状態は僕も例外ではないのだが、その女子高生の僕を持ってしても、開けてみる勇気は起きなかった。
毎日完全下校時刻まで待っては怪しまれないように、少しずつゴミ捨て場へと運び続け、それが今日ようやくひと段落し、体育館の掃除用具を拝借してある程度の掃除も終えた。床のタイルは結構剥がれてしまったけれど。
廊下に運び出しただけのパイプ椅子の処置はその内考えよう。
防災頭巾を座布団代わりに、持ち込んだコンクリートブロックを二つずつ重ねた物を四つ配置、その上から脚部を失ったこたつの天板らしき板を置く。
「完成……!」
自分でもよく分からないポーズを取ってから、内側に引く事で開く小窓を開けると、ねっとりとした六月の風が流れ込んできた。でも、十分涼しい。
かなり古めかしいが、コンセントもある。
試しに携帯の充電器を挿して見ると、しっかり充電された。携帯電話の充電は教職員の許可が必要だから通電確認しか出来ないけど。
日が短い冬場でも、電気スタンドさえあればなんとかなりそうだ。寒くて無理かもしれないけど。それ以前に、冬までこの高校にいられるかも分からないんだけど。
まあ、気を取り直して本題に入ろう。
大理石模様のバインダーを開いた。
「Chapter 1 CASH」、要するに現金についてを読み進める。夫婦生活中に稼いだ現金についての分割。均等分割するらしい。分かりやすくて助かる。
「うん、早かったねぇ」
『独りごちる』という表現はこういう事を言うんだろう。
父と母の結婚生活は、たった二年強で幕を閉じようとしていた。
「今度はどこへ連れて行かれるんだろうなぁ」
独り言ばかり口をついて出る。
気弱なくせに放浪癖のある父の気まぐれは太平洋を越えることも
僕は日本で暮らしたいんだけど。
どうでも良い事だが、一人称を「僕」としているのは、僕の脳内人格に性別の設定が無いからだ。
他人と話す時は普通に女子としての一人称を使う。
自分でも変なところにこだわっていると思う。でも、僕にとって頭の中は大切な逃避先だから、このこだわりを捨てるつもりはない。
考えを脇道に逸らせながら最初のページを開こうとしたところで、いきなりつまづいた。
今時どんな印刷をしているんだこれは。
紙同士がインクでベッタリくっついていた。しかも、酷く石油臭い。慎重に剥がしながら読み始めねば。
案の定、レターサイズの紙に二列レイアウトでびっしりと英語が書かれていた。
読めるには読めるが、難しい単語だらけで意味が分からない。
でも、英語がある程度とはいえ出来るのは父を除いて自分だけだから、母のためにもなんとしても読み進めて、最後の方に添付されている色々な書類に何をどう記入すべきかを解き明かさねば。
本当に、短い夢だった。
僕の父が突然結婚すると宣言したのは二年前。僕が中学二年生だった頃。そして離婚するとこぼしたのは高校一年になったばかりの時。つまり先々月の入学式直後。しかもスカイプ通話で。
そして僕は母とその息子、すなわち義理の母と義理の兄が住む家に、居候として取り残された。まだ離婚は成立していないから、辛うじて家族なんだけど。
美術品だの雑貨だのの買い付けの仕事をしている父とは、もう半年くらい顔を合わせていない。
連絡をよこす時間帯を考えれば、十三時間から十四時間差のアメリカの東海岸側にいそうだ。うん、時差にも詳しくなってしまった。
何度も眠い目をこすって交渉した。
でも、僕の願いを父が聞き入れる事は無かった。父は自分が悪いと繰り返して逃げてしまう。
僕はただ、父の決断を言われるがままに受け入れるしかない。
そう、僕はただの子供でしかないから、親に歯向かう事なんて出来ないんだ。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます