第6話 幸福な復讐

        1

 幾重もの直線的な水路に囲まれた、オランダ海運貿易の拠点、アムステルダム。

 クローフェニールスブルグワル運河を寸断して聳える、計量所の近くで、イルジナは独り、立っていた。

 文之進と別れて、早三日が経った。

 騎士たちの追跡はなく、敵意ある傭兵の影も失せた(ヤズとペーニャの保証付き)事実から、イルジナは文之進の生存を信じ、何度もヤズとペーニャに捜索を願い出た。

 しかし、

『こっそり、夜中に引き返してみたんだけどさー。血痕と武器以外は、発見できなかったよーん。待ち合わせ場所に来ないってんなら、連れ去り、拷問、生首一丁の三段行程は、確定かなー。あっはっは』

 ヤズの報告は、芳しくなく、

『船の乗り賃が減って、ええやないの。文之進が、くたばった以上、ウチは大手を振って帰国できるやさかい、大助かりやで。元々、納爾登の教会にルベ神父の密書を届けたら、さいならするつもりやったけど』

 ペーニャに至っては、非常に清々しい笑顔で、故郷に戻る喜びを語った。

「ふざけんじゃないわよ。アタシは、まだ、文之進について、何も知らないのよ! 悲しもうにも、馬鹿にされた思い出しかないわ」

 煉瓦の壁に凭れながら、イルジナは割り切れない気持ちを吐露する。

 文之進が死んだとすれば、間違いなく、イルジナのせいだ。出会って間もないイルジナのために、文之進は命を落とした結果となる。

 認められない。認めたくなかった。

 文之進が死んだなどとは、断じて。

 別れ際の文之進の背に、悲壮な決意は漂っていなかった。ホンザが見せた、今生の最期に纏う哀愁ではなく、底知れない頼もしさが、文之進の後ろ姿から感じ取れた。知り合って日が浅いイルジナですら、言葉を介さず納得させるほどに。

 だから、早計すべきではない。

 文之進は、きっと現れる。心配しているイルジナを貶しに。不安に陥っているイルジナを、笑い物にするために。

 イルジナは、か細い期待を信じ、待ち続けたものの、日が重なるに連れ、希望は絶望の色を帯び始めた。二日目までは、ヤズも一緒だったが、追手の消失が確実視された今となっては、イルジナ一人きりだ。

 街を行き交う、人の波。

 イルジナは懸命に目を凝らし、黒髪の色付き男を探す。

 文之進の珍しい容姿は、様々な民族が入り乱れるアムステルダムであっても、一際ぐんと異彩を放つはずだ。近くにいれば、絶対に見逃さない。

 と、突如、イルジナの視界に、異様な塊が飛び込んできた。イルジナが望んでいた異様とは、全く違う種類の。

 煌びやかな彫刻が施された、美しい荷台。

 見下した目つきが鼻につく、立派な馬と御者。

 一台の、大きくて豪奢な辻馬車が、何の前触れもなくイルジナの前を通り掛かり、停車した。

 辺りは騒然となり、イルジナは呆然となった。

 御者が降り立ち、上品な手つきで扉を開ける。窓と並んで帳があるため、中の様子は窺い知れない。

 荷台から、人は出てこなかった。代わりに、澄んだ女性の声音が漏れた。

「ごきげんよう、イルジナ。探すの、大変だったわ」

 名を呼ばれ、正気に戻ったイルジナは、とっさに逃げようとした。ところが、背後は壁であった上、左右には、銃を構えた兵士が配置されていた。街の人々は、関わり合いを避けようと、辻馬車の周囲から遠離った。

(もしかして、騎士や傭兵を嗾けてきた、黒幕?)

 イルジナの鼓動は、跳ね上がった。しかし、綺麗な声の主は、なんとも暢気な調子で、イルジナに話しかける。

「どうぞ、ご乗車して頂戴な。ちょっとした世間話でも、しましょ。済んだら、解放してあげるから」

 イルジナは即座に反発した。

「信用できると思うの?」

「してもらうしかないわぁ。ワタクシは穏便のつもりだけど、お従きの兵隊さんは、あまり優しくないかも」

 イルジナの両側から、容赦なく銃口が突き付けられた。どうやら、選択の余地は、全然ないらしい。

 当然、イルジナは恐怖した。とはいえ、同時に、千載一遇の好機だとも思った。今まで不明だった敵の正体が、明らかになるなら、会談に応じる価値はある。

(いざとなったら、奥の女を人質にしてでも、降りてやる)

 密かな打算を胸に、イルジナは車内に潜り込んだ。

 しかして、声の主が姿を見せた。

 高貴と優雅を体現した、上流階級特有の面立ちと、真っ青に光る、胸元が開いた服。

 お后様という言葉が相応しい貴婦人は、棒立ち状態のイルジナを見回し、ふくくと無邪気な微笑を溢した。

「不思議ね。初対面なのに、懐かしさを感じるなんて。貴女の目、どことなく父様と似ているわ」

 貴婦人の圧倒的存在感に、イルジナは完全に気圧され、たじろいだ。貴婦人は、イルジナに着席を促すと、軽く謝意を表明した。

「申し遅れて、ごめんあそばせ。ワタクシ、マリア・クリスティーナ・フォン・エスターライヒっていうの。愛称のミミって、呼んでもらって結構よ」

「アンタが、アタシを追い回していた張本人?」

 イルジナは、どうにか問いを発した。ミミは、物腰柔らかく、肯定とも否定ともつかない返答を述べた。

「自ら率先して、貴女の命を狙っていた人物は、ワタクシじゃないわ。けど、共犯と言われてしまえば、それまでね」

 ミミに慣れてきたイルジナは、少々、苛立った。

「回りくどい答え方、しないでもらえる? アタシ、馬鹿だから、はぐらかされるのって好きじゃないの」

「正直ね。なら、分かりやすく教えてあげる」

 ミミは相好を崩し、後ろから、見覚えのある首飾りを取り出した。イルジナは目を見開いて、食い入るように凝視した。

「父様の死後、しばらく経ってから、見つかったそうなの。『不遇なる朕の娘に送りし、血統の証』っていう、不可解な書き置きと一緒にね」

 ずっと避けていた、避け続けてきた、冗談じみた与太話が、今、明白な事実となるべく、浮上した。

 イルジナは、恐る恐る尋ねる。

「アンタの、ミミの父さんって?」

 ミミの回答に、淀みはなかった。

「フランツ・シュテファン・フォン・ロートリンゲン。元・神聖ローマ皇帝で、貴女の父親でもあった人よ」

「違うわ! こんな首飾り、何の証拠だっていうのよ!」

 イルジナは激昂のあまり、懐に仕舞っていた自分の首飾りを、ミミに突き付けた。ミミは余裕を失わず、大いに頷いてみせた。

「全くもって、イルジナの言う通りよ。父様の世迷い言が記された書き置きは、即刻、処分されたし、ワタクシの母様、マリア・テレジア女帝が認めない以上、貴女は絶対に、ハプスブルクの一員には加われない」

 ミミは堂々と、首飾りなど何の意味もないと、打ち明けた。しかし、イルジナの疑問は尽きない。

「だったら、なんで、エーベンゼーの村を襲ったり、アタシを散々、付け回したりしたのよ?」

「おそらく、親類の誰かが早合点してしまったのね。もしかしたら、イルジナの存在を、利用する者が現れるかもしれない。だから、さっさと潰しておこうって。リースルには、表向きとは別の目的があったみたいだけれど」

 もしかしたら? かもしれない?

 極めて曖昧かつ、不明瞭な仮定の話で、攻め入ったというのか? 一国を統べる君主の一族が、ちっぽけな山村を。

 イルジナは俯き、奥歯を砕かんばかりの勢いで噛んだ。

「あんまりよ。みんな、命を落としたのに」

 涙を啜るイルジナに、しかし、ミミは寄り添ったりはしなかった。

「残念ながら、ワタクシに貴女を慰める資格はないわぁ。今の今まで、傍観者に徹していたワタクシは、貴女に危害を加えた連中と、大差ないもの」

「なんで、アタシに接触してきたの? アンタの目的は、何?」

 イルジナは、半ば無理矢理、泣き止むと、面を上げて、ミミに追及した。

 イルジナを優しい目つきで眺めていたミミは、斜め上に視線を逸らして、真意を漏らし始めた。

「白状するとね、ワタクシは貴女という存在に、嫌悪を抱いていたの。ワタクシの結婚に、猛反対していた父様が、浮気して作った娘なんて、死んじゃえばいいのよって、考えていたわ」

 最初はね、と、ミミは付け加え、イルジナに向き直った。

「でも、次第に関心が湧いたの。父様が、死ぬまで隠し通した、一つの愛に。母様を裏切ってまで抱いた、一人の女性との恋に」

 ミミの眼差しには、なぜか羨望が宿っていた。訝るイルジナに、ミミは肩を竦めて、説いた。

「基本的に、ハプスブルクの人間は、外交の道具よ。他国を傘下に置くため、位の高い者に嫁ぐことが、何よりも重要視されるの。ワタクシみたいに、自由恋愛が許された例は、極めて希有。他の兄弟姉妹は、み~んな文句を言っているわ」

「知らないわよ。アンタたち、宮廷階級の愚痴なんて」

 所詮は、根っからの庶民だと、いじけるイルジナに、ミミは笑みを膨らませた。

「分からない? イルジナ。貴女ができる、最も効果的な復讐方法は、好きな男を捕まえて、結婚しちゃうことだって」

「なっ」

 意表を突かれたイルジナは、絶句した。ミミは、少女のように純粋な企み顔で、握り拳を口元に当てた。

「みんな、悔しがるわよぉ。ワタクシとアルのときでさえ、怨嗟の手紙が、ひっきりなしに届いたもの。きっと、イルジナでも効果があるに違いないわぁ。異母姉妹とはいえ、イルジナも皇族なんだし」

「いや、だから、アタシは皇帝の娘なんかじゃないって」

 イルジナは必死に訴えたが、ミミは何を取り違えたか、注意を開陳し始めた。

「駄目よぉ、恥ずかしがったら。イルジナを産んだ二人は、身分も倫理の枠も飛び越えて、愛し合ったのよ。貴女も大いに倣えばいいわ」

「えっと、話の方向性が、ものすごく狂った気がするんだけど」

 イルジナの苦言に、しかし、ミミは聞く耳を持たない。

「あら、どこも間違っていないわ。噂だと、黒い髪の東洋人に、窮地を救ってもらったんだとか? 素敵ねぇ」

 うっとりと、頬を仄かに赤らめるミミに、イルジナは反論した。

「いいえ、ちっとも! 出会い頭に、馬鹿にされてからは、食べ物、恵んでもらったり、新しい服を買ってもらったりで、お世話になりっぱなしだったわ! 恋心云々の前に、申し訳なさで胸がいっぱいよ!」

 本当、惨めったらなかった。

 自己嫌悪に陥るイルジナだったが、ミミは、あくまで羨んだ。

「まぁ、すっかり仲良くなっちゃって。ワタクシ以外の兄弟姉妹が聞いたら、きっと憤死するわね」

「器が小さすぎるわよ」

 どれだけ嫉妬深い連中なんだ。

 イルジナの指摘を、ミミは物憂げな表情で認めた。

「理解してもらえた? どんなに着飾ったところで、どんなに贅沢ができたところで、幸せからは、愛からは程遠い家なのよ。だから、自由な貴女が狙われた。無茶な理由を付けてでも、抹消したかったんでしょうね」

「身勝手よ。そんな、ふざけた理屈」

 イルジナにだって、上流階級を妬む気持ちはある。けれど、たとえ親類が貴族だったからといって、殺意までは抱かない。

「もっともねぇ。でも、イルジナ。貴女がもし、怨恨に満ちた不幸せな道を選んでしまえば、貴女の負けは決まりよ」

 ミミは、穏やかな瞳を湛えたまま、イルジナに助言する。

 安易な手段による報復なんて、考えるな。どうせ、武力では敵わないのだから。

 ミミの言葉の裏にある意図を、イルジナは汲み取った。だが、威圧を帯びた脅迫ではなく、優しさの籠もったミミの忠告に、怒りは沸かなかった。

 ミミは自信満々に告げる。

「貴女の最大の武器は、ここから選べること。ワタクシたち、ハプスブルク家の人間には用意されていない、幾通りもの道を、貴女は自分で決めて、歩けるわ。黒い髪の剣士と添い遂げるのも、その一つね」

 敵側の傲慢さを差し引いた上でも、ミミの提案には、一定の説得力があった。

 ただし、懸念がないわけではない。

「文之進は、まだ戻ってきてない。生きてるか死んでるか、分からないのよ」

「リースルからの報告に、殺したとは書かれていなかったから、諦める必要はないと思うわよぉ。断言は避けるけれど」

 ミミの、いまいち心許ない推測は、僅かながらイルジナを元気付けた。

 無言で頷いたイルジナに、ミミは優雅に手を振り、励ます。

「せいぜい、頑張ることね。母様たちには内緒で、応援しておいてあげるわぁ。それじゃ、イルジナ。もう、降りて――」

 ミミが降車を促そうとした瞬間、

「いいえ、ご婦人。馬車から出るのは、イルジナさんではなく、貴女です」

 馬車の扉が開き、赤羽根が付いた三角帽と、短い銃口が、顔を覗かせた。

「カテア!?」

 イルジナは困惑し、侵入者の名を叫んだ。ミミは平静を保ったまま(むしろ、若干、嬉しそうに)、カテアと向かい合った。

「あらあらぁ、白昼堂々、強盗かしら」

「ご名答です。ワタシはコンスタンティア船長。短い一期一会ではありますが、どうぞ、よろしく」 

 カテアは三角帽を脱ぐなり、丁寧に頭を下げた。

「ワタクシの従者たちが、周囲を固めていたはずだけれど?」

 ミミの疑問に、カテアは快く答える。

「少々、昼寝をしてもらいました。いやはや、出航前に、これほど立派な収穫ができて、大満足です。ねえ? イルジナさん」

 急に同意を求められ、イルジナは硬直した。事前に示し合わせたわけでも、なんでもなかったためだ。

 しかし、ミミはイルジナを、カテアの共犯者だと確信したらしく、天晴れとばかりに北叟笑んだ。

「なかなか、やるわねぇ、イルジナ。ミミお姉さん、驚いちゃったわぁ」

「え? や、アタシの計らいじゃ――むぐぐっ」

 コンスタンティアこと、カテアに口を塞がれ、イルジナは釈明の機会を失った。

「それでは、去らせてもらいます。辻馬車のご提供、ありがとうございました」

「いえいえ。帰ったら、アルと友達に、自慢しちゃう」

 ミミは、カテアに再び指示されるまでもなく、悠々と席を立った。

「達者でね、イルジナ。はい、これ」

 降りる途中、ミミはイルジナに、もう一つの首飾りを手渡した。呆気に取られるイルジナに、ミミの屈託ない笑みが注がれる。

「なんで、アタシに?」

「餞別よぉ。盗られたってことに、しておくわぁ。父様の遺品なんて、いつまでも手元に置いておきたくないものぉ」

 ミミが降りた途端、辻馬車が動き出した。

 イルジナは、つい、ミミに向かって呟いた。

「ミミ……姉さん」

「幸せにおなり、イルジナ。ワタクシのように」

 イルジナは強く頷き、ミミの姿が小さくなっていく光景を、じっと見詰めた。

 やがて、扉を閉めたカテアが、ミミの座っていたところに腰を下ろし、格好良く足を組んだ。

「ふっふっふ。まさか、天下に轟くハプスブルク家の馬車が手に入るとは。いくらで売れるか、今から楽しみです」

 背凭れの触り心地を確かめるカテアは、とてつもなく幸せそうだった。聖ヴィトゥス教会で戦っていたときの、苛烈な美しさは、欠片も感じられない。

「ところで、カテア。誰が御者をやってるの?」

 イルジナの問いに、カテアは緩みきった表情で宣った。

「ヤズさんに頼んでみました」

「今すぐ、アタシを降ろして!」

        2

 イルジナの懇願により、カテアが辻馬車の運転を替わってから、程なくして。

 帳を捲った窓の向こうに、ゾイデル海へと繋がる、アイ湾の船着き場が見えた。

 景色の流れが、徐々に遅くなり、遂には止まった。御者のカテアから、降車するように呼びかけられる。

 イルジナはヤズを連れ、外に出た。冷たい潮風が、頬を吹き付けた。

「イルジナさん、貴女の取り分です。お受け取りください」

 カテアからイルジナに、ずちゃりと重い包みが、投げ渡された。結び目の隙間から、眩しい黄金の輝きが放たれている。

「おぉーっほー、カテアちゃんてば、太っ腹ー」

 大喜びのヤズとは、正反対に、イルジナは恐怖を覚えた。もしも誘惑に負けて、金を懐に納めたら、更なる惨めな気持ちで、押し潰されるのでは? と。

「こんな大金、貰えないわよ」

 イルジナは、震える両手で、包みを突き返した。しかし、カテアは平然と首を横に振り、返却を拒絶した。

「なんら恥じることは、ありません。ワタシがイルジナさんに差し上げたお金は、施しではなく、正当な対価なのですから。というか、この辻馬車の価格に比べれば、小銭に等しい額ですので、本来であれば、もっと寄越せと欲張るべきかと」

 知るか。皇族専用馬車の値段など、一般庶民のイルジナに、分かるわけがない。

 イルジナは、なんとか遠慮しようと、齷齪、思考を巡らせた。だが、カテアは、さっさと締めに入った。

「新しい地で暮らすためにも、元手は要るでしょう。トウコツさんにも、一応、頼まれていましたし。では、お元気で」

 カテアは手綱を振るい、辻馬車を発進させた。結局、断り切れなかったイルジナは、渋々、金貨の詰まった包みを仕舞った。

「どうしよう、ヤズ。アタシ、ちょっとした金持ちになっちゃった」

 嫌味ではなく、純粋な困惑を込めて、イルジナはヤズに相談した。ヤズは大いに張り切り、至極、簡単な解決策を提示する。

「おっしゃー、散財じゃー。食って、飲んで、遊びまくるぞーい」

「ごめんなさい。ヤズに訊いたアタシが、致命的だったわ」

 イルジナは盛大な後悔をしつつ、財布ともども、しっかり、ヤズを管理しようと、固く誓った。

 と、そこへ、遠くから、ペーニャが、大きくて四角い旅行鞄を携え、イルジナたちの元へ歩いてきた。

「二人とも、えらい、ごっつい馬車に乗っとったなあ。てっきり、どこぞの貴族でも来たんかと、勘違いしてもうたわ」

 明るい調子で、冗談を述べるペーニャに対し、ヤズは胸を張って、紛うことなき真実を口にした。

「なっはっはー、すげー豪華だったっしょー? みんなで、かっぱらったんだよー」

「ヤズ、声が大きい!」

 イルジナは大慌てで、ヤズに詰め寄った。ペーニャは咎めたりせず、鷹揚に鼻を鳴らした。

「ええやん。どうせ、ウチが船出した後、すぐにイルジナとヤズも、阿姆斯特丹を離れるんやろ? 多少の悪事を働いたかて、問題ないわ。旅の垢は刮(こそ)ぎ落とせ、っちゅうやろ」

「ペーニャって、確か、神職の人だったわよね?」

 イルジナは苦笑しつつ、ペーニャの放った文言に、頭を悩ませた。

「その顔色やと、やっぱり現れんかったんやな。文之進の奴は」

 イルジナの表情の曇り具合から、ペーニャは事情を察した。イルジナは俯きがちに頷いたものの、やはり、文之進の生存を頑なに信じた。

「アタシ、もうちょっと、待ってみる」

 イルジナの決意表明に、ペーニャは呆れ返った。

「往生際が悪いやっちゃなぁ。事前に、納爾登で決めといたやんけ。文之進が戻らんかったら、先に英格蘭へ向かうて。三日でも、充分、待ったほうや」

「だけど、もし文之進が、生きてたら……」

 どこかで休息を取り、イルジナたちと合流したがっているのだとすれば、置き去りにすべきではない。

 イルジナの推測を他所に、ペーニャは唐突な提案をしてきた。

「なあ、イルジナ、一つ、相談さしてえな。どうせやったら、英格蘭なんか行かへんで、ウチと比律賓まで旅しよ。ヤズも一緒で、ええわ」

「こらー、私を『ついで』扱いするにゃー」

 ヤズの横槍は、とりあえず放置し、イルジナはペーニャに尋ねた。

「アタシを、ペーニャの故郷に連れてってくれるの?」

 ペーニャは顔を綻ばせ、肯定した。

「そうや。綺麗な海と島々が、広がっとるでぇ。誰も、イルジナの素性なんか、知らんやろうし、調べたりもせえへん。美味い食べ物と、長閑な人たちに囲まれた、温かいとこや。ナオキたちなんか、きっと即行で、イルジナに懐くやろなぁ」

 ペーニャは海の向こうへ、懐かしむような視線を送った。

 イルジナには、満足に想像を膨らませることすらできない、遙か彼方の景色だが、おそらく、ペーニャの瞳には見えているのだろう。美しい故郷の島々が。

 正直な感想を、イルジナは漏らした。

「きっと、素晴らしいところなんでしょうね」

「住みやすさは、保証するで。あと、安全もな。みんな、エスクリマで身体を鍛えとるさかい、万が一、どっかの阿呆が攻めてこようが、絶対に負けへん。どや?」

 ペーニャはイルジナに向き直り、力説し尽くした。イルジナは、心を込めた感謝を、ペーニャに捧げた。

「ありがとう、ペーニャ。貴女と知り合えて、良かった」

「ほな、決まりやな。ウチの乗る船に、案内するわ。従いて――」

「でも、ごめんなさい。やっぱり、アタシは、貴女と一緒には行けないわ」

 意気揚々と、歩き出そうとしたペーニャに、イルジナは首を横に振った。

 ペーニャは唖然と口を開け、イルジナに問い質した。

「なんでやねん? イルジナ、会うてから、ずっと、怯えとったやん。怖がっとったやんけ。もう、追われたかないんやろ? 安心して、寝たいんやろ? せやったら、遠くまで逃げたらええんや!」

「もっともね。今までのアタシも、逃げたいって願望が、最優先だった。怒りや憎しみ、恨みなんかあったって、どうしようもなかったから。でも」

 イルジナは深く息を吸い、吐露した。

「やっと、一矢を報いたいって想いが、強くなったの。アタシをいたぶってくれた連中に、一泡、吹かせてやりたいって想いが、アタシを突き動かした」

 イルジナの告白に、ペーニャは狼狽する。

「あ、阿呆ちゃうんか? 騎士や傭兵と、戦うやなんて」

「安心して。殺し合いなんか、してやらないわ」

 イルジナは知った。イルジナを殺そうとしていた連中が、いかに矮小か。いかに器量が狭いか。

 兵隊を差し向けるばかりで、自らイルジナの前に現れようともしなかった腑抜けどもに、何が効果的な復讐たり得るか。

「アタシの願いを叶えるためには、文之進が要る。好きか嫌いかなんて、まだ分からないけど、もう一度、文之進に会いたいって気持ちだけは、確かにあるから」

 イルジナが、勇気を持って表明した決意に、ペーニャは激怒した。

「なんやてえ! 誰が、誰に惚れたっちゅうねん!」

「ペーちゃん、落ち着こーぜぃ」

 すかさず、ヤズが、したり顔で窘める。だが、ペーニャの興奮は収まらない。

「これが平静で、いられるかいな! オカンは、許さへんで!」

「怒るのも、当然よね。ペーニャもヤズも、文之進を愛してるのに」

 ピカキキ。

 イルジナが、最たる障害を口にした途端、ペーニャとヤズの表情及び身体が、凍り付いたように動かなくなった。

 どうやら、図星だったようだ。

 しかし、イルジナは怯まない。ペーニャとヤズの気持ちを理解した上で、尚かつ、打ち明けたのだから。

「分かってる。アタシだって、いつまでも中途半端で、有耶無耶な気持ちのままには、しておかないわ。ちゃんと答を出せるよう、文之進と――」

「イルジナの、ド阿呆! ウチが文之進を好きなはず、あらへんやろが!」

 ペーニャ、大激怒。

「ペーちゃん、落ち着こーぜぃ」

 遅ればせながら、ヤズが諫めるが、

「さっきも聞いたわ!」

 まるで読んでいたとばかりの素早さで、ペーニャは撥ね除けた。

 ペーニャは眉を限界まで吊り上げ、イルジナを睨み付ける。凄まじい眼光に、イルジナは戦いた。

「ええか? イルジナ。ウチが、こないな地の果てまで来るハメになったんは、全部、文之進のせいなんやで? くたばって、ホンマ、清々しとるわ。あー、大っ嫌いやった!」

 最後の一文は、殊更に強調されていた。

 恨み辛みを吐き出したペーニャは、辟易した様子で、そっぽを向いた。

「もう、ええ。文之進に夢中なイルジナなんか、こっちから願い下げや。ヤズは?」

「私は、難訓ちゃんに取り憑くのが仕事だからー。式神として」

 ヤズは得意気に答え、イルジナの傍を離れなかった。

「若干、意味が分からへんけど、イルジナと同じかいな? 全く、二人とも趣味ぃ悪いでぇ。ほな、おさらばやな」

 ペーニャは、寂しげな横顔を隠すように、踵を返した。イルジナもまた、胸の痛みを押さえつつ、ペーニャに別れを告げた。

「さよなら、ペーニャ。誘ってくれて、本当に嬉しかったわ」

「ウチかて……へんっ」

 ペーニャは、一瞬、身体を強張らせたものの、振り返ったりはしなかった。

 ペーニャの足が、地面を蹴り上げる。大荷物を持っているにも拘わらず、ペーニャの姿は、すぐに見えなくなった。

 選択と引き替えに得た寂寥を、イルジナは強く噛み締めた。

「絶対に、文之進は生きてるわよね」

 自然と漏れた、イルジナの独り言に、ヤズが、珍しく消極的な反応を示した。

「ふむーん、ちょっぴり、不安かなん」

「駄目よ、ヤズ。アタシが言っても、説得力なんてないけど、弱音は良くないわ」

 イルジナは、自分自身にも言い聞かせるつもりで、ヤズを励ました。だが、ヤズの怪訝な表情に、変化は一切なかった。

「最近、曇り空ばっかりだったからさー、全然、星が読めなかったんだよねー。今日も、いまいち晴れてないから、教えてもらえないかも。ぬきゃー、嫌な予感がしやがんでぃ」

 ヤズは頭を抱え、懊悩した。イルジナには、ヤズの文言が理解しきれず、どんな言葉を掛けたらよいか、皆目、見当が付かなかった。

 そんな、混沌とした状況下、

「あながち、間違っていないところが、驚嘆させられますね。ヤズさん」

 知った風な口振りで、カテアが再び現れた。無論、辻馬車を、どこかへと隠して。

「どうしたのよ、カテア。やっぱり、お金を返して欲しくなったの?」

 貧乏性が治らないイルジナは、懐に手を伸ばそうとする。カテアは顔を顰め、きっぱりと否定した。

「舐めないで頂きたい。ワタシ、コンスタンティア船長は、誠実と規律を重んじる、ブラック・バートの孫娘。祖父の名誉を汚す真似は、断固いたしません」

「じゃあ、なんでまた、アタシたちの前に?」

 イルジナの疑問に、カテアは咳払いして、居住まいを正した。

「追加報酬、とまではいきませんが、有益な情報を持ってきました。今回は、イルジナさんだけでなく、ヤズさんにも協力してもらいましたしね」

 カテアに一瞥されたヤズは、漸く調子を取り戻し、

「忘れてたー。やい、カテアちゃん。私にも金、寄越せー」

 と、せがんだ。だが、相手にされなかった。

「先程、船舶の積み荷を管理している者と、接触しまして。その際、小耳に挟んだのですが……」

 カテアからもたらされた報せにより、イルジナの覚悟は台無しにされた。

        3

 十二月。

 英格蘭北西部、蘭開夏(ランカシャー)州。

 布萊克本(ブラックバーン)の東に位置する、とある工房を、文之進は訪れていた。騒々しく煩わしい女どもから解放された、自由な身で。

「懐かしい。糸車を見ると、蚕の山と祖母を思い出す」

 文之進は熱心に、製作途中の糸車を眺めた。近くで休憩していた、屈強な壮年の大工、ジェームズ・ハーグリーブスが、感心の声を上げる。

「生糸たぁ、贅沢じゃねえか。こいつぁ、綿用だぜ。若人」

「らしいな。布萊克本は、織物が盛んな町と聞いて、来てみた次第だ。大事な仕事場に邪魔をして、すまぬ」

 少々、見学者としての自覚に欠いていた文之進は、糸車から離れた。ジェームズは快く笑い、肩を揺らした。

「がっふぁっふぁ、構やしねえよ。ちょうど今、町の連中に爪弾きを喰らって、退屈してたとこさね」

 意外な事実を聞かされ、文之進は訝った。

「どういうことだ? 布萊克本の生業は、糸車がなければ成り立たぬ。ジェームズ殿ほどの腕を持つ職人は、そう多くないはずだが」

 技術者にありがちな、気難しい性格でもなさそうなのに。

「褒めてくれて、ありがとよ。なまじ、技術や閃きがあると、災難でなぁ」

 ジェームズは、苦笑とともに立ち上がると、徐に、奥から一枚の図面を取り出し、文之進に手渡した。

 図面に目を通した文之進は、愕然となった。

 精密な直線と曲線で、糸車の設計図が描かれている。ただし、紡錘が一本ではなく、一列に八本も並び、複雑化した、巨大な糸車だった。

 ジェームズは、得意気に腕組みした。

「どうだ、魂消ただろぅ? ワシが考案した、新型の糸車だ。たった一人で、八人分の糸が紡げる。こいつが、たくさん作れた日にゃ、従来の糸車は、纏めて引退よぉ」

「確かに。しかし、ならば、なぜ、量産に踏み切らぬ? 今、ジェームズ殿が作っていた代物は、普通の糸車に見えるが」

 文之進が尋ねると、ジェームズは気まずそうに頬を掻いた。

「でけえ問題が、二個、あんだよ。まず、構造的な欠点だ。弾み車が、ひどく回しにくくなっちまう。従来の糸車と比べると、どこで糸を紡がせても、使用者の負担が増えちまうんだ。本末転倒だぁな」

 文之進は、改めて図面に視線を落とした。ジェームズの指摘に違わず、弾み車を回すには、骨が折れそうだった。おそらく、文之進の祖母では無理だろう。

「では、二つ目は?」

 文之進は顔を上げ、説明を促した。椅子に腰掛けたジェームズは、ますます残念がりながら、打ち明けた。

「さっき、言っただろぅがよ。町の連中が、反対してんのさ。新型の糸車で、大量に糸を紡げるようになりゃあ、十中八九、綿糸の価格が暴落しちまう。従来の糸車を使ってる人間にとっちゃ、面白くねえ話だ」

 業者。

 組合。

 文之進の頭に、集団で利益を守る名前が浮かんだ。

「なるほど。だから、新しい糸車の製作をしないよう、釘を刺されたわけか」

 文之進は、冷やかに目を細める。ジェームズは、なぜか照れ臭そうに微笑んだ。

「そう、神妙な面で、ワシに熱視線を送ってくれるなぃ、若人。分かっとるよ。町の連中の文句に、理屈なんざねえってこたぁ。だが、商売相手に臍を曲げられちゃあ、ワシには、どうしようも――おん?」

 ジェームズの愚痴など、文之進の耳には入っていなかった。

 思考を巡らせた文之進は、設計図の一部を指差し、案を提示した。

「回転軸を伝って、弾き車を回すのではなく、弾き車の外周側面から、力を加える仕組みは、どうだ? ちょうど、この歯車のように」

 文之進は、久平次から貰った絡繰歯車を、荷物から取り出して、ジェームズの前で動かしてみせた。

 嘆いてばかりだったジェームズの瞳に、好奇と期待の光が宿った。

「弾き車の横に、直接、棒みてぇなもんを付ける、か。大した発想だ。ワシが悩んどった部分を、一発で解決しちまうたぁ。っと、いけねえ、いけねえ!」

 喜びかけたのも、束の間、ジェームズは首を激しく振って、自制した。

 文之進は、気になって尋ねる。

「やはり、欠点があるのか?」

「違わい、若人。ワシを誘惑してくれるなや。せっかく、諦めかけとったのに、またぞろ開発したくなっちまうだろうが」

 ジェームズは、若干、恨みがましい目つきになった。しかし、文之進は風と受け流し、ふんぞり返った。

「余所者の俺に、愚痴と暴露をした時点で、ジェームズ殿の本音は、分かったつもりさ。職人としての血が騒ぐのだよな? 新型の糸車を拵えたい、と」

 冬にも拘わらず、ジェームズの額に汗が滲む。

「悪魔じみた甘言は、勘弁してくれぃ」

「別に、唆すつもりはない。昨日、この布萊克本に来たばかりの、文字通り余所者の俺は、他人事ながら、哀れんでるのさ。人の善いアンタと、ふざけた町の連中にな」

 困惑するジェームズへ向け、文之進は、なるべく分かりやすく語りかけた。

「たとえば、俺の腰には、太刀と脇差が納まってる。切れ味は、それなりに鋭いから、刃を滑らせれば、するるっと肉が裂けるわけだ」

「いきなり、何の話を……うぉふぁ!」

 突然、文之進が抜き放った脇差に、ジェームズは肝を冷やした。

「危ねえなぁ。狭いとこで、刃物なんざ振り回すなぃ」

「もっともだ。さて、ジェームズ殿。もし仮に、俺が他人を太刀で斬り殺したとして、その責は、その咎は、いったい誰が負う?」

 脇差を納めつつ、文之進は、至極、当たり前の問いを投げかけた。

「そんなもん、若人以外に」

 言いかけて、ジェームズは刮目し、口を噤んだ。きちんと真意が伝わり、文之進は安堵の笑みを溢した。

「理解したか? ジェームズ殿は、あくまで糸車を作る者に過ぎぬ。生み出された糸車が、何かしらの弊害をもたらすならば、その責任は全て、使用者たちに還元されるべきであって、ジェームズ殿が背負う必要など、一切、ない」

 刀が人を斬るための道具で、刀による人殺しが、鈍器より便利だからといって、殺人を鍛冶屋のせいには断固できない。

 新型の糸車が引き起こすであろう激変が、どうしても嫌ならば、町での使用を禁止にすればいい。

「作り手を戒めるなどという愚行は、自制心が欠如してる使い手側の、盗人猛々しい開き直りでしかない。ジェームズ殿が、商売相手を、町の連中を対等な人間と見なすならば、答は決まってるように思うが」

 文之進の主張に、ジェームズは肩を竦めた。

「優しいんだねぇ、若人。味方してくれんのは、悪い気分じゃねえや。けど、町のために、みんなのためにならねぇんじゃあ、ワシは作らねぇよ」

「技術の革新が、町を発展させるとしても、か?」

 前提条件を覆すかたちで、文之進は問うてみた。だが、ジェームズの返答は変わらなかった。

「望まれねぇ以上は、致し方ねえやな」

 違う。

 言葉とは裏腹に、ジェームズの目には、開発への情熱が燻っていた。

(また、損な役回りか)

 胸中で不満を漏らしつつ、文之進は決心した。

「分かった。では、悪役が要るな」

「なんのこったい? 若人」

 わけが分かず、戸惑うジェームズに、文之進は、意地悪く口角を吊り上げ、呪詛のように宣告した。

「俺は、これから、行く先々で言い触らすとしよう。ジェームズ殿が画期的な糸車を発案した、と。一度に八つもの紡錘が、作製可能だとな」

 ジェームズは、ますます混乱した。

「ふぁあ? をいをい、どんな企みだい? ありもしねえ物を、吹聴したって、意味ねえだろうが」

 ジェームズの反論を、文之進は真っ向から否定した。

「あまり世間を見縊らぬほうが良いぞ。布萊克本には、ジェームズ殿ぐらいしか、まともな技術者がいないのかもしれぬ。だが、英格蘭中には、きっと、たくさんいる」

 少なくとも、百人単位で。

「俺には、大まかな仕組みしか分からず、作り上げる能力もない。だが、噂を聞いた他の大工職人たちは、どうかな? 試しに、作ってみる者が現れるかもしれない。いや、必ず現れるはずだ」

 何しろ、一台で数倍の効率だ。出来上がったときの利益は、計り知れない。

 文之進の推測に、ジェームズは息を呑んだ。

「馬鹿な。そうそう容易く作られて、たまるかよ」

「世間を見縊るなと言ったはずだ。アンタと同じか、それ以上の頭と腕前を持った連中なんて、いくらでもいる。切っ掛けと時間さえ与えれば、どれほど難しくとも、いずれ出来上がるだろう。高性能の生産力を有した、糸車が」

 文之進は、容赦なく畳み掛けた。ジェームズは、俯きがちに落胆し、文之進に問いかけた。

「ワシに対する、嫌がらせかい?」

「いいや、他所で新型の糸車が生産された場合、最も迷惑を被るのは、アンタを虐めた布萊克本の連中だ。町は発展の機会を失い、下手すれば、織物では食っていけなくなる。天罰と考えれば、妥当かな」

 文之進の述べた末路に、ジェームズは打ち震えた。

「やめてくれぃ! 町が潰れれば、ワシも共倒れだ。確かに、ワシは嫌われとるが、若人に仕打ちを受けるような謂れはない。頼む」

 ジェームズは拝み倒す勢いで、文之進に懇願した。しかし、文之進の決心は、揺るがなかった。

「断る。なんだか、自分で言ってて、楽しくなってきた。風が吹けば桶屋が儲かると言うが、殊、利益が絡むとなると、上手く運ぶ気がする」

 文之進は、軽薄な笑顔を心懸けつつ、自信の高さを誇示した。ジェームズは、悲壮な表情を浮かべ、槌が立てかけられた場所へと後退った。

「残念だやな。若人が、とんだ悪人だったたぁよ。新型糸車の設計図なんか、見せなけりゃ良かった」

「槌を握る前に、アンタには、やるべき使命がある」

 文之進に意図を当てられ、ジェームズは硬直した。

「なんだってんだい?」

 文之進は肩を竦め、穏やかに、宥めるように諭した。

「ジェームズ殿。アンタがもし、今から新型糸車の開発に着手すれば、おそらく、誰よりも早く、完成させることができる」

「作れたとして、どうするってんだい」

 急かすジェームズに、文之進は確かめた。

「俺の住んでいたところには、存在しなかった。だが、この辺りには、特許という優れた保護制度があるらしいな」

 ジェームズの顔が、驚きに染まった。

 どうやら、特許は意識の外にあったらしい。糸車自体は、ジェームズの発明ではなかったためか。

「まさか、申請しろってのかぃ?」

 文之進は、迷わず頷いた。

「新型糸車を特許に登録すれば、徒に真似される可能性は、一切なくなる。アンタの発明と、町を守るには、お誂え向きの制度だろう」

 提案を終えた文之進は、工房の扉へと向かった。

「見識を広めてくれて、感謝する。ではな」

 寒空の下に出ようとする文之進を、ジェームズが慌てて呼び止めた。

「ちょっ、待ってくれぃ! 若人、名前は、なんてぇんだい?」

 名を訊かれ、文之進は僅かに考えた。

(文之進は、ちと発音が困難らしいな。しかし、難訓や檮杌とは、名乗りたくない。うむむ、どうしたものか)

「なんだよ。教えたくねえってのかい?」

 近寄ってきたジェームズは、元の、いや、出会ったとき以上の明るさで、文之進に問いかけた。

「慈爾(じに)は、さすがに拙いか。諱(いみな)だし」

 文之進の小声を、ジェームズは耳敏く聞き取り、納得した。

「ジェニーか。よぉし、覚えた。新型の糸車には、ジェニーって名付けてやっから、覚悟しとけよ、若人」

「おいこら、俺の諱を、勝手に使うでない」

 文之進は抗議したが、

「けへへ、もう決めちまったよーだ」

 ジェームズは餓鬼っぽい振る舞いで、受け流した。

 一悶着の末、文之進は折れて、ジェームズの工房を後にした。

 ぽちりと、頬に冷たい感触が当たる。

「雪か」

 白い結晶が、ほわりほわりと宙を舞う。

 家々が並ぶ通りを歩きながら、文之進は一人、楽しんだ。

「さて、どう転んでいくかな?」

        4

 雪は、徐々に積もり始めた。

 曼徹斯特(マンチェスター)の借家へ帰ろうと、ダーウェンの村を通り掛かったところで、文之進は出会した。いや、追い付かれた、が適切か。

 前方、真正面から、膨れっ面のイルジナと、得意満面のヤズが、揃って駆け寄ってきた。

「久しいな。元気そうで、何よ――りだ!」

 素晴らしき孤独に別れを告げ、文之進はイルジナの拳を避けた。ついでに、ヤズの足払いも。

「なんっで、先に行っちゃったのよ! 赫爾河畔京斯頓(キングストン・アポン・ハル)から、アンタの足取りを辿るのに、どれだけ苦労したか、分かってんの!?」

 開口一番、イルジナは鬼気迫る勢いで、怒鳴り散らした。窶れ具合に磨きが掛かった顔と、所々が擦り切れた衣服が、妙な凄みとなって、文之進をたじろがせた。

 文之進は、袖で目元を覆い、残念な気分を演出した。

「イルジナよ。ちと見ないうちに、またまた、見窄らしい姿になって」

「文之進のせいでしょうが! アタシとヤズを、阿姆斯特丹(アムステルダム)に置いたまま、一人で旅立っちゃって……。安否を慮ってる人に、生きてることも連絡しないで消えるとか、非道にも程があるわ。この人でなし! ろくでなし! 甲斐性なし! 悪魔! 大魔王! 冷血漢! アンタがそんなんじゃ……、そんなんじゃ……」

 イルジナの声が、段々と涙ぐみ、弱々しくなる。文之進が耳を傾けようとした刹那、

「ちゃんと好きになれないでしょうが!」

 前言の全てを覆す一言を、イルジナは天下の往来で叫んだ。

 文之進、当然、困惑す。

「なるほど。悪口雑言を並べ立てるぐらい、大嫌いな俺を、イルジナは慕ってくれて……どういう意味だ?」

 さすがにわけが分からなかった。イルジナ自身も、手で口を塞ぎ、自分で自分の言動に驚嘆していた。

 脇に佇むヤズだけは、全てを予測済みだったと言わんばかりに、深く頷いた。

 文之進は、しばし待機した末、

「で、今日の夕食についてだが、何か希望は?」

 事態の収拾に動き出した。

「勝手に話を逸らさないで!」

 即、イルジナは蒸し返した。

「いや、お前が返答に窮してたから」

 てっきり、もろともに全てを水に流して欲しかったのかと。

 イルジナは狼狽しつつ、必死に否定した。

「こここ、困ってなんか、いないわよ。アタシは、苛立った腹癒せに、本音を余すところなく、ぶちまけただけだもの。文之進こそ、参ったでしょう?」

 もはや、後戻りの不可を自覚したらしく、イルジナは恥も外聞もかなぐり捨て、堂々と開き直った。

 イルジナの蛮勇に、ヤズは拍手を送り、文之進は、ちょっと照れた。

「面食らったのは、確かだな」

「るふふ、負け惜しみね。アタシが喋り始めた時点で、勝敗は決していたにょよ」

 大事な末尾を噛みながら、イルジナは勝ち誇った表情を浮かべる。勝負していたつもりなど、毛頭なかった文之進だが、敢えて相手に合わせてみた。

「怪我が完治していない俺に、なんと刺激の強い攻撃を。恥ずかしくないのか? 色々な意味で」

「五月蠅いわね! とにかく、アタシの勝ちなの!」

 イルジナは、餓鬼じみた駄々を捏ね、文之進を困らせた。絡みたがりのヤズでさえ、完全に一歩、引いた位置で、動向を見守っていた。

「なら、負けた俺に、何かせよと?」

「結婚して」

 飛躍。

 文之進の心地が、ではない。『好きだから結婚しよう』という、極めて安直で短絡的な論理展開が、だ。

「日が暮れる前に、曼徹斯特に帰らねば」

「逃げるんじゃないわよ」

 イルジナは常軌を逸した形相で、文之進に詰め寄った。初めて、イルジナに恐怖した文之進は、延命の呪文を唱える。

「半年ぐらい、考えさせてくれ」

「逃げるなって言ってんでしょうが!」

 やはり、効かなかった。

 イルジナは焦燥感を滲ませ、文之進の胸倉を掴んだ。

「文之進は、他に好きな相手がいるの? カテアとか、ペーニャとか、ヤズとか」

 人選が、おかしい。

「よもや、イルジナに尋問される日が来ようとは」

「はぐらかさないのっ!」

 文之進は、僅かな希望とともに、ヤズに視線を送った。しかし、ヤズは面白がっているだけで、絶対に近寄らなかった。

 最後の望みを断たれ、逃げ場は失われた。

 観念した文之進は、イルジナに白状する。

「惚れ込んでるという意味では、いないな。この地は俺にとって、何もかもが新鮮で、当分、女への興味より勝りそうだ。強いて美人を挙げるなら、イルジナの姉だが、俺の腹に大穴を空けた恨みは、生涯、忘れぬよ」

 文之進が苦笑して、未だ痛む脇腹をさすると、イルジナは眉を顰めた。

「ミミ姉さんが? すごく穏やかな人に見えたけど」

 イルジナの小声は、上手く聴き取れなかった。文之進は、気にせず本音を明かした。

「同調できる部分も多かったが、やはり権威を振り翳す連中は好かぬ。たとえ傾城傾国の美女でも、な」

 文之進の意見に、イルジナも慌てて首肯した。

「も、もちろんよ! というか、他人の奥さんは、諦めたほうがいいわ。そもそも、文之進なんかじゃ、どう頑張ったって、手が届かないんだし」

「お前も、遠慮がなくなったな」

 賛同に皮肉を交えるとは。

「高望みするなって言ってるの! アタシで我慢なさい」

 イルジナは胸を張り、強く自己主張した。高飛車っぽいが、やはり、少し、惨めったらしい。

「己を卑下するでない、イルジナ。しがらみだらけの皇女より、イルジナのほうが何倍も魅力的だ。少なくとも、俺にとっては」

 イルジナの瞳に、期待が灯った。

「じゃあ、ケッコ――」

「でも、半年は譲れぬ」

「なんでよ! どういう拘りを持ってるわけ?」

 お前こそ、何の拘りで結婚したがる?

「イルジナの身形を整え直して、まともな体付きにするには、ちょうど良い期間だろ」

 真の目的を、ひた隠し、文之進は嘯いた。

        5

 年が明け、五ヶ月余りが過ぎた、初夏の夜。

 三十数名の男たちが、物々しい雰囲気とともに、手に手に金槌や棍棒を持って、ジェームズの工房に押しかけた。

 工房の入口から、威圧の籠もった声が漏れる。

「ハーグリーブス! あれほど念押ししておいてやったのに、作りやがったのか! その気違いじみた糸車は、なんだ!」

「さては、欲に目が眩んだな! 自分の金儲けのために、私たち織物工の仕事を奪い、路頭に迷わせるつもりだったんだろ!」

「その化物みたいな糸車を、いったい、いくらで売りつける気だった? 答えろ、ハーグリーブス!」

 襲撃者の織物工たちは、口々にジェームズを責め立てた。ジェームスは、縋るような口調で、弁解に励む。

「違うんだ、みんな。ワシは特許のために、新型糸車を、誰よりも早く完成させにゃ、ならんかった。みんなが欲しがらんなら、売るつもりはない」

 しかし、織物工たちは納得しなかった。工房に押しかけ、『邪悪な野望』の証拠を発見した時点で、答は決していた。

「白々しい方便を、ほざくな!」

「壊せ! 壊してしまえ! 化物糸車など!」

「やめとくれぇ!」

 ジェームズの悲痛な願いも虚しく、金槌と棍棒による耳障りな破砕音が、大きく響き渡った。

「ワシの、ジェニーが。細かな調整に、どれだけ苦悩したと……」

 悔しがるジェームズを尻目に、織物工たちの纏め役と思しき人物が、居丈高に言い放った。

「設計図は、没収させてもらう。性懲りもなく、また製造するようなことがあれば、何度でも、然るべき措置を講ずるからな」

「肝に銘じておけよ、指物師風情が」

 織物工たちは、捨て台詞を吐いて、工房を出た。

 一部始終を外で耳にしていた文之進は、漸く織物工たちの前に現れた。

「いやはや、正義感ぶった馬鹿どもが、徒党を組んで何をしてくれるかと思えば、ただのつまらぬ打ち壊しとは。もう少し、趣向を凝らした嫌がらせなら、楽しめたものを」

 文之進は、落胆を隠せなかった。織物工たちは、奇異の視線を文之進に注いだ。

「誰だ? この小僧は」

「町の人間ではないな?」

 織物工たちの疑問を無視し、文之進は憚りなく、侮蔑の言葉を紡いだ。

「馬鹿どもの首領も、小賢しいだけと来てる。全くもって、面白みがないな。下らぬ茶番を見せられた」

 文之進の容姿と言動から、織物工たちは推察する。

「黒い髪に、色付きの肌。ハーグリーブスめ、異人の用心棒を雇ったのか」

「だったら、とんだ役立たずだな。ふざけた糸車は、とっくに粗大ゴミだ」

 哄笑が、誰彼ともなく吹き出した。

 つくづく、度し難い。良薬を施しておいて、正解だった。

 下品に嘲笑う織物工たちへ、文之進は淡々と事実を述べた。

「お前たちは、ジェームズ殿の新型糸車が気に食わなかった。だが、ジェームズ殿、本人に危害を加えれば、他の大工職人も黙っておらぬ。新型糸車は怖いが、従来の糸車が供給されなくなれば、お前たち織物工は、一巻の終わり」

 笑い声が止んだ。替わって、貧相な敵意が、文之進に向けられ始める。

 文之進は、一切の遠慮をせず、畳み掛けた。

「故に、お前たちは新型糸車だけを壊した。ジェームズ殿を、大工職人を敵に回す度胸はなかったから。卑怯で救いがたい馬鹿で、なおかつ浅知恵な臆病者に相応しい、実に中途半端な制裁だな」

 織物工たちは、ついに怒りを露わにした。

「貴様に何が分かる! 余所者の小僧が」

「舐めた口を叩く前に、ハーグリーブスを慰めてやるんだな」

「それとも、まさか、小僧一人で、仕返しをするつもりか? やめておけ。痛い目を見る結果になるぞ」

 三十人以上の逞しい織物工連中を前にしても、文之進は鳥肌一つ、立たなかった。

 恐怖など、湧くはずがない。

 揃いも揃って、他人の邪魔しかできない者たちを、どう怖がれというのか。

「お前たちの脅しなど、蜥蜴(とかげ)一匹に睨まれるより劣る。はっきり言って、蚯蚓(みみず)に懐(なつ)かれる程度に鬱陶しいだけだ。いちいち、相手などしてやれぬな」

 文之進は、織物工たちの威圧を一蹴した。

 纏め役の男がジェームズの設計図を握り締め、苛立たしげに歯噛みした。

「小僧、挑発も大概に」

「ところで、焚き火は好きか?」

 文之進の問いかけと、ほぼ同時に、焦げ臭さと白煙が流れてきた。

「なんだ、この煙は?」「町から漂ってくるぞ!」「小僧、何をしやがった!」

 動揺が走る織物工たちに、文之進は意味深長な回答をした。

「糸も布も木も、よく燃えるな。特に布は、油が染み込みやすかった」

「まさか、私たちの糸車に、火を?」

 織物工たちの表情が、一斉に凍り付いた。

 容易に想像が付いたためだろう。炎が糸車を、家を燃やす光景が。

 さっきまで、ジェームズの糸車を壊して、愉快な顔をしていた織物工たちを、文之進は一笑に付した。

「悪因悪果、だ、阿呆ども。他人様に行った仕打ちを、お前たちも被っただけに過ぎぬ。文句など、あるまい?」

「貴様、ただで済むと――」

 織物工の一人は、激昂しかけたが、

「小僧に構うな! 急いで布萊克本に戻るぞ!」

「火の手は小さい! 手遅れになる前に、消し止めなければ!」

 圧倒的多数に呼び止められ、死に物狂いで駆け去った。

 文之進は、たった一人を除いて、見逃した。ジェームズの設計図を奪った、纏め役を除いて。

「さて、業者の頭領殿。設計図を渡してくれ」

 纏め役の前に、文之進は立ちはだかる。

「戯言を。ハーグリーブスの悪しき野望など、成就させてなるものか」

「悪しき野望、ねえ。よもや冗談でなく、本気で仰ってる?」

 文之進が、半ば呆れ果てつつ尋ねると、纏め役は、我が意を得たとばかりに、強がった。

「当たり前だ! 町を貶めんと企む者どもに、屈したりは――」

「なら、お前は、どうして、設計図を破り捨てず、後生大事に抱えてるんだ?」

 文之進の一言で、纏め役は二の句が継げなくなった。

「結局、我欲に負けたのも、心根が腐ってたのも、アンタや織物工の連中だ。他人様の発明に嫉妬し、保身を言い訳に、利益を掠め取ろうとした」

「ブラントウッド、おめえ」

 ジェームズが、失意に満ちた声音で、纏め役の名を口にした。

 ブラントウッドは、ジェームズを睨んで、無茶苦茶な責任転嫁を行った。

「貴様が悪いのだ、ハーグリーブス! 悪魔じみた発明で、皆を拐かして! 貴様など、町には要らん! 即刻、出て行――ぱぎゃあ!」

 いい加減、文之進は不愉快になり、ブラントウッドの足を、靴ごと太刀で貫いた。

 片足を地面に縫い付けられ、悲鳴を上げるブラントウッドに、文之進は躊躇いなく脇差を押し当て、説き伏せる。

「餓鬼の喚きなど、聞くに堪えぬ。さっさと設計図を差し出して、去るがいい。さもなくば、腕ごと頂く」

 ブラントウッドは、泣きながら文之進の指示に従った。文之進が太刀を引き抜くと、ブラントウッドは片足ケンケンしつつ、瞬く間に視界から失せた。

「しばらくぶりだなぁ、若人。にしても、町に放火するなんざ、やりすぎだ。いくらなんでも、目に余るってもんだぜ」

 ジェームズは深刻そうな表情で、文之進に詰め寄った。文之進は肩を竦めて、煙の種を明かした。

「町の近くの草っ原に、松明を放っただけだ。職人の魂とも呼べる商売道具に手を出すほど、落ちぶれてはおらぬ」

 真相を教えられ、ジェームズは大いに安堵した。

「良かったぜ。若人が善人で」

「俺の目当てが、ジェームズ殿の設計図だとしても、同じ台詞が言えるか?」

 肩を抱こうとしてきたジェームズから、一歩、すりゅりゅっと後ずさり、文之進は訊いた。ジェームズは、しばし驚いていたが、やがて再び、相好を崩した。

「欲しいのかい? 若人も」

 文之進は、丸まった図面を掲げ、深く頷いた。

「割と、喉から手が出るほどにな。ジェームズ殿が特許を取得した後、設計図を買い取らせてくれ。曼徹斯特の職人に複製を作らせて、金持ちの業者に転売する。一万ポンドは、儲けたいな」

 文之進の漏らした、顎が外れるような額に、ジェームズは唖然となりかけた。

「荒稼ぎするねぇ。貴族にでも、なろうってのかい?」

「まさか。ただの結婚資金集めさ」

 文之進は、あっさりと金の使い道を開示した。ジェームズは、瞬きを繰り返してから、唐突に腹を抱えた。

「がっふぁっふぁ、若人、結婚すんのかぃ」

「まだ、確定してるわけではないがな」

 なにしろ、相手は未だ、正気に戻っていない可能性がある。しっかり、目を醒ましてもらった上で、相談しなければ。

 ジェームズは、急に馴れ馴れしい態度で、下世話な質問を投げかけた。

「一万ポンドも要るってこたぁ、相当な上玉なんだろぉ?」

「姫君ではあるよ」

 紛れもない真実を、文之進は述べた。しかし、ジェームズは、『お姫様と呼ぶくらい、文之進が惚れている相手』と勘違いしたらしく、頬をますます緩め、文之進に絡んだ。

「ワシも妻子持ちだから、よぉーく分かるぜ。林檎、目の中ってぐらいに、愛してるんだやな?」

「小馬鹿にして楽しむ行為を、愛でるというなら、ジェームズ殿の言う通りだな」

 少々、気恥ずかしくなり、拗ねた文之進を、ジェームズは一頻り、笑い飛ばしてから、満足げに言った。

「いいぜ、今すぐ持ってけぃ。ワシの設計図を」

「いや、ジェームズ殿が、最初に新型糸車を作り、特許申請を通さなければ、何も始まらぬ」

 設計図を渡そうとした文之進の手を、ジェームズは優しく押し返した。

「実はなぁ、既に何台か作って、売っちまったんだよ」

「なんと! 特許の申請前にか?」

 暴挙とも思えるジェームズの行動に、文之進は仰天した。しかし、ジェームズは全く後悔していない様子で、微笑んだ。

「さっきの織物工たちの、何人かに頼まれてなぁ。どうしても、断り切れなかった。舞い上がっちまったんだよ。なんだかんだで、ワシの発明を必要としてくれるなら、力を貸そうってな」

「ジェームズ殿……」

 考えてみれば、ごく当たり前の事実だった。

 ジェームズは、工房で密かに新型糸車を製作していたのに、なぜ織物工連中に知られたのか? 明白な危機感を覚えたのか? 実際に、織物工が注文して使用し、効率の良さを味わったからに他ならない。

「だが、ブラントウッドに罵られて、吹っ切れたよ。布萊克本の連中にとって、ワシは、目障りな存在でしかなかったみてえだ」

 ジェームズは、達観した顔で踵を返し、工房へと歩き出した。

「ワシは、妻と引っ越すことにすらぁね。諾丁漢(ノッティンガム)辺りにでも、な」

 軽い口調とは裏腹に、ジェームズの背中には、布萊克本の織物工たちに対する、失望と寂寥が、ありありと滲んでいた。

 かつて、文之進も経験した。ジェームズのように、実力を羨まれて、ではないが、くだらない連中に追い出された点は、共通している。

 しかし、同情はできなかった。文之進が、ジェームズの境遇を哀れんでしまったら、少なからず自身の人生をも、悲観する結果となる。

 そもそも、ジェームズが辛い目に遭った原因の一端は、文之進にある。ならばこそ、文之進は悲しむべきではなかった。

 文之進は、設計図を懐に仕舞うと、ジェームズに強く主張した。

「新型糸車は、ジェニーは間違いなく、素晴らしい発明だった。ジェームズ殿には、これからも糸車を作り続けて欲しい。ジェームズ殿が仕事をせねば、俺の丸儲けになる」

 文之進の激励を受け、ジェームズは笑顔で振り返った。

「上等だ。若人こそ、頑張って、女をものにするこったぁな」

 工房の扉が閉じられ、ジェームズの姿は見えなくなった。が、啜り泣く声は、しばらく外に漏れていた。

 文之進は、静けさが戻るまで待った後、工房に向かって一礼し、立ち去った。

        6

 翌朝。

 曼徹斯特の郊外に位置する、小さな湖の畔に、文之進はイルジナを連れ、やって来た。

「こんな早くに起きて、どうしたのよ」

 イルジナは欠伸混じりに、寝惚け眼を擦った。

 光沢を纏った、薄茶色に波打つ髪。血色が改善し、程良く丸みを帯びた輪郭。

 美しくなった。いや、本来の美貌を、取り戻したと評すべきか。

 明眸皓歯。眉目秀麗。

 衣服だけは、イルジナ本人の意向により、大した代物ではないが、もはや見窄らしい、惨めな印象は、微塵もなかった。

 自然な煌びやかさを誇るイルジナに、文之進は満ち足りた気分で話しかけた。

「英格蘭の生活には、慣れたみたいだな」

 イルジナは、若干、不機嫌そうに、愚痴を漏らした。

「毎日、ヤズに振り回されっぱなしよ。ヤズったら、文之進に構ってもらいたい衝動を、全部、アタシで解消するんだもの。大変ったらないわ」

「すまぬな。家を留守にしてばかりで」

 文之進は、肩を竦めて苦笑した。

「全くよ。いつも夜遅くまで、いったい、どこをほっつき歩いてるわけ?」

 イルジナは両手を腰に当て、文之進に詰め寄った。

 文之進は、陽光を反射する湖に視線を逸らし、目を細めた。

「まるで、夫婦(めおと)の会話だな」

「ふざけてないで、ちゃんと白状しろー」

 茶化す文之進を、イルジナは咎めた。が、文之進は明確な回答を避けた。

「つまらぬ金儲けさ。退屈な話で、眠たくなられては困る」

「また、そうやって、煙に巻いて」

 隣で、イルジナは頬を膨らませ、文之進の肩に頭を擡げた。

「ねえ、無理してるんだったら、アタシも働くわよ? アタシは文之進に、とんでもなく大きな借りが――あかっ」

 イルジナの脳天を、文之進は躊躇なく掌で叩(はた)いた。

「一人前の台詞は、まともな教養を身に付けてから口にしろ。こないだ、俺が買ってきた『打係縷亜那都米(ターヘル・アナトミイ)』は、読み終えたか?」

「あれ、蘭語の医学書よ!? 一行を理解するのに、何時間ぐらい掛かると思ってんの!」

 無理難題に、イルジナは猛抗議した。しかし、文之進は冷静に、次の問いに移る。

「では、二ヶ月前に渡した、『民約論』は? イルジナの母国語に翻訳された、海賊版だったはずだが」

 イルジナは、うっ、と言葉を詰まらせ、たじろいだ。

「ま、まだ五分の一くらいしか、消化できてない」

 掌打に備え、身構えるイルジナに、文之進は落胆を隠せなかった。

「ならば、倫敦の本屋でイルジナが選んだ、『レミュエル・ガリヴァー船長の旅行記四篇』は、どうだ?」

 正直、文之進の期待は薄かったが、意外にも、イルジナは、ふぁあっと表情を明るくして、頷いた。

「あの冒険小説は、最後まで目を通したわ! 挿絵が、いっぱいで、面白――って、いたたたあ!」

「文字を読め、ちゃんと」

 文之進は、心底、残念な気持ちを味わいつつ、イルジナの頭を両手で掴んだ。

 イルジナは、悲鳴に近い弁明を叫ぶ。

「だって、英語が一番、分かりにくいんだもん!」

「どこがだ。英語も仏語も独語も、似たような記号の塊だろうに」

 文之進は、にべもなく吐き捨てると、イルジナの頭部を解放した。イルジナは、親に叱られた童のような涙目で、文之進を睨み付けた。

「単語も表現も、全然、違うからよ! というか、偉そうに言う文之進は、語学力、完璧なんでしょうね?」

「書物が読める程度には、嗜んでる」

 伊達に、山縣大弐の下で、学問を修めてはいない。付け加えるならば、修学の重要性を心得ているからこそ、文之進はイルジナに読書を勧めていた。

「だったら、アタシに教えてよ。出掛けてばっかり、いないでさ」

 イルジナは唇を窄め、上目遣いで要求した。イルジナ本人に自覚はなくとも、つい、甘やかしたくなる可憐さだ。

「ヤズだけじゃない。アタシだって、寂しい思いをしてるのよ? 好きになった人が、放浪癖を発揮しまくってるせいで」

「あ~、忘れてた」

 罪悪感を刺激する物言いをされた文之進だが、思考は別の地点に行き着いた。

「酷い! アタシを馬鹿呼ばわりしておいて!」

「違う。お前に文句を言われて、思い出したんだ。朝早く、ひと気のない場所に、お前を連れてきた目的を」

 文之進は、頬を掻いて、照れ笑いを作った。すると、イルジナは何を勘違いしたのか、盛大に戸惑った。

「ひぇ~? ままま、待って! こんな見通しの良いところで始めたりしたら、誰か通り掛かるかもしれないでしょうが」

 イルジナは、尋常ではない勢いで恥じらったが、文之進は気にせず言い寄った。

「そう、固くなるな。すぐ済む」

「嫌ったら嫌! やるなら、せめて、家の中でしましょう? 明るくなってから、外で及ぶなんて、おかしいわ」

 イルジナの必死の懇願は、実らなかった。

「断る。ヤズに邪魔されたくはない」

 文之進は、きっぱり言い切ると、イルジナを正面に見据えた。

「それじゃ、始めさせてくれ」

 イルジナは、顔を限界まで紅潮させ、怒鳴る。

「やめてって、恥ずかしいでしょうが! いい加減、怒るわ……よ?」

 文之進は、イルジナの前に跪き、詫びた。

「約半年、待たせてすまなかった」

「何の、話をして」

 言葉の途中で、イルジナは思い至ったらしく、口元に手を当てて、驚いた。

「英格蘭を駆けずりながら、俺なりに考えた。公ではないとはいえ、異国の皇女を娶るなど、あっていいものかと」

「良いに決まってるわ!」

 イルジナは、即座に肯定し、心の内を暴露した。

「アンタは変わった奴だったけど、アタシを守ってくれた。守り抜いてくれた。アタシが、どこの誰かを知らなかったときから。アタシが、どれだけ厄介な連中を、敵に回してるのか、知ったときだって、ずっと。お金も、自分の命も、何もかも度外視して」

 文之進は首を横に振って、イルジナの英雄視を覆そうとした。

「俺は、聖人君子ではない。あくまで俺は、俺の充足のために戦った。イルジナが引け目を感じる必要など、一切ないんだ」

 しかし、イルジナは頑として譲らなかった。

「それでも! 祈っても来てくれなかった神様なんかより、よっぽど立派だった。よっぽど頼りになった。惨めでも、生きてきた甲斐があったんだって、アタシに教えてくれた」

「だから、惚れたのか?」

 文之進の問いに、イルジナは力強く頷き、断言した。

「誰も、文句なんて言わない。アタシが言わせない。文之進は、誰よりもアタシの旦那に相応しい。狂おしいほど憎らしくって、身悶えするぐらい格好いい、アタシの騎士よ」

 イルジナの手が、文之進に差し伸べられる。リースルと同じように。

 文之進は、イルジナの手を取り、本心を明かした。

「俺は最初、お前が嫌いだった。昔の痛々しい自分を、大事な人を見殺しにした自分を、目の当たりにしてるようでな」

 文之進が面を上げると、イルジナは、微かに息を呑んだ。が、イルジナの目は、しっかりと文之進を見据え、回答を待っていた。

 文之進は快く、続きを述べた。

「しかし、今のイルジナは、俺の好みに合致する。容姿、心意気、ともに魅力的だ。俺には、もったいないぐらいに」

 イルジナの表情に、安堵の笑みと、涙が浮かんだ。文之進は、イルジナの手の甲に口付けし、立ち上がった。

「厚かましい限りだが、再度、問わせてくれ。本当に、俺でいいんだな?」

 イルジナは、心から嬉しそうに目元を拭い、突っぱねた。

「しつこい。自分を卑下するなって言ったのは、文之進でしょう」

 確認に確認を重ねた末、文之進は、漸く、自分の欲求を口にした。

「ならば、今度は俺から申し出よう。一万ポンドやるから、俺と結婚してくれ」

「なんで、お金で釣ろうとするのよ! せっかく、綺麗に決まりかけてたのに!」

 イルジナは腹を立て、文之進の頬を引っ張った。

        7

 西暦一七六八年、六月。

 英格蘭及び、大英帝国の首都、倫敦にて、文之進とイルジナの結婚式が催される運びとなった。

 式場にと選んだ教会は、稀代の天才建築家、クリストファー・レンにより再建された、聖ポール大聖堂。宮殿と神殿を融合させたような外観の、巨大な石造建築物は、数百人の招待客と野次馬を、易々と呑み込んだ。

 荘厳な壁画と、金色の装飾品、大理石の床に彩られた、聖堂内部。

 西洋の礼服に身を包み、総髪で固めた文之進は、中央の大広間にて、花嫁の到着を待っていた。

「かっこええなぁ、ブンノシン。ホンマ、別人みたいや」

 遠方からの来客者、ナオキが、仲間の子供たちを引き連れ、近寄ってきた。

「遠路はるばる、御苦労だった。ナオキたちも、立派な修道服姿だな」

 文之進が褒めると、ナオキは照れ臭そうに後頭部を掻き、仲間の子供たちは、嬉しそうに、はしゃぎ回った。

「ルベ神父が用意してくれたんや」

「こない、ごっつい場所に呼ばれるなんて、知らんかったわ」

「ブンノシン、海賊擬き辞めて、出世したんやな。羨ましいわぁ」

 ナオキたちの相手に、文之進が苦心し始めた頃、

「皆さん。新郎を困らせたら、あきまへん」

 ルベ神父が到着した。

 文之進は、いち早く挨拶を交わした。

「ようこそ、ルベ殿。お越し頂き、感謝する」

「こちらこそ、こない立派な結婚式に、ご招待してもろうて、ありがたい限りです」

 柔和に笑うルベ神父に、文之進は小声で尋ねた。

「すまぬな。わざわざ宗派の異なる英格蘭に、足を運んでもらって。居心地は、良くないか?」

「とんでもありまへん。ルベもナオキさんたちも、大都会に来られて、喜んどります。文之進さんの晴れ舞台、楽しみにしとりまっせ」

 ルベ神父は朗らかに告げ、ナオキたちと身廊まで下がった。聖歌隊が、上の席で準備を始める。

 ルベ神父たちの中に、ペーニャがいなかった事実に、文之進は、少々、落胆した。

「やっぱり、ペーニャは来なかったか」

「勝手に欠席扱いせんといてえな」

 文之進は、仰天して振り返った。腕組みしたペーニャが、不愉快そうに目を細め、立っていた。

「まさか、生きとったなんてなぁ、文之進。どない、あくどい商売したか、知らんけど、その内、絶対、天罰が下るで」

「久しいな、ペーニャ。変わらぬようで、何よりだ」

 悪口を懐かしみつつ、文之進はペーニャと向き合った。

「ルベ神父とナオキたちだけやと、心配やから、寄ったんや。別に、文之進とイルジナの結婚を祝いたかったわけや、あらへん」

「だとしても、嬉しい。ヤズとイルジナにも、是非、顔を合わせてやってくれ」

 文之進が、あくまで歓迎の態度を貫いたところ、ペーニャの機嫌は、ますます悪化した。

「ぐにに~、なんや、その余裕。覚えとき!」

 ペーニャは負け惜しみっぽい台詞を残し、人混みの中へ消え去った。入れ替わるかたちで、今度はジェームズが現れる。

 屈強な体付きのジェームズは、礼服も似合っていた。

「やったじゃねぇか、若人。めでてぇ、めでてぇ」

「ジェームズ殿の、お陰だ。新型糸車の、ジェニーの収益がなければ、ここまで豪勢な式は挙げられなかった」

「ワシに商売の才能は、なかった。実現したのぁ、若人の力だよ。ワシも、まだまだ負けてらんねぇやな。がっふぁっ――」

 ジェームズの高笑いと重なるように、突如、聖歌隊の斉唱が響いた。騒然としていた人垣が、瞬く間に静まり返っていく。

 いよいよ、か。

 心地良い緊張が、文之進を包んだ。

 ジェームズは、文之進の肩を思い切り叩き、激励を送った。

「妻と一緒に、応援しといてやらぁ。落ち着いてけよ」

「かたじけない」

 文之進が頷くと、ジェームズは力強い笑みを寄越し、遠離った。

 斉唱に、風琴の音色が混ざり、大聖堂を揺さぶった。

 音による圧迫感。昂ぶる高揚。

 全てが最高潮に達したとき、群衆が真っ二つに割れた。

 玄関から続く直線上。イルジナが、ヤズに手を引かれ、入場した。

 純白。

 輝かしい絹で編み込まれた、汚れなき花嫁装束と、薄化粧を施された、美しいイルジナの相貌が、文之進の視界を覆い尽くした。

 イルジナを送り届けたヤズは、何も言わず走り去った。間近に迫ったイルジナは、文之進以上に強張った面持ちで、焦燥を吐露した。

「ややや、やっぱり、変よ。こんな大きな教会で、こんなにたくさん、人を呼ぶなんて。アタシたち、貴族でも王族でもないのよ?」

 お前は皇族だろうが。

 文之進は、指摘したい衝動を抑え、イルジナに言い聞かせた。

「庶民だって、結婚式は派手にやる」

「にしたって、限度ってものが」

「今日だけの辛抱だ、覚悟を決めろ。ほら、牧師が来たぞ」

 文之進に促され、イルジナは生唾を呑み込んだ。

 文之進とイルジナの前に立った牧師は、斉唱の終わりを待ってから、厳かな口調で開式を伝え、いくつかの文言と聖書の一篇を読み上げた。

 婚礼の儀は、着々と進んだ。イルジナは、終始、舞い上がっていたが、文之進は、ふと、不穏な気配を察知した。

 式辞にて、牧師が来客たちに問う。二人の結婚に、異議を唱える者はいるか? と。

 慣例として、沈黙が降りるはずだった。

「ここに」

 声は、吹き抜けの二階から届いた。

 他の来客も、牧師も、聖歌隊も、イルジナも、予想だにしていなかった反応に、唖然となった。文之進は、ほぼ確信を抱きつつ、斜め上を仰いだ。

 全身、黒で身を固めた、リースルと思しき女が、十字槍を片手に、文之進を見下ろしていた。

「招待状も送らなかったのに、よく嗅ぎつけたな、リースル。歓迎しよう」

 文之進の挨拶にリースルは返事をせず、縄を伝って降りてきた。

 来客たちは、悲鳴とともに逃げ始めた。文之進は丸腰のまま、イルジナを庇うかたちで、リースルの前へ出た。

「牧師殿。俺の花嫁を連れて、下がってくれ」

 十字槍を構えるリースルから、文之進は目を離さずに、叫んだ。イルジナは、激しく声を荒げた。

「駄目、文之進! アタシと逃げて!」

「賛同したいところは、山々だが――」

 容赦なく、リースルの十字槍が襲いかかった。文之進は、殴打を避けきれず、腕から血を流した。

「厄介な得物を、持ち込んだな」

 文之進は苦戦しつつ、話しかけた。が、やはり、リースルからの返答はなく、殺気を帯びた視線のみ、寄越してきた。

 十字槍が、縦横無尽に振るわれる。動きにくい礼装では、隙を突く自信がなかった。

 多少の深手を、文之進が覚悟しかけたところ、

「まったく。異議を申し上げたかったのは、ワタシとて同じでしたのに」

 舞い降りた外套が、リースルに覆い被さった。

 視界と身動きを奪われ、リースルは藻掻いた。すかさず、文之進はリースルの懐に飛び込み、掌打を見舞った。

 壁に激突したリースルは、尚も槍を握り締め、抵抗を示した。やむを得ないと判断した文之進は、外套越しにリースルの口を押さえた。

 リースルは、しばらく苦しそうに暴れていたが、やがて窒息し、気絶した。文之進は、十字槍を遠くへ放り投げ、一息吐いた。

「さすがだな、カテア。助太刀の礼を、言わせてもら……」

 文之進が見上げたとき、既にカテアの姿はなかった。

「文之進!」

 イルジナが泣きながら駆け寄り、文之進の頬を殴った。理不尽な衝撃と激痛が、文之進を苛んだ。

「最っ低! 結婚式に死ぬ馬鹿が、どこにいんのよ!」

「心外だな。しぶとく生きてるのに」

 反論した文之進は、もう一発、今度は腹に喰らった。

「アタシの身が保たないって言ってんの! 本当に、心臓に悪い真似ばっかりして」

 イルジナは、崩れかけた化粧を気にも掛けず、文之進の胸元に身体を預けた。文之進は、イルジナを抱き寄せ、素直に詫びた。

「すまぬ。心配をかけた」

「まったくよ。こんな、無意味に嫌な思いをするんだったら、曼徹斯特の小さな教会で、ひっそりと式を挙げたかったわ」

 身も蓋もない感想を漏らすイルジナに、文之進は苦笑を浮かべた。

「意味なら、あったさ。ハプスブルクの連中が、ちょっかいを出してきたということは、イルジナの幸せが、きちんと伝わってる事実に他ならない。お前の復讐は、成し遂げられたんだ」

「うすんっ、危うく、不幸になりかけたわ」

 イルジナは顔を埋(うず)めたまま、駄々っ子じみた態度で、文之進から離れなかった。

 文之進は、イルジナの頭を軽く撫でると、周囲に視線を移した。

 すぐ近くにいた牧師は、リースルに対し、非常に不愉快な表情を浮かべ、「不届きな邪魔者を、さっさと連行せい」と、部下たちに命じていた。

「待ってくれ、牧師殿。そちらの黒い客は、教会の外へ締め出すだけに、留めてもらおうか」

 文之進の寛大すぎる措置に、牧師は仰天し、イルジナは怒った。

「冗談でしょう? 誰もが見てる前で、文之進を殺そうとしたのよ! 牢屋に放り込まれて、当然だわ」

「借りがなければ、俺だってイルジナの意見に賛成さ」

 文之進は、イルジナの身体を引き剥がし、リースルに近寄って、外套を捲った。

「うへぅ、こはっ」

 素顔が露わになった襲撃者は、薄目を開いて、咳き込んだ。てっきりリースルだと思い込んでいたが、違った。

「去年、会って以来だな。ヘレンとやら」

「覚えていて、くださったので、ございますか」

 リースルに仕えていた下女のヘレンは、力なく呟いた。

        8

 一時、中断はあったものの、結婚式は最後まで執り行われた。

 夜。メイフェアにある高級宿を、丸々一軒、借り切った文之進は、食堂に、ルベ神父や、ペーニャ、ナオキたちを招き、宴を開いていた。

 ルベ神父とペーニャが、取り分けた料理に、ヤズとナオキたちが囓(かぶ)りつく。比律賓勢は、なんとも微笑ましかった。

 礼服から、いつもの召物に着替えた文之進は、椅子に凭れ、少しずつ酒を呷った。すると右隣から、ヘレンが顔を真っ赤にして、涙ながらに絡んできた。

「信じられねえで、ございますよね。ヘレンは、エリーザベト様のためを想って、行動いたしましたのに……うぃっぷ。結婚式の妨害でもして、死んでこい、なんて、あんまりでございます」

 泣き上戸のヘレンに、文之進は困惑する。と、次は左隣のイルジナが、あらん限りの声でもって、ヘレンを怒鳴りつけた。

「信じられないのは、アンタよ! なんっで、アタシたちの宿まで従いてきた挙げ句、酒なんか呑んでんの! 任務に失敗した刺客が、仲良く宴会に参加するって、ありえないでしょうが!」

「仰る通りで……ひゅ? ござひますね。ヘレンも、状況が、よくわららないのでございますが。文之進さま」

 ヘレンは、泥酔しきった瞳で、文之進を見遣った。が、文之進だって、理解が及んでなどいなかった。

 ヘレンが預かっていたリースルからの手紙には、『ヘレンの糞馬鹿が死に損なったら、くれてやる。大事に使うなり、玩具にするなり、好きにしろ』と記されていた。無茶苦茶もいいところだ。

 リースルの手紙の内容を、一言一句、余すところなく、文之進が伝えると、ヘレンは捨て鉢気味に喜んだ。

「やりましたあ! ようやっと、ヘレンはエリーザベト様の隷属から、解放されたのでございますよ」

「あっそ、良かったわね。じゃあ、もう帰ってもらえるかしら? 今すぐに!」

 イルジナは早口で捲し立てたが、ヘレンは応じなかった。

「何を、おっさいますやら。エリーザベト様の意向に、したがひまして、ヘレンは文之進様に仕えるのでございますよ」

「ふざけんじゃないわよ! 殺しに来た相手を、雇うわけないでしょうが! アンタのせいで、結婚式が台無しになったんだからね!」

 イルジナは激情に任せ、食卓を叩いた。対して、文之進は、冷静な判断でもって、結論を述べた。

「そもそも、経済的に厳しいな。リースルがヘレンに払ってた分の給金など、想像が付かぬが、俺の全財産など、すぐに消し飛ぶ気がする」

 しかし、ヘレンは、酔った顔を綻ばせ、釈明した。

「ご心配、なさらずに。意地悪なエリーザベト様には、ほとほと愛想が尽いております。どんな薄給であろうと、文句なんて、ございません」

「だったら、他の家に奉公すればいいでしょう? アタシと文之進の家庭に、アンタなんか、要らないわ」

 野良犬でも追い払うような仕草で、しっしっと、イルジナはヘレンに手を振った。

 ヘレンは、再び文之進に泣き付いた。

「わーん、文之進様ー。若奥様が、虐めてくるのでございます」

「アタシの旦那に甘えるな! 刺し殺すわよ!」

 イルジナの目は、本気だった。

 文之進は、酒で鈍りかけた頭を振り、思考を巡らせた。

「ヘレンよ。つかぬことを伺うが、語学は達者か?」

 問われたヘレンは、自信満々に頷いた。

「一通りは、嗜んでございまふ。独語、仏語、英語、ラテン語、スペイン語、イタリア語、ポルトガル語、ルーマニア語は、読めますし、書けますし、喋れまーす」

「よし、ヘレン。イルジナとヤズの教育係を頼む」

 即座に雇用を決めた文之進に、イルジナが抗議した。

「ちょっと、待ちなさい! 嫌よ、アタシは。敵の回し者に、勉強を習うなんて」

「けんもほろろに、目くじらを立てるでない。教えを請うのに、敵味方の区別は不要。殊、語学に関しては、俺よりもヘレンのほうが詳しいはずだ」

 何しろ、文之進のように、間接に間接を重ねて身に付けたのではなく、生まれたときから、直に蓄えた知識だ。鮮度が、精度が、まるで違う。叶うのであれば、是非とも、ご教授願いたい。

 文之進が、内心で涎を拭う横で、イルジナは尚も、懸念をなくせなかった。

「だからって、もし、裏切られたら……」

「無論、こちらの信用を反故にすれば、それなりの対処をする」

 文之進は、ヘレンに向き直ると、声を低くして尋ねた。

「ヘレン。お前は、俺を怒らせたらどうなるか、分かってるよな?」

 ヘレンの顔から、一気に血の気が引いた。

「半年前の悪夢は、忘れようがございません。騎士の方々が、生身の人に倒されるところなど、初めて目にしましたので。本日、ヘレンは、自暴自棄になりつつ、死んだつもりで挑ませていただいたのですが、まったく歯が立たなかった次第でございます」

「はんっ、当然よ。文之進は、アンタなんかに負けないわ」

 昼間の取り乱しっぷりは、どこへやら、イルジナは胸を張って断言した。

「改めて、自覚いたしました。文之進様には、どう足掻いたところで、敵わないと。同時に、文之進様が、手加減してくださった上、恩情を与えてくださったことに、心の底より、感謝しております。ですから、ヘレンは決して、文之進様を裏切ったりなどは、いたしません。んごぐっ」

 ヘレンは長広舌を振るうと、酒瓶を喇叭飲みし、文之進に撓垂れかかった。

「でふので~、お願いひますよ。きっと、文之進さまの役に、立ってみせまふから。なんれも、言うこと聞いてごらんにいれまふよ?」

 明らかに、ヘレンは悪酔いしていた。文之進が、呑気に対処を考えていると、

「だったら、まず、アタシの旦那から離れろ! この腐れ下女!」

 激怒したイルジナが、ヘレンの顔面を殴りつけ、食卓に沈めた。

 文之進は、イルジナを宥める。

「酔っぱらいを相手に、ムキになるなよ」

「五月蠅い! いきなり、しゃしゃり出てきて、アタシと文之進の間に割り込もうなんて、虫が良すぎるのよ!」

 イルジナの顔も、ヘレン同様、赤らんでいた。

        9

 夜が更け、街が静まり返った頃。

 二人用に設けられた、消灯済みの一室。硝子扉の開かれた縁側から、穏やかな月光が差し込み、部屋一面を照らす。

 文之進は、寝台に腰掛けながら、寝間着姿で横たわるイルジナを眺めていた。

 イルジナは寝息を立て、無防備な肢体を晒している。蠱惑的、とまではいかないものの、充分、綺麗で可愛らしかった。

「騒ぎすぎだ。夜伽の前に、疲れ果てて、どうする」

 不満を口にしつつも、文之進にイルジナを起こす気はなかった。情欲が、ないわけではない。だが、イルジナの寝顔を崩してまで、解消したいとは思えなかった。むしろ、イルジナの安眠を見守る行為により、不思議な充足を文之進は得ていた。

「おやおや。初夜の営みに、ワタシも混ぜてもらおうと思って、邪魔しましたが、既に、お済みでしたか」

 大胆不敵な台詞とともに、カテアが縁側に降り立った。

「この部屋、三階なんだが。よく昇ってこられたな」

「聖ポール大聖堂の二階よりは、低かったですよ」

 どちらにしろ、非常識だ。もはや呆れを通り越して、感心を覚える。

 文之進は、寝台を揺らさないように、そっと立ち上がり、縁側まで歩み寄った。

 カテアは片手に一輪の白い薔薇を携え、優雅に香りを楽しんでいた。相変わらずの伊達っぷりに、文之進は胸中で羨んだ。

「夫婦の寝床に、女が夜這いを懸けるとは。なんとも珍妙だな」

「衣服、乱れていませんね。なるほど、既遂ではなく、未遂だったのですか」

 カテアは艶美な微笑を溢し、あっさり、文之進とイルジナの状況を言い当てた。文之進は肩を竦め、白旗を挙げた。

「目敏いカテアに、誤魔化しは利かぬか。参った、参った」

「ふふふ、生殺しの割には余裕ですね。もしも痩せ我慢なのであれば、ワタシが、お相手しますよ?」

 三角帽の下で、カテアの眼光が妖しく輝いた。明らかに、文之進を獲物として捉えていた。

 野性味に溢れるカテアの誘惑を、文之進は振り払った。

「光栄な申し出だが、遠慮しておく。今の俺には、イルジナがいるからな」

 すると、カテアは元の目つきに戻り、残念がった。

「すっかり、イルジナさんに入れ込んでいるようですね。ワタシとしては、嫉妬する他、ありません」

 カテアは白薔薇を見つめ、嘆きを溢した。あくまで二枚目を貫くカテアに、文之進は称賛を隠せなかった。

「そういえば、昼間の礼が、まだだったな。ありがとう、カテア。お前の助けがなければ、大怪我は避けられなかった」

「本来ならば、ワタシがトウコツさんに、決闘を挑むはずだったのですが、予定が大幅に狂ってしまいました」

 カテアは本音を打ち明けつつ、自慢の外套を、ひらひらと摘んでみせた。

「臨機応変に、役回りを演じたのか。さすがだな」

「惚れ直しました?」

「嫌いではない」

 文之進は、照れ臭さから、捻くれた回答をした。が、機嫌を良くしたカテアは、笑みを深め、文之進の間近まで迫った。

 カテアと文之進の唇が、微かに触れ合った。

「貴方の器は、大きすぎました。ワタシの船には、入りきらないようです」

 僅かに、カテアの瞳が潤んでいた。文之進は、そっと指を這わせ、カテアの涙を拭い取った。

「俺も、お前を扱える自信などないよ。天下の大海賊、バーソロミュー・ロバーツの末裔、コンスタンティア船長」

 文之進は、親愛と敬意を込めて、カテアの白薔薇を握った。傍から見れば、色男と三枚目が、熱く手を取り合っているように映ったかもしれない。

 文之進は、カテアと一頻り、笑い合った後、尋ねた。

「また、東洋の海に帰るのか?」

 カテアは、文之進の胸元に白薔薇を残すと、しっかり頷いた。

「部下たちが、待っていますから。トウコツさんの愛人たるワタシは、本妻と違って、忙しいんですよ」

「お前なら、もっと良い男を仕留められるさ」

 文之進の励ましを、カテアは愛想良く受け止め、踵を返した。

「どうでしょうね。では、いつの日か、また会えることを」

 外套を翻し、カテアは華麗に飛び降りた。文之進は、カテアが消えた建物の影に向かい、別れを告げた。

「さらばだ。海の女貴公子」

 月下の宵に、酔い痴れつつ、文之進が部屋に戻ったところ、

「文之進。誰と、会話してたの?」

 眠たげな様子のイルジナが、寝台で上半身を起こしていた。

「すまぬ。目を醒まさせてしまったか」

 文之進は軽く謝り、胸元の白薔薇を、近くの花瓶に挿した。

「だ・れ・と、喋ってたかって、訊いてんのよぉ~」

 イルジナは朦朧としながら、文之進に問い質した。

「単なる独り言さ。イルジナを抱けなくて、残念がってたんだよ」

 文之進は、なるべく当たり障りのないよう、優しく、穏便に答えたはずだった。

 しかし、イルジナは、妻としての責務を強く意識したらしく、がぼぁっ、と飛び上がり、一気に覚醒した。

「ご、ごごご、ごめんなさい! アタシったら、ヘレンとの口喧嘩に、喉が嗄れてブッ倒れるまで、躍起になっちゃって」

 必死に謝るイルジナを、文之進は笑って許した。

「構わぬ。もう寝よう」

「寝ないわよ! しょしょしょ、初夜なんだから、ちゃんとしなくっちゃ!」

 言葉では、夜伽を求めていても、イルジナの強張った表情には、息苦しさが、ありありと滲んでいた。

 どう考えても、今夜は諦めたほうが無難だった。

 文之進は、決心するとともに、寝台の上に座った。

「イルジナ。お前は本当に、上がり症だな」

「だって、急に文之進が、抱きたいだとか言い出すんだもの。さっきから、動悸が止まらなくって」

 イルジナは胸を押さえ、苦しそうに歯噛みした。お陰で、文之進は策を思い付いた。

「なら、まずは緊張を解さなくては、な。しばらく横になって、息を整えろ」

「でも、アタシ、これ以上、文之進に辛抱して欲しくないのに」

「良妻を目指すなら、逸りは禁物だ」

 文之進に力説されたイルジナは、渋々、仰向けになり、毛布を被った。

「アタシが落ち着くまで、待っててくれる?」

 顔半分を覗かせ、子犬のような目で訴えるイルジナに、文之進は、しっかりと首肯した。

「よかろう。では、退屈凌ぎに、話でもしてやろうか」

「どんな?」

「ふむ、どうせなら、夜伽に関するものがいいな。では、花魁の話でも」

「おい、らん?」

「貴族と同等の力を持った、天下無敵の娼婦たちのことさ」

 イルジナが平静を取り戻し、眠りに就くまで、文之進の夜話は、長く、長く続いた。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

プリンセスの刀 @hamaki

★で称える

この小説が面白かったら★をつけてください。おすすめレビューも書けます。

カクヨムを、もっと楽しもう

この小説のおすすめレビューを見る

この小説のタグ