第5話 追う皇女、追われる皇女

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 十月を迎えた、ネーデルラント中央部。

 アムステルダムの東南東に位置する要塞都市、ナールデンは、難攻不落の堅牢さで知られていた。

 砲撃戦を想定した、雪の結晶を思わせる稜堡と、等間隔に囲われた堀。正確な直線構造が織り成す、美しい外観は、見る者を深く魅了する。

 イルジナもまた、ユトレヒトから続く道の途中で、芸術的な幾何学模様を眺め、感嘆の息を漏らした。

「あそこが、鉄壁の自治区(ヘメーンテ)、ナールデン。今まで一度も陥とされなかったって、本当かしら。あれ?」

 ふと、視界に入った異変が、イルジナの足を止めた。

「門が閉じてる。どうして」

 疑問は、大砲の響きで解けた。

 傭兵らしき一団が、門前に群がって、何事か叫んでいる。揉め事の匂いが、否が応にも伝わってきた。

「本当、迷惑な連中って、どこにでもいるのね」

 イルジナは、侮蔑を込めて吐き捨てると、迷わず獣道に入った。

 乱暴が服を着ているような馬鹿どもと顔合わせしたところで、得などない。まかり間違って、イルジナも傭兵の仲間だと判断されれば、ナールデンに入れてはもらえまい。

 傭兵どもが追い払われるまで、隠れて待っていよう。最悪、川を渡って、もう一つの門へ向かえばいい。とにかく、イルジナは傭兵どもとは会いたくなかった。

 国を跨いでも、『何者』かに狙われている自覚は、常にあった。死に際のホンザの戯言(たわごと)は、未だ信じる気にもなれないが、誰かが金銭をちらつかせ、イルジナの身を探している事実は、これまでの旅路で疑いようもなかった。

 人は、不満を誤魔化すことはできても、不安を振り払うことはできない。村が焼かれ、親しい人を悉く失った日から、イルジナはロクに眠れず、休めなかった。恨みや憤りなら、ともかく、ただただ己の身が危機に晒されているという恐怖から。

 故に、イルジナは一人で当て所なく彷徨い歩き、気付けば、故郷から遠く離れたネーデルラントにいるという有様だった。

 震える心が、イルジナの足を動かし続ける。より惨めに言い換えるならば、動く足を止める勇気が、イルジナにはなかった。

 あまりに不甲斐なくて、イルジナは自分で自分を嗤った。

「ごめんね、ホンザ。みんなの仇、討てるもんなら討ちたいよ。でも、やっぱりアタシには、無理みたい。だって――」

「砲撃が聞こえたのは、こっちか。む」

 イルジナは、驚きで心臓が止まりかけた。

 藪を越えた目と鼻の先に、見知らぬ青年の顔があったために。

「だっ、誰よ、アンタ!」

 腰を抜かしたイルジナは、青年に向かって叫んだ。

 黒い髪に、色の付いた肌。割と精悍な顔つきだが、鼻は低く、目つきは不相応に大人びている。外套の下に着込んだ、東洋風の衣装と相まって、不思議な雰囲気を纏っていた。

 腰に提げた二本の刀剣も、見たことのない飾り付けで、どこか気品ある美しさが特徴的だった。

「これは失敬。まさか、草むらから人が現れるとは、思わなかった」

 青年は礼節をもって、イルジナの手を引き、起こしてくれた。仰天していたとはいえ、かなりの喧嘩腰で当たったイルジナは、頭を冷やされた。

「ありがとう。えっと……」

「文之進だ。先日、海の果てより参ったばかりで、まだ右も左も分からぬ。悪いが、少し事情を訊いてもいいか?」

 変な名前の、文之進という青年は、軽く自己紹介を済ませ、尋ねてきた。イルジナは慌てて、首を横に振った。

「ダメダメダメ! まずは、アタシに質問させて。アンタ、旅芸人? それとも、変な格好の傭兵?」

 矢継ぎ早に問われ、文之進は、ちょっと残念そうに苦笑した。

「率直な物言いだな。旅はしてるが、別に武芸を生業にしてるわけではない。俺の出立ちは、俺が住んでたところでは、普通だった」

「じゃあ、どうやって稼いでるのよ?」

 俺が答えてばかりだな、と、文之進は嫌味を述べた。

 致し方ない。疑問の塊みたいな文之進が悪いのだ。

「船で遠出してきたんだ。遠方の品を転売しただけで、そこそこ金は作れたよ。今のところ、食うに困ってはおらぬ」

「そう、なの? なら、金欲しさに人を殺したり、お尋ね者を狙ったりとかは?」

 イルジナが、若干、怯えながら呟くと、文之進は、どういうわけか、腹を抱えた。

「あっははは、俺が金目当てに誰かを追い回すか、だと? いやいや、有り得ぬな」

「何が可笑しいのよ。余所者の色付きに選べる仕事なんか、ないんだからね」

 ふざけているのかと、イルジナが怒ったところ、文之進は真面目な視線を寄越した。

「だとしても、遠慮するよ。どこの誰が、どんな理由で逃げているにせよ、追われるのは面白くあるまい。よく分かるさ」

「……まさか、アンタも?」

 訝るイルジナに、文之進も勘繰りを孕んだ笑みを浮かべた。

「にしても、お前、随分と窶れてるな。こんな藪の中にいたことといい、ひょっとして、お前がまさに、追われる身とか?」

 再び、緊張が走った。

 イルジナは、とっさに踵を返そうとするも、門前の傭兵たちを思い出し、踏み留まった。

(どうしよう。戻ったら、あの物騒な傭兵どもと出会すかもしれない。かといって、このまま、この胡散臭い男と会話を続けたら、いつ、うっかり素性を喋っちゃうか、分からないし)

 戦々恐々とするイルジナとは対照的に、文之進は落ち着いた様子で、鼻を鳴らした。

「そう、おっかない面で睨まないでくれ。ほんの些細な冗談だ。機嫌を損ねたなら、謝るよ。ところで、お前、名前は?」

「お、教える義理なんて、ないわ」

 イルジナは必死に動揺を隠しつつ、回答を控えた、つもりだった。

 文之進は、一瞬、片眉を顰めてから、ふくく、と、口元を緩めた。

「あのなぁ~。せっかく、俺が気を使って、話題を逸らしたのに、わざわざ怪しまれるような態度で、いかにもな物言いをするなよ」

「どどど、どこが不自然なのよ! アンタが馬鹿正直に名乗ったからって、アタシまで名乗らなくちゃいけない法律なんて、ないじゃないですか」

 イルジナは混乱の極致に達し、変な敬語で噛みついた。

 今更、引き返せない。たとえ、子供の屁理屈より酷くとも。

 文之進は平静を保ったまま、人差し指を立て、諭すように言った。

「名前を知られたくないのなら、偽名でも騙ればいい。教えたくないってことは、知られたら困る人間だと、自白してるようなもんだろうが」

「へ? あ、それは、ちが、じゃなくて」

 あたふたと、弁明の言葉を探るイルジナに、トドメの一撃が見舞われた。

「会ったばかりの俺に、正直を通せとは言わぬよ。ただ、嘘を吐くなら、もっと上手に吐くようにせねばな。でないと、でっかい墓穴を掘るだけだぞ」

「げふぁっ。ち、畜生。初対面の奴に、ここまで虚仮にされるなんて。アタシ史上、最悪の失態だわ」

 イルジナは悔しさのあまり、地面に頽れた。しかし、文之進に慈悲はなかった。

「さて、では、お前のことは、頭の悪い窶れた女とでも呼ぼうか」

「なにその酷すぎる渾名!?」

 最初の礼儀正しさは、どこへやら。文之進の横暴に対し、イルジナは跳び上がって抗議した。

「お前が名乗らぬからだろう。ただの女では、個性に欠けるし」

「にしたって、もうちょっと、こう、マシな……。ええい、待って! 今、良さそうなの考えるから」

 もはや恥も外聞も体裁もなく、イルジナは文之進に頼んだ。文之進は、意地の悪い表情を収め、神妙に目線を泳がせると、浅く頷いた。

「よかろう。では、状況が一段落した後、ゆるりと決めてくれ」

「大丈夫よ。アタシに相応しい、ちゃんとした偽名を、すぐにでも――ひょな!」

 突然、イルジナは肩を掴まれ、引き倒された。衝撃で、間抜けな呻きが漏れた。

「いったぁ。アンタ、アタシに恨みでもあるわけ?」

「だったら、放っておいたんだがな。隣を見ろ」

 間近に屈んだ文之進が、指を差した先には、一本の矢が突き立っていた。イルジナは、驚愕と怖気を一度に感じ、竦み上がる。

「急いで遮蔽物に隠れないと。第二射が来るわ」

 イルジナの予想を、文之進は平然と否定した。

「いいや、弩の再装填には時間が掛かる。一度目を外した以上、他の得物で仕留めたほうが、早くて確実だ。だから」

 腰を浮かせた文之進は、イルジナを庇う格好で、前へと進み出た。

 奥の茂みから、襲撃者が姿を現わす。

 飢えた野犬のような目をした、体格の丸い巨漢だった。道化じみた、赤と緑の服に身を包み、手には十字槍が握られている。

「惜しかったっぺなぁ。あとちっとで、女の首根っこ射貫けたんだけども」

「その場慣れした動きと構えは、阿姆斯特丹でも、よく見かけた。お前、傭兵だな?」

 文之進の問いに、傭兵は首肯を返した。

「んだ。オラ、雇われ兵のグレッグ」

「自己紹介、どうも。悪かったな、仕事の邪魔をして」

 文之進は、刀剣に手を掛けつつ、和やかな姿勢で接した。道化風の傭兵、グレッグは、涎を拭い、首を傾げた。

「おっかしいな。女に連れはいねえって、聞いとったのに。オメエ、その女の護衛してんのけ?」

「いいや。そこの頭の悪い窶れた見窄らしい惨めな女とは、ついさっき出会ったばかりだ。知り合いとも呼べぬ間柄よ」

「増えてる! アタシの悪口、増えてるから!」

 イルジナは涙ながらに訴えたが、文之進は口笛を吹いて流した。事情を知ったグレッグは、嬉しそうに文之進へ躙り寄った。

「そうけえ、そうけえ。なら、オラと一緒に、その頭の悪い窶れた見窄らしい惨めな女、殺しちまうべや。すっげえ金、手に入んぞ」

「アンタも、なんで暗記してるのよ」

 進退窮まっているにも拘わらず、不名誉な渾名のほうが気になって、イルジナは脱力した。

 しかし、グレッグの脅しが、イルジナの危機感を、再度、煽る。

「おぉっと、頭の悪い窶れた見窄らしい惨めな女。逃げようなんて思うでねえよ。オラの他にも、仲間が潜んでんだかんな」

「なんですって? いったい、どこに?」

 素直に真に受け、周囲を凝視するイルジナを、文之進は哀れんだ。

「お前、本当に阿呆だな。グレッグの大法螺に、いちいち反応するなよ」

「はあ? なんで言い切れるのよ。ナールデンの入口には、傭兵がいっぱいいたし、アイツ一人だけだなんて証拠、どこにも――あぐっ!」

 イルジナの首が、勢いよく真横に回された。グキリ、と、骨が折れるような音が聞こえ、視界に矢が飛び込んできた。

 一瞬、本当に死んだかと思った。イルジナは畏怖の念を抱いて、振り返る。

「あの、文之進様。もしかして、アタシのこと、嫌いですか?」

「矢の数を確認させたんだ。百聞は一見にしかずってな」

「へう? それって、どういう」

 イルジナには、未だ理解が及ばなかったものの、グレッグは表情を強張らせた。

 文之進は、したり顔で講釈を垂れる。

「もし、グレッグの仲間が他にいるなら、一斉掃射で、お前を穴だらけにしようと目論むはずさ。一番、警戒の緩い、初撃にな」

 イルジナは、漸く合点が行き、両の手を叩いた。馬鹿の汚名を雪ぐには、些か遅かったようだが。

 文之進は得意気に、解説を続けた。

「なのに、矢は一発だけしか飛んでこなかった。弓兵でないのなら、今も尚、潜ませておく意味がない。よって、敵はグレッグ一人だけ。大方、哨戒か厠の途中で、運良く俺たちを発見したんだろう。違うか?」

 グレッグは、槍を持つ手に力を込め、唸った。

「はは~ん、参っちったな。こったら楽に、ハッタリを看破されっとは。後ろの残念な女と違って、オメエ、大した切れもんだ」

「待ってよ、ねえ! 面倒だからって、意味を凝縮しないでくれる?」

 イルジナの悲痛な意見を無視し、文之進は剣を抜いた。僅かに反り返った片刃の刀身が、鈍い光沢を放つ。

「報酬の仕組みを鑑みれば、悩むまでもない。女一人、仕留めるだけで、大金が手に入るんだ。分け前なんて不要だろう」

「まったくだべ。オラ、独り占めが大好きだ」

「奇遇だな。俺もだよ」

 文之進と道化野郎は、一緒に笑い合った。鋭い殺意で、互いを牽制しながら。

 よし、逃げよう。

 そっと後退ったイルジナに、文之進が釘を刺した。

「じっとしてろ、馬鹿。すぐ終わる」

「いや、だって、アンタもアタシを殺す気なんでしょ! 今、思いっきり告白しちゃったわよね!」

 イルジナは捨て台詞のつもりで怒鳴ったが、文之進に凄まじい形相で睨まれ、足を動かせなくなった。

「喧しいなぁ、助けてやろうとしてるのに。静かにせぬと、ブッ殺すぞ」

「どっちなのよ」

 イルジナの嘆きを皮切りに、グレッグが文之進に突進した。

「お喋りは終いだっぺ! ほいやあ!」

 十字槍が、大きく左右に振るわれる。グレッグの豪腕により、強烈な速さを伴って。

 拙い。殴り殺される。

 イルジナは、文之進の死を疑わなかった。しかし、文之進の足力は、イルジナの予想を上回っていた。

 僅かな隙を突き、文之進は深く飛び込んだ。一瞬で距離を詰められ、グレッグは笑みを崩した。

 くるりと、半回転。

 文之進は刀剣と身体を華麗に滑らせ、イルジナのほうへ向き直った。一瞬、遅れて、グレッグの手首から、鮮血が吹き出した。

「ほああ!」

 グレッグは槍を落とし、泣き叫んだ。

「うむ、久方ぶりに使ったが、悪くない手応えだ。おりゃ」

 勝手に一人で納得した文之進は、グレッグに後ろ蹴りを食らわせ、黙らせた。イルジナは目を奪われたまま、呆然となった。

 おかしい。

 凄惨な光景のはずなのに。

 怯えなくては、いけないはずなのに。

 逃げなくては、いけないはずなのに。

 イルジナは魅入っていた。刀剣の血が拭いきれず、顔を顰める文之進に。恐れも不安も、瞬きすらも忘れて。

「お、オラの手がぁ~。ぐげっ」

 抜き身の剣を肩に載せ、文之進は、拾い上げた槍の柄で、グレッグの胸を突いた。

「さて、グレッグ殿。勝敗が決したところで、一つ、答えてくれ。どこの誰に、この頭の悪い窶れた女の首を差し出せと頼まれた?」

 グレッグは、顔面蒼白になりながら、文之進の正気を疑った。

「オメエ。まさか、会ったばかしの女を、助けようってのけ? 酔狂にも、程ってもんがあっぺよ」

「有り難い忠告、まことに痛み入る。が、話を逸らすな。手首だけでなく、舌も要らぬのか?」

 文之進の冷徹な恫喝を、グレッグは発狂したかのごとく嘲笑った。

「げはは、無理だんべな。オメエ、一人っちゃかいねえのに、どうにか、なるわけ、あんめ。ヒルフェルスムにいた、やたら羽振りが良い、真っ黒な奴には、騎士団が従いてやがったんだかんよ」

「騎士ですって!?」

 信じがたい事実に、イルジナは愕然とした。グレッグは、どこか羨望を含んだ表情で、天を見上げた。

「白銀の甲冑が、すんげえ綺麗な、人と馬の群れだった。あったら高そうな装備、オラも一生に一度は、着てみてえやな」

「嘘、吐かないでよ! アタシの村を襲ったのは、間違いなくアンタみたいな、山賊紛いの傭兵連中だったわ。騎士なんて、お城の中にいる以外、王様か、お姫様の周りにしかいないでしょうが」

「知るわけ、あんめえよ。オラぁ、確かに――うごっ!」

 文之進は、最後まで聞かず、グレッグの顎を蹴り上げた。気絶したグレッグは、歯のほとんどを、口から溢した。

「情報提供に免じ、舌切りは勘弁してやろう。味覚を失っては、酷だからな」

 いやいや、咀嚼も充分、食事に必要な行為でしょうに。

 イルジナは心の中で苦言を呈したが、不快感はなかった。どちらかといえば、爽快感に近い。

 にしても、ますます分からなくなった。騎士団が国を跨いで追ってくるなど、尋常ではない。よもや本当に、イルジナが皇族の関係者だとでも――。

「おい、頭の悪い窶れた見窄らしい惨めな怪しい女。考え事に耽る前に、場所を移すぞ。グレッグの仲間が、探しに来るかもしれぬ」

「度々、話の腰を折って、本っ当に、ごめんなさい。でも言わせて。ちゃんと名乗るから、これ以上、蔑称を長くしないでもらえる?」

 イルジナは、思考の全てを中断し、歯噛みしながら切実に懇願した。何が悲しくて、恩人に敵意を煽られねばならないのか。

 文之進は、意外にも快く頷いた。

「よかろう。ただし、今の渾名より面白くなかったら、却下だから」

「偽名じゃないってば!」

「む? 条件は変わらぬが」

「なんでよ! イルジナ・デーネシュって名前に、愉快さなんか要求されたって、応えようがないでしょうが!」

 イルジナは完全に、からかわれていた。

        2

 ナールデンの南に接する街、バッセムは、夕暮れに包まれた。雨の多いオランダの十月に、立派な夕日が見られる機会は、かなり珍しい。

 リースルは、停車中の屋根付き辻馬車(フィアツカー)の車内にて、ヘレンから報告を聞き、興味をそそられた。

「野良の犬っころが、一匹、半殺し、ねえ。やぁっと、やり返してきやがったか。良い、良い、そうでなくっちゃなぁ。ロクな抵抗もねえまま、死体と御対面ってんじゃ、あまりにもつまんねえ。ちっとは、足掻いてもらわねえと」

「まだ、エリーザベト様の義妹君の仕業と決まったわけでは」

 ヘレンが戸惑っている点を、リースルは即座に言い当てる。

「女の細腕にしちゃ、手際が鮮やか過ぎるってか? 確かに、田舎育ちの素人が、野良犬の捌き方を心得てるとは、考えにくい」

「でしたら、別人の犯行では? 傭兵に不満を抱いている民は、少なからずおりますし、傭兵が悪事を働こうとして、返り討ちに遭った可能性も――いぎっ!」

 極めて頓珍漢な推論を披露されたリースルは、むっとした拍子に、ヘレンの片耳を強く引っ張った。

「いっ、痛うございます。エリーザベト様」

 涙を浮かべるヘレンに、リースルは説教した。

「テメエは、何を聞いてやがった。素人にできる芸当じゃねえ、っつってんだろうがよ。野良犬を簡単に伸しちまえるのは、同じ犬っころか、騎士ぐらいしかいねえ。農民や商人なら、加減せずに殺してらあ」

 丁寧な解説を終え、リースルはヘレンの耳を解放した。ヘレンは半泣きになりながらも、耳が千切れなかった結果に安堵した。

「では、エリーザベト様の義妹君が、誰かを、お雇いになった、と?」

「そう考えるのが妥当だな。ただ、いつ、どうやって、そんな凄腕を味方にしやがったのかは、甚だ解せねえが」

 傭兵だとすれば、金銭面で納得がいかない。リースルがイルジナの首に懸けた値段は、並みの下民が貴族の地位を買えるほどの額だ。目が眩まなければ、傭兵という商売と矛盾する。

 ならば、騎士か? イルジナの血統を知る第三者が、裏で手を回して……。

 いや、有り得ない。もし他国の諸侯どもが、天下のハプスブルク家の身内揉めに介入するならば、野良犬一匹を倒した程度で終わるはずがない。必ずや大規模な部隊が来て、激しい衝突が起こる。

 イルジナの味方は少数。否、一人だ。

 リースルは覆いの奥で、歪に北叟笑み、囁いた。

 テメエは、誰だ?

 金も地位もねえ女に手を貸すテメエは、いったい、何者だ?

「稀代の糞馬鹿か、勇敢な聖者様か。それとも、アタクシの元・フィアンセと同じ、色情狂の類か。いずれにせよ、面を拝んでみたくなった」

 リースルの愉悦を、ヘレンは遠慮がちに怪しんだ。

「エリーザベト様の義妹君が、お雇いになられた者を、ですか?」

「当然。アタクシはな、ヘレン。糞親父の粗相の後始末になんざ、微塵も興味ねえんだよ。アタクシは待ってたんだ。損得勘定抜きで、イルジナの件に絡んでくる奴を」

 だからこそ、リースルは直接、出向いて、指揮を執っていた。生かさず殺さず、イルジナという餌を泳がせておくために。

 ヘレンは理解不能な様子で、リースルに問いかけた。

「何故、わざわざ、後先を考えない無謀者を、見つけたいとお思いに? 今は、御家の一大事なのでございますよ?」

 珍しく、ヘレンの口調は厳しかった。しかし、リースルは反省するどころか、片腹痛さで内臓がねじ切れそうだった。

「寝言、ほざいてんじゃねえ」

「あがっ」

 リースルの手が、ヘレンの首を絞め上げた。リースルは、侮蔑と哀れみを込め、淡々と語った。

「テメエみてえな雑魚は、『その日』になるまで、分かんねえんだろうな。アタクシと結婚するはずだった、フランスのアホ野郎と同じで」

「え、エリーザベト様、ぐるじい」

 ヘレンは息も絶え絶えに藻掻いたが、リースルは無情に徹した。

「黙って聞きやがれ。いいか? ハプスブルク家もフランスも、じきに終わりだ。王宮に引っ込んでる連中は、未だオスマンにしか怯えてねえが、既に地盤が、ガタガタに揺るぎ始めてんだよ。くっだらねえ理由で、アホみたいに戦争しまくった挙げ句、疫病や飢饉を放ったらかしにしたせいでな」

 四年前のプロイセンとの争乱が、最たる例だ。リースルの母、マリア・テレジアは、外交によって同盟を結びまくり、絶対に勝てるはずの戦いを挑んだ。

 だが、勝てなかった。母も取り巻き連中も、相手国の奇跡だと喚いていたが、机上の空論でしか戦争ができない者たちに、勝利がもたらされるわけがない。

 リースルにとって、神聖ローマ帝国の、ハプスブルク家の敗北は、必然だった。故に、次に起こりうるであろう事態も、容易に見当が付いた。

 民たちは、きっと疑う。圧倒的に有利な戦争にすら勝てない皇帝、王に、払う敬意などあるのか? と。のうのうと玉座に腰掛けている阿呆どもに、そもそも律儀に税を納める意味などあるのか? と。

 小さな燻りは、もう至る所で起こっている。大火となるまで、どう長く見積もっても、二十年が限界だろう。

 口や態度では強者を演じていても、リースルは内心、誰よりも怯えていた。いつか来るであろう、避けられない破滅に。

「アタクシは、死にたくねえ。玉座が崩れ、神聖ローマ帝国と従属国が纏めて消し飛んでも、絶対に生き残ってやらあ。そのためには、今の内に掻き集めとかなきゃならねえんだよ。金や権威の埒外にいる、使えそうな奴を、なぁ」

 本音を吐き散らかし、冷静さを取り戻したたリースルは、漸く、ヘレンの首から手を離した。ヘレンは久しぶりに、まともな呼吸ができ、大いに噎せた。

「けはっ、けはっ、では、エリーザベト様は、義妹君に味方した者を」

「やぁだなぁ、皆まで言わせんなよ。恥ずかしい」

 リースルは照れ隠しのため、ヘレンに肘鉄を食らわせ、ぐりぐりと抉った。

 ヘレンは苦しさから逃れようと、必死に身体を折り曲げた。だが、狭い車内では無意味だった。

「エリーザベト様。乱暴は、お止めくださ、いだだだだっ」

「まあ、野良っころの群れに噛み殺される程度なら、要らねえな。せめて、アタクシの手駒の騎士を一人、倒せるぐらいじゃねえと」

 来るなら、来やがれ。来ねえなら、こっちから行ってやる。

 テメエの敵は、すぐ近くにいるぞ。

 リースルは舌舐めずりしつつ、まだ見ぬイルジナの味方に、期待を膨らませた。

        3

 納爾登(ナールデン)の中央に伸びる、マルクト通り。

 文之進は、途中で買った乾酪を囓りながら、聖ヴィトゥス教会を目指していた。

「ひょっほ! なんれ、やろおろらないのよ! のんひり、はんほうひへるばはいやないれひょうは(ちょっと! なんで宿を取らないのよ! のんびり、観光してる場合じゃないでしょうが)」

 イルジナが隣で、口に麺麭を詰められるだけ詰めながら、喚いた。

 小汚い村娘の装束に、これまた貧相に痩せ細った容姿が、残念な悲哀を誘う。相貌自体は悪くないだけに、勿体なかった。

「腹が減ってたのは、よく理解できるが、きちんと食い終わってから喋れ。ただでさえ、誤聞しやすいのに」

 食いしん坊の阿呆は、ヤズだけで充分だ。

「ほはえなはいよ! あはひ、おわれへるんあっへば(答えなさいよ! アタシ、追われてるんだってば)」

 イルジナは、執拗に問い質す。観念した文之進は、肩を竦めて打ち明けた。

「連れと、伴天連の屋敷で待ち合わせしてるんだ。まったく、あやつら。面倒な手続きを、全部、俺に押し付けて、先に行きおって」

 文之進は愚痴を並べて、恨みを露わにした。麺麭を呑み込んだイルジナは、不安げに周囲を見渡す。

「そ、そりゃあ、文之進にも用事があるのは分かるけど。アタシが堂々と彷徨いてたら、また、襲われるかもしれないわ」

 イルジナの懸念は、ちょっと度が過ぎていた。

「案ずるな。要塞都市の内部で事を起こせば、領主が黙っていまい。門を潜る際、物騒な武具は持ち込ませぬよう、徹底させてるぐらいだしな」

 文之進は、穂先の失われた槍(又は、単なる棒きれ)を肩に担ぎ直して、説き伏せた。しかし、イルジナは尚も、不安が拭えなかった。

「腰のサーベルは取られなかったんだから、油断なんてできないわよ。もしも、さっきの道化っぽい傭兵の仲間が、挙って押し寄せたら……」

 しつこく怯えるイルジナに、文之進は嫌気が差してきた。

「イルジナ。お前が見たという、傭兵集団の規模は?」

「正確には、ちょっと分からなかった。二、三十人ぐらい、だったかも」

「なんだ、つまらぬ」

 文之進の即答に、イルジナは唖然となりかけた。

「おい、変てこ黒髪野郎。つまらないって、どういうことよ」

「だって、先程のグレッグと似たような輩が、槍も弩も持たぬ状態で、束になって迫られても、全く負ける気がしな……ふぁ~わ」

「欠伸しないでよ! 緊張感がないわね」

「話だけでは、肩肘は張れぬ」

 文之進は、あくまで安穏とした気分を貫いた。イルジナは腹立たしげに、ぐにに~、と、歯軋りした後、わざとらしく咳払いした。

「仮に、か・り・に・よ。文之進が言うように、傭兵には楽勝できたとして、騎士はどうするの? あの道化野郎の与太話が本当なら……」

「重鉄の鎧武者が、相手となる、か。ちと面白そうだが、やはり今は、関係ないな」

「なんでよ! アタシの近くにいたら、まず間違いなく戦うハメになるわ!」

「だとしても、納爾登では争わぬさ。鎧もまた、容易には持ち込めまい」

 要塞都市にとって最大の弱点は、内部からの攻撃だ。少し五月蠅い傭兵どもすら、大砲で追い返したのに、謎の騎士団など、受け入れるわけがない。たとえ素性が知れているとしても、目的が「小汚い少女を一人、仕留めるため」となれば、怪しまないほうが、どうかしている。

 イルジナは、よっぽど脅威の誇張がしたいのか、うんうんと頭を振って悩んだ。

「鎧を脱いで、入ってくるかも」

「となれば、もはや脅威ではないな。傭兵連中と同様、何人も押しかけて来ようが、一向に構わぬ」

 文之進に、あっさりとあしらわれ、イルジナはついに折れた。

「どうして、そんなに余裕綽々なのよ。理解できな――びゃ!」

 乾酪を食べ終えた文之進は、徐に、空いた片手を、イルジナの肩に回した。イルジナの顔が、露骨に紅潮し、視線が上下左右に泳ぐ。

「ななぬぁ、ち、ちか、ちか、近いんだけど、ちょっと!」

 イルジナは恥ずかしがって、文之進を押し退けようと抵抗した。が、弱々しい細腕では、どうにもならなかった。

 文之進は、なるべく近くにイルジナを引き寄せ、真近に見据えると、ゆっくりと、言い聞かせるように囁いた。

「同じ、逃亡していた身の誼みで、教えておいてやろう。イルジナ。お前は、もっと肩の力を抜け。でなければ、身が保たぬ」

 イルジナの表情が、固まった。震えが、文之進に伝わる。

「だ、だって、用心してないと、落ち着かないんだもの」

「息苦しい心境も分かる。押し潰されそうな心地も、よく分かる。だが、無理を通した結果が、今の窶れきった、お前の姿だ。俺が、もし、お前を追い回してる側なら、滑稽で笑いが止まらぬぞ」

 文之進の挑発を受け、イルジナは、しょんぼり俯いた。

「図太くなれっていうの? 無理よ。アタシは文之進みたいに、強くない」

 力なく自嘲するイルジナに、文之進は、重ねて助言を呈した。

「心意気は、腕っ節によって決まるものではない。イルジナ次第で、どうとでもなる」

 すると、イルジナの身震いが増し、小さな呟きが溢れた。

「……ぶらないで」

 聴き取れなかった文之進は、耳を傾けた。

「何だ? 発音は、はっきりと頼む。俺は、まだ、蘭語以外に慣れておら――」

「買い被らないでって言ったのよ!」

 怒鳴り声とともに、イルジナは文之進の身体を突き飛ばした。文之進は、嬉しい驚きを覚えた。

「アンタの指摘通り、アタシは、臆病者だわ。でも、そんなの、直しようがないでしょうが! 小父さんと小母さんが死んだときも、ホンザが死んだときも、アタシは戦わずに逃げた。怖かったから。悔しさよりも、悲しさよりも、怖くて怖くて、しょうがなかったから!」

 イルジナは、固く目を閉じながら涙を流し、押し止めていた残りの感情を吐露する。

「自分の本質なんて、自分が一番、心底、いやってほど知ってるわ。もう、どうしようもない、ってぐらいにね。今更、変えられるわけ、ないじゃないの!」

 嗚咽を漏らし、あらん限りの声で弱音をぶちまけたイルジナを、しかし、文之進は嘲笑ったりしなかった。

「なら、問おう。なぜ、俺の前から逃げなかった?」

 意表を突かれたイルジナは、瞠目して泣き止んだ。

「それは、助けてもらったのに、事情とか、何も話せてなかったから」

 もっともらしい、イルジナの言い訳を、文之進は意地悪く否定した。

「違うな。お前は心のどこかで、密かに画策したんだ。俺が追手の一味ではないと知るや、どうにかして、俺と追手どもを真っ向からぶつけてやろう、と」

 文之進の推測に、イルジナは狼狽えた。

「ふ、ふざけないで! アタシは、赤の他人を巻き込みたいなんて!」

「おいおい。さっきまで、傭兵と戦ったら、どうなるとか、騎士とやり合ったら、どうだとか、散々、言い争っただろうが。俺に戦わせることを、前提に」

 イルジナは息を呑み、はっと口を塞いだ。どうやら、自分で自分の言動に仰天したらしい。なんと阿呆な。

 文之進は、口角を吊り上げ、イルジナに再度、詰め寄った。

「認めろ、イルジナ。お前は強かだ。強かに、俺みたいな奴が現れるのを待っていた。非力な己に替わって、一矢を報いてくれそうな奴を。だから、こうして、お前は俺の傍に従いてる。いくら、俺の素性が怪しくとも、な」

 僅かな沈黙が降りた。イルジナの瞳から、淀んだ影が失われ、代わりに強固な光が宿った。

「自惚れの台詞だわ」

 イルジナは、反発こそしたものの、逃げなかった。文之進は、皮肉を帳消しにして余りある充足感に満たされ、歩みを再開した。

「否定はせぬ。失望もさせぬがな」

 赤煉瓦造りの時計塔が見えてきた。おそらく、聖ヴィトゥス教会で相違ない。

 文之進は、教会の扉の前で、イルジナに尋ねた。

「さあ、どうする? イルジナ・デーネシュ。まだ自分を臆病だと主張し、本性から背を向けたまま、逃走に励むか? それとも、俺を、薗部文之進を利用してみるか? 好きに選ぶがいい」

「報酬は?」

 イルジナは、覚悟を決めた様子で、懐に手を入れると、重厚な首飾りを取り出し、文之進に披露した。

「ふむ、なかなか良い品だな」

 文之進は率直に褒めたつもりだったが、イルジナは残念そうに微笑んだ。

「分かってる。こんな物一つ、売ったぐらいじゃ、大した金にはならないわよね。でも、アタシの手元には、もう、このネックレス以外、残ってなくて」

「そのようだな。さっきの麺麭も、俺の奢りだったし」

「ええ。だから、残りは身体で――ぐでっ!」

 文之進は一片の躊躇いもなく、イルジナの脳天を叩いた。

「アタシ、なんで、ぶたれたの?」

「そんな痩せ細った、貧弱の極みの体躯で、娼婦ができるか。客商売を舐めるでない」

 実際、イルジナを娼館に売り払ったところで、二束三文にもならないだろう。下手したら、首飾りより安いかもしれない。

 イルジナは逆上した。

「じゃあ、どうしろってのよ! 他に、纏まった金を作る当てなんて、ないわ」

「まずは、ちゃんと寝て、肌に色艶を付けろ。後は、服屋で、身形を整え、胸元が強調できるぐらい、ふくよかになれ。話は、それからだ。お邪魔しま~ぶっ!」

「教会の前で、何ぃ不埒な会話しとんねん! ド下品にも程があるわ」

 扉の奥から、ペーニャの足蹴りが飛び出し、文之進の下腹を直撃した。

 新手の奇襲かと、イルジナは身構える。文之進は痛みに悶えつつ、誤解を解こうとしたところ、

「あーらら、難訓ちゃんたら、まぁた知らない子を連れてきちゃってぇ。お母さん、困っちゃうにゃーん」

 更にややこしい手合い、ヤズが、ペーニャの後ろから顔を覗かせた。

        4

 夜を迎えた聖ヴィトゥス教会前は、仄暗い明るさに包まれていた。

 いくつものランタンが映し出す、血走った目の群れ。極彩色の衣装に身を固めた、二十五名からなる傭兵集団は、それぞれの手に、サーベルや鉈、斧、ピッチフォークなどを握り、じりじりと教会に近付いていた。仮装行列に見えなくもないが、放っている殺気は、凡そ友好的な連中とは言い難い。

「このような夜更けに、教会へ押し込みとは。随分と罰当たりですね」

 口上を決め、物陰から現れたカテアは、敢然と、傭兵たちの前に立ちはだかった。予期せぬ妨害の出現に、響めきが巻き起こった。

 ひょっとして、こいつがイルジナって女か?

 いや、教えられた顔と合わねえ。

 それじゃ、連れの?

 馬鹿、連れは男だって話だ。

 口々に騒ぎ立てる傭兵連中に、カテアは冷たく微笑んだ。

「ワタシも、お金には目がないタチですが、不作法は好ましくありませんね。品性を欠いた悪党ほど、惨めなものはないですよ。皆々様方」

 カテアは威勢良く、羽根突き三角帽を投げ捨て、腰から舶刀を引き抜いた。間髪入れずに、相手の一人が、ピッチフォークでカテアに襲いかかった。

 カテアは真横に躱し、相手の足を引っ掛けた。相手は無様に転倒し、ピッチフォークを奪われた。

「ご提供、ありがとうございます。ですが、畑仕事に興味はないので、お返ししますね。どうぞ」

 錆びた鉄の歯が、相手の脹ら脛に、ぐっさり突き刺さった。絶叫を聞かされた傭兵たちは、揃って竦み上がった。

 魔女だ。

 おかしな格好に、おかしな強さ。

 こいつ、魔女に違いねえ。

 誰かの囁きが伝播し、敵意となってカテアに注がれる。もちろん、カテアにとっては、心外だった。

「失敬ですね。出で立ちの奇抜さならば、貴方たちも負けてはいないでしょうに。しっ」

 飛んできた斧を、カテアは掴んで瞬時に投げ返した。眉間に斧を喰らった二人目の悲鳴が、不協和の合唱となって、夜空に響いた。

「樵にも、関心はありません。ワタシはコンスタンティア船長。気品と美学ある悪を愛する、海賊でしてよ?」

「騒ぎの元凶は、お前か」

 突如、教会の扉が開かれ、中から、顰めっ面のトウコツが出てきた。

「お久しぶりです、トウコツさん。借りの返済に参りました」

 挨拶をしながら、カテアは舶刀で敵を斬り伏せる。トウコツも、襲撃者のサーベルを躱しつつ、カテアに苦言を呈した。

「もうちょっと、静かにやってもらいたかったな。ヤズは暴れたがるわ、ペーニャは俺に八つ当たりするわ、イルジナは怯えるわで、三人を落ち着かせるのに、滅茶苦茶、手間取った」

 トウコツは、敵と目も合わさず、掌打や投げ技で沈黙させていく。カテアと正面切って、世間話に興じるために。

「ふふ、父親としての貫禄が、身に付いてきたようですね」

 カテアは笑いを溢しつつ、肘鉄を背後の相手に見舞った。傭兵たちは、次々と挑んでくるが、もはやトウコツとカテアの会話に、割り込む余地など欠片もなかった。

「誰一人として、作った覚えはないんだがなぁ、母さんよ。おわっちょ」

 ズダン!

 口を滑らせたトウコツに、カチンときたカテアは、笑顔で拳銃を発砲した。

「女性の年上扱いは、感心しませんねぇ。ワタシが、トウコツさんの母親なら、ヤズさんたちの、お祖母ちゃんということに」

「いや、待て。俺のいたところでは、配偶者の別称を、父さん母さんとも言うんだ。嘘ではない」

 トウコツは必死に弁明し、頭突きで何人目かを倒した。カテアは、一瞬、真偽を疑ったが、女の勘に、本当だと告げられた。

「まあ、とんだ勘違いを。ではトウコツさんは、ワタシに伴侶になれ、と?」

「ただの意趣返しだ。俺ばかり、親父扱いしおって」

 不満顔のトウコツが、カテアの元に駆けてきた。応えて、イルジナも走り出す。

「素直じゃありませんね!」

「拗ねてなど、おらぬ!」

 擦れ違い様、トウコツはカテアの後ろの敵に、カテアはトウコツの後ろの敵に、跳び蹴りを食らわせた。

 完璧だ。すこぶる調子が良い。

 トウコツと背中合わせになりながら、カテアは実感した。自分は今、最も頼りになる武器で、戦っていると。

「貴方の優しさは、人を惹き付ける。ですが、同時に争乱をも呼び込む」

「たまたま、世話の焼ける娘どもが、近くにいたせいだ」

 トウコツは離れ、再び、カテアと向き合った。挟み撃ちを企てた敵二人が、間抜けな衝突を披露する。

 トウコツの言い訳に、カテアは一定の理解をしつつ、懸念を隠せなかった。

「面倒見の良さは、確かに美徳と言えるでしょう。しかし、貴方は躊躇いもせず、危険な救い方をする。教えてください」

 カテアは一拍置いて、舶刀でサーベルを弾くと、意を決して問いかけた。

「トウコツさんは、人助けの果てに、死ぬ気ですか?」

 僅かな間、周囲の空気が凍て付いた。

 カテアは疎か、殺気だった傭兵たちですら、思わず跳び退くほどの圧迫感が、トウコツの目から放たれた。

 一瞬を、何百倍にも引き延ばしたような、濃密な刹那の後、トウコツは眼光を収め、寂しげに語った。

「檮杌とは、清という国に伝わる、幻獣の名だ。その昔、他人の言葉に耳を傾けず、暴虐の限りを尽くし、君主によって西の彼方へと消し去られた、大悪の象徴」

「貴方も、同じだと?」

 カテアが尋ねると、トウコツは恐れ多いとばかりに、肩を竦めた。

「別に、暴虐の限りを尽くしたわけではないし、他人様の意見を全く聞かない阿呆でも、ないつもりだ。ただ、俺の性根は、判官贔屓って奴でな」

 よく分からない単語が飛び出し、カテアは首を傾げた。トウコツは苦笑して、裏拳を横の敵の顔面に放った。

「大きな流れがあると、無性に逆らいたくなる。多くの連中が守ろうとするものを打ち砕き、多くの連中が壊そうとするものを守り抜く。細かい事情や理由など、抜きでな。その主義に関しては、誰の忠告も、耳に入れたくはない」

 なんという暴挙。

 多数派が少数派を従えてこそ、公平。大勢の意見が通ってこそ、正義。

 父から教わり、カテアが実践してきた善悪の定義からすれば、トウコツは紛うことなき、悪人だ。

 しかし、カテアは敵の手首を捻り折りながら、自問する。トウコツは間違っているのか、と。

 一人の少女を、大勢の不届き者が殺して、金銭をせしめる行いが、道徳的に正しいはずがない。カテアの美学にも、反する。

 だが、常に少数の者に味方するという行動は、多数派にとっては、悪の烙印を押されるに等しい。だからこそ、トウコツは大逆人なのだ。

「たとえ、どれほど勝ち目が薄くとも、貴方は戦うのですか?」

 カテアが舶刀を納め、尋ねると、トウコツは、最後の敵を掌底で沈め、事も無げに答えた。

「反対だ、カテア。分が悪いほど、俺は昂ぶる」

「なるほど。やはり貴方は凶獣です」

 カテアには、トウコツを扱いきれない。従えようと企む者に、トウコツは従わないからだ。

 ヤズの助言を、今、漸く、カテアは納得できた。

「だいたい、片付けたか。残りは、逃げたようだな」

 トウコツは、軽く周囲を確認し、戦いの終幕を悟った。

「にしても、随分、荒んだところだな。場所そのものは美しいが、人心の荒廃が凄まじい。百姓上がりの素人が、大挙して人殺しとは」

「それだけ困窮が激しく、統治もままならないのでしょう。いずれ限度を越えれば、大規模な反乱が起こるかもしれません」

「ほう、お前も俺と同じ考えか」

 トウコツは、僅かに口角を上げ、流し目を寄越してきた。どうやら、全てを把握した上で、この地に降り立ったらしい。

(用事は済みましたし、そろそろワタシは、お暇するとしましょうか。颯爽といなくなってこそ、格好が付くというものです)

 カテアは算段を取り纏め、落としていた三角帽を拾い上げた。

「間もなく、要塞の兵が到着するでしょう。では、ワタシは、これにて」

「待て、カテア」

 外套を翻し、踵を返したカテアを、トウコツは呼び止めた。

 なんだ? 人がせっかく、綺麗に別れを告げたのに。

「別れが名残惜しいのは、分かります。ですが、愛の語らいは、またの機会に」

「流し目で伊達女を気取る前に、一つ、頼まれてくれ」

        5

 傭兵集団が、血の海を残して消えた日から、一夜が明けた朝。

 聖ヴィトゥス教会の礼拝堂で、イルジナは、自分と同年代の少女二人、ペーニャとヤズに、心から詫びた。

「ごめんね、ペーニャ、ヤズ。アタシのせいで、怖い目に遭わせちゃって」

「ええねん、ええねん。どうせ、文之進の阿呆が、一切合切、全部、悪いんやろ? イルジナが謝るなんて、筋違いや」

 褐色肌のペーニャは、極めて優しい態度で、イルジナに接してくれたものの、何やら変な誤解を抱いているらしい。文之進を殊更、目の敵にしていた。

「私は戦いたかったなー。難訓ちゃんたら、イルジナちゃんを近くで守れー、なぁんて、ほざいておきながら、結局、敵を一人も回してくれなかったんだもーん。式神の名折れだぜい」

 黒い髪と小鼻が特徴的なヤズは、イルジナより一回り小さいにも拘わらず、飄々と空恐ろしい願望を漏らした。

 で、件の文之進はというと、先程から奥の席に座り、棒きれを相手に、何やら作業に耽っていた。

 ペーニャは険しい表情で、文之進を睨んだ。

「どうすんねん、文之進。あんさんのせいで、ウチまで納爾登(ナールデン)を追ん出されるハメになってもうたやないかい。しかも、今日中に」

 嗚呼、ペーニャ。重ねて、ごめんなさい。昨夜の騒動は、アタシが原因で、文之進は悪くないのよ。

 イルジナは釈明しようと、唾を呑み込んだ。しかし、文之進が口を開くほうが、早かった。

「イルジナを連れ、阿姆斯特丹(アムステルダム)へ引き返す。北海の向こう岸を、目指すためにな」

 今後の方針を聞かされ、ペーニャは目を見開いた。

「北海の先って、まさか」

「英格蘭(イングランド)まで、逃げるのかなん?」

 ペーニャの予想を、ヤズが引き継いだ。黙って頷く文之進に、ペーニャの怒号が炸裂した。

「冗談やない! 英格蘭なんて、プロテスタントの巣窟みたいなとこ、誰が行くかいな!」

 カトリックのペーニャは、露骨に嫌悪感を示した。しかし、文之進は、全く動じず、即座に代案を口にした。

「嫌なら、ペーニャは納爾登を出た後、俺とイルジナから離れて行動するか、阿姆斯特丹に留まればいい。追手の標的は、あくまでイルジナか、直接、手を貸した、俺だ」

 理路整然とした反論に、ペーニャは気勢を殺がれた。と、今度は、ヤズが、「ペーニャちゃんの好き嫌いは、ともかくさー」という前置きと共に、したり顔で喋り始めた。

「英格蘭なんて、泳いでも渡れそうなぐらい、目と鼻の先にあるじゃーん。辿り着けたとしたって、追手が来ない保証なんて、ないよねん?」

 ヤズの指摘は、イルジナの不安を増大させた。起こりうるであろう事実を、はっきりと言葉にされたために。

 不意に、ぎゅむ、と、帯の強く締め付けられる音がした。イルジナが振り返った先で、文之進が、ヤズの推測を真っ向から打ち破る。

「傭兵連中は、昨夜の内に、あらかた潰した。次に現れるであろう騎士どもとは、納爾登の外で勝負を付ける。足取りを掴む者がいなくなれば、もはや追跡はできまい」

 文之進の足元に、長い棒が転がった。覚悟を秘め、全身に戦意を漲らせる文之進に、イルジナは動揺した。

「文之進は、本気で騎士と戦うつもりなの? 鉄の鎧なんて、持ってないのに」

「生憎、身軽なほうが性に合ってる。というか、防具よりは、むしろ、きちんと攻撃が通る武具が、欲しいところだな」

 北叟笑む文之進に、ペーニャが噛みついた。

「んなもん、大砲以外にないやろ。ルベ神父が言うとったで。騎士っちゅうんは、王様を守るための、特別な兵隊やから、たとえルベ神父が束になったかて、絶対に敵わへんって。ルベ神父にも勝てへんかった文之進が、槍や剣で、どうにかなるわけないやん。せいぜい、イルジナが逃げ切るまでの時間稼ぎが、ええとこやな」

 ペーニャは文之進に、何か恨みでもあるのだろうか?

 イルジナは真剣に、幾つかの憶測を立ててみたが、どれも間違っている気がした。

 一方、ヤズは、我が儘さ全開で、文之進に強請(ねだ)る。

「ねーねー、難訓ちゃーん。私も一度、騎士と手合わせしたいなー。一緒に戦っても、いいっしょー?」

「せめて、遠くからの見学にしとき、ヤズ。文之進の死に様を、ウチと拝もうや」

 ヤズとペーニャは、好き勝手に喚いた。イルジナが、叱ろうかどうか迷っていたところ、文之進が先に痺れを切らし、席を立った。

「つくづく、喧しい奴らだ。準備に集中できぬ」

「およ、抱っこだー」

 文之進は、ヤズの身体を持ち上げると、ペーニャとイルジナもろとも、教会の外に押し出した。

「出立まで、そこらを散歩でもしていろ」

 当然、イルジナは慌てふためいた。

「ちょっと待ってよ! アタシは別に、五月蠅くなかったでしょ? 傭兵がいるかもしれないのに、街を出歩くなんて……」

「ヤズが護衛代わりになる。ほれ」

 文之進は何の心配もない表情で、イルジナに小さな布袋を投げた。ジャリ、という音と、独特の重み、感触から、イルジナは即、袋の中身を理解した。

「お金? どうして」

「ヤズたちと、腹拵えでも、してこい。ついでに、召物も買い換えろ。少しは、まともな身形をしてもらわぬと、守り甲斐がない」

 割と酷い台詞を最後に、扉は勢いよく閉められた。

 困惑で、イルジナは発する言葉が見つからなかった。代わりに、ペーニャが怒りをぶちまけた。

「なんて言い草や! あんの、すっとこどっこいの唐変木の御短小茄子(おたんこなす)!」

 ペーニャは教会の扉を蹴りつけ、憂さを晴らすと、イルジナの手を握った。

「行こ、イルジナ。こうなったら、イルジナに、めっちゃ、お洒落な格好させて、文之進の度肝、抜いたるわ」

「その前に、ご飯だー。あっちから、美味しそうな匂いがするー」

 ヤズもまた、イルジナと手を繋ぎ、意気揚々と歩き出した。

「ちょっと、二人とも! 別々の方向に引っ張らないで! アタシの身体、一つしかいないんだから!」

 イルジナは引き裂かれそうな痛みに苛まれながら、納爾登の街中へと運ばれていった。

        6

 ナールデンを正面に据える、バッセムのレイクス通りに、リースルを乗せた辻馬車は停まっていた。

 より具体的な位置としては、ナールデンの二つの門の、ちょうど中間。アムステルダムに通じる門と、ユトレヒトに通じる門、どちらからイルジナが出てきても対応できるよう、配慮した結果だ。

「野良犬どもは、蹴散らされたか。まあ、正直、予想通りだっただけに、戦果に関しちゃ、何の驚きもねえが」

 傭兵の一人を介して入った報告に、リースルは少々、意外な点を見つけた。

 曰く、イルジナに味方した者は、男女二人組だった、とのこと。

 曰く、女はコンスタンティアという名の海賊で、男と仲睦まじく会話していた、とのこと。

 リースルは、てっきり、イルジナの味方は一人だと思っていた。逃げ惑っていたイルジナに、良心か下心かで近寄った男が、助けた、と。なかなかに抒情的で、泣ける展開だと、リースルは我ながら楽しんでいた。

 しかし、二人組の、しかも男女だったとは。夫婦か、恋人か?

 リースルが、あれこれ邪推していると、ヘレンが息を切らせて、馬車の中に駆け込んできた。

「エリーザベト様、お手紙にございます」

 ヘレンから封筒を受け取ったリースルは、封蝋を剥がし、便箋に目を通した。

 書かれていた内容は、リースルの承服しがたい代物だった。

「騎士と一緒に、一刻も早く引き揚げろ、だぁ? ミミの糞姉貴の意向じゃねえな。とすると、母上か」

 リースルの脳裏に、尊大な女帝、マリア・テレジアの顔が浮かんだ。ヘレンは、恐る恐るといった様子で、意見を述べる。

「エリーザベト様の身を案じての、御裁可かと。これ以上、エリーザベト様がネーデルラントに留まれば、プロイセンも黙っては――ふひぃっ!」

 リースルは手紙を丸め、ヘレンに放り投げた。痛くも痒くもないはずだが、ヘレンは反射的に悲鳴を上げた。

「んなこたぁ、百も承知だよ。ったく、急かしやがって」

 リースルは髪を掻き毟り、愚痴を付け加えた。

「イルジナに利用する価値も、される価値もねえ。母上が判断するまでもなく、アタクシには、分かってたよ」

 ヘレンの顔には、「やっと、帰れる。よかったぁ」という安堵が、ありありと映っていた。

「では、騎士の方々に、帰還の号令を掛けて参りますね」

 声を弾ませるヘレンに、リースルは、ありったけの威圧を込め、言葉を紡いだ。

「やめやがれ、ヘレン。まだ、アタクシは退かねえ。少なくとも、イルジナがナールデンから出てくるまではな」

 リースルの決断に、ヘレンは青褪める。

「無茶を仰らないでくださいまし。きっと、エリーザベト様の義妹君は、我々がいなくなるまで、いつまでも要塞内に潜み続けるはずでございます」

 ヘレンは懸命に説得しにかかったが、リースルは揺らがなかった。

「イルジナだけなら、ヘレンの言う通りだったかもしれねえ。が、今は、とっくに状況が変わってんだろうが」

「助っ人が、いらっしゃるからといって……」

 ヘレンが尚も訴えようとしたところ、伝令の騎士が、馬車の外で大声を上げた。

 イルジナの姿を、アムステルダム側の門で見かけた、と。

 リースルは刮目して、喜びに沸き立った。

 ヘレンは大慌てで、伝令に確認する。

「ま、間違いございませんか? 本当に、エリーザベト様の義妹君が、荷馬車の中に紛れて、アムステルダムに向かっていると?」

 ヘレンを押し退け、リースルは伝令に命じた。

「西に配置しといた奴らに、先駆けをやらせろ。残りは、アタクシの辻馬車を後列にして、イルジナのところへ急行だ」

 伝令は短く頷き、走り去った。ヘレンはリースルにしがみつき、死にそうな表情で懇願した。

「ご自愛ください、エリーザベト様。もしも、エリーザベト様に、万が一のことがあれば」

「くどい! 御者、とっとと馬を走らせやがれ!」

 もはや、リースルを止める要素はなかった。今を逃せば、イルジナの味方と相見える機会は、永遠に失われる。わざわざ辺境の地まで、足を運んだ成果を、リースルは貪欲に求めた。

 いざ、始めよう。

 リースルとイルジナの、戦争(おもちゃのぶつけ合い)を。

        7

 荷馬車の後部は、えらく賑わっていた。

 ペーニャは文之進の向かいで、忌々しげに呟く。

「来たでぇ。川を挟んだ右側から、馬ん乗った甲冑が」

 文之進は、周囲の環境を確かめると、長柄の武器を肩に担いだ。

「ちょうど良い。この先に橋がある。通せんぼするには、うってつけだ」

 ペーニャの隣で、ヤズが跳び上がって歓喜した。

「おぉー、騎士、すごい格好いいじゃん! やっぱり、私も参戦するー」

「ヤズ、降りちゃ駄目よ。危ないわ」

 イルジナが血相を変え、ヤズを羽交い締めにした。身動きを封じられたヤズは、イルジナの腕の中で、捕まった野良猫のように藻掻いた。

 文之進は、一時の安らぎを覚えつつ、彼方へ視線を戻し、イルジナに別れを告げた。

「ではな、イルジナ。しばし、ペーニャとヤズの世話を頼む」

「待って! 文之進」

 イルジナに叫ばれ、文之進は振り返った。

「あのあの、その、えっとね……。行ってらっしゃい、じゃなくって。ご武運を、でもなくって。あえあう」

 イルジナは錯乱気味に口籠もった挙げ句、

「そ、そうだわ! 今の、アタシの服、どう、かな?」

 顔を赤くして、真新しい衣装の評価を尋ねてきた。

 上半身は白の、下半身は赤茶の布地を基調とし、腹部の革巻が、全体の見栄えを整えている。

 決して豪奢ではないが、馬子にも、なんとやらで、イルジナは小汚い乞食から、しけた小汚い店の看板娘ぐらいには、昇華していた。

 ペーニャが、胸を張って言い張った。

「どや? ウチが選んだんやで。よう、似合うとるやろ」

「眼福は、ちと褒め過ぎか」

 文之進は、小さく本音を呟くと、イルジナに注意した。

「すぐに汚すなよ。せっかく買ったんだから」

「ぶ、文之進こそ、即行で死ぬんじゃないわよ! アタシが逃げ切れなかったら、あの世で殴り倒して、罵倒し尽くしてやるんだから!」

「ふん、とりあえず、心得た」

 イルジナの強気な声援を受け、文之進は馬車の外に躍り出た。

 辺りは、木が二、三本、生えているだけの、平野。迷惑が掛かりそうな民家も、近くには建っていない。

 逃げ場なし。隠れ場なし。まさしく、合戦に相応しい場所だった。

 文之進は短い橋を渡り、闘志を研ぎ澄ませながら、得物を構えた。

 迫り来る騎馬兵の数は、二体。白銀の鎧で、全身と馬を覆い、兜には羊の角を模した突起物が伸びていた。文之進がよく知る当世具足とは、重厚さが異なる。

 刻一刻と、騎馬兵の姿は大きくなった。勢いを増す重圧に、文之進は武者震いが止まらなかった。

 騎馬兵たちの武器は、いずれも鋭く尖った、円錐状の刃無し鉄槍。対して、文之進の得物は、長さこそあれ、柄は木材に過ぎなかった。

 まともに衝突すれば、間違いなく文之進の武器が、へし折られる。

 ただし、文之進の得物の先には、太刀と脇差が、がっちり括り付けられていた。

 すなわち、薙刀。

 重騎兵たちは、縦一列に並び、槍を文之進に向けた。波状攻撃で、一気に仕留めるつもりらしい。

 面白い。受けて立つ。

「まずは、馬上から降りてもらうぞ!」

 文之進は、重騎兵たちの刺突を掻い潜り、低い一閃を放った。

 薙いだ箇所は、防具のない馬の脚部。

 擦れ違いから僅かに遅れて、二匹の馬が倒れる鈍く派手な音がした。

 さて、同じ土俵になったところで、本番だ。

 文之進は気を取り直し、振り返った。馬を乗り捨てざるを得なかった騎士二人が、兜の奥から、恨みがましい視線を送っていた。

「おのれ、色付き風情が」

「よくも、我等の大事な馬を」

 騎士二人は、鉄槍を落とし、片刃の剣を抜いた。

 空いたほうの手を隠し、真っ直ぐ背を伸ばした、独特の構え。文之進は、不可解な既視感を覚えた。

 文之進の怪訝な反応を、狼狽と捉えた騎士二人は、

「「絶対正義の剣技を見よ!」」

 仲良く台詞を合わせ、突っ込んできた。

 刺突を中心とした、鮮やかな剣捌き。やはり、見覚えがあった。

 二者からの剣撃を、文之進は後退しながら躱していく。敢えて、行き止まりへと誘われる振りをして。

 木陰に入った途端、文之進の背中は幹にぶつかった。騎士二人は、しめたとばかりに、掛け声を決める。

「「覚悟せよ、凡愚め!」」

 一際、力の籠もった突き刺し。

 文之進は、即座に薙刀を手放し、十手と兜割で微妙に剣先を逸らした。前身頃を貫いた二本の剣は、文之進の腹を僅かに掠め、幹に深く食い込んだ。

 騎士二人は焦ったが、今更だった。

「行儀良く殺されるわけには、いかぬな」

 文之進は、片刃剣を纏めて叩き折り、騎士二人を蹴り倒した。尻餅を搗いた騎士二人は、すぐさま起き上がろうとする。ところが、重量のある鎧のせいで、苦戦を強いられた。

 よし、後は料理するだけ――。

 縫い付けられた木から、離れようとしたとき、文之進の耳に、なんとも高慢な笑い声が届いた。

「ははっは、お見事、お見事。よくもまぁ、次々とアタクシの予想を裏切ってくれやがるねえ。東洋の剣士さん」

 松脂のように粘着質な、薄ら寒い視線。騎士二人は、身を竦ませて硬直し、文之進もまた、背筋に強烈な悪寒が走った。

 文之進が、視線を傾けた先。

 後続の騎士たちに囲まれた、辻馬車の脇に、頭の先から爪先まで、黒尽くめに身を固めた不気味な女が、泰然自若と佇んでいた。

 首から下は、ペーニャと同じ、修道女を連想させる召物だ。だが、頭まで完全に隠した出立ちは、むしろ虚無僧に近い。

「初めまして、糞野人。アタクシは、リースル。本名は、マリア・エリーザベト・フォン・エスターライヒ。ハプスブルクの、第五皇女様なるぞ」

 リースルが名乗ると、隣の下女らしき人物が、泡を食ってリースルに詰め寄った。リースルは、全く意に介さなかったが。

 ハプスブルクの名は、文之進も聞き及んでいた。かつての師、山縣大弐の下で学んでいたとき、阿蘭陀の書に登場していたからだ。

「御三家など目ではないくらいの、大層な家柄らしいな。俺は薗部文之進。士の身分を捨て、流浪の最中だ。今は故あって、一人の女を手助けしているがな」

 文之進は、木の幹に貼り付けられた格好のまま、皮肉混じりの自己紹介をした。騎士たちは一斉に槍を構えたが、リースルは一睨みで制し、文之進に向き直った。

「野人が騎士を気取るたぁ、なかなか見上げた根性だ。アタクシらと同じ言語を話せるってだけでも、珍しいのに」

「お褒め頂き、光栄だな。文字も、それなりに読めるし、筆も握れるぞ。もしかしたら、貴様よりも上手いかもしれぬ」

 リースルの蔑みに、文之進は揶揄で対抗しつつ、ちらりと後方を見遣った。リースルは目敏く把握し、鼻を鳴らした。

「心配すんな。イルジナに、もう用はねえ。アムステルダムだろうが、パリだろうが、マドリードだろうが、好きなとこで野垂れ死にさせてやるよ」

 リースルの発言に、文之進は少なからず驚いた。イルジナの言っていた内容が正しければ、かなりの距離と期間が、追跡に費やされた格好となる。

 イルジナの苦悩は、計り知れない。しかし、リースルや騎士たちとて、只ならぬ労力を費やしたはずだ。

「執拗に追い回してた割に、随分と寛大だな。『もう』ということは、目的の大義が失せたか、あるいは元々、他の目的があったか」

 勘繰る文之進に、リースルは大喜びで拍手を送った。

「賢しいねえ、テメエ。てっきり、腕っ節しか頼れるもんがねえ、糞馬鹿かと思ってたが、意外にも思慮深いときてる。加えて、圧倒的な戦力差を目にしても、逃げ出さねえ度胸。つくづく、アタクシの手駒に相応しい」

 文之進は漸く、リースルの真意に行き着いた。

「ひょっとして、俺を懐柔するつもりか? 現在、貴様と明白に敵対してる、この俺を」

 騎士たちは皆、リースルのほうへ首を曲げ、戸惑った。リースルは一切の迷いなく、文之進に首肯を返した。

「大当たりだ、糞野人。テメエの素養は、これまでの報告と、さっきの一戦、ついでに、今の問答で、だいたいは理解した。薗部文之進、テメエを直近の麾下として飼ってやる。アタクシに仕えろや」

 厳かに、リースルの手が差し伸べられる。

 かつて、似たような台詞を吐いた者がいた。公儀の頂点に君臨していた『そいつ』は、リースルほど堂々とはしておらず、半ば命乞いに近いかたちで、文之進に命じた。無論、文之進は一顧だにしなかったが。

 昔日の思い出は、さておいて。

 文之進の頭には、リースルに対する疑問が渦巻いていた。

「解せぬな。何を、そんなに切羽詰まってる?」

「あぁ? こっちは返答を聞きてえんだが」

 リースルは低い声音で脅しを懸けてきたが、文之進は構わず斬り込んだ。

「洞察力、決断力の高さは、称賛に値する。イルジナと同じくな」

 文之進の率直な感想に、リースルの身体が、ほんの一瞬だけ強張った。

「しかし、分からぬ。富と権威に塗れてるはずの、強い力を持ってるはずの貴様が、どうして、粗野で下賤な色付きの俺に、縋るのか。行儀の悪い力を、手元に置きたがるのか。お飾りが似合う連中なら、充分、周りに侍らせてるだろうに」

 文之進は、ご立派な白銀の騎士たちに視線を配り、疑念を強めた。騎士たちも口々に、「あの色付きの言う通りです」「東洋の野人など雇わずとも、エリーザベト様には、我々が従いているではありませんか」と漏らし、リースルの心変わりを促した。

 すると、リースルは気でも触れたかのように、大声で笑い飛ばした。

「あっぎゃはははは! つくづく、頭が回りやがる。こりゃあ、いよいよ、イルジナにはもったいねえ」

「誰も、貴様に与するとは――」

「いいだろう。特別に教えてやらあ」

 文之進の苦言を遮り、リースルは尊大な態度で、一歩、近付いた。騎士たちと下女が、挙って行く手を阻んだものの、あえなくリースルの眼光に射竦められた。

 リースルは大袈裟に肩を落とし、失望を露わにした。

「駄目なんだよ。銀食器みてえに、キンキンと無駄に光ってるだけの能無しどもじゃあ、アタクシを守き切れねぇ。アタクシが誰かを理解した上で、噛みついてきやがるような、利口と勇猛さを持った野郎が必要なのさ。どんでん返しを、乗り切るためにな」

 最後の一言には、妙な重みがあった。

「戦でも、起こるのか?」

 文之進は、新たな疑問に突き当たった。

 ハプスブルクの皇女が、脅威を感じる敵とは、いったい何だ?

 リースルは、愉快と不愉快が綯い交ぜになった目で、頷いた。

「おうとも。傭兵どもが裏で結託してるような、みみっちぃ国境線の引き合いじゃねえ。玉座を頂点に据える、多くの国々が、纏めて覆る日が来るのさ。内側から、自国の民衆に食い破られてな」

 内乱。

 封建の崩壊。

 リースルの回答は、衝撃となって、文之進の根底を揺さぶった。

「まこと、か? 国の在りようが、民の蜂起によって変わる、と?」

 文之進の仰天を、リースルは快く受け止め、目を細めた。

「面食らってやがんなぁ。来たばかりなら、無理もねえ。だが、事実だ。間もなく、アタクシの、ハプスブルクの時代は終わる」

 リースルは両腕を広げ、力強く言い切った。

「絶対王政は、既に誤魔化しの段階に入った。徒に戦争を繰り返し、外敵に不満を向けさせ、飢饉や疫病を、神の思し召しだと吹聴しまくる。下らねえ延命策さ。長続きなんて、するはずがねえ」

 そうか。山縣先生の懸念した末路が、ここで、もうすぐ……。

 胸の内から、溢れ出る奔流を、文之進は抑えられなかった。

「笑っちまうよなぁ? 民が、いつまでも無知蒙昧のまんまだと、本気で錯覚してやがるからこそ、続けられる暴挙だ。アタクシには、どうしてやりようもねえし、どうにかしようって気も、さらさら起きねえ」

 リースルの長い熱弁が、心地良い音色となって響く。文之進は、半ば呆然と立ち尽くし、感無量の境地を味わった。

「けど、アタクシは巻き添えを食いたかねえ。このまま暢気に待ってたら、王宮の糞馬鹿どもと、仲良く道連れにになっちまう。冗っ談じゃねえ」

 もはや、何も耳に入らなかった。否、聞こえるが、翻訳している場合ではなかった。

 涙が、止め処なく頬を伝う。

師の憂いに共感して、ではない。

 リースルの境遇に同情して、などでは、断じてない。

 たった一つの、確固たる感情によって、文之進は涙を流した。

「だから、いざってときのために、アタクシは……はん? テメエ、なんで泣きながら、笑ってやがる?」

 リースルは、漸く、文之進の異変に気付いた。文之進は涙を拭い、幹から離れた。

 折れた剣に引っ張られ、服が少々、破けたが、構いはしなかった。

「いや、すまぬ。あまりの痛快さに、つい。なるほど、この地を訪れて、本当に良かった。情勢が、数十年は先んじてる」

 一人で悦に入る文之進に、リースルが不満をぶつけた。

「おぅこら、アタクシの講釈を無視して、勝手に納得してんじゃねえよ。それとも、おちょくってんのか?」

「だったら、どうした」

 文之進は、抱腹絶倒を我慢しつつ、十手と兜割を軽く振るった。騎士たちの槍と剣が、一斉に文之進を向いた。

「本来なら、貴様たちに向けるべき言葉では、ないのだろうな。お門違いも甚だしい。だが、是非とも言わせてくれ」

 一拍、文之進は、ありったけの気持ちを込め、

「ざまあ、見さらせ」

 リースルを馬鹿にした。

 次の瞬間、視界の外から飛んできた鉄槍が、文之進の右肩を抉った。

 血が噴出し、激痛が文之進を襲う。

「がっかっ」

 肩を押さえ、悶える文之進を、リースルは嘲笑った。

「はっきゃっきゃ、威勢良く、啖呵を切ってくれるねぇ。躾のし甲斐があらぁ」

「ぉおんの!」

 次は、籠手と一体化した短剣が、文之進の胸を切り裂いた。

「げぶがあ~っ、ぐっはははは」

 血反吐を溢した文之進は、ついに堪えきれず、吹き出した。リースルは、騎士たちの動きを止め、悪戯っぽく問いかけた。

「おやおや、あまりの痛みに、発狂しちまったかぁ?」

「いや~っははは、すこぶる気分が良い。きっと、公儀の連中も、いつか貴様のように、恐怖に藻掻くのかと思うと、可笑しくって、どうしようも――んおがぁっ!」

 脇腹を、鉄の拳で殴打され、文之進は頽れた。が、すぐに膝を起こし、リースルを睨み付けた。

「リースルよ。体制の頂点に君臨し、しっかりと恩恵に与っておきながら、共倒れを逃れたいと嘯き、怯える、ふざけた皇女よ。俺は、貴様みたいな輩が、死ぬほど嫌いで、過去に見限ったからこそ、今、ここに立ってる」

「なにを、ほざいて」

 たじろぐリースルに、文之進は、決定的な一言を紡いだ。

「はっきり、答えてやろう。俺は、貴様に仕える気なんて、塵芥(ちりあくた)ほども、ない」

 ガリ、という歯軋りと共に、リースルの目つきが、冷たくなった。

「確かに、どう取り繕ったところで、アタクシは特権階級の最高位だ。誰もが羨み、妬ましさを抱く、ハプスブルクの女だ。顔だって……それなりに自信がある」

 リースルは、固い決意を宿した瞳で、自身の顔を覆う黒い布を、取り払った。

 絹のような光を放ち、川のように流れる髪。

 恐ろしく整合の取れた輪郭と、鋭い瞳が印象的な相貌。

 露わとなったリースルの素顔に、文之進だけでなく、下女も騎士たちも、一緒になって息を呑んだ。

 加えて、文之進は見た。絶世の美女と呼んで差し支えない容姿のリースルが、柳眉を逆立て、全速力で駆けてくる光景を。

「だけどなぁ、良い子ちゃんじゃねえんだよ! 簡単に諦められるほど、アタクシの欲は浅くねえ!」

 騎士たちを軽々と追い抜いたリースルは、拾い上げた片手剣で、文之進の脇腹を突き刺した。

 間近に迫った、リースルの強烈な美貌に、文之進は痛みはおろか、呼吸すら忘れ、魅入りかけた。

「さあ、降参しやがれ。今すぐ手当を受けなきゃ、テメエは死ぬ」

「脅し文句は、顔を隠したままのほうが、効果的だったな」

 文之進が、口から血を溢しながら笑うと、リースルは更に表情を険しくした。

「アタクシの面には、迫力がねえってか?」

「いいや、ぞっとするほどの別嬪だ。お陰で、気絶せずに済んだ」

 敵意の緩んだリースルを、文之進は突き飛ばした。引き抜かれた片手剣を、十手で叩き落とす。

「名乗りを、改めようか。攪乱荒中」

 リースルに代わって、騎士が剣を振り上げる。文之進は剣撃を擦り抜け、兜割で鉄兜を叩いた。

 鉄兜が大きく歪み、騎士の一人は倒れた。

「傲狠」

 二人目の騎士は、体当たりを挑んできた。

 文之進は、相手の勢いを利用し、後ろへ投げ飛ばした。二人目の騎士は、幹に頭から激突し、動かなくなる。

「難訓」

 三人目と四人目は、鉄槍。

 リースルの剣より遅い攻撃など、文之進には当たらなかった。

 二人の騎士の兜を、文之進は同時に打った。十手と兜割が纏めて砕け、三人目と四人目は、地面に伏した。

「性格を示す、二つ名を有するは、檮杌。喰われたくなければ、失せろ。極小悪党ども」

 殺意と血に彩られた、文之進の笑みで、残り十六名の騎士たちは、全員、縮こまった。リースルもまた、戦慄を露わにした。

「なんて暴れ方しやがる。血みどろの大怪我で、どうやって?」

「以前、馬尼拉の近くで、貴様たちと、よく似た戦い方をする人と知り合った。お陰で、急所は全て外した」

 柔和なルベ神父の顔を、思い起こしつつ、文之進は薙刀を拾い上げた。

「退かぬなら、とことん争うか。次は誰が――」

 文之進が足を踏み出そうとしたとき、リースルの下女が、奥で叫んだ。

「騎士の皆さん! 急ぎ、エリーザベト様と撤収なさってくださいまし!」

「ヘレン、テメエ!」

 リースルは憤怒の表情を、ヘレンに向けた。が、ヘレンの悲壮感漂う決断に、揺るぎは一切なかった。

「お叱りは、後でいくらでも、お受けいたします。やいこるぁ、騎士ども! 撤退だっつってんだろうがよ! さっさとしやがれ! 不甲斐ねえのは、ともかく、エリーザベト様が怪我でもしたら、テレジア様に殺されっぞ! この世で一番、苦しい死に方でな!」

 形振り構わぬヘレンの脅迫は、見事に功を奏した。騎士たちは、昏倒している仲間と、リースルを担いで、帰り支度に移った。

 騎士二人に、両腕を掴まれたリースルは、顔を真っ赤にして、ヘレンたちに喚き散らした。

「ふざけんなよ、テメエら! 文之進を負かすまで、戦いやがれ! アタクシの命令が、聞けねえのか!」

 しかし、リースルの激しい訴えは通らず、ずるずると、身体を引き摺られていった。

 騎士とて、文之進が目障りで、叩き潰したい気持ちで一杯なのだろう。だが、ヘレンの一声で、リースルの守護を優先しなければならない責務に、目覚めたようだ。

 文之進は、薙刀の柄を地面に打ち付け、皮肉を述べた。

「良かったな、リースル。引き際を心得てる部下に、恵まれて。少しは、貴様の不安も取り除かれるだろう」

 リースルは、心底、悔しがり、目に涙を浮かべた。

「文之進。テメエの面、ぜってえに忘れねえぞ。一度、見初めた以上、アタクシは必ず、テメエを手に入れてやらぁ!」

 恨みの籠もった捨て台詞を最後に、リースルは辻馬車に押し込まれ、姿を消した。叫び声は、止まなかったが。

 ヘレン率いる騎士たちは、瞬く間に引き揚げた。負傷し、動けなくなった馬と、捨てられた武器を残して。

 敵の姿が、完全に消えた段階で、文之進は前のめりに倒れた。

「虚勢が、尽きた」

 文之進の身体は、既に満身創痍だった。いくら急所に当たらなかったとはいえ、血を出し過ぎれば、充分に致命傷となる。

 感覚としては、海軍に挑んだときよりも、拙い。

 もはや、手足はおろか、指先すら、動かない。

 視界が揺らぎ、意識が遠退く。

 喪失感は、欠片もなかった。師の首を抱え、惨めに野を駆けていたときの、どうしようもない失意は、沸いてこなかった。

 ひどく満たされた心地で、自分の血に漬かりながら、文之進は呟いた。

「イルジナ。お前に、皇女の肩書きは、似合わぬな」

 だから、気兼ねなく逃げろ。

 至った結論を胸に、文之進は深い眠りに就いた。

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