第4話 仲間を新たに
1
「ナオキのドアホめ~。こない厄介なモン、預けに来おってからに。どないせいっちゅうねん、ホンマに」
発音に、妙な違和感のある声で、文之進は目を醒ました。
(知らぬ間に、眠っていたか。ここは、どこだ?)
ぼやけていた視界が、次第に明白になっていく。
白い壁と、白い天井。
鮮やかに色分けされた硝子窓から降り注ぐ、優しい光。
奥には、凝った飾り付けと、十字架が掲げられており、木製の長椅子が二席ずつ、等間隔に並んでいた。
文之進の身体は、出入口に最も近い椅子の上に、仰向けの状態で横たえられ、布を掛けられていた。傷口には、手当を施された形跡があった。
(伴天連の屋敷か。なら、声の主は……)
文之進は首を起こし、辺りを見渡した。すると、すぐ近くで、箒片手に文句を並べ立てている人物が、文之進の目に入った。
「ルベ神父も、ルベ神父や。おかしいやろ、明らかに。銃で撃たれとるわ、ごっつい得物は所持しとるわて、どう考えても、海賊やんけ」
十四、五歳ぐらいの、異人の修道女だった。髪は被り物で隠れているものの、日焼けの自然な顔つきは、この辺の住民たちと同類。
発音に違和感があった理由は、修道女にとって、大和言葉が完全な母国語ではなかったせいだろう。なぜ、母国語で喋っていないのかは、甚だ疑問だが。
修道女は、憤懣やるかたない様子で、壁を蹴った。
「大方、悪さしとった報いなんやから、死んで当然やろ。文之進だか豚の尻尾だか知らんけど、ロクな奴やないに決まっとる。なのに、ルベ神父も、アホのナオキも、助けよう、助けようって。ホンマ、どうかしとるで」
「まったくだな。不審者には、用心に用心を重ねて、然るべきだ」
「せやろ? 絶対に、あかんって。人の良い連中ばっかりが相手やと、こっちが変なんかなって、疑いたくなる――のぉあっ!」
相槌を打った文之進に、修道女は長々と喋ってから、盛大に驚いた。
「き、きき、気が付きおったんか。この悪党!」
修道女は箒を握り締め、威嚇するように怒鳴った。文之進は布を取り払い、蹌踉めきながら立ち上がると、とりあえず礼を述べた。
「手当、感謝する。おかげで、多少、回復できた」
「そそそ、そない、へりくだった態度とったかて、騙されへんで! 島を荒らそうとする輩は、ペーニャが懲らしめたる!」
褐色肌の修道女、ペーニャは、口上こそ立派ながら、及び腰と引き攣った表情で、箒を構えた。無論、恩人と戦うつもりなどない文之進は、肩を竦め、扉へ向かって歩いた。
「ちょ、ちょい待ち! どこへ逃げるん?」
ペーニャは慌てて、文之進を呼び止めた。文之進は振り返り、あっさり行き先を白状する。
「船着き場だ。俺に、島からいなくなってほしいんだろう? 望み通りにしてやるから、安心しろ」
あまりにも呆気ない解決に、ペーニャは一瞬、ポケ~、と拍子抜けしかけた。しかし、すぐに懐疑と敵愾心を、瞳に甦らせた。
「そない胡散臭い言葉、信じられんわ。どっかの家にでも押し入って、金目のモン、漁るつもりやろ?」
「なら、お前が案内してくれるか?」
扉に手を掛けながら、文之進は提案した。ペーニャは、またしても、目をぱちりと見開いて、固まった。
「なんで、ウチが」
「俺が信用ならぬのだろう? だったら、お前が目付として、船着き場まで連れて行ってくれ。それなら、問題ないはず」
「あ、甘えんといて! ウチは、小間使いやあらへん!」
ペーニャは激怒して、文之進の案を突っぱねた。箒の先端が、わなわなと震え、埃がぱらぱらと落ちた。
若干の理不尽を感じつつ、文之進は謝った。
「怒らせたのなら、すまぬ。だが、他に良い方法があるか?」
「そんなもん、知らん! 知らんけど、あんさんの話に乗せられるんは、嫌や」
なるほど、坊主憎けりゃ、なんとやら、か。面倒な相手だ。
「では、お前の決断に委ねよう、ペーニャ」
「気安く呼ばんといて!」
刺々しい態度を貫くペーニャを、文之進は初めて睨み返した。
「あくまで俺を叩きのめしたいのなら、不本意ながら、抗わせてもらうぞ。いくら恩人といえど、これ以上、怪我を増やされては堪らぬ」
ペーニャは僅かに身を竦ませたものの、半ば無理矢理、作り笑いを浮かべ、箒を握り直した。
「じょ、上等やないの。そない脅し文句で臆すると思ったら、大間違いやで」
「懇願と受け取っては、もらえないか」
「うっさいわ! あんさんの物言い、なんか苛つくねん! 喧嘩ぁ売られとる気がすんねや!」
ペーニャは、いよいよ収まりがつかなくなり、いつでも飛びかかれるように、腰を低く沈めた。
諦観と覚悟を抱いた文之進は、扉を開けて外に出た。
「逃がさへんで!」
ペーニャの叫びが、文之進の背を叩いた。
元より、逃亡する意図も体力も、文之進にはなかった。屋内なら、得物の利点を殺せるかもしれないが、世話になった場所を損壊する危険は、極力、避けたかった。故に、場所を移したに過ぎない。
屋敷に面した、砂利道の上。眩しい朝日に照らされながら、文之進は振り返った。
追いかけっこで調子に乗ったペーニャが、居丈高に鼻を鳴らした。
「アッホやな~、あんさん。こないな拓けたとこで、素手と箒。間合いも完璧に、ウチの領分や。あんさんに勝ち目なんて、ないやろ」
確かに、十手や兜割、苦無の類は没収されたらしく、文之進の手元に武具はなかった。が、下手に怯んでは、ペーニャの思う壺。
「勇ましいのは結構だが、慢心は感心せぬな。たとえ武術の心得があろうと、油断は大敵だぞ」
文之進が指摘した途端、ペーニャの儚い余裕が消えた。
「ななな、なんで知っとんの!?」
「ナオキが口にしていた。エスクリマというらしいな」
文之進は、右足を前に出し、軋む身体で構えを採った。
「童たちの指南役は、お前か?」
「こ、答える義理なんか、あらへんやろ」
ペーニャは狼狽を隠すように、拗ねた。肯定しないところから察するに、どうやら教えてはいないようだ。
「なんやねん! その馬鹿にしたような面は!」
「いや、失敬。どちらにしろ、興味はある。エスクリマとやら、披露してくれるというなら、拝見しよう」
「むぎぃ~っ、舐め腐った性根しおって~。もう許さへん!」
憤慨が頂点に達したペーニャは、箒を勢いよく振り回した。穂が明後日のほうへ抜け飛び、箒が完全な棒きれと化した。
(半身での持ち方……では)
「覚悟しぃ!」
恐れを怒りで上書きし、ペーニャは走り込んできた。
放たれた突きを、文之進は後退して躱した。
「こら、避けんな!」
ペーニャは間髪入れず、追撃を懸けた。上半身の動きは、文之進の知る型に似ていたものの、足運びは独特だった。左右、どちらからも、ペーニャは踏み込んでくる。
「軽やかだな。よっと」
鈍い身体に鞭を打ち、文之進は回避を続けた。ペーニャが棒を引いた時点で、避け始めなければならないため、目と頭が、とてつもなく辛(つら)い。
「どうし、て、読まれんねん!」
ペーニャが焦りを滲ませ、叫んだ。突きに混ざって、殴打も繰り出されたが、文之進は好機と捉える。
「玄人の筋は、しっかりしてる。故に、予測も立てやすい」
「屁理屈や! そんなん――ひぃっ!」
殴打の間隙を縫い、文之進はペーニャに肉迫した。戦いたペーニャは、とっさに棒を横に突き出し、目を瞑った。
酷く迂闊だが、お陰で文之進の勝利は決まった。
文之進は、素早くペーニャの手から棒を取り上げ、遠くに放り投げた。ペーニャの顔色が、瞬く間に青褪めた。
「終いだ」
「い、いやや、殺さんといてぇ~」
ペーニャは急に怖じ気付くと、固く閉じたままの目元に、涙を溜め、へなへなと膝を折った。文之進は、ちょっと申し訳ない気持ちになった。
「生憎、お前の生殺与奪に興味はない。そちらに戦う意志がないなら、俺は去らせてもらう。二度と会うこともあるまい」
「嘘や。絶対、恨んどるやろ? 夜中になったら、仕返しに来んのやろ? ウチには、分かっとんのや!」
ペーニャは勝手な妄言を吐き散らし、文之進に飛びかかった。不意を突かれ、しかも、低い体勢から襲われたため、文之進は為す術なく押し倒された。
「あだっ! お前、よくも――えふっ」
「死ね~、死んでまえ~! あんさんなんか、怖ないねん! しばいたる~!」
馬乗りになったペーニャは、泣きながら容赦なく文之進の顔面を殴りつけた。激痛に苛まれた文之進は、三発目を掌で受け止め、吠えた。
「いい加減にせぬか。往生際の悪い」
「いやや~、殺されとうない~」
ペーニャは駄々っ子のように泣きじゃくり、必死に暴れた。どう考えても、文之進のほうが殺されそうだった。理不尽とか、狂気といった類に。
「ペーニャ、頼む。落ち着いてくれ。もはや、話にならぬ」
文之進が困り果てたとき、まるで機を窺っていたかのごとく、のったりした男の声が、耳に入った。
「全くやで、シスター・ペーニャ。ちいと、頭ぁ冷やしなはれ」
ペコーン!
「う……け?」
大きな音とともに、ペーニャが白目を剥いて、文之進の上に覆い被さった。ペーニャの短い金髪が、文之進の鼻に掛かる。
訪れた静寂と平穏。だが、文之進は警戒を新たに、天を見上げた。
「えろう、すんませんでしたなぁ。怪我人に、とんだご迷惑を」
人の良さそうな顔つきの、五十歳手前と思しき男が、棒きれ片手に、深々と頭を下げた。男はペーニャと同じ、黒い修道服姿だが、肌は白く、鷲鼻にチョビ髭を生やしている。
「ルベ神父と言います。貴方は、文之進さんで、合うてますか?」
「相違ない。えっと、俺とペーニャが一戦を交えてたのには、深い事情が」
文之進は冷や汗が止まらなかった。挙措で見抜いたが、ルベ神父は間違いなく、武術の達人。今の文之進では、敵う気が全くしない。
しかし、幸いにも、ペーニャと対峙したときのような、一触即発の雰囲気には、発展しなかった。
ルベ神父は悪戯っぽく笑い、文之進に打ち明けた。
「実は、途中から見物させてもろうたんです。サムライの武術を見るんは、初めてだったもんで。文之進さん、お強いんやねぇ」
文之進は謙遜を含めず、正直な感想を漏らした。
「とんでもない。ペーニャが、もし同い年だったら、俺が負けてただろう。洗練された武芸だったよ、エスクリマは」
すると、ルベ神父は大仰な仕草で、腹を抱えた。
「あっはは、育てた身としては、あんまり嬉しゅうありまへんなぁ。シスター・ペーニャには、エスクリマよりも先に、もっと落ち着きと淑やかさを磨いてもらいたいと、常日頃、願っとりますもんで」
「無礼を承知で申そう。同感だ」
文之進もまた、安堵の笑いを溢し、胸元で大人しく昏倒しているペーニャに、視線を落とした。
「ほな、話の続きは、教会ん中でしまひょか。いつまでも、シスター・ペーニャにべったり抱き付かれとるのは、暑苦しゅうて嫌でっしゃろ?」
「いや、俺に不満はないが、ペーニャは、きっと……というか、こやつが寝てる間に、退散したいんだが」
文之進が、戦々恐々としながら呟いたところ、ルベ神父は善意を込めて、あきまへん、と、反論した。
「どうか寄ってって下さい、お願いします。シスターが起きたら、きっちり言い聞かせますさかい。無辜の怪我人、殴って、神の家からも追い払ったとなれば、こっちの立場がありまへん。破門ものですわ」
2
教会の奥に設けられた、談話目的と思しき部屋に、文之進は案内された。
日当たりは良いが、礼拝堂と違って、荘厳な雰囲気は全然ない。丸い机と椅子が幾つか置かれているだけの、質素ながら過ごしやすい場所だった。
「適当に、くつろいどいて下さい。今、お茶を淹れてきます」
ルベ神父は、まるで旧知の間柄と接するような、気軽な口調で言い残し、いそいそと退室した。
「ふむ、物騒な武芸を広めている割には、牧歌的な人だ。よいしょっと」
文之進が、気絶したペーニャを(なるべく)遠くに座らせ、一息ほっと吐いていると、とたとたと小刻みな足音が、部屋の外から聞こえてきた。
ルベ神父か? と、文之進は思ったが、すぐに子供の足音だと気付いた。
「ルベのおっさん、おるかいなー?」
ナオキだった。ナオキは、大きな葉で包(くる)んだ何かを両手に持ち、文之進のいる部屋に踏み込んできた。
「お前も、大概、無遠慮だな。この辺りには、家人が出てくるまで玄関で待つという習慣はないのか」
「おぉー、ブンノシン、起きたんやな。あれ、ペー姐は寝とる。もう朝やのに」
ナオキは文之進を見て喜び、ペーニャに視線を移して、呆れた。
「放っておいてやれ。いや、頼むから、ペーニャを起こさぬでくれ」
悪夢を甦らせたくなかった文之進は、そっとナオキに囁いた。しかし、ナオキは眉を顰め、大声で異を唱えた。
「ねぼすけは、あかん。せっかくの朝飯が、冷めてまうやろ」
「朝飯? ひょっとして、ナオキが抱えてる荷物は……」
「せや。ブンノシンもおるし、ちょうどええかなあって」
ナオキは屈託のない笑みを浮かべ、机の上に葉を置き、広げてみせた。露わになった朝食の正体に、文之進は息を呑んだ。
蟹と海老を足して二倍にしたような、不気味な形と大きさの生類が、真っ赤に蒸し上がった状態で、どてーんと鎮座していた。
「それは、食せるのか?」
文之進は、恐る恐る指を差し、尋ねた。
「なんや、知らんの? ただのヤシガニやん」
円らなナオキの瞳に、冗談や悪意は、一切、含まれていなかった。
「そやつが木に登っているのを、何度か見かけたが、食欲は湧かなかったよ。大きさと異様さって、度が過ぎると恐怖だな」
「何を言うとんねん。ヤシガニ美味いでー。食ったら分かる」
ナオキの意見は、極めて正論だったものの、なかなかどうして受け入れ難かった。見れば見るほど、化物という愛称が、ヤシガニに相応しい気がしてくる。
「ほら、ペー姐、いつまで寝とんねん。朝の掃除は、ケイケンなシスターの嗜みだったんちゃうんか?」
「しまった。こら、ナオキ」
文之進は、ヤシガニとの睨めっこを止め、ナオキに注意した。が、遅かった。
肩を揺さぶられたペーニャが、顰めっ面で呻いた。
「いった~。首の後ろ、めっちゃ痛いんやけど、なんでやねん?」
「知らんがな。目脂だらけで、だらしない。はよ、顔洗ってこんと、ペー姐の分の朝飯、なくなるで」
ナオキに捲し立てられ、ペーニャは漸く、薄目を開いた。
「うっさいわ、阿呆ナオキ。アンタが夢ん中で、変なもん拾ってきたんが悪いんやろ。ウチが追い払わんかったら、今頃、どうなっとったか」
「寝惚けとる場合ちゃうやろ。ブンノシン、起きたんやし、仲良うせな」
「せやから、それは夢やったって、言ったや――どろぁっ!」
一言も喋らず、大人しくしていた文之進だが、さすがに隠れているわけではなかったため、容易くペーニャに見つかった。
ペーニャは立ち上がるや、錯乱気味にナオキを押し退け、椅子を持ち上げた。
「畜生、夢やなかった」
「さあな。ひょっとしたら、白昼夢の続きかもしれぬぞ」
文之進は茶化しつつ、腰を上げ、投擲に備えた。
「何しとんねん! ペー姐」
ナオキが慌てて、ペーニャを後ろから羽交い締めにした。
「離してえな、阿呆ナオキ。あいつを、文之進を倒さんと」
ペーニャは藻掻くが、ナオキは絡めた腕を解かなかった。見事な極まり方から推察するに、どうやらエスクリマには、体術も含まれているようだ。
文之進は、揉め事そっちのけで感心した。
「阿呆は、ペー姐のほうやんけ。朝っぱらから、何をトチ狂っとんのや」
「せやで。ええ加減にしなはれ。見苦しい」
戻ってきたルベ神父が、ナオキの苦言に同意した。途端、ペーニャの殺気が、綺麗に霧散する。
「ルベ神父、帰ってきてたん?」
ペーニャは、安堵とも畏怖ともつかない複雑な表情で、呟いた。ルベ神父は、白磁の茶器を机に載せ、優雅に頷いた。
「とっくに。シスター・ペーニャ。貴方には言いたいことが、それはもう仰山あるんやけど、とりあえず食事にしまひょ。椅子を下ろしなはれ」
「あかんって! 海賊を野放しにしとくなんて、危険やわ」
ペーニャは必死に、ルベ神父を説き伏せに懸かった。が、ルベ神父は穏やかに微笑むだけで、全く取り合わなかった。
「不毛な問答は、しまへん」
「そんな~、あんまりや」
失望を隠せないペーニャを、ルベ神父は無視し、ナオキのほうを向いた。
「ナオキさん、いつも美味しい料理を、ありがとうございます。貴方も一緒に、食事しまひょか?」
ルベ神父の誘いに、ナオキは何かを嫌がっている様子で、首を横に振った。
「ワテは、もう食った。お茶も要らん。外で遊んでくる」
ナオキは早口で喋り終えると、ペーニャに極めていた関節技を解き、一目散に部屋から出て行った。
扉が乱暴に閉められ、文之進は違和感を覚える。
「なんだ? ナオキの奴、逃げるようにいなくなって」
ルベ神父は、ヤシガニの載った机を整えながら、朗らかに明かした。
「きっと、お祈りが退屈なんやと思います。子供は、大人しくしとるのが苦手やさかい。そうでっしゃろ? シスター・ペーニャ」
「う、ウチは子供やあらへんって!」
ペーニャは、恥ずかしそうに椅子を振り回し、ルベ神父に抗議した。まさしく、子供っぽい仕草だと、指摘せざるを得ない。
しかし、ルベ神父は馬鹿にしたりせず、上手に口車を回した。
「ほなら、聞き分けようせな、あきまへんな?」
「せやけど……」
「大人の、ましてや神に仕えとる者は、落ち着きと良識が大切です。決めつけで、他人を嬲ったり、蔑ろにしたりしたら、あきまへん。ちゃいまっか?」
ルベ神父に重ねて問われ、ペーニャは渋々、椅子を下ろした。文之進は安堵で胸を撫で下ろし、ルベ神父も満足げに頷いた。
「宜しい。これでやっと、お祈りができます。さあさ、文之進さんも、こちらに」
「分かった。伴天連にも神仏道にも、信心深い身ではないが、郷に入っては郷に従おう」
文之進は指示されるまま、ペーニャ、ルベ神父と机を囲んで座り、二人に倣って両手を合わせた。
ルベ神父は瞑目し、「偉大な主よ」で始まる文言を、つらつらと淀みなく並べた。ペーニャも続いて唱えたが、目は、じ~っと、文之進を恨みがましく睨め付けていた。
「すまぬ。早すぎて、耳に残らなかった」
詠唱を済ませたルベ神父に、文之進は軽く詫びた。本当は、ペーニャの視線が痛く、祈りどころではなかったせいだが。
ルベ神父は快く笑い、文之進に茶を差し出した。
「構いまへん。祈りそのものが、重要ですさかい。ほな――」
「いただきます!」
ルベ神父の言葉を継いだペーニャは、実に素早い動きで、ヤシガニの載った皿を、文之進から遠ざけた。
「こら、シスター・ペーニャ。まぁた、そない意地悪して」
ルベ神父が呆れて注意するも、ペーニャは澄まし顔で言い訳を述べた。
「だって、手が届きにくいんやもん。文之進のほうが、腕、長いんやし、ええやろ」
明らかに、文之進が手を限界まで伸ばしても、届かないであろう位置に、ヤシガニはあった。文之進にとっては、僥倖以外の何物でもないが。
「俺は、ルベ殿とペーニャの食べ残しを貰えれば、充分だ」
「へっへ~ん、あんさんには、殻しかやらへんよーだ」
ペーニャは舌を伸ばしながら、ヤシガニを器用に分解し、中の身を取り出していった。
願ったり、叶ったりだ。空腹は、後で魚でも捕って満たそう。
ペーニャがヤシガニの鋏に囓(かぶ)りつく横で、文之進は打算的な考えを巡らせた。
ルベ神父が、申し訳なさそうに苦笑する。
「ホンマ、すんまへんな。御覧の通り、人見知りで」
「気にはせぬ。余所者は、毛嫌いされて当然だ」
文之進は、琥珀色の甘い茶を啜り、喉を潤した。
「ところで、一つ伺いたい。馬尼拉へと向かう船は、この島に寄るか?」
「ええ、日に、なんべんも通りますね。文之進さんは、馬尼拉から帰るつもりでっか? サムライの国に」
故郷。
望郷。
ルベ神父には、文之進が帰りたがっているように見えたのか? いや、単に居心地の悪さを悟られただけか。
文之進は、自嘲して答えた。
「もはや戻れぬ。一度は公儀を、国を治める者たちを、敵に回したのでな」
「ほらー、やっぱり、ド悪人だったやんけ。むぐむぐ」
すかさず、ペーニャが会話に割り込み、得意気に言い放った。もしゃもしゃと、ヤシガニを精一杯、頬張りつつ。
迫力の欠片もない敵意に、文之進は微笑ましさを感じながら、打ち明けた。
「少なくとも、善人ではないな。慕っていた人が生首になったときから、面倒な躊躇いは捨てている。たとえ悪行だろうと、必要ならば、するまでだ」
「うーきゃー、開き直りおったで。最っ低やな。懺悔するんやったら、ちっとは見直そう思うとったけど、あんさんは救いようがないわ。死んだら地獄行き、確定やな」
「シスター・ペーニャ。食べながら喋るもんやない。汚らしいで」
ルベ神父に窘められ、やっとペーニャは口を閉じた。
ルベ神父は、辛そうに目を細め、文之進に向き直った。どうやら、文之進の素性と事情を、大凡ながら察したらしい。
「神は、見込みのある者にほど、過酷な試練を課しますねん。文之進さんは、よっぽど期待されてんねんなあ」
「だとしたら、めでたい話だ。少なくとも、阿蘭陀に着くまでは、生き延びていたい」
文之進が漏らした一言で、ルベ神父は明るさを取り戻した。
「ほー、阿蘭陀を目指すんでっか。阿姆斯特丹(アムステルダム)は、自由と貿易で、えらい発展した街ですよ。年中、人や物で賑わって、華やいどります。ルベは西班牙人ですが、阿姆斯特丹の良さは、素直に称賛します。観たら必ず、おったまげまっせ」
相当、思い入れが強いのか、ルベ神父は饒舌に、阿蘭陀の一都市を紹介してくれた。
「なるほど、赴いてみる価値は、あるようだな。立ち寄れたら、是非とも観光させてもらうとしよう」
望郷を忘れ、文之進は彼方の地に、想いを馳せた。
ところが、纏まりかけたルベ神父との会話に、ペーニャが水を差した。
「けっ、甘ったるい夢やな。ええか、文之進? 悪人には天罰が下るもんなんや。あんさんなんか、沖で大嵐にでも遭って、鮫の餌んなるんが、オチやで」
縁起でもないペーニャの予測に、文之進は怒りこそしなかったものの、皮肉を返したい衝動に駆られた。
「悪いが、時化なら経験済みだ。どうせなら、別の艱難辛苦を頼む。すこぶる喧嘩っ早い、乱暴者のシスター殿」
「なんやて! ホンマ、腹立つ言い方しよってからに。ルベ神父~、こない、ふざけとる奴、とっとと追い出したらええねん」
ペーニャは大いに悔しがってから、ルベ神父に泣き付いた。
さすがに、家人への無礼が過ぎたか?
叱られるかな、と、文之進は身構えたものの、ルベ神父は何かに気付いた様子で、徐に立ち上がった。
「ひょっとしたら、文之進さんが現われたんは、天啓なんかもしれまへんな。シスター・ペーニャにとって」
ルベ神父の目には、僅かな寂寥と、強い覚悟が宿っていた。文之進が、真意を探ろうとした刹那、
「文之進さん。烏滸(おこ)がましいんは重々承知で、頼みがあります。このルベと、一勝負、してもらえますか?」
ルベ神父に、機先を制された。
3
昼過ぎ。
秋知らずの強い日差を浴びながら、文之進は教会の外で、十手と兜割りを振っていた。
『預かっとった武具は、お返しします。仕合の際に好きに使ってもらって、構いまへん。ルベも得物を用意しますさかい』
ルベ神父の親切は、全然、嬉しくなかった。金具同士で打ち合うとなれば、ふとした拍子に相手を骨折させたり、殺めてしまいかねない。ペーニャが握っていた木の棒だって、打ち所によっては、危なかったのに。
「あっつつ。まだ、あちこちが痛むな。ルベ殿が手加減してくれるといいんだが」
不安に苛まれる文之進の元に、
「ブンノシーン、元気にしとったか?」
ナオキが、仲間の子供たちを連れ、歩いてきた。
「お前ら、よくもこんな厄介な教会に、俺を運んでくれたな」
文之進が、助けてもらった感謝そっちのけで嘆くと、ナオキの仲間たちは、なぜか愉快そうに笑った。
「きゃはは、武器ぃ持っとんのに、情けないこと言っとるで。やっぱ、コイツ、弱いんちゃうか?」
「駄目やって。笑っちゃ失礼やわ。ぷふふ」
「ペーニャに悪戯(わるさ)やって、叱られたんやろ」
「ウチらも、しょっちゅうやっとるしな」
騒ぎ立てる子供たちの前で、ナオキが訊いてきた。
「ワテら、エスクリマ習いに来たんやけど、ルベ神父は、おる?」
「稽古か。それなら、じきに――」
「お待たせして、申し訳ありまへん。おや、ナオキさんたち、来とったんですか」
文之進の返事を遮り、ルベ神父が教会から出てきた。
ペーニャが振り回していた木の棒を、肩に担いで。
駆け寄ろうとするナオキたちを、文之進は手で制し、ルベ神父に尋ねた。
「いいのか? 俺の得物は短いが、鉄で拵えてある。寸止めを心懸けても、当たらぬ保証はないぞ」
「ご心配、ありがとうございます。せやけど、遠慮は無用です。怪我人に遅れは取りまへん。本気で、挑んでもらいまひょか」
ルベ神父は軽く跳びはね、身体を解しながら、ナオキに呼びかけた。
「ナオキさんは、他の人たちと一緒に、離れた場所で見学しといて下さい」
「はーい。ブンノシン、頑張ってぇな」
ナオキは気楽に励まし、仲間たちと遠くに行った。文之進は、一度、深く呼吸し直してから、身体に活を入れた。
「ナオキには悪いが、俺に大した武芸など披露できぬ。所詮は、俄剣術だ」
「おやおや、珍しく異なことを仰りまんな。武に善し悪しはあっても、偽物はありまへん。ほな、参りまっせ」
ルベ神父は、ペーニャより玄人慣れした手つきで、棒を構えた。対する文之進は、右手の十手を前に、左手の兜割りを上に持ち、待ち受けた。
ルベ神父の足が動き、徐々に互いの間合いが狭まる。緊張感が高まり、子供たちも静かになった。
沈黙と息苦しさに包まれながら、文之進は願った。
来い。
仕掛けてこい。
返しで終わらせる。
ルベ神父が踏み込んだ。
突き入れられた棒を、文之進は十手でいなし、
「くぉらあ!」
兜割りを全力で振り下ろした。
渇いた音を立て、木の棒が真っ二つに折れる。しかし、
「わざとでっせ?」
ルベ神父の笑みが、深まった。
ぴたりと、文之進の眉間の両側に、二本の棒が当てられた。子供たちから、「ルベ神父の勝ちや」と、歓声が沸き起こった。
「文之進さんの狙いは、読めとりました。ルベの得物の利点は、長さのみ。折ってしまえば、勝負は決する、と。お優しい半面、ちぃと、詰めが甘いでんな」
「返す言葉が見つからぬ。俺の負けだ」
あっけなく策を看破された挙げ句、まんまと反撃された結果に、文之進は苦笑するしかなかった。
ルベ神父は距離を取り、太鼓打ちのような格好で、再び構えた。
「今のは、不意打ちみたいなもんです。エスクリマの神髄は、こないなもんやありまへんで」
「まだ、やるのか。もう充分、俺の力量は測れただろうに」
文句を言いつつ、文之進は十手と兜割りを握る手に、力を込めた。
「やったれー、ルベ神父」
「海賊になんか、負けたらあかん」
「ルベ神父なら、楽勝やわ」
子供たちの声援を受け、ルベ神父は攻めてきた。
左右から、殴打の嵐が繰り出される。
間合いこそ短いが、圧倒的に素早く、隙がない。動きの予測も難しく、文之進は防戦一方となった。
腕。
額。
腹。
胸元。
次々と、ルベ神父は文之進の身体に、棒を当てていく。加減されているため、痛くはないが、確実に負けは積み重なっていった。
(おのれ、捌ききれぬ。棒を二本にしたのが、裏目に出たな。どうにかして、流れを止めねば)
連打の寸断を考えた文之進は、一度、大きく下がった。ルベ神父は空振りを食らい、僅かな間隙が生まれる。
「もらった!」
すかさず、文之進は下がった分より深く、ルベ神父の懐に飛び込んだ。ルベ神父は打撃を放ったが、文之進は弾かずに受け止めた。
もはや、打ち合う余裕すらないほど、文之進は至近に迫った。膂力での押し合いなら、文之進にも分がある――はずだった。
ところが、
「そいやっ!」
突如、ルベ神父の顔が勢いよく反転し、文之進は肩に衝撃を受けた。
「うべげ」
「いやぁ、惜しかったでんな。もう少しで、倒されるとこでした」
投げられた事実を、文之進は遅れて理解した。
「腕を絡まれ、横に回されたのか。よもや、すぐ体術に切り替わられるとは。駄目だ。勝てる気がせぬ」
「エスクリマの奥深さ、分かってもらえましたやろか?」
「存分にな。よっこっと」
ルベ神父の手を借り、文之進は立ち上がった。
「で、負けた俺に、いったい何をさせるつもりだ? 何かを押し付けたくて、俺に勝負を持ちかけたんだろう?」
文之進に尋ねられ、ルベ神父は迷いなく頷いた。
「さすが、文之進さん。見抜かれとりましたか」
ルベ神父の笑みには、邪気や後ろめたさは感じられなかった。目的は読めたが、いまいち、内容が掴めない。
文之進が更に問い質そうとしたところ、
「ルベ神父~、言われた通り、倉庫から持ってきたで~」
ペーニャが、少々、埃に塗れながら、細長い袋を抱えて現われた。途端、ナオキ以外の子供たちが、ペーニャに駆け寄った。
「ペーニャ、どこ行ってた~ん? せっかく、おもろい見せもん、やっとったのに」
「もったいなかったな~」
「なんで、急いでこなかったん?」
「鈍臭いやっちゃな」
はしゃぎ回る子供たちに、ペーニャは困惑しながら叫んだ。
「や、やかましいわ! ウチかて、好きで遅れとったわけや、あらへんねん。って、うおったっと!」
怒鳴った拍子に、ペーニャは体勢を崩し、袋を落とした。
捲(めく)れ上がった袋から、刀の柄が覗いた。文之進は驚愕して、ルベ神父のほうへと首を曲げる。
「おいおい、さすがに真剣勝負は勘弁してほしいんだが」
文之進の憶測を、ルベ神父は一笑に付した。
「ははは、ルベに、サムライの剣は使えませんねん。あの剣は、文之進さんに渡そう思って、シスター・ペーニャに持ってこさせたんですわ」
太刀を贈与? 有り難い話だが、すこぶる怪しい。勝負に負けたのに施しを受けるとは、これ如何に。
「そろそろ、教えてくれ。ルベ殿の真意を。断れる立場ではないとはいえ、要求を明かされぬままでは、不安しか覚えぬ」
文之進が懇願すると、ルベ神父は優しく目を細め、両手を腹の前で組んだ。
「ルベも経験しましたが、旅路はホンマに、危険が仰山、待ち構えとります。文之進さんには、武具に加え、守り守られる朋輩が必要なはず。シスター・ペーニャ」
ルベ神父に声を掛けられ、ペーニャは慌てて顔を向けた。
「ちょい待って~、ルベ神父。今、袋の紐を結び直してる途中やさかい」
「そこにおったままで、ええよ。聴いといて」
ルベ神父は声を張り上げ、文之進に頼んだ。
「あの通り、そそっかしい子やねんけど、どうか、宜しゅう。世間の広さを、シスター・ペーニャに見せたって下さい」
頭を下げるルベ神父に、文之進は呆れ返った。ペーニャも、口を間抜けっぽく開いたまま、硬直した。
4
夕暮れ時となった、教会談話室。
「いーやーや! 絶対に嫌やわ!」
文之進と一緒に、阿蘭陀まで同行するよう、ルベ神父から命じられたペーニャは、昼間から、ず~っと、延々、猛反対し続けた。
しかし、ルベ神父は、顔色一つ変えないまま、これまた、ず~っと、ペーニャに言い聞かせ続けた。
「もう、決めたことです、シスター・ペーニャ。貴女が、文之進さんに乱暴を働いたんは、紛れもない事実。聖職者として、罪は洗い流さな、あきまへん。文之進さんの旅に従いてけば、きっと、神も許してくれるはずや」
「死ぬ危険が、高いとしてもか?」
ペーニャでは、どうあっても、ルベ神父の説得ができないと判断した文之進は、ついに口を挟んだ。
ペーニャは露骨に怯えたが、ルベ神父は、それでも一切の妥協をしなかった。
「険しくなければ、贖罪になりまへん。それに阿蘭陀には、ちょうど、届けてもらいたい物が、あったんです」
ルベ神父は、一枚の丸まった便箋を取り出し、ペーニャに渡した。ペーニャは、受け取った便箋を、疑問の目で眺めた。
「阿姆斯特丹の、すぐ東に、納爾登という街があります。ルベの友人が、そこに勤めとりまして。シスター・ペーニャには、密書を届けてもらいたいんです」
「滅茶苦茶、ついでやん! 文之進に頼んだら、ええやないの」
ペーニャの反論は、即座に打ち砕かれた。
「あきまへん。文之進さんが持ってっても、門前払いされてまうか、偽書と見なされて、破られてまうのが、オチです。密書を届けるんは、シスター・ペーニャにしか頼めへん、重要な任務なんや」
ルベ神父は居住まいを正し、いつになく真面目な表情で、ペーニャに語った。
ペーニャは、余計、嫌がるかに思われたが、意外にも、驚いていた。
「ウチにしか、できへんの?」
若干、緊張を含んだペーニャの問いに、ルベ神父は深く頷いた。
「そうや。けど、シスター・ペーニャだけやと、不安でっしゃろ? せやから、文之進さんと一緒に行きなはれって、言うとるんです。シスター・ペーニャには、荷が重い仕事でっか?」
ルベ神父は、期待の籠もった挑発で、ペーニャの意欲を擽った。ペーニャは、まんざらでもない表情で、便箋を抱えた。
ルベ神父の小賢しい手法に、文之進は焦りを覚える。
「おいおい、ペーニャ。まさか、引き受けるわけでは、あるまいな?」
「文之進さんは、ルベとの勝負に負けたんやから、黙っといてもらえます?」
ルベ神父に、笑顔で諫められ、文之進は二の句が継げなくなった。
頼む、ペーニャ。ルベ神父の口車に乗せられるな。
文之進は、心の中で祈ったが、届かなかった。
しばらく押し黙っていたペーニャは、急に席を立つと、大きく息を吸い込み、決意を露わにした。
「やい、文之進! 道中、盛って、ウチに、ちょっかいかけてきよったら、承知せえへんで。ええな!」
ふざけた捨て台詞を残し、ペーニャは談話室から出て行った。文之進は、唖然となりかけた後、ルベ神父に向き直った。
「ルベ殿。再戦を、お願いしたいんだが」
「許したって下さい。シスター・ペーニャも、お年頃やさかい」
達観したルベ神父の物言いが、余計に腹立たしかった。
5
文之進がいなくなって、四日後の朝。
貴婦人の観光客に扮したカテアは、海軍の動向を探るために、馬尼拉の中心市街地を練り歩いていた。
情報屋に金貨を渡し、酔いの醒めきっていない軍人に、『ちょっと、愛想良く振舞う』ことで、有益な情報を集めていく。武器弾薬の入手より、苦労と手間はかかるが、遙かに重要な仕事だ。
海賊としてのカテアが、今まで捕まらず、船を撃沈されずに済んだ理由は、偏に情報収集を怠らなかったからと言っていい。もっとも、馬尼拉近海は軍艦が異常に多いせいで、全てを把握しきれていない現状が忌々しいが。
大規模な戦争が終わって、もう三年も経つのだから、いい加減、引き揚げて頂きたい。本国は、徒に軍事費が嵩み、我々海賊は、生活圏を脅かされる。お互い、不利益でしかないはずなのに。
先日、海軍に追い回された一件を、カテアは改めて恨んだ。
船の修理費に、いったい、いくら掛かると思っている?
怖じ気付いて辞めた乗組員の補充を、誰がやらなければならないと考えている?
西班牙の敵は英国で、英国の敵は西班牙だろう? 絶滅寸前の海賊を、寄って集って追撃して、恥ずかしくないのか?
もっと、もっと多く情報を仕入れなければ。より安全で、確実な航路での略奪を心懸け、今度こそ、海軍に発見されないようにしなければならない。
カテアは、心の内で不満を燻らせながら、足を動かし続けた。馬尼拉中を隈なく巡り、情報を残らず吸い尽くすつもりで。
だからこそ、かもしれない。
料理店が犇めく、街の一角で、カテアは出会した。見覚えのある東洋の青年が、柄の悪い水兵たちに囲まれている場面に。
「トウコ――」
とっさに名を呼ぼうとしたカテアだが、何者かに服を掴まれ、物陰に引き込まれた。
「無粋な登場は、好まれないよん」
頬を上気させたヤズが、人差し指を口に当て、カテアに囁いた。どうやら、ヤズのほうが一足早く、トウコツの姿を見つけたらしい。
ヤズに倣い、カテアは小声で問いかけた。
「状況の説明を、願えますか?」
「なんかね~、こないだ戦った海軍の人と、偶然ばったり、鉢合わせしちゃったっぽい。さっすが、難訓ちゃん。物騒事を引き寄せる運に関しては、天下一品だね」
ヤズは、うっとりとした忘我の目つきで、トウコツの不運を褒め称えた。この場にトウコツがいたら、間違いなくヤズをブッ叩いているだろう。
「急いで加勢に入りましょう」
「要らない、要らない。あのぐらいの数なら、難訓ちゃん一人で余裕っしょ」
ヤズの楽観的な判断を、カテアは受け入れなかった。
「忘れたのですか? トウコツは四日前に、銃で撃たれているのですよ? 暢気に眺めている場合ではありません」
「大丈夫だって~。ほら」
カテアが暢気に説き伏せている間に、戦闘が始まった。
襲いかかってきた水兵を、トウコツが投げ飛ばした。近くの卓が砕け、真っ赤な料理が地面を彩った。
二人目の水兵は、頭に椅子を叩きつけられ、三人目の顔面には皿が衝突し、それぞれ、あっさり沈んだ。
逃げ出す食事客や、駆けつける野次馬で、街角は混乱し出した。水兵たちは懲りず、人の波を掻き分け、トウコツに迫る。
完全に出遅れたカテアは、歯痒さに身を捩った。
「拙いですね。こう混雑しては、助太刀しようにも」
焦るカテアを、ヤズが宥めた。
「心配性だな~。カテアちゃんが行かなくっても、なんとかなりそうだよん?」
「もし増援が現れたら、どうするんですか。ここは西班牙が統治している、馬尼拉なんですよ? 軍人なんて、そこら中にいます」
「あ、本当だ。いっぱい、やって来やがった」
ヤズの反応に、カテアは背筋が寒くなった。
人垣の向こうから、隊列を組んだ水兵たちが数十人、大挙して押し寄せてきた。囲まれれば、ひとたまりもない。
逃げなさい、と、カテアが叫ぼうとした刹那、
「なに暴れとんねん! このド阿呆!」
一人の修道女が飛び出し、トウコツに殴りかかった。トウコツは難なく、修道女の拳を躱し、苦笑した。
トウコツと修道女は、異国の言語で言い争いを始める。カテアは、さっぱり分からなかったため、隣のヤズに助けを求めた。
「ヤズさん。トウコツと、あのシスターは、何を口論しているのですか? 今は一刻を競う事態だというのに」
すると、ヤズは口元に手を当て、わざとらしく瞬きを繰り返した。
「まあ、やだ。難訓ちゃんたら色気付いちゃって。この私を差し置いて、あの可愛い色黒ちゃんと乳繰り合うとは。断じて許さ~ん。石ころ、落ちてないかな」
「あのぅ、さすがに早合点では? トウコツとシスターが仲睦まじいようには、とても見えないのですが」
ヤズの的外れっぽい見解に、カテアが疑問を呈していると、水兵たちの援軍が、トウコツの前に到着した。
「あ~、もう、馬鹿話をしたせいで、何も……え?」
カテアは目眩を覚えかけ、ふと、ある違和感に気付いた。
援軍より先にいた水兵たちが、出てきていない、と。
周囲を注視したカテアは、唖然となる。
年端もいかない少年少女が、屈強な大人の水兵たちを組み伏せ、身動きを奪っていた。
「あの子たちは? まさか、トウコツが命じて?」
「いやいや、カテアちゃん。どうやら黒幕は、あっちのチョビ髭っぽいよん」
ヤズが指差した先には、確かに、チョビ髭の素敵な神父が佇んでいた。海軍の上級士官らしき男を、脇に連れて。
不可解な出来事は続く。見窄らしい格好のチョビ髭神父に、何事か頼まれた上級士官は、緊張した面持ちで何度か頷くと、部下たちに怒鳴り散らした。暴れていた水兵は、抗議も虚しく連行され、消えていった。
子供たちは、トウコツと修道女の元に駆け寄り、嬉々として騒ぎ立てた。特に、年長者らしき少年は、自らの手柄を顕示し、トウコツに頭を撫でられていた。
終始、嵐のようだった一幕に、カテアは呆れを通り越し、理解への努力を放棄した。
「事情が、これっぽっちも把握できません。たった四日で、どんな人間関係を築いたというのですか。トウコツさんは」
「さ~ね~。数奇な巡りの人は、なんでもかんでも引き寄せちゃうから。さて、私も難訓ちゃんたちの輪の中に、ちゃっかり混ざってこようかな~っと」
脈絡もへったくれもなく、物陰から抜け出ようとしたヤズの手を、カテアは反射的に掴んだ。
「その、えっとですね」
カテアは、なぜか気恥ずかしさを感じ、俯いた。ヤズは陽気に、しかし容赦なく言い含めた。
「カテアちゃんは、駄目っしょ。カテアちゃんは、もっと格好良く登場しなきゃ、カテアちゃんらしくないって」
ひどく抽象的だが、なんとなく伝わった。今更、どんな台詞を吐きながら現れたところで、間抜けな絵にしか、ならないだろう。
しかし、カテアは怯まなかった。
「体裁も大事ですが、礼儀を欠いては、もっとワタシらしくありません。きちんと、海軍を退けてもらった礼を言わないと。トウコツさんとて、いつまでも馬尼拉に留まってはいないでしょうし」
「なら、こっそり従いてくればいいじゃん」
ヤズは事も無げに、解決案を示した。カテアは思わず納得しかけ、ぶるぶると頭を振った。
「ワタシは、部下を率いる身です。おいそれと、一人で勝手に遠出するわけには」
もどかしさで口籠もるカテアに、ヤズは半眼の下卑た笑みを作った。
悪魔の誘いが、耳元で囁かれる。
「カテアちゃ~ん、女に生まれたからには、我儘に生きようぜい。どうせ、カテアちゃんの船は、しばらく修理で出航できないんだし」
カテアの心の枷に、亀裂が入った。
そうだ。何を躊躇う? 誰が咎める? どこに問題がある? 借りは、必ず返さねば、海賊船船長の名折れだ。
誉ある、ブラックバートの名を継ぐ者として、カテアは決断した。
「貴方の仰る通りかもしれません、ヤズさん。舞台が整うまで、ワタシは待つとしましょう。華麗に参上してこその、コンスタンティアです」
「決まりだね。では、カテアちゃんの勇気を祝して」
ヤズは腰の後ろに手を回し、仰々しくカテアに贈呈した。豪奢な絵柄の彫られた、一丁の拳銃を。
「マウリッツちゃんの部屋から盗んだんだけど、私には似合わないかな、って」
気前良く、はにかむヤズに、カテアも笑った。
「まったく、手癖の悪い人ですね」
「お互い様だよん。それじゃ、また会おーう」
6
ヤズが合流し、文之進の周りは、ますます喧しくなった。
ペーニャもナオキたちも、口を揃えて「誰やねん、この姐ちゃん」と、文之進に問いかけたが、文之進が答えるまでもなく、ヤズが自ら前面に出て、喋り倒していた。
「えかったでんなぁ。離れ離れになっとった娘さんと、再会できて」
カテアと同じく、ルベ神父は文之進を、ヤズの父親と判断した。あまり嬉しくない年上扱いに、文之進は肩を落とす。
「だから、俺はヤズと大して歳が違わな……いや、そんな些事など、どうでもいい。先程は驚いた」
「はて、何にでっしゃろ?」
惚けるルベ神父に、文之進は、はっきり指摘した。
「ルベ殿と海軍との、やりとりさ。アンタが一声、掛けただけで、高官らしき男が即座に水兵たちを退かせた。俺は、てっきり、俺を取り押さえるための援軍を呼ばれたのかと」
ルベ神父は、少し、バツの悪い表情を作った。
「教会の権威ってやつですわ。ルベとシスター・ペーニャ、ナオキさんたちだけでは、収まりが付きそうにありまへんでしたので」
「なぜ、俺に肩入れした? 俺が悪人かどうか確かめたくて、水兵たちの屯している場所を歩かせたんだろ?」
文之進は、穏やかな心境のまま、核心に触れた。ルベ神父は、ぎくりと、悪戯が発覚した子供のような気まずさで、視線を逸らした。
「見透かされとりましたか」
文之進は、改めて尋ねた。
「アンタは、俺の身柄を海軍に引き渡したかったはずだ。この俺が、正真正銘の悪党だと分かった段階で。なのに、どうして心変わりした?」
ルベ神父は、僅かな逡巡の後、ナオキたちを見遣って、打ち明けた。
「ナオキさんが、真っ先に文之進さんの助けに入った際、気付いたんです。浅知恵を働いたルベは、なんと矮小なんや、と」
「ルベ神父……」
「魂が汚れとる者を、子供たちは好いたりしまへん。文之進さんは、間違いなく、善人でっせ」
ルベ神父は、苦笑とともに謝罪した。
「ホンマ、すんまへんでした。怒っとります?」
「まさか。恩人に噛みつく歯など、生やしておらぬ。船まで手配してもらって、なんと礼を述べたらいいやら」
文之進は、真相を知りたかっただけだ。咎めたかったわけではない。
波止場が見えてきた。ナオキがペーニャに、羨望の眼差しを向ける。
「ペー姐、ええなぁ。ブンノシンと旅行できて」
「他人事やと思って、調子ええこと言うなや、ド阿呆ナオキ。ウチは、こないな凶悪漢と一緒や言われてから、毎晩、死ぬほど泣いとるんやで」
涙ながらに力説するペーニャに、ナオキは首を傾げた。
「嬉しゅうて?」
「悲しゅうてや!」
ペーニャの絶叫が、虚しく波止場に響いた。
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