最終話『実れ恋心♥マリコ最後の戦い』
通学路を帰宅途中、高校三年生の宮本マサシは、2リットルのペットボトルに満たした山吹色の液体をラッパ飲みで二、三度グビリと大きく飲み込むと、鼻からゆっくりと息を抜きながらその後味の芳香を楽しむ。
その六尺を超える身長と、野生の獣を思わせる筋張った筋肉、節くれ立った指。背中の辺りで無造作に切りそろえた長髪を茶筅に縛り上げながら、彼は舌の根を上顎に数度こするようにして味を楽しみ、「今日で飲みきってしまう喃」と、あと僅かに残った液体を眇めつつ残念そうに眉根を寄せる。
「宮本マサシだな」
「キューピッドか」
さして慌てた様子もなく、かけられた声に振り返る。マサシが見たものは、果たして正しくキューピッドであった。彼女は羽を閉じながら、やや緊張した面持ちで間合いを計っている。それを察して、宮本マサシはしっかりと口を締めたペットボトルを鞄に仕舞い込み、道の脇へと放りやると、腰の二刀をシャ――と抜き放つ。
「区内の豪傑どもを
「愚問だ。――宮本マサシ、恋に落ちてもらいに来た」
「家業とはいえ、他人のために働くキューピッド。まさかマリコがキューピッドであったとは知らなんだ。普段は羽を隠していたのか」
「然り」
彼女は頷いた。
お互いの言葉は何気ない色だが、マサシの持つ二刀の切っ先から自身の身体の縦横無尽に繋がる殺気の糸を感じ、マリコは動けない。釘を構える前に、間合いが詰まり、詰め、詰められ、あの刃は彼女を殺めるだろう。
マサシの二刀がスス――と上がり、まるで二本の刀で彼女を抱擁しようかというように、優しく、円く、構えられる。左右の切っ先は彼女の左右の目にピタリと。刃はほぼ水平に。彼女を挑発するような、やや極端に高く取った
「――っ」
マリコはその二刀の物打ちの辺りに、もう一人のマサシが顕現した錯覚に捉えられた。
一歩、二歩と退く。
マサシは追っては来なかった。
彼我の距離は、四メートルほど。やや遠く、しかしマリコからは近く見える。
いわゆる青眼の構えは、粘りを活かした守りの構えだ。突きはそれほどではないが、斬る場合には技の起こりが発生し、後の先を取られてしまう危険性がある。
では円相はどうか。
二刀で、左右青眼の構えを取ったまま、切っ先を相手の目に付けゆるく腕を左右へ広げたような、柔らかい、大きい構え。相手の――マリコの斬撃が通る軌跡に悉く刃を乗せるような、非常に、邪魔で仕方がない構えだった。心は虚空、深く静かに半眼。おとがいはやや上げ、耳と鼻の線は水平に保ち、柔らかくマリコを見下ろしていて、その心胆を探る隙すら見せない。
この剣境、やはりただ者ではない。
「――あの飲み物は?」
ジリとわずかに後じさりながらマリコは聞く。
「聞きたいか」
マサシはこのときばかりは無空の心にやや喜色を浮かべる。
「宮本マサシ、まさかとは思うが、その中身は――」
僅かに内股を引き締めるマリコ。彼はそのマリコの仕草を腰が引けたと断じた。
「左様、少女のおしっこは剣境の奥に至る妙薬」
「こやつ、できる」
マリコは邪魔で仕方がない二刀の壁を、なんとしても切り払わなければと思った。それと同時に、この二刀に攻撃を、斬撃を与え打ち払うことに意識を持って行かれると、外して斬られるとも強く感じていた。
二刀流とは誘い、外し、ひたすらに相手を処理していくことに長けたものなのかもしれない。そうマリコは感じた。
「儂は、武に長じた少女たちのおしっこを上納させておる」
マサシは無心に戻りつつ語る。
「なかなかに素晴らしいぞ、十代の少女のおしっこは。考えてもみよ、水は鍛え上げられた身心をあまねく駆け巡り、腎臓を徹して純粋に不純物として漉され濃縮され、まさに武の結晶と言うべき雫として滴るのだ。これを摂取することは、己が武を高めることに繋がるのだ。……おぬしには分からぬだろうがな」
「いや、理にはかなっている」
唸る。いや、呻く。
「健康な女子の、朝の一番搾りが特に良い。知っておるか、念流のキョウコちゃんは
「四人の剣達者の、尿を」
「貴様は意識したことはないかもしれぬが、人のおしっこは自販機のペットボトル一本分くらい出るのだ。つまり、四人分で2リットルほど。持ち歩くにはややかさばるが、飲尿水として重宝しておる。――さて、キューピッド。恋に落とすとか言っていたが、儂に恋なぞ不要。女なんぞ、
「剣鬼め! ――だが少々人倫に
「さすがに米を炊こうとしたらお母さんにしこたま殴られたわ。いやいや、さすがに儂も肉親や年上の
「米……? 宮本マサシ、貴様、それは……別の意味で……」
「案ずるな。カップメンくらいしか作っておらぬ」
マリコは引いた。いろんな意味で。
しかし、今は頭を切り替える。
ス――と、両手に五寸釘を構える。
「奇しくも同じ二刀か。くくく、きさまも我が給水器としてやろう」
負けた者に、拒否権はない。
マリコは静かに息を整える。
このような剣鬼に勝つには、もはやこの境地に於いては心を捨てねばならない。
命に執着した者が斬られる。
――ほう?
と、マサシは唸った。やや認識を改める。
か弱いキューピッド。しかし名だたる剣士を恋に落としてきた彼女。されどマサシから見れば格下の者。さて、キューピッドのおしっこはどんな味であろう。天の神々たちの聞こし召すアムリタのようなものであろうか。
俄然、興味が湧き上がる。
この女、完膚なきまでに弄ぼうではないか。
その瞬間、マリコはずいとばかりに踏込む。大きく水平に広げた両腕はそのままに、一歩迫る、また一歩迫る。滑らかな体移動は左右上下の揺れを見せず、瞬く間に一足一刀の間合いに。
ここからだ。
マサシの円相の構えに飛び込むように身を寄せたマリコは、腕を閉じるように左右から斬り付けを同時に放った。
「ぬるい」
ガチン!
やんぬるかな! マリコ渾身の同時攻撃はマサシの二刀にそれぞれ受け止められてしまう。それは押せども引けどもびくともしない絶妙な駆け引きで彼女をその場に縛り付ける。
「ぬはは。どうしたキューピッド。このまま首をはね、ゼウスの元に送り返してやろうか」
「ぐぬッ」
マリコの腕が、じわりじわりと左右に開いていく。マサシが剣を左右に押し広げているのだ。
弄ぶその刀が一気に閉じられれば、彼女の首は文字通り挟み切られるように宙を舞い、恋の一念は露に消えてしまうのだ。
が、その瞬間。マリコは、釘から手を離した。
刀は僅かに開き流れないが、開いた切っ先は身を寄せるマリコの体を止められなかった。
組み討ちか。
そう思ったか思わなかったか、判断が付く前にマサシは渾身の膝を放った。マリコは胸板をうがつような膝蹴りを右足を踏込む半身で躱しざま、一気にマサシに抱きついた。
「うぬ!?」
驚愕! しかし武器持たぬ少女、いかようにも料理できる。
マサシが反転、攻撃に転じようとしたその瞬間のことであった。
マリコが口に忍ばせていた、いや、喉奥まで忍ばせていた五寸釘がザクリとマサシの胸板――心臓の真上に突き刺さった。
「!?」
――お見事!
感嘆の声よりも先に、マサシの体にピンク色の甘酸っぱい快感が走る。脳幹から背筋を通り丹田で爆発するその快楽に彼の脳髄は灼熱の恋に染め上げられた。
マリコが半ばまで刺さった釘を口の中からすっぽりと吐き出すように抜くと、その胴部に書かれた名前があらわになる。
その名も『マリコ』。
ピンクな頭でその名を見たマサシは、その名前にピンときた。
「お、お前――」
「せいやぁ!!」
瞬間、クピド
釘頭に叩き込まれたそれは容易く彼の心臓を突きうがった。
「げうっ!」
マリコは盛大に痙攣し二刀をがしゃりと取り落とすマサシを抱きしめたまま、やや他の女が臭う彼の口元に鼻を寄せると、彼が存分に恋に落ちているのを確認し、満足げにその水月に渾身の膝を叩き込んだ。
盛大に尿を吐くマサシを前のめりに抱え、胃の中のものを吐かせ切らせると、頷いた。
「強き者にキューピッドは惹かれる。そんなにおしっこが好きならば、私が直に飲ませてさしあげよう。――末永く幸せになりましょう」
マリコは翼を大きく広げ、マサシの体を抱えながら大空へと羽ばたく。
百人の恋を叶えたキューピッドは、ようやく己の恋を叶えることが許されるのだ。
こうして自分の恋を叶えたキューピッドは、伴侶を自分の国へ連れ帰り、思う存分に繁殖をする。そのようにして、遍く増え、この世に恋という花を咲かせるために広がっていくのだ。
彼女の戦いはこうして終わった。
しかし、さらなるキューピッドの戦いは今もどこかで、今後もどこかで繰り広げられることだろう。
その恋のある限り、いつまでも。
キューピッド新陰流 恋の五寸釘 西紀貫之 @nishikino_t
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