ピートの葬送
凪野基
ピートの葬送
「ピートが……猫が死んじゃったの」
葬儀センターにやってきた少女はそう言って、両手で抱えるほどの白い箱を見せた。
君がその箱を開けて現実を観測するまでは、猫は死んでいるし生きているんだ、などという文句を年端もいかぬ少女に告げることは適切ではなかろう。彼は腕を伸ばし、走査と照合を済ませてから箱を受け取る。
箱の中身は、愛玩用の猫型ロボットだった。添付タグから、リリースから二十年も経っていることを知る。レアケースである。
家庭用ロボットのファームウェアの
経済的に買い換えが不可能だったのではない、と彼は少女の身なりから判断する。この猫は何か特殊な事情のもとに、旧型のままなのだ。そして電源系に問題が生じたか、ペットの死を演出するコマンドが実行されたかして、猫はその活動を停止したのだろう。演算と推論の末の結論は、続いてやってきた女性の笑みで肯定された。
「いらっしゃいませ」
彼は規定通りの礼で女性を迎える。そして、猫が持ち込まれたのは偶然ではないのだと判断する。今日、この日にかの人が姿を見せたことが、偶然であろうはずがない。
少女がその黒いワンピースの裾にまとわりつく。パンプスの踵を鳴らして、女性は彼の表情を確かめるように薄く笑んだ。
「久しぶり」
「――お久しぶりです、
帚木は、彼を造ったAIエンジニアである。
「このモデルのAIを組んだのが、学生時代の恩師でね。研究所で触ってるうちに愛着がわいて譲ってもらったの。最初のペットなのに随分古いモデルで、娘には可哀想なことをしたかなって思うんだけど」
彼は黙って先を促す。葬儀センターに勤めるにあたり、沈黙は雄弁にして重要な感情表現である。表情筋と沈黙の長さを決定するのは単なるロジックではない。
「……うん、いい顔してる。完璧だよ」
「鍛えていただきましたから」
帚木は年月を感じさせぬ、主任時代と同じ笑みを浮かべた。出産のために職を辞して五年。復職したが通勤ではなく、在宅勤務だという。
帚木に面立ちのよく似た少女は、ソファに腰掛けて来客用の
「本当は、生きてる猫を飼えればよかったんだけど、飼育税を試算してびっくりしたわ。動物園で我慢してもらってる」
「税率がまた上がったとニュースにありましたね」
「そうよー、そりゃあね、
彼は苦笑を浮かべた。
「まさか。今や、AIなしでは都市機能は維持できません。求められる機能はどんどん細分化していますし、それに応じたAIの学習プログラムや
「ずいぶん買ってくれるんだ」
「主任のお仕事ぶりは、私もよく存じていますから」
はは、と帚木は声を出して笑い、彼の肩を叩いた。彼が研究室にいた頃にも、試験で好成績をおさめるたびに帚木はこうして褒めてくれたものだ。その時はVR空間に構築された数式の身体ではあったが、彼女の親愛と熱意は容易に推論できた。
「ところで、今日はピート君のご葬儀の件で……?」
フロアに流れる環境音楽に紛れるよう、彼は声を潜めた。葬儀センターには他にも来客がある。打ち合わせのためらしい老夫婦や、出棺を見送るべくマスドライバーのビークル乗り場へと案内される遺族。声高に話せる場所ではない。
「そう。ピートも耐用年数が過ぎてどうしようもなくなっちゃってね。サポートもとっくに打ち切られてるし」
「アップグレード優待はお使いにならなかったんですか」
「うん、優待で買い換えようと思ってたんだけど、あの子がピートじゃないと嫌だ、って。AIを積み換えるから同じピートだよって言っても、聞いてもらえないの」
投げた視線の先には帚木の娘がいる。ホログラム映像に夢中になっているようだった。
「なるほど……」
愛玩用ロボットの記憶や経験は次の機種へと受け継がれ、元のボディは貴重な資源として再化合・再利用される。長期性と環境への配慮、生きている動物を飼うよりも手軽で低コストであることが売りなのだが、
「話しているうちに、ピートはお星様になるんだよ、なんてうっかり言っちゃって」
「主任、愛玩用ロボットを宇宙葬にすることは再生資源法に抵触します。当センターではお受けできません」
「知ってる。だからこそ、なんだけど」
帚木は再び彼の肩を叩いた。その顔はかつて幾度も向けられた、課題を与える時のもの。
「あの子、説得してくれない?」
「説得、ですか」
葬儀センターの案内係として教育された彼の業務は、感情を荒立てた遺族を説得したり、宥めたり、逆に失意の中で茫然自失の者に筋道立てて法的措置を説明し、事務処理を進めるというものだ。
今回のように、愛玩用ロボットを再生資源センターへ回送する場合などは子どもたちが取り乱して泣き叫ぶことも少なくない。もっとも、保護者がいれば彼の出番はないし、保護者がいなければそれは深刻なケースであり、児童福祉、児童心理のスペシャリストが同伴しているはずである。子どもを相手に想定した学習は通り一遍のものでしかなかった。実際の経験もほんのわずかである。
児童心理に関する教科書レベルの事柄は学習済みだが、論理を解さぬ子どもの感情は奔放で、寄り添いづらい。
極めて柔軟であるとはいえ、基本的にはセオリー通りに思考を展開していくよう設計されたのが彼であり、一方で子どもはセオリーを軽々と跳躍してゆく。
さて、どう言葉を尽くすか。シミュレートを開始すると同時に、作業メモリの片隅でアラートが閃いた。【マスドライバー射出十分前】
「これから、マスドライバーの打ち上げがあります。見学して行かれますか」
帚木の娘が顔を上げ、HONを置いて立ち上がった。帚木が頷き、彼は二人を伴って展望フロアに移動する。
カノープス・スペーステクニカの社名入りコンテナが、誘導灯に浮かぶリニア式マスドライバーのレールを滑ってゆき、宇宙へと射出される。コンテナの指示灯がすっかり見えなくなっても、少女は強化ガラスに額をくっつけていた。ほう、と吐き出した息でガラスの向こうの月面基地が曇る。
資源の制約が大きい月都市では死者を火葬や土葬、ましてや水葬、風葬にすることは難しく、宇宙葬にすることが例外なく定められている。棺を納めたコンテナにはスラスタと発信器が取り付けられており、太陽周回軌道投入後、現在位置を示すメールが遺族のもとに定期的に送信されるようになっていた。
「これが宇宙葬……星になる、ということです」
彼は見学者にするように、帚木母娘に説明した。少女がガラスから離れて、頷く。
「一方で、ピート君のようなロボットや私のようなアンドロイドは資源として再利用されますから、再生資源センターでお別れをすることが義務づけられています」
「ピートが粉々になっちゃう……」
少女の眼が潤む。斜めにかけたポシェットの紐を両手で掴んでいるのは、ここにはないピートのケースを守ろうとする気持ちの表れなのかもしれなかった。
彼は口調を和らげ、続ける。
「そうです。私もピート君も、再生資源センターで分解され、素材ごとに分別されます」
「そんなのやだ!」
「でも、ピート君の毛皮は宇宙船のシートとして再生されるかもしれません。筋繊維は誰かの義肢に生まれ変わるかもしれないし、私のボディは宇宙船の外殻になるかもしれない。違うものになって、また必要とする誰かの手にわたって、使われていくんです。……星になってずっと見守っていてほしい、いなくならないでほしいと願われることは、私たちにとって何より嬉しいことです。人のために在れと造られ、それが叶ったんですから、ピート君はあなたの言葉を喜ぶでしょう。でも、星になってずっとあなたを見守ることも新しい何かに形が変わることも、誰かのためであることには違いありません」
少女は黙った。目まぐるしく感情が行き交う表情の奥に、彼の言葉を咀嚼しようとする理性が見える。
「ママが言ってた、バンブツはルテンするってこと? お兄ちゃんはばらばらになるの、怖くない?」
ポシェットを握りしめて少女が問う。帚木の早すぎる教育はともかく、知性体の感覚は人とは根本的に異なっていると、まだ理解できないに違いなかった。わからないなりに彼の感覚に寄り添おうとしていることが少女の優しさであり、人間らしさだと彼は判断する。
「センターで痛いことをされるわけでもありませんし、怖くはありませんよ。私だって元々はセンターで再生された資源で造られていますし、順番です」
分子レベルでの説明を避ければ抽象的にならざるを得ないが、少女はやがてポシェットから手を離した。涙と悲しみはすでに消え、帚木に似た勝気そうな茶色の眼がまっすぐに彼を見つめている。
「わかった。ピートもセンターでお別れする」
少女の口調からは、その内心を推し量ることはできなかった。一時の気紛れではいけないと、彼は問いを重ねる。
「よろしいんですか」
「うん。痛くなくて、ピートがみんなのためになるなら、いいよ」
利他的に過ぎるのでは、と危ぶんだところで、帚木が「父親が警官で、みんなのためっていうのが口癖なの」と耳打ちしてくれたので納得できた。
「もう一回だけ、ピートを撫でていい?」
「ええ、もちろん」
再びエレベーターで地下二層にまで降り、預かっていたケースを手渡す。
「……バイバイ、ピート。またね」
栗色の毛並みをひとしきり撫で、頬ずりした後で、少女がケースを閉ざした。彼は直ちに手続きを開始する。
箱の中の猫は猫でないものに形を変え、少女の暮らしを支えてゆくことだろう。
そしていつか再び猫になり、少女と再会を果たすのかもしれない。
「以上で手続きは終了です」
資源センターへの資源回送申請と帚木への口頭説明、
作業メモリの片隅で、時計がカウントを続けている。閉館まであと二十三分。帚木らの他に客の姿はもうなく、駆け込みの客が来るとも思えない。フロアの巡回をすれば、業務終了となるだろう。
椅子を引いて立ち上がった帚木が、無人のフロアをぐるりと見回して囁くように彼に告げた。
「今日でおしまいだね」
「……ご存じでしたか」
「この前、昔の夢を見てね、何となく君のことを思い出したんだ。同じ頃にピートが死んでしまって、気になって君の稼働時間を計算してみたら、今日が最後だった」
やりとりを聞いていた帚木の娘が首を傾げる。
「お兄ちゃん、お仕事やめちゃうの?」
辞める、ではない。止める、か。しかし止めるのは仕事だけではない。
「はい、今日で終わりです」
「じゃあ、明日からは何をするの?」
幼さゆえのシンプルな問いかけに、どう答えるか。答えもまたシンプルだが、彼はしばしの時間をかけ、婉曲に表現することを選択する。帚木は何も言わない。成り行きを見守ることにしたようだ。
「明日から三日間は検査があります。いわゆる健康診断ですね。その後はしばらく休暇で、休暇が終わればまた別の仕事に就くので、そのための訓練と順化を行います」
ピート君と同じですよ。言いかけて、止める。余計な一言だ。休暇という欺瞞に等しい言葉を用いた意味がなくなってしまう。
「ふーん。じゃあ、もうここにはいなくなるんだ」
「……そうです」
ここにはいなくなる。その何気ない一言がどこまでも正確で、事実を言い当てているとは、少女は想像もしていないだろう。
顧客ニーズやファームウェア、ソフトウェアの更新にきめ細かやかな対応をすべく、対人AIには稼働時間の上限が設定されている。彼のメモリは、社にとって有用なデータの宝庫だ。彼の経験はそのまま、次に投入されるAIのVR訓練に用いられ、勤務の総括や、クレーム事案はデータベースに組み込まれ、適宜参照されていく。メモリを取り外されたボディは、ペットロボットと同じく資源センターでリサイクルされる。
――それだけのことだが、直接的な表現は、ペットの喪失を経験したばかりの少女の感情を揺さぶるだろう。
彼の経験をふまえて新たにリリースされる次世代は、彼であって彼ではない。同シリーズのボディ、同系統の思考ルーティンを備えたAIが用いられることは決定しているが、それは決して彼ではない。
彼に、人間のようなアイデンティティはない。彼は、AIは死を、自己の断絶を恐れない。何故ならば自己保存や複製が容易なAIにとって、死の概念は相容れないものだからだ。
複製された自己は同一の自己か? 理論上、複製された生のデータそのものは同一だ。だがAIがAIとして活動を始めたその瞬間から、別のものとなる。並行宇宙など存在せずとも、自己はいくらでも並行可能だ。
再生資源たるボディのリサイクルは、当然のことながら彼の死を意味しない。
彼は「ここにはいなくなる」が、そのことに何の感慨も感傷もない。情動は推測できるし、歩み寄ることはできるが、真の意味で理解することはできない。
それでも、少女が彼の行く末についてわずかなりとも想像力を働かせ、直接的な言葉を用いることで傷つくのであれば、その豊かな感受性を尊重せねばならないのだった。そう推論するのが彼であり、彼に限らず対面型の応答AIシリーズのコンセプトでもある。
「お兄ちゃん、なんて名前?」
名前、つまり個体識別のためのタグ。突然の質問に、回答となる選択肢がいくつかピックアップされた。AIとボディの
「あ、番号とかじゃなくて、シリーズ? っていうの?」
少女が母を振り仰ぐ。帚木は顎を引いて頷いた。同時にそれは彼への許可でもあったので、彼という個体そのものを意味しないAIのシリーズ名を告げた。
「
「昼間ってこと?」
少女が首を傾げる。
「昼間の、日陰ではない部分ということですね。地球時代の古いテキストではよく使われています。地球には大気がありますから、太陽熱の影響も月面よりずっと少なく、多くはよい意味で用いられていたようです。今はこの通り、地下都市での暮らしが主ですし、必ずしも太陽光線を浴びることが有益ではありませんが」
彼の説明がよくわからなかったのだろう、ふーん、と気のない返事を寄越して、ひなた、と繰り返した。対面型応答AIのうち、二十代男性をモデルにしたシリーズのひとつで、彼のような窓口業務、案内業務のほか有人宇宙機のメインコンピュータに導入されている、という製品紹介の文句は音声に乗せないでおく。
閉館まで十分を切り、フロアの環境音楽がいわゆる「追い出し」のものに変わる。気づいた帚木が、彼に向き直った。
「立派に勤め上げたね。ご苦労さま」
「光栄です、主任」
帚木の手が彼の手を軽く握る。よくやったよ、さすがだと満足げなのは、己の仕事に対する自負の現れだろう。
社の
「じゃあね」
最適解を選びそびれた彼には頓着せず、帚木は軽く手を挙げ、逆の手で少女の肩を押して促した。
「じゃあ、またね!」
「……はい、いつかまた」
少女の言葉への返答もまた、最適解からは程遠いものであっただろう。彼であることを止める彼に、「また」の機会があるとは思えない。
しかし、猫のピートが資源という形で巡り巡って少女の暮らしを支えていくように、彼のボディはもちろん、葬儀センターでの経験もAIのVR訓練を経て、彼女の目に見える形になるかもしれない。
箱を開けてみなければ、誰にもわからない。
少なくとも、少女の笑みと「またね」の一言は、彼の勤務の締めくくりを素晴らしいものにした。後継のAIは、このシーンを追体験して何を学習するだろう? ――彼とは異なる何かを、きっと。
彼は既定の角度で腰を折り、視線を伏せて帚木母子を送り出す。
エントランスのシャッター閉鎖を告げるアラートが、作業メモリに閃いて、消えた。
ピートの葬送 凪野基 @bgkaisei
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