雨に歌う奏鳴曲  ~高射砲塔の少女~

ニセ梶原康弘@アニメ化企画進行中!(脳内

雨に歌う奏鳴曲  ~高射砲塔の少女~



(忘れないで……)

(どうか、忘れないで…)




 煙るような霧雨。その静かな雨音にさえ掻き消されそうな声。

 小さな小さな声。


「誰……?」


 見上げた私の眼に、ひとつの塔の幻が見えました。

 今はそこにないはずの塔の幻が……



 かつて、彼女を間近に見た人は、それが大都市ベルリンの中の公園ティアーガルデンから空に向かって突き出した巨人の拳のようだった、と語っていました。

 あの時代、世界を相手に戦いを挑んだ塔の創造主、ナチスそのものの姿だった、と。


 だけど、私には、それはまるで青い空に憧れていくら手を伸ばしても届かない、人間の切ない願いのように見えました。



 ベルリンを空襲から守るためナチスが建設した巨大な要塞、FLAK TURM(高射砲塔)。

 彼女が建てられたのは一九四〇年。




(聞いて……)

(どうか聞いて下さい。私が生きた、あの遠い日の物語を…)




……それは今から七〇年以上も昔の物語になります。


**  **  **  **  **  **


 一九三九年に始まった戦争でポーランド、ベルギー、オランダ、フランス……とヨーロッパ諸国を席巻したドイツは、海を隔てたイギリスと干戈を交えることになりました。


 ヒトラーはロンドンを爆撃で火の海にする一方、自国の防衛には絶対の自信を持っていました。ヨーロッパの空は既にドイツ空軍が支配しており、主要な都市にはたくさんの高射砲も配備していたので、イギリスの爆撃機が侵入することは出来ないと思っていたのです。


 ところが……ロンドンに落ちた爆弾の数には及ばないものの、夜の闇をくぐってベルリンやルールに勇敢なイギリス空軍の爆撃機が空襲に訪れました。


 被害は僅かなものでしたが、プライドを傷つけられたヒトラーは怒り狂います。

 徹底的な報復の爆撃を命じる一方、彼は第三帝国の都市を鉄壁の護りにする為の方策を立てさせました。




(人をいくら傷つけても平気なのに、自分達が傷つけられるのが許せないなんて)

(なんて身勝手で傲慢な考えなんでしょう)

(でもね)

(人は……人はどんなに傷つけあっても、その繰り返しの中でしか気がつかないの)




 一九四〇年九月。ヒトラーの命令を受け、D・F・ワムス博士の設計した巨大な要塞、高射砲塔の建設がこうして始まりました。


 爆撃に対する都市の防衛にはひとつの課題がありました。

 地表の陣地に置かれた高射砲では、ビルや建物に邪魔されて思うように砲撃出来ないのです。

 特に工業都市が多く、高層アパートのビルや工場の多いドイツの都市では、高射砲の射界が妨げられて敵爆撃機に対して効果的な攻撃が出来ないことが多く、高射砲の陣地を都市の郊外に作ることが多かったのです。それとて完全な解決方法ではありません。


 そこで、ワムス博士が考案したのは邪魔になる建物よりも高い高層ビルのような砲台を作り、そこに高射砲陣を据え付け、都市に近づく敵爆撃機へ集中砲火を浴びせようというものでした。


 やがて…ベルリン、ハンブルク、ウィーンに、まるでバベルの塔にも似た巨大な要塞が姿を現しました。


 長大な砲身の二連装一二八ミリ高射砲を四隅に四基、そしてそれらを囲むように四連装の高射機関砲を十二台も備えた高射砲塔に人々は驚嘆し、宣伝相ゲッベルスはいずれドイツ中の都市がこの要塞によって護られ、ドイツの空を侵すことは誰も出来なくなるだろう、と誇らしげに宣言しました。




(そう、高慢で冷酷な人々の欲望を護るために)

(そのために、私はこんな醜い姿で生まれてしまった……)


 彼女は、朽ち果てた十字架に縛り付けられた鎖をかざしました。

 彼女の身体を繋ぎとめる、血の色に錆びついた鎖。


(これは、人の歴史が続く限り決して消えない残酷で恐ろしい罪業なの……あの時代のドイツ人がすべて負わされた十字架。そして、今でもそれは消えていない)

(畏怖以外の表情で見上げる人を、私は思い出せないの)

(それがとても寂しかったわ)

(でもね……)


 彼女は遠いところを見るような眼で静かに微笑みました。


(動くことの出来ないこの場所から、私は見たの)

(花売りの小さな女の子。いつも不機嫌な顔で、だけど雨の日も風の日も新聞を配達する小父さん。日向ぼっこしながら毎日を過ごすお婆ちゃん。いたずらばかりしてるやんちゃな男の子)

(どんな歪んだ時代でも、罪のない、弱い人たちはいるの。自分を守る術を持たないまま、ただ毎日を誠実に生きている人たち)

(生まれる時代を選べない、弱く、儚い人たち)


 彼女の眼は慈しむように優しい光をたたえていました。

 きっと彼女は、あの日、あの時代にベルリンの街角でたつきを立てていた名もない人々を温かく見守っていたのでしょう。


(私、これから先の生きてゆく理由を見つけたの)

(この人たちの儚いたつきを守ろう)

(鳥のように自由に空を羽ばたくことの出来ない私と同じように、この地から離れることの出来ない、愛すべき人々の平和を―― )

(だけど……)


 彼女の淡い微笑みは消えました。




 アメリカの参戦、独ソ戦の始まり。

 戦争が続くにつれドイツは世界中の国々を敵にして戦う、破滅への道を歩んでいきました。

 当初は勝利を重ねた戦況も、苦戦から敗勢、そして破局へと次第に移り変わってゆきました。


 あまりにもたくさんの敵との戦いに疲れ切ったドイツ空軍は、次第に空の戦場から追い落とされてゆきます。

 それと同時に、ドイツ国内の各都市は凄まじい爆撃の嵐に晒されるようになりました。

 西からはアメリカとイギリスの爆撃機の大編隊が、しまいには東からもロシアの爆撃機が押し寄せるようになったのです。


 空を圧して襲い来る敵の爆撃機。蹴散らされたドイツ戦闘機に代わって高射砲陣は、彼等を嵐のような砲火で迎え撃ちました。

 中でも高射砲塔は、その強固な防御力と凄まじい火力で敵に恐れられました。

 彼女は雨のように降り注ぐ爆弾をものともせず、敵の航空機を次から次へと撃ち落したのです。




(ランカスター、ハリーファックス、スターリング、モスキート、ムスタング、フライングフォートレス…この街をありとあらゆる鉄の鳥が襲ったわ)

(だけど、私がいくら撃ち落そうと、爆撃は決してやまなかった……)

(憎悪をますますたぎらせ、彼等は減るどころかまるで空を黒く覆いつくすほどに増えていった……)


 彼女は枷の付いた手で顔を覆いました。


(私の力だけではもう、あの空を覆い尽くす悪魔のような敵機を打ち払うことは出来なかったの)

(私の愛した街は次第に傷つき、歪み、崩れていった……)




 昼間はアメリカ空軍が、夜になるとイギリス空軍が千機を越える機数で来襲します。

 そして、 文字通り昼夜を分かたぬ激しい爆撃でドイツの主要都市を痛めつけました。

 高射砲塔が嵐のように吼え、幾ら敵を撃ち落しても防ぎようがありませんでした。


 また、連合軍の戦術は力で押し切るだけはありませんでした。

 ジャミングと呼ばれる装置でドイツの迎撃機を誘導するレーダーを妨害したり、精密な爆撃を可能にしたノルデン照準器を開発し戦場へ投入するなど、巧妙な作戦でドイツ軍を翻弄し、科学技術で圧倒しました。

 人々は死と隣り合わせの空襲下の生活に傷つき、疲れ、次第に生きる希望をなくしてゆきました。

 ただ一人、ヒトラーだけが奇跡を信じて国民を鼓舞しましたが、ドイツはまるで波に晒された砂の城のように崩れてゆきました。


 傷ついた国民を顧みない狂気の独裁者の下で、数え切れない人々の血が流れました。

 ドイツ国内の空襲犠牲者は在独外人や捕虜を含めておおよそ三〇万人以上、負傷者は約七八万人、家屋を焼失した人は七五〇万人と戦後の調査で報告されています。


 米英の空軍も無傷では済みませんでした。爆撃機だけで大戦中二万二千機あまりを失い、一三万人に及ぶ若者達の生命が空に散ったのです。




(毎日のような爆撃に建物は崩れ、街路樹は焼け、人々は叫び、駆け巡り、次々焼け死んでいったの)

(ティアガルデンにさえずる鳥の歌声は絶えてしまった。もう子供達のはしゃぐ声も、花売りのかわいい声も聞こえなくなったわ)

(私の大好きだった人たち、私の守りたかった者たちは、みんなみんな死んでしまった……)




 一九四五年四月。


 塔が建設されて五年後。

 長い戦いの果て。瀕死のドイツについに最後の時が訪れました。

 死の都と化したベルリンが、ロシア軍に包囲されたのです。

 力尽きたドイツ軍に、もはや彼等を押しとどめる力はなく、人々は砲火に追われて廃墟の中を必死に逃げ惑いました。

 しかし、どこにも逃げ場はなく……


 高射砲塔の最後の戦いは、空に向けられたものではありませんでした。

 瓦礫の街と化したベルリンへ突入したロシア軍に追い詰められた市民や兵士を庇い、敵戦車と砲火を交えたのです。


 高射砲塔は、防空壕、病院、倉庫としての機能も持ち合わせていました。逃げ場を失った市民を一万五千人近く収容することが出来たのです。


 塔の頂上に備え付けられた高射砲や機関砲は、地上との戦いを考えて作られたものではありませんでしたが、塔に近づくロシア軍を攻撃することは出来ました。

 巨大な塔は敵にとって格好の標的でしたが、分厚いコンクリートで出来た彼女の身体はロシア軍の嵐のような砲火に最後まで耐え抜いたのです。


 高射砲塔は敵の攻撃から多くの人々を救いました。

 しかし、彼女が救ったのは、数え切れないほどの犠牲者から見れば、ほんの一握りの僅かな人々でしかありませんでした。


 業火の中で、多くの人々が折り重なるように倒れ、息絶えていったのです。

 歪んだ時代を、その血で、その生命で贖うように…



 四月三〇日、ヒットラー自殺。

 五月六日、ドイツ無条件降伏。


 砲火が止み、戦争が終わったとき、高射砲塔はベルリンの廃墟の中で傷つきながらも聳え立っていました。

 まるで、巨大な墓標のように……




(多くの人々が忘却の彼方へと忘れ去られ……私の街は、今度は戦後に始まった冷戦の舞台となった)

(生きるだけで精一杯の人たちは、もう誰も振り返らない)

(私も取り壊されることになったの)

(だけど……)




 戦後、高射砲塔はナチスの遺した「負の遺産」として、何度か取り壊しが試みられました。

 しかし、硬いペトンで鎧った彼女の身体は壊すのがとても困難でした。

 戦後復興と都市再建が始まる中で、高射砲塔を普通に取り壊して撤去するには莫大な費用がかかることが分かり、ベルリンの再建に携わる人たちの頭を悩ませる問題となりました。

 そこで、強力な火薬による爆破が試みられます。


 復興を急ぐ気持ちもありましたが、ナチスの忌まわしい記憶を思い起こさせる建造物を、いつまでも残しておく訳には行かなかったのです。




(あの時代が遺した不吉な遺産。忌まわしい悪魔の置き去り子)

(そんな眼で私は見られるようになったの)

(何故、私は生まれたの?)

(誰のために……何のために……)




 ウィーンに建てられた高射砲塔のうち幾つかは水族館や倉庫として使われましたが、その他の高射砲塔は順次爆破され、取り壊されていきました。

 ベルリンの高射砲塔も何度か爆破が試みられてはその頑丈さゆえに失敗しましたが、三年近くの歳月と何十トンものTNT火薬を使ってようやく破壊されたのでした。

 彼女が取り壊された跡にはもちろん記念碑とて建てられることもなく、時代の移り変わりと共に、人々の記憶から次第に忘れ去られてゆきました。


 しかし、あの時代の愚かしさと人々の哀しみ、憎しみ、痛み、涙を背負った巨大な塔は今も消えることなくナチスの影さす場所に立ち続けているのです……




(あの時代に倒れた人たちの記憶、消せない過去の十字架を背負って、私は……)

(私は、まだ、ここに……)




 私が気がつくと、いつのまにか雨は止んでいました。

 次第に霧も消えてゆきました。

 もしかしたら……あの雨は、あの遠い日々に消え去っていった人々の涙だったのかも知れません。


 血の鎖につながれた彼女の哀しい姿も、ベルリンの空に溶けるように消えてゆきます。

 雨上がりの路上を若い人たちが明るい顔で行き来い始めました。

 楽しそうな笑顔とお喋り。彼等はここに何があったのかさえ、きっと知らないのでしょう。

 ささやくような、声なき声で語りかける彼女に誰ひとり気づくことなく通り過ぎてゆきます。



 そして、それが彼女を見た最後でした。



 それでも……私は時折、あの街で見た幻を心に思い浮かべるのです。

 彼女はきっと今もあの場所でただ一人、歌うように語りかけているのでしょう。

 誰も振り返らない、あの街のなかで……


 私のようにいつか誰かが立ち止まり、気づいてくれることを信じて、涙のような雨のなかで……

 幾度も、幾度も……うつろいゆく時代のざわめきにかき消されながら……





(忘れないで……)


(どうか、忘れないで……)


(消えていったあの遠い日を……)


(消えていった人たちの、あの涙を……)

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