19.今あるもの
「乗れないか」
「あぁ。坂東へ行くのはやぶさかではない。いずれ行ってみたいって気持ちには変わりないし、今でも憧れはある。けれど今、京を離れるつもりもない。だって京には、父や母、それに妹と弟、仲間の郎党たちもいるから」
穏やかながら、文殊丸は理由を述べていく。自分の憧憬や願望を踏みとどめたのは、彼がこれまで気づいて人々との関係であった。彼らの事を思い出して、それが楔となって、文殊丸は良門の勧誘を断ったのである。
文殊丸は続けていう。
「坂東には、いずれ自分で力と立場を手に入れてから行くよ。今すぐである必要はない」
「今すぐ来る気はないのか? 一つの願いを、すぐに成就することが出来るかもしれないよ?」
良門が、一応といった感じで尋ねる。それに対し、文殊丸は首肯する。
「うん。生憎、全部を投げうってまでそれを叶えるつもりはない。それに、そんな度胸はない。今ある絆を、父上たちとの関係を壊してまで、我儘になる気は毛頭ないんだ。だから行けない。行くわけにはいかない」
「なるほど……了解した」
文殊丸の言葉を聞き、良門は頷いた。その目には、実に残念そうな光が宿っている。
「君にも、家族がいるのだから仕方がないな。君の意思で、坂東にくることはないということか」
「あぁそうだ。残念ながらな」
頷いて、文殊丸は視線を外す。虚空を望む彼の脳裏には、父や兄弟、また世話になっている郎党たちの姿が浮かぶ。その姿を連想すると、自然と笑みがこぼれおちてしまう。
穏やかに微笑む彼に、良門も頷いて、相貌を静かに細める。同時に、彼はさりげない、本当に自然な動きで、腰のものへ手を馳せる。何気ない動きに、文殊丸は気づかない。腰のものに指をかけた良門は、そっと指を鍔に立てた。
静謐な謎の動きを見せる良門だったが、それに気づかぬまま、文殊丸はふと視線を良門とは反対側へ向けた。ちょうどそちら側、ここより離れた位置の、何かに気づく。
「誰か来たな」
「なに?」
文殊丸の言葉に、良門は彼が見ている方角に目を動かす。するとそちら側に、確かに複数の人影があった。詳しく言えば、その人影たちは皆馬上にある。
「……検非違使か?」
「そうだな。あ、たぶんあれは俺の叔父だ」
頷きながら文殊丸が言うと、それを聞いた良門は目を瞬かせた。
「君の叔父は、検非違使なのか?」
「うん。父上の代わりに出仕しているんだ。武術だけなら、父上に引けを取らないからって理由でね」
「そうか……。悪いが、急用を思い出した」
さりげなく手を腰の物から離しながら、良門は半身を翻した。文殊丸が振り返る中で、彼は言う。
「急で悪いが、もう帰ることにするよ。先の話は、忘れてくれ。それじゃあ」
「分かった。帰りは気を付けて」
特に気を留めることなく文殊丸が言うと、良門は顎を引いて踵を返し、そしてこの場を去っていく。その動きは、ほんの僅かながら急いでいるようにも見える。心なしか逃げるようにも映るその動きに、文殊丸はじっとその背を見送った。
それから、しばらくして視線を元に戻す。戻したところ、すでにあちら側はこちらに気づいていた様子で、馬上の影たちがやって来るところだった。
近づいてきてはっきりと映ったその姿は、文殊丸の予想通り、彼の叔父であり、父の弟でもある源満季と言う人物であった。
彼が声をかけられる位置まで近づいたところで、文殊丸は頭を下げる。
「叔父上、お勤めお疲れさまです。今日は見回りですか?」
「あぁ……。今、誰かと喋っていなかったか?」
訝しげに尋ねてくる満季は、満仲よりも若く、若さからくる精悍な顔つきをしている。実際に満仲よりも十も年下の彼は、中年ながらまだ溌剌とした雰囲気を醸し出していた。
「えぇ、知り合いと。ところで、何かお急ぎですか? 少しだけ、焦っているように見えますが?」
満季の背後の人たちにも目を通しながら、文殊丸は問う。満季以外にもいる検非違使たちは、文殊丸を少し離れた位置で一瞥しつつ、同時に忙しくあちこちに顔を動かしている。
文殊丸の問いに、満季は頷く。
「あぁ、少しな。ちょうど昨今、少しばかり不逞の輩が京に入り込んでいる疑いがあるのだ」
「不逞の輩? 具体的には?」
「言えぬ。今のところは機密事項だ」
「左様ですか。まぁ、子供の知ることではないかもしれませんが」
「……お主が自分でそれを言うか」
自らを子供だからとやや卑下する文殊丸に、満季は思わず苦笑を浮かべる。余計な言葉だが、満季にしては珍しい表情だ。
それに笑い返す文殊丸に、満季はすぐに表情を引き締める。
「ともかく、お主も気を付けよ。こんな場所で、一人で歩いていないでな」
「えぇ。ちょうど今から帰るところです」
「ならば途中まで送ろう。ちょうど我らも、戻るところだからな」
「分かりました。お願いします」
文殊丸が頷くと、満季は背後の検非違使たちに向けて馬首を返す。事情を話すのだろう、彼はゆっくりと馬を歩かせて仲間に近づいていった。
やや離れる叔父を見て、文殊丸は視線を横へ向ける。彼は、良門が消えていった方角を密かに一瞥し、そこに彼の姿がもう見えなくなっているのを見ると、無意識のうちに目を細めるのであった。
「やはり、断られたよ」
日が暮れた京の、西の一角にあるとある民家の中である。
乾いた苦笑を浮かべながら、青年は言う。
「もしかしたら乗って来るかもしれないと思ったが、やはり家族が大事らしい。そんな感じの返答だった」
「当たり前でしょう。分かりきっていたことじゃない」
青年の言葉を聞き、呆れた様子の声が返ってくる。
声は、暗い室内において、青年と燈台を挟んだ反対側にいる女性から放たれたものだ。
「大体、十代前半の子供が、全てを捨ててまで私たちについてくると思う? そんなことはありえないわ。断るに決まっている。そんなこと、当然のことじゃない」
「正論、だね」
女性の論理に、青年は苦笑を深めながら頷く。その様子に、女性はほとほと呆れながら、しかし同時に眉根を寄せた。
「しかし、それでのこのこ諦めて来たの? 断られた場合は、確か――」
「うん、邪魔が入った。動く前にちょうど人が、しかも彼の知り合いが来た。だから、それ以上の行動はできなかった」
「……なるほど。そういうわけね」
青年の言葉に、事の成り行き点いて女性は納得した様子で顎を引く。
ちょうどその時であった。民家の玄関から、外より気配が流れ込んでくる。二人はそちらへ目を向けつつ、一瞬身体を撓ませ、二人だけの時間への介入者の正体に警戒した。
が、すぐにその警戒も解かれる。入ってきた影は二つ、どちらも見知ったものであったからだ。それは、蝦蟇のような身体と顔をした男性と、面立ちから顔つきまで細身の針のような青年であった。
その影は、民家の中に入り、二人の視線に気づくと、恭しく頭を下げる。
「殿、姫君。只今戻りました」
「あぁ。そちらの首尾はどうだった?」
「上々です。無事、目的の子を攫うことは出来ました」
さらりと、少し不穏な言葉を返したのは針のような青年だ。
「しかし、あまりのんびり動いてられぬかもしれません。敵も馬鹿ではないようだ。こちらの動きに、気づき始めた節がございます」
「気づかれた、というと?」
「検非違使の動きが活発になっております。宮中も、軽く騒いでおる様子。あの様子からして、もしかしたら殿の存在に気づいたのかもしれません」
その言葉に、女性は嫌悪感を覚えた様子で頬を歪め、一方で青年は顎に指を当てる。少し思慮を巡らせる青年は、ある出来事を思い出して、納得した様子で顎を引く。
「なるほどな。そうなると厄介だ。動くなら、早い方がよいかもな」
「えぇ。そう言うと思い、準備を整えました。明日にでも動けますが、どうしますか?」
蝦蟇風の男が言うと、青年は女性を横目にする。
「ならば明日、早速動こう。姉上、異存は?」
「ないわ。私も、早い方がいいと思っていたわ」
「では、そうしましょう。ふふっ、楽しみですな」
青年と女性が言葉を交わしたのを見て、蝦蟇風の男は愉しげに笑う。そうして針のような青年を見ると、そちらは何か暗い微笑みを浮かべていた。
そんな二人の様子を見て、青年は肩を揺らして笑う。
策謀は、動き出そうとしていた。
平安の兵・今昔夜話~赤眼の鬼子~ 嘉月青史 @kagetsu_seishi
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