18.良門の勧誘

「いやぁ、本当にありがとうございます」


 満面、といってよい笑みを浮かべながら、文殊丸は良門に対して感謝の言葉を告げていた。そう礼を告げる彼の両手には、一冊の書物が握られている。それは、先ほど文殊丸が行商から値切って買おうとしていた書物だ。

 つい先ほど、文殊丸と行商の交渉現場に良門が通りかかった後の事のである。彼が声を掛けた後で事情を話した所、それを聞いた良門は、文殊丸は書物を買いたいが手持ちが足りないことを知ると、かわりに代金を出してくれると申し出たのだ。最初は遠慮した文殊丸であったが、良門が昨日の礼ということで出させてくれと提案すると、なるほどそういうことならばということで了承したのである。

 嬉しそうな顔で手を振って見送った行商の元をあとに、文殊丸と良門は市の中を歩いていた。


「なに、これぐらいのことなら大したことではないよ。そう気にしないでくれ」

「いやいや。結構値が張るものだったから、大したことではないというのは言い過ぎだと思うよ?」


 書物に目を落としながら、文殊丸が言う。その言葉に、良門は苦笑するが、あまり気にした様子はなく、肩を軽く竦める。


「そうかい。まぁ、君が満足してくれたのならそれでいいが」

「うん。ところで、今日は一人なんだな? 皐月はいないのか?」

「あぁ。実は、昨日歩きまわったら今日は疲れたとか言っていてね。姉上は宿で休んでいるんだ。今日が一人なのはそのためさ」


 少し苦笑気味に良門が言うと、文殊丸はあぁなるほどとこちらも微苦笑して納得した。


「そういう君も一人なんだね」

「うん。今日抜け出すのには、一人で出るしかなかったから」


 その言葉に、良門は眉根を寄せる。


「抜け出すって……。何かを放り投げて来たみたいな言い方だね」

「放り投げてはいませんよ。まぁ、少しずるをしたのは事実だけど」


 ははは、と少し白々しいような笑みを浮かべながら、文殊丸は言う。


「でも、抜け出してきた甲斐があった。おかげで良い書物が手に入れることが出来た」

「どんな書物なんだい?」

「まだしっかりは読んでないけど、おそらく項羽に関する記述がされた書物、史記の一節かそれに付随する説話を既述した書物何だと思う。史記はある程度読んだけど、注釈がついた者は読んだことないから、いい勉強になると思う」

「唐土の歴史書か。君はそんなものにまで目を通すんだね」


 少し驚き気味に、良門は訊ねる。文殊丸ぐらいの齢で、唐土の文化や歌などを学ぶならともかく、その古い歴史を時分から学ぼうとする人間はそういない。

 その事に意外がるというか、軽くびっくりしていると、文殊丸は頷く。


「あぁ、目を通す。向こうの歴史書は、読んでいて心が躍る話がいっぱいあるから」

「なるほどね。俺はあまり書物を読まない、と言うか読めないけど、そういうのを読んでいると学にはなりそうだな」


 感心した様子で良門が言うと、今度は文殊丸はあまり謙遜することなく「まぁね」と肯定した。


「今日は本当にありがとう。良い本が手に入って、すごく嬉しい」

「なに、大したことではないよ。ところで、なんだけど、今から暇かい?」


 良門が訊ねると、その問いの内容に、文殊丸は首を傾げる。


「ちょっと話がしたい。ついて来てくれるかい?」

「いいよ。ここじゃダメなのか?」

「あぁ。少し、人目を忍んで話がしたいから」


 そう言われると、文殊丸は少し不審がった。何か真剣な話がしたいのだろう。しかし、人目を忍んで話したいというのはどういうことだろうか。その事が疑問であったが、文殊丸は深く追及することなく頷いた。

 二人は、市を後にして進んでいった。



「君は確か、坂東に強い憧れを持っているんだったね?」


 良門がそう口を開いたのは、右京に入りかけた位置にある民家群の一角である。民家群、といっても、その辺りは空き家が多く、人気が少ない場所であった。ここならば、あまり人に話を聞かれる心配はなさそうだった。

 良門の問いに、文殊丸は不審な顔をする。


「うん、まぁそうだな。それがどうしたんだ?」

「ひとつ、提案があるんだ。提案というか、勧誘というべきかな」

「勧誘?」

「あぁ。一緒に、坂東へ来ないか?」


 いきなり本題に入る様に誘いの声を掛けてきた良門に、文殊丸は目を見開く。その性急さもそうだが、その内容に驚いたのである。

 良門は続ける。


「実はこれから、坂東へ向かうことを考えていてね。君さえ良かったら、一緒に来ると言うのはどうかなと思ったんだ。どうだ?」


 淡々とでありながら、良門は文殊丸に誘いをかけてくる。彼は文殊丸の反応を窺うように、じっと彼を覗きこんで来る。

 その問いに、文殊丸は内心納得した。なるほど、確かにこう言う話は人の往来ではしづらい話であろう。密かに子供を誘う、あるいはかどわかす内容の話を、人々が行きかう場所ではしづらいものだ。

 同時に、文殊丸は心を揺さぶられる。良門の誘いは、文殊丸には甘く、魅力的なものであった。坂東の人々、まだ見ぬ世界に憧れる文殊丸にしたら、その世界を見てみたいという気は強い。そんな誘いに、文殊丸は、


「……悪いけど、その誘いには乗れない」


 首を横に振る。

 文殊丸のその反応に、良門はすっと目を細めた。

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