17.書の交渉

 自分が抜けだした後の喧騒など気にすることなく、文殊丸は東市の市中を巡っていた。ゆったりとした足取りで進む彼は、しかしまるで跳ねているかのように軽やかで、相貌からは窺いにくい彼の機嫌のよさを感じ取らせていた。

 そんな様子で市中を歩いていた文殊丸に、声がかかる。


「おや、鬼子の兄ちゃん。また来てくれたのかい?」


 向こうから聞こえた声に、文殊丸は足を止めて振り向く。聞きなれた声……視線を向けた先では顔なじみの商人、具体的には書物を扱う行商の姿があった。

 彼の方から声を掛けてくれたおかげでその姿を見つけた文殊丸は、にっと口角を持ち上げてそちらへ歩み寄っていく。


「えぇ。来ていると聞いたので。今日はどんな書物が入っているんですか?」

「うむ。今日は面白い書物が入荷しておるよ」


 近づいてきた文殊丸に、行商は誇るように茣蓙の上に並べた書物を見せつけた。その自慢げな態度に、文殊丸は微苦笑を浮かべながら膝を折ると、並べられた書物をそれぞれ眺め始める。興味津津といった小さな客に、商人も実に楽しそうであった。

 この行商について少し触れると、変わった人種であるといえるだろう。何故ならば、京中の人々が思わず忌避を示す鬼子の文殊丸に対し、彼はその存在を認識しつつもまったく怯えた様子がないからだ。普通の感性があれば、鬼の子相手に商品を売ることにさえ嫌気を覚えるところだろう。

 この点、行商は根っからの商人であると言える。というのも、彼の様な商人にとって大事なのは、相手が何者であるかよりも、相手が商品を買ってくれるかどうかであるからだ。彼の様な心の芯からの商人にとっては、取引できる相手であれば、なんでもいいのである。

 余談を重ねれば、行商である男は仕事上各地を回り、多くの奇人によく会っていることも大きいだろう。文殊丸は鬼子といわれているが、いざ話してみれば齢の割に聡いだけの少年である。そんな彼と比べれば、もっと奇妙な人間・常識外れの人間は世に溢れているのだ。そう思えば、鬼子との取引も、行商にすれば特段特殊なものではない、慣れたものであるといえた。

 そんな行商に、ある種安心感を感じながら、文殊丸は書物を覗いていく。そして、一通り冊子の表紙を見た後で、行商に訊ねる。


「おすすめの品とかは何ですか?」

「ん~そうだねぇ。おすすめとは言えないかもしれないが、唐土の商人がやたら高く売りつけてきたのはこれかな」


 そう言って、行商が手に取ったのは全体の中でも古びた部類に入る書物だ。


「なんでも、唐土の古代の史書とのことでね。しかもただの史書じゃない。歴史について書かれただけでなく、後世の有名な何某とかいう歴史家が注釈を加えているのを売り出したものだそうだ。現地でも珍しく、こっちではよほど手に入らないと思うよ」

「古代、というとどれぐらいの?」

「悪いねぇ、そこまではこちらは専門外だからねぇ。中身にも目を通してみたけど、あっしにはさっぱりだ。ただ、向こうの商人はこうせきがどうとか言っていたねぇ。多分人名だと思うけどね」

「こうせき……項籍のことかなぁ」

「知っているのかい?」

「前漢以前の有名人ですよ。あ、でも項籍よりも項羽って言った方が分かるかも」


 行商のうろ覚え気味の説明に、文殊丸は解説を加える。加えながら、その顔はやや興奮を含みだしていた。

 項羽といえば、およそ千年前の唐土の歴史で、漢という大国を建国した劉邦という人物と覇を争った英雄である。現代でも、中国の古代史を習ったものならば知らぬ者はいない程著名な人間だ。

 ただ、教育レベルがそれほど高くないこの時代の本朝の人間には、あまり馴染みが薄い名前である。現に、好奇心からやや興奮気味の文殊丸に対し、行商はやや冷めていた。


「ふーん。まぁ、あっしにはよく分からないからねぇ。で、興味はあるかい」

「えぇ、すごく。ちょっとだけ中身を見せて貰えますか?」

「いいよ。けど、熟読はしないでくれよ? 兄ちゃん、頭良さそうだから、あんまり見せると、中身暗記して買わずに帰ってしまいかねないし」

「そんな酷いことはしませんよ」


 苦笑しながら言って、文殊丸は手に渡された書物を開き、その内容をぺらぺらと速読する。内容を少し見て、髪の下でも分かるほどに瞳を輝かせた。


「これいいな。欲しいです。どれくらいです?」

「ん――これぐらいだな」


 所望し始めた文殊丸に、行商は値札を文殊丸に見せる。

 その値を見た文殊丸は、固まった。少しぽかんと硬直した後、口を歪めて顔全体をしかめる。


「高い、ですね。中身分からないんでしょう、行商さんは」

「そうだね。でも、売り渡してくれた唐土の商人から、相場を聞いておいたからねぇ」

「余計なことを……」

「ははは。で、どうするんだい? 買うか、諦めるかい?」

「ちょっと値切って貰えませんか?」

「えー。どれくらい」


 軽くなら応じてやってもいい、いつも贔屓にしてもらっているからね、といった感じの行商に、文殊丸は「ならば」と交渉を開始する。

 値段交渉は、大雑把な値段から始まり、徐々に細かい値段へと定まっていく。

 やがて値段は固まりかけ、そのところで、文殊丸は粘り始めた。


「んー。せめてもう一分ほど安くしてもらえませんか?」

「駄目だね。これ以上は安くならない」

「そこをなんとか。こっちは子供ですよ?」

「子供だろうが大人だろうが客は客だ。そこらへんは平等ですよ、あっしは」


 交渉は大詰めを迎えており、わずか一分(1パーセント)の値段を払うか払わないかの話になる。このわずかな値を払うか払わないかで、文殊丸はこだわる。


「価値が分からないんでしょう? ならばあと少しくらい減らしてもらってもいいじゃないですか」

「価値は正確には分かっていないかもしれないが、こっちだって仕入である程度の価値は分かっていますよ。大体、こっちは商いの人間だ。商品の売り買いで、損得を考えると、これ以上の値段で売ることは出来ませんね。これ以上下げると、一方的にあっしの損になるんでね」

「いつも得させてあげているじゃないですか。今回ぐらいは……」

「駄目ですね。今回は退けませんよ」


 喧嘩ではないが、交渉は言い合いの様相を呈し始めていた。相手の頑固さに、文殊丸はややむっとする。どうにか安くできないか、と彼はしぶとく交渉をする。

 何故こんな細かい部分にこだわるかには、理由がある。商人の設定した値段が、ぎりぎり文殊丸の手持ちを足りない値だったからだ。単なる偶然であろうが、商人が決めた最低値段が、そうだったのである。

 おそらくは、行商もこの事に気づいているのだろう。しかしそれでも、この行商は「じゃあ今回は特別に」とは言わない。この点からしても、この行商は根っからの商人であった。

 そんな相手を、さて文殊丸はどう突破すべきか、考えを巡らせる――そんなときであった。


「――何をしているんだい?」


 声は、文殊丸の背後から響いてきた。

 文殊丸が振り返る。そこで彼の目に飛び込んで来たのは、見覚えのある青年の顔――平良門の姿であった。

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