16.月初めの稽古

 パシュッ、と小気味よい音が鳴り響く。

 丸い木製の的に矢が突き刺さった音で、その音は小さく、しかしよく響き渡ってくる。的の中心からやや斜め下方に突き刺さった矢は、その位置から、射手がなかなかの腕前であることを示していた。

 一条の源邸の庭にある修練場において射ているのは、文殊丸である。小ぶりな身体には少し不釣り合いな弓を構え、そこに矢を番えながら構えると、そこから新たな矢を的に向かって射出する。シュッと空を切った矢は、やや弧を描いた直線で突き進み、的の中心ほど近くに突き刺さった。

 的の真ん中を射た文殊丸に、背後からは歓声が上がる。


「おう、御見事です。若様!」

「流石です! その齢でここまで出来るのは若ぐらいですよ」


 持て囃すように騒いでいるのは、源家に仕える郎党たちだ。鍛練の時間、交代交代で矢の修練に励んでいる中で、彼らは文殊丸の番になると一同手を止めて彼の弓矢の挙動を注目していた。まだ幼いながら、文殊丸の弓の腕前は抜群で、狙いを外すといっても五回に一度歩かないかと言った具合の、素晴らしい腕前だった。

 背後に座りながら囃し立てる郎党たちに、文殊丸は振り向きつつ微苦笑を浮かべる。


「大したことではないよ。ずっと昔からやっているし、逆にこれぐらいできないとまずい」

「いえいえ。そんなことありませんって」

「御謙遜を。その言葉、うちの倅に聞かせてやりたいほどです」


 謙虚である文殊丸に、郎党たちはおだてるように言う。彼らは、そう言って、文殊丸の腕前を殊更持ち上げていた。そこには、相手が文殊丸と言うことであるということが大いにあるだろう。彼らの多くは満仲に仕えており、そんな彼らは主の息子である文殊丸の機嫌を損ねないように気をつけているのである。そのことは、文殊丸本人も分かっている。純然としたものでなく、そういった下心があることも、聡い彼は感じ取っていた。


「こらお前たち。若をそう調子づかせるでない」


 郎党たちが文殊丸を褒め称える中、その許へとやってくる影があった。季国である。郎党たちの筆頭ともいえる彼の登場に、多くの郎党たちは居住まいを正す。


「これは季国殿。お疲れ様です」

「うむ、お疲れ。しかし、若を調子づかせるのは感心せぬのう」


 鷹揚に頷いてから、季国は郎党たちを一望すると、堅苦しい表情のまま口を開く。


「若はまだ修行の身じゃ。それを増長させるようにおだてるのはよろしくない。大体、お前たちは――」

「季国。来て早々の説教こそよろしくない。皆に反感を買うよ?」


 くどくどと何やら言い始めようとする季国に、そう苦言を呈したのは文殊丸である。その助け舟に、あぁまた季国の小言が始まったかと思い始めていた郎党たちは、少なからず感謝の視線を送る。

 が、一方で季国は不満そうに口を歪める。


「そんなことありませぬ。こやつらは、少し普段から気が抜けています。もっと普段から気を張ってこそ――」

「普段から気を張ってばかりでは、かえって有事に役に立たないよ。緩め過ぎはよくないし、有事に役に立たないのは考え物だけど、普段は少しくらい気を緩ませてやってもいいんじゃないかな?」


 反論に、文殊丸はそう持論を展開した。確かに、普段から抜けているのはよくないことだが、実際郎党たちは交代で訓練している最中は真面目に修練を行なっている。今はたまたま彼らは休憩時で、入れ替わる様に修練をしていた文殊丸のそれを見学していただけだ。

 寛容な文殊丸の言葉に、郎党たちはやや感動するような目を向けていた。

 ただ、季国はその持論に納得した様子はない。


「若、そうやって甘やかしてばかりだとこやつらはですね、調子づいてさぼるのです。この点につきましては、かれこれ三十年以上、こやつらの親族類縁を見てきた儂の方が理解していることですぞ」

「そうか? まぁ、そこで経験則をだされたら、俺には言い返しようがないんだが……」

「えぇ。そうです。そういうものです」


 自信を覗かせつつ季国が頷くと、文殊丸は顎に指を馳せて少し考える。今の季国の意見を受けて、自分が彼らに甘いのだろうかと、少し省みようとしたのだ。

 ただその途中、ふと横に視線を向ける。そしてそこに、建物の陰に影があるのに気付いて、彼はにやりとする。


「おい小六。そんな所に隠れてないで出て来いよ」

「げぇっ!」

「何? 小六が隠れておるじゃと?」


 文殊丸の言葉に季国が勢いよく振り返ると、その二つの視線に、建物の陰にいた小六は震える。が、少しして、このままでいるのはかえってよろしくないと、観念した様子で小六が建物の陰から出て来た。

 渋々出て来た彼に、季国は目の端を吊り上げる。


「こら小六! そんなところでさぼっておったのか?!」

「ち、違います! 弦が切れたので交換しに行っていて、帰ってきたら何やら父上たちが言い合っているので、様子を見ていただけで……」


 口早に弁明し、小六は文殊丸を見る。その視線には、少なからず恨めしげなものがこもっており、その目を向けられた文殊丸は、しかし意地悪くにやにやと微笑んでいた。


「ええい! 言い訳無用じゃ。さっさと射撃の練習を開始せよ!」

「は、はい。しますから、そう怒らないでください、父上」


 慌てて射手の位置に移動しながら、小六は焦る様に矢を番える。小動物のように慌てる彼に、後ろで会話を聞いていた郎党たちからは苦笑が起こる。


「小六。そう慌てて打つなよ。外すと、また季国殿の説教が待っているからな」

「そうそう。深呼吸してから撃てよ。お前なら、落ち着いて撃てば的には当たるんだから」

「は、はい! 分かりました」

「これお主ら! 小六を調子づかせるでない!」

「いや。別に調子づかせてはいないだろ」


 郎党たちに怒鳴る季国に、文殊丸は呆れたように苦笑しながら、郎党たちの方へと下がっていく。その目は小六へ向いており、少なからず小六の様子を注視する色があった。

 そんな中で、小六は矢を射る。放たれた矢は、遠くにある的へ向かって弧を描き、パシュッとやや鈍い音を立てて的に突き刺さった。

 ぎりぎりではあるが、矢は見事的へと的中する。その結果に、しかし季国は不満げな顔をしていた。


「小六。お主、今当てることを重視して撃ちおったな?」

「あ、はい……」

「ばっかもーん! そんな弱い矢で相手が仕留められるか! もっとびゅっと射よ、びゅっと!」


 消沈した様子の小六に、季国は怒鳴りつける。その声に小六は肩を震わせると、有無も言えぬまま季国に身体を掴まれ、弓矢を構えさせられる。そして、文句も悲鳴も上げられぬまま、第二矢を強引に番えさせられようとしていた。


「あー。また季国殿の鬼指導が始まってしまったか」

「理不尽そうだな。小六は同じ齢の子と比べれば確実に上手いのに」


 季国の様子に、郎党たちは口々にそう言う。その言葉に、文殊丸も思わず苦笑する。これらの言葉が季国に聞こえたら少し厄介だったが、幸い季国は指導に夢中で、郎党たちの声には気づいていなかった。

 普段は剽軽な性格の季国であるが、こと武芸に関しての指導は厳しい。文殊丸は最近減ったもののの、昔は彼ももっとかなり怖く厳しく指導を受けていたものだ。

 そんなことを思いながら、季国の小六への鬼指導を、郎党たちはじっと見つめる。

 指導は数刻続き、その間小六はずっと、散々に矢を撃たされ続けた。


   *


「――あの、季国殿。そろそろ一旦休ませてあげたらどうです? もう腕がぱんぱんでしょ、小六も」


 指導開始からかなり時が経ったところで、郎党の一人が見かねた様子で声を掛ける。その言葉に、他の郎党たちも同調する様に頷きだす。

 そんな彼らの反応に、季国は眉根を寄せた。


「む。しょうがないのう。少し休め、小六」

「は、はい~」


 ぐったりとしながら、小六はパンパンに張った腕をほぐしながら、泣きそうな顔で下がっていく。そんな彼を、郎党の幾人かは労うように迎え入れた。


「さて。では、若。今度は若の……」


 小六の指導を終え、季国は今度は文殊丸に話を振ろうとした。

 が、そんな中で彼は、郎党たちの中に文殊丸がいないことに気づく。中に、と言うより近くのどこにもいない。


「……若はどこじゃ?」

「あ、若様ならさっき、ここを離れて行きましたが。厠にでも行ったんじゃないんですか?」

「むむ。ならば少し待つか。まったく、若もいい時間帯に抜け出したものじゃな」

「あ、仲光殿。こんにちは」


 間のいい文殊丸に不満げな態度を季国がする中で、郎党の一人が挨拶の声を出す。その声に皆が振り向くと、ちょうど修練場に、郎党の中の有力者である仲光が姿を見せるところだった。


「皆さん、鍛練の最中ですか。お疲れ様です」

「えぇ。ところで仲光殿、若様を見ませんでしたか? 厠へ行ったんじゃないかと、思っているのですが」


 労いの声をかける仲光に、郎党の一人が軽い気持ちで訊ねると、仲光はきょとんとした様子で首を傾げる。


「若様ですか? 若様なら、門でお会いしましたが」

「え、門?」

「えぇ。なんでも、書物の行商人が市に来ているという話を聞いたから、見に行ってくるとか言っていましたが」

「え?」


 仲光の言葉に、郎党たちはぽかんと口を半開きにする。そしてそれから、事態を呑みこむと、視線を恐る恐る季国に向ける。季国はというと、唖然とした様子で固まっていたが、やがて目を尖らせていく。


「ま、またかぁぁああ! また抜け出しおりましたなぁぁああ若ぁぁああ!!」


 顔を真っ赤にし、季国は地団駄を踏む勢いで声をあげる。これで、文殊丸が何かの最中に抜け出すのは月を跨いで三日連続である。余談であるが、暦の上では今日から十月、冬に入ったばかりであった。

 怒り悔しがる季国に、仲光は笑う。


「ははは。やられましたな、季国殿。私はてっきり許可を取って出たと思って、止めはしませんでしたが」

「仲光ぅ! 貴様何を笑っておるかっ! さては貴様も共犯かぁ!」

「いえいえ。私は別に季国殿を謀っておりませんよ?」


 怒鳴り声をあげる季国に、仲光はしかし少しも動じることなく、くすりと笑ってごまかしてみせる。そこからは、季国の剣幕に少しも動じた様子も見せない。

 だが、それがかえって季くの癇に障ったようだ。


「おのれ仲光! よくも儂を謀りおったなぁ!」

「いえ、別に騙してませんし。話を聞いてくださいよ」

「問答無用じゃ! いつも爽やかにすまし顔をしおって! むかつくんじゃ!」

「……それ、完全に私怨ですよね?」

「うるさい! そこへ直れ! その根性今から叩き直してくれるわ!」

「遠慮します。では、私はこれで――」

「逃げるな、好青年! その好印象の顔を矯正してくれるわ!」

「季国殿。微妙に悪口になっていません!」


 指を突き立てて、逃げようとする仲光を追いかける季国の言葉の妙さに、郎党の一人が慌てて指摘しつつ後を追う。

 俄かに騒々しくなる仲光と季国と郎党たちであるが、その発端は文殊丸である。ただ、彼の存在ははや忘れされつつあり、状況はただの郎党の二大筆頭の争いへと転換しようとしていた。

 そんな状況に、小六が小さく嘆息する。


「……自由だなぁ」


 今はこの場からいなくなった文殊丸のことを思いながら、休憩中の小六は周りに聞こえないような小声で小さく呟くのであった。

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