もう水族館なんて行かない
夏野けい/笹原千波
真夜中の海で
私を抱え上げながら、彼が問う。
「ここがどこかわかる?」
「海」
「ご名答」
そっけなく答えても、気分を害した様子もない。怒ってくれたっていいのに。夜の匂いに混ざって塩からい風が鼻をくすぐる。潮騒が耳を撫でる。車のドアは閉まる時ひどくうるさい。前は大して気にならなかったのに。首をすくめると彼の腕に少し力がこもった。
少し移動して、つめたくざらついたところに座らされる。防波堤か何かだろう。ドライブで怠くなった脚をぶらつかせる。まもなく隣に彼が腰掛けて、肩に手を回された。肌が触れることに安心する。黙っていても確かに彼が存在するとわかるから。
「私、たしかに静かなところがいいって言ったけど。こんなところまで連れてこなくてもよかったんだよ」
答えはない。沈黙は無音にならなくて、あたりは波の音に満ちていた。
「ねぇ、なんでここにしたの」
「二人っきりで話したかったんだ。あと、最初のデートで来たからさ。初心に戻って、みたいな」
「どこの海かなんて言われなきゃわかんないよ。最初って、水族館に行ったときでしょ? 帰りに浜辺を歩いたんだっけ」
「うん」
「懐かしい。でも、ばかだよ。私もう水族館なんて行けないのに。思い出したってしょうがないのに」
「ごめん」
彼の手を探って、握る。夏とはいえ夜風に体が冷えはじめていた。
「海月が好きだったんだ、私。一日中見ていられた。でもさ、このさき海月を感じることはないんだよね、刺されでもしないかぎり。海月はさわれないし聞こえないから。ばかみたいだけど、なくしたものの事ばかり考える。ねぇ、私どうやって生きていくんだろう。まっすぐ歩くだけでも魂が削られるくらいなのに」
不意にふわりと抱き寄せられて、耳元に口を寄せられた。吐息が首すじにかかる。彼の体に隔てられて海の気配が遠ざかる。
「結婚しようか」
「……だめだよ。同情で人生決めるような真似しちゃ。優しすぎるのも考えものだよ」
「そんなんじゃない」
「迷惑かけるから」
彼の体温が離れた。つむったままの瞼に思わず力がこもる。見捨てられたら帰れない。なのに私の言葉はどうして全部投げやりなんだろう。あるいは、いっそここで死んでしまいたいのかもしれない。彼がため息をつく。
「じゃあ、待っててもいいかな」
「何を」
「君がひとりでも生きられて、俺が同情でそばにいるんじゃないって信じられるのを」
「君やっぱりばかだよ。一生かかるかもよ?」
「それでもいいよ」
塩混じりの夜気を吸い込む。生きている限りは生きなきゃならないのはわかっていたのだ。すこし諦めたかっただけで。
「私、もう水族館なんて行かない。意味ないから。でも……海にはまた来たいかな」
手のひらで地面を確かめて、慎重に立ち上がる。ほら、目が見えなくなっても立つことくらいできる。
「ありがと、連れてきてくれて。きっと一人で歩けるようになるから。だから、待ってなくていいよ。好きでいてくれる間だけそばにいて」
そのとき彼がどんな顔をしていたかは知る由もないのだけど、息がつまるくらいきつく抱きしめられたのは、きっと忘れない。
もう水族館なんて行かない 夏野けい/笹原千波 @ginkgoBiloba
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