にごたな参加 エクストリームNO・GU・SO

エクストリームNO・GU・SO(SF短編)

にごたな参加作品

使ったお題 【全米が泣いた】【枯れ木も山の賑わい】【世界の裏側】






 ルールはありえないほど単純だ。誰でもすぐに理解できる。今まで誰も考えもしなかった場所で、どうしてその瞬間なのかというタイミングで、いくらなんでもそれはないだろう状況の中で、ただひたすらに、無心に、自分の中の不要物、滞っていた何かに、すっきりと別れを告げる。得るのはなにものにも代えがたい爽快感と自らを解き放った解放感。チャレンジャーに与えられる報酬はそれだけだ。

 審査もこのうえないほど簡単だ。難しい判断はこれっぽっちも必要ない。減点はない。場所に驚愕し、タイミングに感心し、状況に快哉を叫ぶ。そして、特に重要なのはチャレンジを試みた者の勇気に惜しみない賞賛を与えること。成功か失敗かは重要ではない。誰もがいつかはチャレンジャーの気概を内に秘めながら、今は讃えよ、自由を勝ち得た真の勝者を。




 スクリーンに映し出された壮大な情景に会場内のあちこちから吐息が上がった。ヘリウムを用いて高い浮力を確保するマイクロドローン社の最新型ハイブリッド・ドローン「ストラトスフィア」に搭載された8Kビデオカメラが世界の最高峰エベレストの頂上へと向かう人々の列を舐めるように追う。背景を染める青い空、足元の輝く白、その少し向こうには目もくらむような断崖絶壁。映像だとわかっていても足がすくむ。誰も見たことのない光景。

 しかし、会場に集まった人々の関心は映像の美しさでも絶景でも、エベレストへの登頂でもない。人々の熱い視線は、今まさに頂上に到達し両手を上げた人物、その一挙手一投足に注がれている。人物の表情はサングラスとマスクに覆われ伺うことが出来ない。が、ここまで高みを極めたことへの歓喜だけでなく、さらなる高みをめざす期待と、必ず成し遂げるという自信に満ちていることは間違いない。会場の観衆はそれを知っている。

 世界の頂上に立った人物は辺りを見渡してからゆっくりとしゃがんだ。ごく自然な動きだ。長い登攀を経てひと休みでもするかのように。

 観衆はこの時を待っていた。賞賛と感嘆の笑みや吐息がさざなみとなり客席を駆け巡る。結果はもう分かっている。またしても博士が新たな金字塔を、それも世界の頂上に打ち立てたのだ。こらえきれなくなった誰かが手を叩いた。あっという間に拍手が渦になって広がっていく。

 やがて件の人物が立ち上がる。氷に白く覆われた山頂部に先程までなかったはずの黒い点が見える。絶妙のタイミングでカメラがズームインしていく。

 観客が立ち上がり始めた。スタンディングオベーション。ブラボーという叫び声があちこちから上がる。

 レンズがついにはっきりと標的を捕らえた。さりげないながらも圧倒的な存在感。ほかほかの湯気まで伝わってくる。次の瞬間、画面が切り替わる。アップになったサングラスとマスクの人物が上空のカメラに向かってゆっくりと大きく右手を伸ばし、親指を晴天に向けて真っ直ぐに突き出した。

 場内は総立ちだ。割れんばかりの拍手と絶叫にも似た歓声がうねりとなって場内を埋め尽くす。人々の声が揃い出す。呼んでいるのだ。スクリーンの中の人物、人類初にして最高のエクストリーム・エクスクリーター、ベン・デル・シニア博士の名を。その呼びかけが絶好調に達した瞬間、スクリーンが中央から切って落とされる。

 その向こうから登場した人物にすかさずスポットライトが当てられた。2メートルに近い身長、やや痩せぎすで、豊かな銀髪。大胆かつ挑発的な視線。舞台の中心で両手を広げ不敵に微笑むその男こそ、山頂でのチャレンジャー、ベン・デル・シニア博士その人だった。




「そろそろ話してもいいかな?」

 熱気冷めやらぬ会場に落ち着いた声が響き渡った。それを合図に人々が席に着いていく。スクリーンの中で見せた並外れたカリスマ性はステージ上でさらに遺憾なく発揮されている。まるで指揮者だ。観客はまるで博士が振るう指揮棒に従う楽団員だ。

「今日は私のEX3PO(エクストリーム・エクスクリーターズ・エクスポ)へようこそ。いや、それは私が勝手に言ってるだけで、今日の講演は、実際には、シンキング・エクスクリーション・ディッファレントリー(TED)、それとも、トライ・エクスクリーション・ダイナミックウェイ(TED)だったかな。とにかく何かそんな感じの名前のイベントと似たものでしょう。正直、私にとって集まりの名前はどうでもいいことだ。私が話したいのは、つまり私が皆さんとこの場で共有したいのは、皆さんと私を自由へと導く素敵な体験の話だけです」

 回りくどい語り口は博士の持ち味だ。観客はよくわかっている。アメリカでの講演なら膝を叩きながら笑い出す観客がいるはずだ。ここは日本、皆おとなしく、同時通訳が翻訳する博士の声に熱心に耳を傾けている。

「先程の映像はこの春に私が初めてエベレストに登頂した際のものです。いかがでしたか」

 ここでロックスターのようにマイクを観客に向ける。反対の手を耳に当てて返事を待っているポーズ付きだ。これには日本の観客も反応しない訳にはいかない。最高、すごかったなどといった日本語の反応に混じってグレイト、マーベラスという拙い英語も飛び交う。博士は片方の眉を上げながら満足気に唇の端を持ち上げ、ホラねとでも言っているかのように両手を広げ肩をすくめた。

「世界の最高峰でのチャレンジは素晴らしいものでした。もちろん、山頂へのアタックに欠かせない防寒着をどうクリアするかは技術的に大きな課題でした。四重のフラップと寒気を防ぎながら一方通行での排出を実現したウェアは試作の段階での想像以上に抜群の使い勝手でしたが、薄い大気と低い気温、不安定な足元、そして強風」

 過酷な状況を思い出しているのだろうか、博士は観客席の上に吊るされたライトを見つめるかのように顔を上げた。

「皆さんも御存知の通り、私は筋金入りの無神論者です。論文を除くと初めての一般向けの著作、『エクス・クリエイション』では、あえてEXCRETIONのつづりにAを加えたことでバチカンから大目玉をくらいました。南米の数か国ではいまだに禁書扱いです。宇宙飛行士として滞在した宇宙ステーションでの船外活動、あの時のチャレンジは今回以上に技術的な困難を伴いました。なにしろ宇宙空間にお尻を晒すわけにはいきませんからね。無事に終えた時は単なる解放感以上の達成感に満たされたものです。私から離れていった分身はあっという間に地球の裏側まで飛んでいった。そのあとは地球に再突入して燃え尽きたはずです。そう、あの時ですら、私はチャレンジを楽しんでいました。もう一度言います、私は筋金入りの無神論者です。尊敬する先輩科学者であるドーキンス博士にも負けないほどの。けれど、今回のチャレンジでは何か大きな力を感じたのです。それは神なしではいられない人類の性なのか、それとも私を呼ぶネイチャーなのか」

 会場は静まり返っていた。博士の一言一句を聞き漏らすまい、人々の覚悟が伝わってくる。

「失礼、なにも私は神秘体験について語ろうと日本にやってきたわけではありません。ご存じの方もいらっしゃるかもしれませんが、私の妻、民子は奥秩父の出身です。私はアメリカ空軍兵士として横田ベースに勤めていました。民さんは、ウープス、失礼、私は妻を民さんと呼んでいます。民さんとは、民さんとの出会いは忘れることは出来ません、あの素晴らしい素晴らしい高尾山で私たちは出会いました。晴れたゴールデン・ウィーク。登山道から少し外れた草むらにしゃがみこんだ民さんは野に咲く花のようで、私はひと目で雷に打たれてしまった」

 胸を抑える大げさな仕草に場内が湧く。芝居がかった物言いながら嫌味は無い。誰も彼もが話に引き込まれている。

「恥ずかしがりながら逃げる民さんを私は追いました。ここで逃せば永遠に逃してしまう。あとで聞いたところ、民さんは本当に怖がっていたようです。2メートル近い大男に追いかけられたらそれは怖いでしょう。追いついて話しかけても民さんは震えていました。これも後から聞いた話ですが、お腹が痛かった民さんはただでさえ心細かったところでこんな赤ら顔の大男に追いかけられて、しかも追いついてきた大男は一面識も無いのにいきなりアイラビューとか言い出して、本当に本当に、妄想に支配された頭のおかしいヒトなんじゃないかとただただ怯えていたそうなんです。けれど、私が最初に民さんを見つけたあの場所で、民さんの可愛らしい痕跡の小さな山の隣で拾ったキュートな猫のキャラクターのティッシュケースを手渡すと、何度も頭を下げてお礼を言ってくれました。そして、あまり上手ではないと言いながら英語で話しかけてくれたんです。あの時の優しい言葉を私は今でも忘れられません。サンキュー、民さん、ボクと出会うために生まれてきてくれてありがとう。そしてあの時あの場所で民さんがしゃがんでいなければ私たちは出会わなかった。素晴らしき出会いに感謝」

 関係者席に座る奥さんにキッスを投げる博士に場内から割れんばかりの拍手が贈られた。

「民さんからは素晴らしい言葉を教わりました。NO・GU・SO。英語には無い言葉です。この言葉を聞いて、私は子どもの頃に見たニュースを思い出していました。宇宙飛行士用のおむつを付けた女性宇宙飛行士がテキサスからフロリダまでトイレ休憩を挟むことなくハイウェイを飛ばして不倫相手のパートナーを襲撃したという衝撃的な事件です。覚えていらっしゃる方はいるでしょうか。ワイオミング州の山奥で暮らしていた少年の私はこの事件のニュースを見て驚きました。宇宙飛行士用のおむつがあるということ、そして宇宙飛行士はおむつの中に出しているということ」

 笑いは漏れなかった。博士がどれほどこの問題と真剣に向き合ってきたか、この会場でそれを知らない人間はいない。

「民さんからNO・GU・SOという言葉を聞いた私はハッとしました。それまでその行為を定義する言葉を持ち合わせていなかったのです。少年の頃、ワイオミング州の山奥で行ったあの、大自然の中で自らを解き放つあの行為。そして、全米から選ばれた身でありながらその解放感を味わえずにおむつの中に出すしか無い宇宙飛行士という悲劇」

 過去のニュース映像が新たに用意されたスクリーンに映し出されていた。報道された場面がゆっくりと切り替わっていく。犯罪者となってしまった女性宇宙飛行士の目には黒い線が乗せられていた。

「私は空軍を退役し、医大へと進むことを決心しました。人間にとって切っても切り離せない行為でありながら蔑ろにされてきたあの行為を彩り豊かなものに変えようと考えたのです。宇宙飛行士だけではなく人類にとっての尊厳と自由の問題に直接貢献したいと考えたのです。しかし、その道は平坦ではありませんでした。自由に気ままにどころではありません。医学者となる過程で私は多くの人々が抱える生理的な障害と向き合いました。研究に専念するようになり、社会の中での制約、もちろんそれは衛生の問題と、さらには衛生的な環境を実現するためのインフラとも不可分です、そうした様々な制約の巨大さに打ちのめされそうになりました。そんな時、マイコ・リース監督と出会ったのです。監督は私の研究過程をドキュメンタリー映画として全米で公開しました。皆さんも御存知の映画『UNCO(アンコントロールド・エクスクリーション)』です」

 映画の中の印象的な場面がスクリーンに展開された。

「反響は凄まじいものがありました。監督は予想していたそうですが、一介の研究者に過ぎなかった私には想像もできなかった。生理的な障害や非衛生的な環境での排泄の問題で悩み苦しんでいる米国人がそれだけ多かったということでしょう。多くの方が涙とともにこの映画を鑑賞しました。他人事ではなかったのです。この映画では監督とともに日本にも取材しました。社会の中での望まれない制約の例として取り上げたトイレで大が出来ない日本の小中学生の問題は、私の中では民さんから教わった「GAMAN」という言葉と結びついています。我慢しなくていいよと日本では何度も繰り返し社会的な告知が為されている。過去には偉大な野球選手のホームランの数をコンビ名にした有名なコメディアンのTVショウで『我慢することが多過ぎる世の中に遠慮なくぶちかませ』といった過激な宣言までされていたそうです。我慢の限界ということでしょうか」

「この映画をきっかけに、私の研究者生活は一変しました。世界各地の最先端の研究者たちとの共同作業が増えたことで私の知見は広がりました。特に食べるものや腸内細菌によって排泄物の質をコントロールしようという取組には大きな刺激を受け、私自身も同じ方面の研究を始めるきっかけとなりました。タイミングをコントロールするための緩下剤や止瀉剤の研究もしかり。過酷な環境での施設の研究にも目を見張る物があります。各国の衛生当局からも意見を求められるようになりました。やがてNASAから声がかかります。宇宙飛行士の衛生問題の改善についてです。ここへ来て、私の原体験、宇宙飛行士のおむつと私の研究とが結びついたのです」

 再び会場は割れんばかりの拍手に包まれた。

「ワイオミングで、奥秩父で、静まり返った夜に、晴れ渡った昼に、ゆったりとした気分で、慌てながら、自分を解放したあの瞬間のことを思い出します。空軍パイロットとして、研究者として、世界中の様々な衛生環境で出会った人々、くつろぎ、不快、便利、不便、それらを思い返します」

 博士は目を閉じた。ワイオミングの木々を思っているのだろうか。

 会場は静まり返っている。

「もっと自由を。私はそれを誰かに与えることを望んでいたのではありません。私自身の渇望でした。研究を続ける中で私は再発見したのです。私が求めていたものを。もっと自由で快適な瞬間を」

 感極まったかのように目頭を抑える。

 長い間があった。開かれた博士の目が潤んでいるように見えたのは気のせいだろうか。

「日本での先行研究を発見した時、私はその衝撃に震えました。かつて日本に存在した独立国、今はその存在すら忘れ去られようとしている小さな幻の国『吉里吉里国』での研究です。道端で、野で、自由気ままにまるで子犬のように。私が目指しているものと同じだ。しかし、医療での立国をめざした『吉里吉里国』はその先進性を恐れた各国の干渉による騒乱の中、呆気無く消滅してしまいます。そして研究の成果も今は、日本人作家があえて空想の物語としてしたためた長大な小説の中の一節に痕跡を残すのみです」

 博士は両手で口を覆った。

「失礼。研究に於ける自由が環境によって制約されることもあるという悲しい事実は私を打ちのめします。私自身がまさにそうです。もっと自由を、そう願いながらも様々な束縛の中で生きているのです」

 博士は再び顔を上げた。

「私は自由を勝ち取ることを決意しました。そのために何ができるか、それからの日夜はそればかり考えて過ごしていたかもしれません。その結果、私は人類にとっての「GAMAN」からの解放を、研究やスローガンではなく、エンターティンメント性あふれるエクストリームな競技として実現することに思い至りました」

 先程までの思い詰めた表情から一転、登場した時よりさらに自信に満ち溢れ両手を広げる博士。スクリーン上には様々な場面でカメラにサムアップした博士の姿が並ぶ。場内の観衆が再びスタンディングオベーションで応える。

「アリガトゴザイマス」

 笑顔から飛び出した日本語とそれに続く反応を煽るような仕草に会場が一気に湧いた。

「エクストリーム・エクスクリーション、いえ、皆さんがそう呼んでいないことは私も十分承知しています。そう、極限に挑戦する、それが、エクストリームNO・GU・SO」

 会場の拍手がヒートアップする。それに応えるように博士は決めポーズのサムアップ。会場の温度が上がった。

「OK、OK」

 満足げな博士が手を振りながらクールダウンを呼びかける。が、会場の熱気はおさまりそうにもない。不敵に笑った博士は一昔前の司会者のようにスクリーンに向けて手を振る。

 映し出された渋谷のスクランブル交差点を見て人々の拍手が止まった。

「私が日本に来た理由をまだお話していませんでした」

 博士の声がひときわ大きく響いた。

「私はエクストリームな競技と言いました。極限状態、そこでのチャレンジにはエンターティンメント性があると信じていたからです。ですから、皆さんも御存知の通り、砂漠や極地帯、ジャングル、山々、水中、そう、水中では魚たちの群れに追われるという素敵な体験もできました。そしてもちろん、宇宙ステーションで、宇宙遊泳の最中に。今日ご覧いただいたようにエベレストでも」

 博士は観衆をゆっくりと見渡した。

 スクリーンの静止画像が動き始めた。

「この映像は既に二億回も閲覧されています。この動画の中のチャレンジが真にエクストリームなものであることは間違いありません。私が保証します。そしてさらに、私はこの映像を見たから、もちろんそれだけではなく最愛の民さんの故郷である奥秩父を訪れるためでもありますが、この映像がなければこうして火星へと旅立つ前に皆さんの前でお話しすることはなかったはずです。そう、この映像の中のチャレンジの素晴らしさに私は打ちのめされてしまった。脱帽です。多数の人々が行き交うスクランブル交差点で、人々が通り過ぎた後の中心に残された「それ」。信号が変わり目まぐるしく交差するクルマ。踏み潰されることなく、存在し続ける「それ」。やがて再び信号が変わり大波のように押し寄せる人々。その流れを押し分けるように、不思議な力で人々を遠ざけ寄せ付けようともしない「それ」。パーフェクト。アンビリーバブル。ファンタスティック。素晴らしい。素晴らしすぎる。大胆さ、不敵さ。意表を突くタイミングとシチュエーション。エクストリームNO・GU・SOの新しい可能性がここにある」

 スクリーンを一心不乱に見つめる博士の目は歓喜に満ちながらも研究者の鋭さを保っていた。

「突如Web上に公開されたこの映像を見て、私は未だたどり着いていない極限がこんな場所にあったのかと感嘆しました。エクストリームNO・GU・SOの可能性は無限だ。その事実を私に知らせてくれたこの映像のチャレンジャーに感謝の言葉を贈りたい。そして、もちろん私は知っている。これは挑戦です。私に対する正面からの挑戦状です」

 スクリーンから目を離した博士は目を細め、獲物を狙うような鋭い眼差しを観客に向けた。

「私は好敵手の登場に胸を弾ませています。今まで、多くのエクストリーマーが様々なシチュエーションでチャレンジを繰り返してきました。その度に私も新たな場所で、シチュエーションで、私自身の想像を超えるチャレンジを実現してきました」

 スクリーンには赤茶けた光景が映し出された。

 会場は再び緊張を帯びた静寂に包まれた。

「火星」

 博士の声だけが響き渡る。

「人類が未だ到達していない極限。いえ、そこにたどり着いたしても、その環境が人類にとって極限状態であることに変わりはありません。私は人類初の火星探査隊のひとりとして選ばれました。極限の中での生理現象は生死に関わるものになりかねません。私はここまで様々な局面を乗り切ってきました。今度も必ず乗り越えるつもりです」

 博士の視線は妻に向けられていた。

「この旅を許してくれた妻、民さんにはどれだけ感謝しても感謝し尽くすことは出来ません。もう何度も言いましたが、ここでも言わせてください。民さん、アリガト」

 博士は深々と頭を下げた。

「私はこの探査が片道の旅だとは考えていません。二十五年後に予定されている帰還第一便で必ず帰ってきます」

 場内からはかすかに鼻をすする音が聞こえてきた。

「そして、火星への極限の旅に出る前に、この地球上にまだまだ未踏の極限があることを教えてくれたこの映像の送り主にも感謝。私はあなたを尊敬します。わかっていますよ、あなたはこの会場に必ずいるはずです」

 客席を見据えた博士の目が、次の瞬間ふっと優しい目に戻った。

「ところで皆さん、民さんは私に『枯れ木も山の賑わい』ということわざも教えてくれました。枯れている木でも何もない禿山よりはましで少しは賑やかに見えるだろうという意味のことわざです」

 ここで一呼吸おいた。

「私が向かう火星には枯れ木はありません。何もない。賑やかしとして渋々存在を許される枯れ木すらない。地球上の生命から見ればまったくの無の世界です。気軽にNO・GU・SOを楽しむことはできません。探査隊にとって排泄物は宝です。捨てるなどとんでもない。けれど、例えば単独での活動に際して帰還に障害が発生した場合、排泄物をそのまま宇宙服の中に溜めることは出来ません。捨てなければならない。私の知識と経験は、排泄物を活かすためにも捨てるためにも使われます。それこそが私が探査隊に選ばれた理由でしょう。そして私は知っている。『枯れ木も山の賑わい』という言葉の豊かさを。地球は豊かです。枯れ木ですらありふれている。私と旅を共にする仲間たちは、いえ、その意志を引き継ぐ世代は、いつか火星の地を枯れ木で満たし、さらには豊かな緑で覆い尽くし、そして、木漏れ日の揺れる木陰で、自らを解放する自由を勝ちとるでしょう。私はその日を夢見ています。ご清聴ありがとう。また会う日まで。さようなら」

 博士はひざまずき、マイクを愛おしげにステージ上に置く。静かに頭を振った。それからゆっくりと立ち上がり、スポットライトの中心で手を伸ばす。その手を大きく振ったかと思うと、そのままくるりと後ろを向き、光の当たらない闇の中へと消えた。




 残されたマイクに落とされたライト。その向こうに観客たちの視線が集まっていた。何かある。気配ではない。微かにぬめり艶やかに光を跳ね返す。存在に気づいたライトが動いた。美しいトグロを巻いた「それ」が露わになる。

 私は立ち上がった。叫ばずにいられなかった。万感の思いを込めて「ブラボー」と。痺れるほどに手を叩く。博士の、多分、地球での最後となるチャレンジ、ラスト・シュートは、私たちの挑戦を軽く飛び越え、あまりにあまりに見事であった。とめどなく流れる滂沱の涙を私は拭いもせず、博士に感謝と別れの拍手を送り続ける。私に続いて観客たちが続々と立ち上がる。そうだ、私たちは誰もが皆エクストリーマー。その頂点に君臨し、新たな極限の地である火星へと旅立つ博士に惜しみない拍手と賞賛を贈ろうではないか。




「マジかよ……」

 観客が去った客席を片付けにやってきたホールの職員はすべての客席にちょこんと鎮座するトグロを見て絶句した。

「ウンコはトイレでしてくれよ……」




おしまい

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澄川三郎の短編置き場 澄川三郎 @sumikawa_saburo

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