終章
どんよりとした雲が今にも落ちてきそうだ。少し前に、じめじめとした雨が降り始めている。
マロが旅立って1ヶ月。
私たちはいつも通りの日々を過ごしていた。住人のいなくなったケージは寝室の隅に追いやられ、時々僅かに漂う藁の匂いが、懐かしさと寂しさを呼び起こす。掃除はしたが、かまくらや敷き藁などはそのままだった。
人は死ぬと7日間を一区切りに7段階に分けて天界へと登っていく。七日ごとに閻魔大王による裁きが行なわれ、極楽浄土に行けるかどうかの判定が下されるのが四十九日目。だから49日なのだという。私の父が亡くなった時、お教を上げに来た住職から聞いた話だ。それは、きっと動物も同じなのだろう。マロ、お前は今頃どのあたりを登っているんだ? 閻魔様の裁きがあるっていうけど、お前は間違いなく極楽に行ける。閻魔様に口添えしておいてあげるから、安心するといい。
「ねぇ、買い物に付き合ってくれない?」
絵里がいつものホームセンターに用がある、と言ってきた。もちろん日用品を買う目的で。あれから、川田さんからの連絡はまだない。私は絵里と共にホームセンターへ向かい、目的の日用品を確保した後、例のペットコーナーへと足を向けた。そこには、茶色のウサギと白いウサギが2匹いた。白い子はマロに似ているが、やはり違う。耳は小さく、よく走りまわる子だ。ネザーランドドワーフのミックスで、しかも雌。もう一方は茶色のロップイヤーの雄の子がいる。暫く眺めていると、川田さんが挨拶しに来た。
「こんにちは。そろそろ連絡しようと思ったんです」
「あ、こんにちは。この子たちは、最近、入ってきたんですか?」
「はい。つい1週間くらい前です」
私と川田さんが話をしていると、絵里がそこに割って入ってきた。
「この子は、生まれてどれくらい経つんですか?」
「そうですね。えっと……たしか1ヶ月くらいですね」
川田さんはケージを開けて、白い子を抱えると絵里に差しだした。
白い子を抱えた彼女は、頭を撫で始めた。
「いいですね、この子。でも、まだちょっと小さいかな。あの……、予約をしておいて、しばらくこちらで預かってもらうことは出来るのですか?」
「あ、はい。大丈夫ですよ。まだ、小さいですもんね」
「じゃ……」
私の顔を見て、いいよね、というアイコンタクトをしてきた。
予感はしていたが、こんなにも早く次の子が来るとは。正直、まだそんな気にはなれない。しかし、空っぽのケージをあのままにしておくわけにもいかないし。私は、彼女に軽く頷き、優しく微笑んだ。
「えっと……この子を予約してもらえますか?」
絵里は、白い子を撫でながら、川田さんに伝えた。その後も、二人はいろいろ話していたが、私はその会話に入ろうとしなかった。今はまだ、そんな気分ではない。私にはもう少し時間が必要な気がした。
ようやっと二人のやりとりが終わろうとした時、最後に一言だけ、私が付け加えた。
「川田さんが大丈夫だと思った時期に連絡をください。その時、迎えに来ます。それまで面倒だと思いますが、その子をよろしくお願いします」
「はい。分かりました。今回は、小さい子用に漢方も用意してあります。だから大丈夫だと思いますよ」
川田さんはニッコリと笑って、そう言ってくれた。大丈夫だ。今度はきっと。
彼に挨拶をして、私たちはホームセンターを後にした。
絵里は川田さんと話していた時、マロの死因の可能性についても聞いていた。ウサギは生後1ヶ月くらいで親元を離れ環境が変化してしまうと、胃の中で悪い菌が急激に増殖してしまう時があるらしい。それが神経にまで達すると、今回のような症状になる可能性があるのだ、と。
それを聞いた時、ある考えが過ぎった。
もし、私たちがマロを引き取らなかったら、あの子はペットコーナーの一角で、誰にも看取ってもらえず、寂しく死を迎えていたかもしれない。それを考えれば、私たちに見守られたマロはまだ運が良かったのか。
――いや、もしそれが仕組まれた運命だったとしたら。
誰が見ても可愛く、すぐに売れてしまいそうな子が1週間過ぎても、もらい手が現れなかったこと。普段は絶対にペットを飼わない絵里が、飼うと言いだしたこと。マロが家に来て、抵抗も無く私たちを受け入れてくれたこと。そして、私たちがマロの最後を看取ったこと。
死を司る神が、マロの宿命をあまりにも可哀そうだと思い、私たちを巡り合わせたとしたら。マロに自身の宿命を言い聞かせ、たった3日間でも幸せに過ごせるように仕向けたとしたら。
その時、マロの宿命に私たちの運命が交差した。
マロが私たちに与えてくれた幸せ。私たちがあの子に与えた幸せ。例え辛い別れがあったとしても、あの3日間、私たちは幸せだった。そう、幸せだったのだ。
私たちの『めぐりあわせ』は、必然的だったのかもしれない。
あれから、さらに1ヶ月が過ぎた。
鬱陶しい梅雨は明け、今は照りつける太陽の中、蝉の大合唱が始まっている。
「マロー、おいで」
絵里の声がする。
マロを引き取って2週間が経ち、やっと外に出すことが出来た。
彼女は、辺りを匍匐前進するかのように、ゆっくりと周りを確認しながら進んでいく。もちろん、呼んでも来るわけがない。前回のマロとは似ても似つかない。抱っこが嫌いで、嫌な事があるとすぐに怒る。慣れ合いはしないのよ、と言わんばかりのツンデレ、いや、ツンだけのお嬢様だ。それでも、マロはマロだ。白くて、小さくて、モコモコしている。最近やっと、撫でると気持ちいい顔をするようになった。絵里も慎吾も私も、マロの事が大好きだ。
絵里が迎えに行った時、こんなことを言っていた。マロちゃん、慌てて生まれ変わったから、性別までは男の子になれなかったんだね、と。確かにそうかもしれない。だが、彼女の生まれは4月の終わり。生まれ変われることは出来ないのだ。それでも、私たちはマロと名付けた。例え、生まれ変わりでなくても、私たちのエゴだとしても、それでも、私たちの中では、マロなのだ。
今、新たな運命を3人と1匹が歩んでいる。いや、1匹が3人を振り回してる、の方が良いか。
私は、とんでもないお嬢様のマロに言いたいことがあった。
――マロ、いい加減、私だけ怒る仕草をするのをやめてくれないか。
――マロ、なんで私だけ撫でさせてくれないんだ。
――マロ、その態度、なんとかならないか。
――マロ、……ずっと待ってたよ。……おかえり。
小さな家族がやってきた さかさまのねいろ @eeyore
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