第5章 家族

 カーテンが閉まった薄暗い部屋に光が差し込み、それが、私を夢の世界から引き戻した。昨晩の事が、夢であればどんなに良かったか。


 居間に向かう途中、慎吾にあった。そろそろ部活に行く時間のようだ。

 玄関で、私と絵里に見送られながら、駆け足で出て行く。

 見た目はいたって普通だった。元気に「行ってきます」と言った姿には、昨日の出来事を感じさせない。いや、そういう風に振舞っているだけなのかもしれない。私の横にいる絵里もまた、普段と変わらない振舞いをしていた。朝から慎吾に弁当を持たせるため、私よりも2時間も早起きしている。


 どんなに辛い事があっても、日は昇り、時間も流れる。辛いから、悲しいからと言っても、私たちはその時間ばしょに留まる事が出来ない。故に、前へ進むしかない。いや、進まなければならない。遅かれ早かれ、いつかは皆、それぞれの想いを胸にしまい、現実を受け入れていくのだ。


 朝食をとり、ホームセンターが開くまで、まだ1時間ほどある。絵里は食器を洗った後、出かける準備をしていた。

 私も、いつもと変わらない時間を過ごす。ただ、心にぽっかりと空いた穴のように、虚しさと寂しさが同居していた。何かする事があるのなら、まだ時間も忘れる事が出来ただろう。だが、今は連休でこれと言った事もない。テレビから聞こえてくる音声が、無意識に入ってくる。

 ……いよいよゴールデンウィークも…………明日からUターンラッシュが始まり…………。

 ふと窓の外を見る。今日も空が青く、天気が良かった。マロが旅立つには良い日なのかな。

 暫くテレビを眺めていると、ようやっと9時になった。

 電話の受話器を取り、予め調べておいたホームセンターのペットコーナーの番号を押した。数回コールがなり、男性の声が聞こえる。

「もしもし。3日前にそちらでウサギを購入した物なのですが、昨日急に容体がおかしくなり、死んでしまったんです……」

「え? この間のウサギですか?」

 どうやら、電話に出たのは、引き渡しの際に立ち会った、青年のようだった。

「そうですか……」

「それで、どうしてこんなことになったのか、是非調べて頂きたいのですが、よろしいでしょうか?」

「そうですね……。どんな状態だったんですか?」

「夜10時くらいに、急に容体がおかしくなって倒れてしまい、手足を伸ばしてビクビクって難度か痙攣した後、死んでしまいました」

「そうですか……聞いただけだと、何とも判断出来ないのですが、知り合いに聞けば何かわかるかもしれません」

 私は、どうしても原因が知りたかった。何故、こんなことになってしまったのか。だから、電話口で済まそうとも思っていない。直接マロを診てもらって、出来れば、獣医さんに解剖してもってでも、そう思っていた。

「大変申し訳ないのですが、今から、そちらに伺って、直接診て頂きたいのです。何か少しでも原因が分かれば……。よろしいですか?」

 今、考えれば、ちょっと強引だったかもしれない。だが、その時は、居てもたっても居られなかった。頼れる誰かが欲しかったのだ。

「分かりました。お待ちしております。ペットコーナーに居ますので、声をかけて下さい。私の名前は川田といいます」

「ありがとうございます。では、30分ほどで伺いますので」

 私はそう言って、電話を切った。

 絵里は、大粒の涙を流して話を聞いていた。マロの事を思い出していたのだろう。昨日は突然の死で、現実をあまり受け入れられなかったのか、今日その分、想いが蘇ったようだ。私は絵里にやさしく、ただ、頭を撫でてあげることしか出来なかった。辛いの皆同じなのだ。彼女が落ち着くまで、暫く待っていると、涙を拭いて、普段通りの笑顔が戻った。

「ごめんね。じゃ、マロを連れて行こうか」

 そう言うとケージに向かった。

 バスタオルが深く掛かったケージの入口を開けた。中には静かにタオルに包まれていて横たわっているマロがいる。そっと両手で抱え、迎えた時にもらった小さなダンボールへゆっくり入れた。一番下に保冷材を入れ、その上にマロを寝かる。その時、タオルの間からマロが顔を覗かせていた。その姿を見て、悲しみとやり切れない想いが蘇ってきた。心では整理がついたつもりだったが、マロの顔を見ると、やはり辛い。ダンボールの蓋を閉め、絵里に渡して玄関を出た。

 暑い日差しが私たちを照らしつける中、車に乗り、エンジンをかける。チラと横目で絵里を見るが、顔は暗い。私に気付くと、微笑み、小さく頷いた。彼女の辛さが痛いほどわかる。 ホームセンターに着くと、ペットコーナーへと向かった。一回りするが、人が見当たらない。小鳥コーナーの部屋に入るとカーテンが閉まっている。人はいるようだ。絵里がカーテンを少しずらし、中を覗いてみると、あの青年が雛鳥たちに餌をあげている最中だった。数羽の雛鳥たちがテーブルの上でピヨピヨと鳴きながら、座っている青年に纏わりついている。微笑ましく、つい笑みがこぼれてしまう。このまま、何も無ければ温かい気持ちでいられただろう。だが、今私たちが来たのはマロの事だ。そう思い、私が口を開こうとしたら、絵里が先に話しだした。

「あの、すみません。先ほど電話したものなのですが……」

「あ……はい。私が川田です。すみません。今、こんな状態で……」

 そう言って、川田さんは雛鳥をテーブルの上に乗せ、改めて、私たちに向きなおした。

「この中に、いるんですけど……何か分かりますか?」

 絵里はダンボールを川田さんに渡すと、彼は立ち上がり、テーブルにダンボールを置き、マロを手に取り、全身を調べ始めた。

「特に、外傷はないようですね。お尻も汚れいないし……そうですね……やはり、これだけじゃ、ちょっと分からないですね」

 そう言うと、再びマロをダンボールの中へ寝かせた。手に抱えていた時、常に頭を撫でていたのが、とても印象的だった。この人も動物が大好きなのだ。それゆえに、無くした悲しみも分かっている。今の私たちにとって、一番の理解者なのかもしれない。

「あの、なぜ突然死んでしまったか、獣医さんに解剖をお願いすることは出来ないのですか?」

「それが、出来ないんです。基本的には、死んでから解剖はやらないことになっているんです」

 川田さんが言うには、ペットショップでは動物が死んだあとに解剖することは基本的になく、ましてや小動物ともなると、獣医でもほとんどやらないそうだ。

「そうですか……では、もし何か分かった事があったら、教えてください。あと……もし、よろしければ、この子を預かって頂いても良いですか?その……お知り合いの方にも診て頂ければ嬉しいのですが……」

 私はマロをそのまま、うやむやにして欲しくなかった。理由があるなら知っておく。それが私にとっても、マロにとっての供養にもなると思っていた。いや、私自身が納得したかったのかもしれない。たった3日間しか一緒に居ることができなった理由を。だから、知り合いの方に診てもらい、少しでも何か分かればとマロを差し出した。

「あ、はい……わかりました。では、お預かりします」

 川田さんは快く引き受けてくれて、マロの寝ているダンボールにそっと手を置いた。その時、マロに向けて安らいだ微笑みをしていたのが、忘れられない。

「あ、もしよければ、他の子を見てもらってもいいですよ。こんな事になってしまったので、連れて行きたい子がいれば、半額でお譲り致します」

 彼の精いっぱいの励ましなのだろう。私たちが寂しい想いをしていると思い、彼なりに出来ることを伝えてくれたに違いない。彼の行為と言葉には感謝したい。だが、今の私たちにはそんな事を考える余裕はなかった。マロがいなくなったからすぐに次の子、とはいかないのだ。たった3日間でも、マロは私たちにとってかけがいのない家族なのだ。あの愛くるしく甘えてくる姿は何物にも代えがたい。私たちにとってマロの存在は、それほど大きなものだった。

「そうですね……でも、今はまだ大丈夫です。やっぱり……あの白い姿がどうしても目に焼きついちゃって……」

「……そうですよね……じゃあ、似たような白い子が入ったら、またご連絡します。少し時間がかかるかもしれないですけど……。最近、ウサギ自体入ってくることが少ないんです」

 そう言って、申し訳なさそうに軽く頭を下げた。

「あ、いや、構いませんよ。時間はいくらかかっても、大丈夫です」

 そう、私たちには時間が必要なのだ。仮に新しい子を迎えるにしても今はまだ早すぎる。マロの存在が大きいからこそ暫く時間を置きたい。それは絵里も同じだった。

「じゃあ、連絡先は……この間、購入した時に書いてもらった連絡先で良いですよね」

 以前、マロを購入する際、絵里が住所や連絡先を契約書と一緒に記入していた。そのことを彼女は思い出したように答えた。

「……はい。大丈夫です。その電話番号に連絡してください」

「わかりました。では、またご連絡します」

 川田さんは丁寧にお辞儀して私たちを見送り、私たちもよろしくお願いしますと伝え、その場を後にした。

「川田さん、良い人だね」

「そうだね。動物とその飼い主の事を良く理解してくれている、優しい人だ」

「うん……」

 私たちは彼の人柄に救われ、店を出た。


「あ、私、買い物に行きたいんだけど。スーパーに寄ってくれる?」

「冷蔵庫からっぽだもんね」

「今日のごはんもないよー」

 いつもの何でもないやりとり。私も絵里もいつも通りに戻っていた。川田さんに会い、少しだけ気持ちが軽くなった気がする。


 家の近くにあるスーパーに立ち寄り、いつものように絵里は食材を見ている。私もいつも通り、彼女の後を追いながらカートを転がしていた。

 連休の午前中という事もあり、あまり人を見かけない。おそらく、みんなどこか遠出をしている最中なのだろう。そんな時、身近なスーパーは人が少ないものだ。

 野菜コーナーで、いろいろ物色している絵里と少し離れて、私は隣にある果物コーナーで棚に並んでいる果物を眺めていた。その時、突然ある匂いが漂ってきた。

 その匂いはアンモニア臭のような、獣独特の匂いに似ている。私は周囲の果物から匂ってくるのかと思っていたが、そうではなかった。今までそこにいて果物の匂いはすれど、アンモニア臭のような匂いなどはするはずもなかった。生鮮食品にその匂いはあってはならない。だから、食品から出た匂いではない、とすぐに分かった。では、一体この匂いは何なのだろうか。そう思った瞬間、私はハッと気付いた。

 ――マロがここに居る!

 そう、マロが息を引き取る直前に嗅いだ、あのだ。間近に感じていた、あの匂いを忘れるはずがない。私は嬉しさと興奮のあまり、思わず絵里を呼んでしまった。

「絵里、絵里、ちょっと来て!」

 私は彼女を手招きして、そこの空気を吸ってもらった。

「どう? なんか、動物臭くない?」

「うーん、確かにアンモニア臭のようなものは感じるけど……」

「この匂いって、マロの匂いなんだよ」

「そうなの? よく分からないけど……」

 私はもう一度匂いを確認した。間違いない。あの時の匂いだ。思わずキョロキョロと周囲を見渡してしまう。見えることも、肌で感じることもないのに。

 それを見ていた絵里は少し戸惑っていた。それはそうだろう。もういないマロの事をいきなり、匂いがした、とか、ここにいる、とか言うのだから。この人は何を言っているんだろう、と思ったに違いない。彼女は首をかしげながら私の事を心配しつつも、すぐに食材を選びに買い物に戻っていった。そのたぐいはあまり気にしないのが彼女なのだ。

 何故、こんなにもその匂いに拘っていたのか。それは1週間ほど前に見た、インターネット動画が原因だった。その動画はこんな内容である。

 ――怪談家の芸人が友人から聞いた話。友人宅で、長年飼っていた愛犬が寿命を全うして亡くなった。ペット霊園で火葬をおこない無事供養も終わり、家に戻った家族が何気なく愛犬の思い出話をしていた。すると急に、そこにいた全員が同じ方向を目で追い始める。そして、口裏を合わせたように同じことを言いだした。今、移動したよね、匂いが移動したよね、と。長年、一緒に住んでいたから分かる、愛犬の匂い。きっと、その犬が話題に出たことで、みんなの前に現れたのではないか、と言う怖くも不思議で心温まる話――。

 それが今、私の身にも起こっていた。

 怖くもない。不思議な気持ちにもならない。ただ、嬉しさのみが私を支配した。

 私はマロに何もしてあげられなかった。助けることが出来なかった。苦しんでる姿を見守る事しか出来なかった。でも……それでも、マロは私の前に現れ最後の挨拶に来てくれた。嬉しかった。たとえそれが私の勘違いだったとしても、嬉しかった。

 思わず目頭が熱くなった。目には溢れそうな涙が。必死になってこらえた。じっと目をつむり、歯を食いしばり口を真一文字にしながら涙をこらえる。周りは普通に買い物をしている人たちがいる。そんなとこでいきなり大の大人が泣き出したら、それこそ、みんな奇異な目で見るだろう。もう一度、深呼吸をする。もう、マロの匂いはしない。ゆっくりと目を開ければ、そこには現実がある。絵里が買い物をしている姿がある。そうだ。これ以上、悲しんではいけない。せっかくマロが会いに来てくれたのだ。マロを見送ってあげなくては。笑顔で見送らなければ、安心して天国に行けないじゃないか。

 私は店の天井を見上げていた。マロが登っていくであろう、空に向かって。

 ――マロ……何も出来なくて、ごめんな。苦しい時に見守る事しか出来なくて、ごめんな。でも……、会いに来てくれて、ありがとう……。短い間だったけど、それでも、お前は俺たちの家族だ。たった3日間でも、一緒に遊んで、甘えて、楽しく過ごした大事な家族だ。それだけは絶対に忘れないでくれ。天国に行ったら、また、生まれ変わるんだろうけど、今度は、長生き出来るように、ちゃんとお願いするんだぞ。そして……そして、もし……また、ウサギに生まれ変わることがあるなら……その時は、また俺たちのところに戻ってきてくれるかな。……マロ……最後に会えてうれしかったよ。……じゃあ……ね。

 天井を見つめる私は、穏やかな気持ちだった。やっと、マロを見送ることが出来たのだ。


 1時間ほどで買い物を済ませた私たちは、店の外にいた。眩い日差しが降り注いでいる。見上げれば、一面青い空が広がっていた。マロも、この青空の中にいるのだろうか。

 胸一杯にその青空を吸ってみる。気分は清々しい。

「どうしたの?」

 絵里が立ち止った私の顔を、下から覗きこんでいた。

「いや……、別に……」

 私は彼女に向かって微笑み、そして、また空を見上げて言った。

「空が青いなぁって思ってさ」


 私たちが楽しく会話していると、優しい風が頬を撫でる。

 その時に見上げた空は、いつにもまして、どこまでも高く、遠く、そして、青く澄みきっていた。

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