特筆すべきは圧倒的な落差と速度。
そしてそれを不自然に思わせない構成の妙でしょう。
見せたい武器(シーン)が無数にある中で、選りすぐりの殺傷力を持つ場面だけをひたすらぶつけられているような、狂気的な展開が徹頭徹尾連続していきます。
本作は弛緩と緊張。狂気と正気が交互に、らせん状に渦を巻くような構成となっており、まさにクトゥルフを題材とした、正気が削り取られていくような感覚を登場人物達と共に味わうことが出来ます。
登場人物の思考も独特(その上で非常に感情移入もしやすい)で、どこで突然正気と現実の境界を飛び越えるのか全く予測がつきません。
総じて、巨大なジェットコースターに乗せられたかのような読み心地の作品です。この感覚はぜひ一度多くの人に味わって頂きたい。
物語だけでなく、構成と文脈によっても絶妙な酩酊感が味わえる本作。お勧めです。
九州の田舎で起伏の少ない日々を送っている僕にとって、北の大地はそれだけですでに異界だ。
北海道。羆が跋扈し、火の気のない部屋には朝から畳に霜が降り、凍てつく港には北から巨人たちの船が豊饒な海の恵みをもたらす異境。
ここで描かれるあらゆる事物の名は、セーレムやアーカムと何も変わらぬ異界の形象に冠されたものとしてイマジネーションを喚起する。
そうして築かれた舞台の上に躍り出る、猥雑なまでにバリエーション豊かな異形とガジェット、そして恐怖の数々に、冒頭から結末まで圧倒される。
作中何より印象的なのは、やはり老作家が生み出した本。読む者の認識と存在を塗り替え上書きするこの呪物の本質は、創作者ならだれでも夢見る『力ある物語』を露悪的にグロテスクに言い換えたものに他ならないのだが、それゆえにこそ恐ろしく魅力的で、書くタイプの人間の心に響いてやまない。
この作品はオムニバス的な短編連作と、首尾一貫して一つのテーマを追う大河的な叙事詩(エピック)とのちょうど中間にあると思うのだが、この本のエピソードとアイデアこそが実は中核であるようにも思える。
主人公の心を両側から綱引きする二人の少女に対して、この本がそれぞれどのような意義を持つか、という二面性こそがその証左だ。
既存の神話体系に知られたあれやこれやのきらびやかなスター的存在たちを舞台から追い出してしまえば、この物語は実にシンプルな二律背反と二項対立に還元されるのである。
sealさんの作品を数編読んできたが、ここに至って構成もアイデアも込められた情念も、異次元、いやまさに異界に突入したかのような進化と完成を遂げたように思う。
次の作品、あるいはこの邪神任侠の続編が、いかなる未知の異界へ扉を開いてくれるのか。僕はもう、震えながら待つしかない。
窓の外に、それはすでに訪れている。
余談ながらラスト近くで明らかになる事実が、あっ、という叫びを伴ってそれまで感じた違和感を反転させてくれる。これは、起こりえたかも知れない破局の一つの形を垣間見た男の手記なのだと。
邪神任侠は、1999年の物語なのであった――
本作はクトゥルフ系列の専門用語が頻出するため、そちらの知識がある方が楽しめるのは間違いない。
が、私はまったくの門外漢であるが、「よくわからんがそんな名前の邪神がいる」程度の認識で興味深く読めた。
つまり、この物語の本質はそこではないということだ。
主人公が死ぬとすれば、それは物語の開始か終了のどちらかだ。
本作では早速物語の冒頭で死ぬ。それも非常識的かつ人間としての尊厳を侵される冒涜的な手法で。
が、なぜか主人公は生きている。夢か幻か、はたまた別の何かか?
しかし生き長らえたとてそれが幸運とは限らない。彼にとってそれは、忘れ去ったはずの悪夢の再開に過ぎなかったのだ。
そうやってこの物語はとにかく転がり落ちていく。緩やかに、確実に。真っ当なところからかけ離れていくのを本人は気づいているのやらいないのやら。
次第にそれは加速し、やがては正気を失っていく。
そうして絶望の底へ堕ちたと思ったら、なんと意外な結末が待っていた。
私は賞賛する。決して怯まなかったその勇気を。
私は賞賛する。邪神相手に弄したその策謀を。
私は賞賛する。決して手放さなかったその愛を。
しかし、彼はそんな賞賛など受け取るような輩ではあるまい。
彼が心から望んだのは他者からの評価ではないのだ。
望みは二つ。一人を殺し、一人を守る。それ以外は命すら要らない。実に任侠だ。
ゆえにそんな彼へ私が言葉をかけるとしたら、もはやそれは一つしか残されていない。
「――ところで君は、ロリコンなのかい?」