真夏の夜、君と見た空

水瀬さら

真夏の夜、君と見た空

『たまにはさ、二人で飲みにでも行かね?』

 会社がお盆休みに入った初日。エアコンの効いた部屋で、ごろごろしていた私に届いた、思わぬ人からのメッセージ。「こんにちは」も「お久しぶり」もなく、いきなりそんなふうに切り出すところは、昔と全然変わっていない。私はベッドの上で、ごろんと仰向けになると、指先でスマートフォンをなぞった。

『は? 何なの、突然』

 ちょっと冷たく、突き放してみる。既読の文字が現れたあと、返ってきた返事は全く会話になっていない。

『十五日とかどう? 場所は駅前の居酒屋あたりで』

 私は小さくため息を吐いてから、ふっと口元をゆるませた。

『丹野。あんた全然変わってないね?』

 こうやって、勝手にどんどん予定を決めていっちゃうところとかがね。そんなことを思ったら、久しぶりにその声が聞きたくなって、気づくと私は丹野に電話をかけていた。


「だからさぁ、お盆休みの間、どうせお前がヒマしてると思って、誘ってやったわけ」

 電話越しに響く丹野の声を、耳に聞くのは二年ぶりだ。

「なんでヒマって決めつけるのよ?」

「え? ヒマだろ、どうせ。忙しぶるなよ」

「私だって、お盆の予定ぐらいありますから」

「へぇ、じゃあ、いつがヒマ? いつだったら俺と飲みに行ける?」

 こいつ、そんなに私と飲みたいの? それともよっぽど、あんたがヒマなわけ? だけど丹野とは、二年間会っていなかったのが嘘のように、自然に会話している。丹野の声を聞いていると、毎日教室で会っていた、中学生の頃に戻ったような気持ちになるから。

「しょうがないなぁ。そんなに私と飲みたいなら、付き合ってあげるよ」

 私が言ったら、電話の向こうから、懐かしい丹野の笑い声が聞こえてきた。


 三十五度越えの、今年一番暑かった日。夕方になっても体感温度はちっとも下がらず、私はハンカチで汗を拭いながら、駅前にあるチェーン店の居酒屋へ駆け込んだ。

 電車に乗って隣町の駅まで行けば、もっとおしゃれな店もあるけれど、私たちの住む最寄駅で、飲みに行くといえばこんな居酒屋くらいしかない。だけどわざわざ電車に乗って、丹野とおしゃれな店に行く理由なんてないし、この店を指定してきた丹野だって、ここで十分だと思ったのだろう。それにこの店は、大学生の頃、時々訪れた場所だ。丹野と私と、あの人の三人で。

 冷房の効いた店へ入ると、丹野がにこにこしながら私に手を振った。

「菜々実さぁ」

 席に向かう二年ぶりに会った私に、丹野は挨拶もなく話しかけてくる。

「ちょっと太った?」

「は? あんたねぇ、久しぶりに会った女子に向かって、第一声がそれ?」

 丹野がおかしそうに笑い、席に座った私にメニューを差し出す。

「うそうそ、俺いま、すっげー嬉しい。まぁ、今夜は飲も飲も」

「あんた、私を酔わせて、何かヘンなことしようと、たくらんでない?」

「まさか。お前を酔わせる前に、こっちが先につぶれるわ」

 またへらへらと笑って、丹野は私が言う前に、生ビールを注文してくれた。


「そんじゃ、とりあえず乾杯!」

 向き合って座った丹野と、生ビールで乾杯する。そう言えば丹野と二人だけで飲むなんて、初めてかもしれない。いつも飲みに行く時は、三人一緒だったから。

 私はそんなことを思いながら、ジョッキのビールをグビグビと飲む。熱くなった喉元を、キーンと冷えたビールが通り過ぎて、生き返った気分になる。一気に半分近く飲んで、おっさんみたいにぷはーっと息を吐いたら、丹野が私のことを尊敬の眼差しで見つめていた。

「菜々実さん。あいかわらず、威勢のいい飲みっぷりで」

「あんたはあいかわらず、女々しい飲み方してるのね?」

 ははっと笑って、一口だけ飲んだジョッキを置いた丹野は、あんまりお酒が強くない。というか、あまり好きではないのだろう。だけど飲み会の幹事を引き受けるのは、いつだって丹野だ。飲むのは好きではないけれど、飲み会をするのは大好きだって、前に言っていた気がする。

 そんな丹野から誘われなくなったのは、私たちが就職活動で忙しくなった頃。そのあと無事に就職してからも、私が丹野に会うことはなくなった。

「食いもんも何か頼めよ。俺、腹減った」

「丹野は何が食べたいの?」

「菜々実の好きなもんでいい」

 メニューを見ながら、ちらりと丹野のことを見る。丹野はまた一口、ちびりとビールを口にして、私に笑いかけた。


 丹野とは中学三年生の時、初めてクラスが同じになった。その時のクラスは、男子も女子もとても仲が良くて、その中でも特に仲が良かった男女七、八人のグループに、丹野もいた。卒業までの一年間、私たちはいつも一緒に遊んでいた。だけどみんな別々の高校へ進学すると、部活が忙しくなったり、彼氏や彼女ができたりして、どんどん会う仲間が減っていった。そして高校三年生になっても、まだ時々会っていたのは、私と丹野、それから篤志の三人だけだった。

「花火大会行かね? 三人で」

 高三の夏休み。いつもお盆に開かれる隣町の花火大会に、丹野が行こうと電話で誘ってきた。

「篤志は行くって?」

「行くってさ」

「じゃあ、私も行く」

「なんだそれ」

 顔の見えない丹野に向かって、へへっと笑う。するとあきれたような丹野の声が、私の耳に聞こえてきた。

「菜々実ってさぁ……ほんとに篤志のこと、好きだよな」

 そしてその年の花火大会。気合いを入れて、お母さんに浴衣を着せてもらい、待ち合わせ場所に行った私を、待ってくれていたのは篤志だけだった。


 丹野がジョッキを一杯飲み終わる頃、すでに三杯を飲み終えていた私は、程よく酔いが回りはじめていた。私の前に座る丹野は「仕事はどう?」とか、「最近誰かに会った?」とか、差しさわりの無いことばかり聞いてくる。気を使ってるのかな、なんて、ビールのおかわりを頼みながら思う。だって丹野が私を誘う理由なんて、あのことを聞きたいとしか思えないから。

「丹野……」

 四杯目のビールに手をかけながら、私はつぶやく。

「……聞かないの?」

「ん? 何を?」

「何で篤志と別れたの? とか、さ」

 そう口にしてから、あわててジョッキを持ち上げた。何言ってるんだろう、私。そんなこと言いたくもないし、聞かれたくもないはずなのに。それとも今、私はそれを語りたいんだろうか? 丹野に? なぜ? 何のために? わけがわからなくなって、ぐいっとジョッキを傾け、ビールを体の中へ押し流す。丹野が何か言ってきても、酔ったふりをしてごまかしてしまえばいい。

 奥の座敷の部屋から、大勢の笑い声が響いてきた。私はその声を聞きながら、テーブルの上にジョッキを置く。心臓がドキドキしていた。うつむいたまま、目の前にいる丹野に悟られないように、小さく息を吐く。そして私は気がついた。自分が今、泣き出しそうになっていることに。

「篤志ってさぁ」

 そんな私の耳に、丹野の声が聞こえてくる。

「カッコよかったよな」

「……え?」

 ジョッキを握ったまま、静かに顔を上げると、お酒のせいで少し顔を赤くした丹野が、笑って言った。

「頭はいいし、サッカーも上手かったし、何をやらせても器用にできて、顔もわりとイケメンだし、背も高かったし、女の子には優しいし……完璧じゃん」

 ぼうっとしている私に向かって丹野が言う。

「菜々実も篤志の、そういうところが好きだったんだろ?」

 何で……何で今さら、そんなこと言うの?

「俺なんかとは全然違う、篤志のことがさ」

「丹野……」

 振り絞るように出した声が、震えている。私がまたうつむくと、にぎやかな笑い声に混じって丹野の声が聞こえた。

「でも俺は許さないから」

 ジョッキを握る手に、ぎゅっと力がこもる。

「いくらカッコよくたって、彼女と別の女、二股するような男、俺が絶対許さないから」

 その声を聞きながら、もう一度ゆっくりと顔を上げる。私のことを、じっと見つめていた丹野と目が合う。すると丹野は私に向かって、中学生の頃とは違う大人びた表情で、ほんの少しだけ微笑んで見せた。


 丹野と二人で店を出る。外の空気はまだじっとりと暑くて、冷房に慣れてしまった体にはキツイ。

「菜々実、お前何杯飲んだ?」

「ビール四杯。それからサワーに替えて、最後はウーロンハイだったかなぁ……丹野は?」

「俺、ビール一杯」

「は? あんたそれしか飲んでないの?」

「なのに割り勘ってひどくね?」

「で、でも、あんたいっぱい食べてたよね?」

「ま、今日はいっか。俺から誘ったんだし」

 そう言って笑う丹野の隣で私は思う。結局最後まで聞けなかったな。どうして今日、私のことを誘ってくれたの? って。

 どこか遠くで、どーんっという音が響いた。耳を澄ますと、もう一度同じ音が聞こえてきた。

「花火?」

「花火だ」

 二人で顔を見合わせる。そう言えば今日は、隣町の花火大会の日だ。それに気づいたあと、私の胸がちょっと痛んだ。篤志と二人だけで行った花火大会。あの日私は篤志に告白されて……。

「菜々実! こっち!」

 突然丹野に手をつかまれた。あわてる私を強引に引っ張って、丹野が走り出す。

「ちょっ、ちょっと何?」

「こっちからなら、見えるから!」

 丹野に引かれて歩道を走る。そのまま駅へと続く歩道橋の上まで駆け上る。すると遠くの夜空に、ぱあっと開く花火が見えた。

「見えた!」

「だろ?」

 自慢げに言う丹野の横顔をちらりと見る。もしかして丹野は初めから、ここへ来ることを想定していたのかも。

 遠くの夜空にまた一つ、赤い花が花開く。

「これで一つ上書きされたな」

「え?」

 空を見つめたままの丹野が、へへっと笑う。

「菜々実が持ってる篤志との思い出、ぜーんぶ俺が上書きしてやる」

 ぼうっとした頭が次第に冴えたら、何だか急に恥ずかしくなってきた。

「な、なにそれ? 今日の丹野、なんかヘンだよ」

「酔ってるからなぁ、俺」

「ビール一杯飲んだだけで?」

「安上がりな男だろ?」

 そう言って笑った丹野が私のことを見る。どさくさにまぎれてつないだ手を、まだ離さないまま。

「どう? こんな男は」

「ど、どうって?」

「まぁ別に、すぐに答えを出せとは言わないけど。俺は中学の頃から待ってたからさ。今さら待つのが、数か月や一年増えてもどうってことないし」

 夜空にまた花火が上がり、低い音が耳に響く。

「……やっぱ、今日の丹野、ヘン」

 私の隣で丹野が笑う。昔と変わらない、どこかほっとする笑顔で。


 家の近くで丹野と別れる。私も丹野も実家暮らしだから、会おうと思えばいつだって会えたのだ。そして就職すると同時に、都会で一人暮らしを始めた篤志とは、その頃からお互いの気持ちが離れ始めていたことに、薄々気づいていた。高校生の頃から付き合っていた篤志と別れたのはつらかったけど、こうなることはもうだいぶ前からわかっていたのだ。

「じゃあ、ここで」

 そっけなくそう言って、背中を向けた丹野を、あわてて呼び止める。

「あ、あのさっ!」

 ゆっくりと振り向いた丹野に、私は何を言おうとしているのだろう。

「今度二人でどこか行かない? う、海とかさ」

 言ったよね、さっき。篤志との思い出全部、あんたが書き替えてくれるって。振り返った丹野が、私の前でいたずらっぽく言う。

「どうしようかなぁ? 俺お前みたいに、ヒマじゃないしなぁ」

「あんたねー」

 おかしそうに笑った丹野が、私に向かって言った。

「じゃあ明日、海に行こう。お前の家まで迎えに行くから。二日酔いでバテてるのとか、絶対ナシだからな!」

「え、ちょっと待って……あ、明日ー?」

 満足そうに笑いながら去って行く、丹野の背中を見送った。なんだか最初から全部、丹野の計画に、はめられてるような気がしないでもないけど。

「ま、いっか」

 小さく息を吐いたあと、さっき二人で見上げた夜空を、一人で見る。この先作られるたくさんの思い出が、丹野と一緒だったら――それも悪くはないな、なんて思った、真夏の夜だった。

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