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水郷の勇者と放浪竜
※スピンオフ作品。『永遠の青』本編のキャラクターは出てきません。
「
上から声が降ってきたとき、スイレンは飛び上がった。比喩でなく、本当に。
流ちょうな人語が頭上から聞こえたのと、その声がやたらに大きかったせいである。
一気に鼓動が速くなったのを感じたスイレンは、身をかがめて胸に手を当てた。この音が悪党どもに聞こえていないことを祈るばかりだ。スイレンはぎゅっと目を細めると、声のした方を振り仰ぐ。苦情と注意を投げつけるつもりだった。けれど、声の主の姿を見た途端、そんな考えは頭の中から吹っ飛んでいた。
「……な」
口をあんぐりと開けたまま、固まってしまう。
スイレンの頭上にいたのは、人間ではなかった。金の鱗に覆われた巨躯、それより鈍い色の、蛇みたいな瞳、この山をも覆ってしまいそうなほどの両翼。まさしく、竜である。
理性が凍りついてしまうほどの驚愕と、わずかな恐怖。少年を支配していたのは、それのみであった。一方の竜はというと、相手の反応に気づいているのかいないのか、両目をかっ
「ここは人間の童が遊びで来るような場所ではないぞ。食われる前に立ち去るがよい」
スイレンは、むっと眉をひそめた。恐慌状態に陥っていた頭の中が、少しだけ冷える。「遊び」と決めつけられた上に頭から帰れと言われて、素直に従えるような性格はしていないのだった。
「おれだって、遊びで来たわけじゃない」
「ほう」
「友を助けにきたんだ。それだけだ」
意気込んだ拍子に足元の草に触れてしまう。乾いた音が、静かな山中にこだました。少年はぎくりとしたものの、返ってくるのは鳥と猿の鳴き声だけだ。肩の力を抜いたスイレンに、竜は不思議そうな視線を向けてくる。
「友、とな。汝以外にも人間が迷い込んでおるのか」
「おれは迷ってはいない。友というのも、人じゃない。――竜だ」
スイレンが声を潜めると同時、竜が表情を変えた――ように思えた。まじまじと見返してくる竜の視線を、スイレンは真っ向から受け止める。
スイレン少年には、友と呼べる竜がいた。幼い大地の竜だ。大移動の途中迷子になってしまったという彼は、川辺の村の近くで丸まって泣いていた。足を怪我して動けなくなっていたせいもあるのだろうが、竜とは思えぬほどの頼りなさげな姿だった。それを見つけたスイレンが、足の怪我を治療して、しばらく面倒を見ていたのである。一人と一頭は不思議と馬が合って、すぐに仲良くなった。
しかし、出会ってからわずか半月後。スイレンがいつもの場所に行ったとき、そこに竜はいなかった。代わりに、小さな血の跡があって、肌が粟立つような気持ち悪い空気があたりに充満していた。その空気の流れを追って、スイレンがたどり着いたのが、村の北東にある連山だったのである。
「
「……なるほどの」
スイレンは、怒りのこもった声で事情を語った。それを聞いていた竜は対照的に――また、先ほどまでとは打って変わって――静かにそれを受け入れている。
木を折らないように、という配慮だろうか。体を丸めて着地した竜は、ぐっ、と喉を鳴らした。
「人の噂とは、たいてい荒唐無稽なものだが。今回に関しては、的中していると見てよいぞ。汝が感じたのは、おそらく《魂喰らい》の気配だ。我も、それを追ってここへ来た」
「たましい、ぐらい?」
「人が竜を殺すために作り出したものだ」
竜の説明を聞いたとき、スイレンは体中に寒気が走るのを感じ取った。思わず肩をすくめてから、弾みをつけて立ち上がる。
「……とにかく。ほんとうに狩人がいるなら、やっぱりのんびりしていられない。おれはかれを助けにいく」
「汝一人で、竜狩人の巣窟に乗り込むつもりか?」
「もちろん、そうだ。誰もやらないなら、おれがやるしかない」
「やめておけ。ただでさえひ弱な人間の、しかも童が、武器もなしに乗り込んだところで、殺されて終わりだ」
竜は、言うだけ言ってふんっと鼻を鳴らす。
いちいち強調するような言い方がスイレンの
「なんと言われようと、おれは行く」
「左様か。ならばしかたない。我もついてゆくとしよう」
「だいたい、よそから来た竜にせっきょうされるいわれは……え?」
やや遅れて、竜の言葉をのみこんだスイレンは、目を瞬く。竜はのんびりとした様子で言葉を重ねた。
「我もついてゆく。言っておくが、嫌と言われても勝手にさせていただくぞ」
「い、いいのか?」
「良いも何も」と呟いた竜は、初めてかすかに笑った。翼の先から光の粒が舞い上がる。
「我がこの山へ来たのは、迷子の小竜を保護するためだからな」
※
身の毛もよだつような空気――あの変な竜いわく、《魂喰らい》とやらの気配――を追いかけつづけたスイレンは、少しして木々にまぎれる洞穴を見つけた。長きにわたる雨水の侵食などで自然にできたものである。このあたりではよく見かける穴だが、スイレンはそこが竜狩人の隠れ家であると踏んでいた。嫌な空気がそちらから流れてきているからだ。
息をひそめ、なるべく足音を立てないようにして、洞穴へ近づく。難しいことではない。鹿や猪を狩るときと同じだ。
岩に、ぴったり体をつける。そのとき、穴の中から笑声が流れてきた。耳を澄ますと、野太い囁きが聞こえる。
「はぐれ地竜がいるというから、どんな大物かと思ったが……身構えて損したな」
「大物どころか、手負いの
「地竜の牙と鱗は高く売れるからな。ま、
再び響く、笑い声。それは、ひどく耳に障った。スイレンはひそかに拳を握る。
なんて奴らだ、と声に出さず呟いた。地竜は、今自分たちが立っている大地を守り、育む者たちだ。彼らは管理者であり、その魂は死すれば地へ還り、動物や植物を生かす力となる。そんな尊い存在の鱗を剥ぎ、牙を抜こうというのだ。
見過ごすことはできない。それは、この世の命に対する冒とくだ。
何より――友が、ひどい目に遭おうとしている。
スイレンは「武器」に手をかけた。
集中する。息を吐く。同時に、湿った地面を強く蹴った。
「――おい、そこにいるのは誰だ!」
怒号が飛ぶ。それより一瞬早く、少年は洞穴に飛びこんでいた。武器を構えて竜狩人たちをにらみつける。
洞穴の中にいたのは、五人ほどの男。父くらいの者からもっと年上らしき者までいたが、全員に共通しているのは、体が鍛えられていることと、悪人の目をしていることか。
それまで座ってくつろいでいたらしい彼らは、続々と立ち上がって武器を取る。気持ちの悪い空気のもとは、その武器らしい。スイレンは直感した。ひるみそうになる己を叱咤して、前へ出る。
「おまえたちがさらった地竜をかいほうしろ! この地での竜狩りはゆるさないぞ!」
叫び声が洞窟に反響する。やや遅れて、男たちの嘲笑がスイレンの耳を突いた。
「英雄気取りかい、お坊ちゃん?」
「危ないからやめときな。痛い目見るぜ」
スイレンは歯を食いしばり、「武器」を――木を伐り出して作った棒を構えた。背筋を伸ばし、片足をひいて、相手をまっすぐに見すえる。
「なめるなよ。おれは本気だ」
岩の中に落ちた声は、スイレン自身が思っていた以上に冷えていた。さすがに感じるところがあったのか、男たちもつかの間黙りこむ。その後、少年に向けられたものは明確な敵意だった。
「こいつ、本気か」
「そんな棒切れ一本で、何ができるってんだ――」
恫喝と、嘲り。それが響いて消えるより早く、スイレンは踏み込んだ。棒を引く。鋭く息を吐く。竜狩人たちの凶刃が自分に向いたのを見て取ると同時、彼は棒を力強く突き出した。
鈍い音と、奇妙にねじくれた叫び声が重なる。スイレンが身を弾ませて後退する頃には、彼の真正面にいた竜狩人が崩れ落ちた。仲間が白目をむいて倒れ伏したのを目にした他の四人が、初めて動揺を表した。
「や、やりやがった……!」
洞穴に殺気が満ちる。今度こそ、竜すら殺す剣の先が少年を捉えた。しかし彼は臆さず踏み込む。振り下ろされた剣を横に跳んでかわし、跳んだ。岩壁を蹴って登る。一人に狙いをつけると、今度は棒を大きく振った。半円を描いた木の棒は、一番奥にいた壮年の狩人に直撃する。こめかみを殴打された彼は、声すら上げずに倒れた。
その勢いのまま着地したスイレンは、顔を上げる。その先に大きな影を見出して、息をのんだ。先ほど彼が倒した狩人が獲物を隠していたのだと、そのとき悟った。
視線の先で、岩のような鱗に包まれたものがうずくまっている。それは間違いなく、彼の友たる竜だった。驚き、憂い、喜び、怒り。こみあげてくるものを整理しきれず、空気を求めるように口を開閉させたスイレンは、棒を手にして竜に駆け寄ろうとした。
しかし、そのとき、横合いから殺気が吹き付ける。
「このガキ!」
しまった、と思ったときにはもう遅い。剣が、少年のすぐそばでうなりを上げた。スイレンはとっさに身を投げ出す。来るであろう痛みを覚悟して、目を閉じた。
だが、痛みはこなかった。
代わりに頭上が強く光った。
何かが砕ける音がする。誰かの悲鳴が聞こえた。きぃん、とひとつ澄んだ音。
すべてが耳元を通り過ぎたのち、スイレンは恐る恐る顔を上げた。そして驚愕に目をみはる。彼に向って剣を振りかざしていた男が、眼前で気絶していた。すぐ隣に、しなやかな足が着地する。見たこともない、白い足だった。
「戦いのさなかによそ見をするものではないぞ、小童よ」
初めて聞く、けれどどこかで聞いたような声がささやく。その主を確かめて、スイレンは唖然とした。
知らない女性が立っている。長い、長い髪をうっとうしげに払った彼女は、スイレンを睥睨して笑っていた。その周囲がうっすらと光っているように見えるのは、気のせいだろうか。
言葉を失っている少年から、女性は視線を外す。そして、同じく唖然としている男たちをながめやった。
「さて、竜狩人どもよ。どうする、まだやるか?」
「なんだ、この女……どこから……」
「我としては早く切り上げたいのだがの。不愉快なことに労力を割くのは、性に合わぬのだ」
戸惑いを見せていた男たちが一転、いきり立つ。訛りの強い罵声が聞こえた。
一方のスイレンは、あっ、と小さく声を上げた。彼女の声と独特な言い回しで、その正体を察したのだ。
剣を構えた男たちをだるそうに見やって、女性は大げさにため息をつく。
「しょうのない奴らだ。ま、いずれはその《魂喰らい》が我に向くやもしれぬからの――早く狩っておくに越したことはない」
そこから先は、あっという間だった。スイレンが棒を握って立つまでの間に、女性が残る三人を倒してしまったのである。しかも、ほとんど素手だった。
「そんな細い腕のどこに、竜の馬鹿力が入ってるんだ」
呆然と狩人たちを見下ろして、少年は呟く。伸びをしていた女性――竜が、拗ねたような表情で振り返った。
「馬鹿力とは失礼な言いようじゃな」
「じじつだろう」
「ま、事実だがの。しかし小童よ、間違っても人のおなごにそのようなことを申すでないぞ」
組んでいた両手をほどいた竜は、意気揚々と洞穴の奥へ行ってかがみこんだ。そこに転がっていた麻袋を探りはじめる。スイレンが後ろから様子をうかがっていると、彼女は太い紐を見つけ出し、スイレンに投げて寄越した。
「ひとまず、彼奴等を拘束しておかねばな」
「えっと……おれ一人じゃむりだ」
困り顔のスイレンに、女性がそれはそうだ、と笑いかける。彼女は麻袋を放り投げて、立ち上がった。
「とりあえず縛るだけ縛る。後のことは人間どもに任せる。我では《魂喰らい》に触れられぬしな。我がやるのは――」
蛇のような目が、横へ滑った。スイレンも釣られてそちらを見る。地竜の子は、少しも動かなかった。
彼は生きているのだろうか、とスイレンは気を揉んだが、女性姿の竜いわく「心配無用」とのことだった。任せておけと言われたので、ひとまず小竜は彼女に預け、スイレンは村の人々に竜狩人のことを知らせに走った。
スイレンは、こっぴどく叱られた。無断で山に踏み込み、あまつさえ狩人たちに接触したのだ。当然の結果である。だが、それと同じくらい褒められもした。以降、彼はひそかに「
しばらくして、村のそばにあの竜が現れた。女性の姿で、である。驚くスイレンに、彼女はあっけらかんと告げた。
「あの地竜だがな。彼の
「え……もう?」
「まあ、しかたあるまい。汝のことは伝えてあるから、後々、何かしらの方法で連絡が来るであろうよ」
丸い石が散らばる川辺に素足で立つ竜は、あっさりとした調子で言う。その姿をまじまじと見たのち、スイレンは頭を下げた。
「あ、ありがとう」
「うむ、苦しゅうない。――面倒事も終わったことだ、我はもう行く」
今、面倒事と聞こえた気がするが、気のせいだろうか。頭を下げたまま目を細めたスイレンに、やや遅れて彼女が呼びかけてきた。
「ああ、そうだ、その前に――」と切り出した竜は、スイレンの視線を受けると、頭をわずかに傾けた。
「汝、名はなんという」
「え?」
「いつまでも小童と呼ぶのでは味気がなかろう。我は、汝が気に入った」
美貌の上に、悪戯っぽい笑みがひらめく。その様はまるで、幼い子どものようだった。なんだかおかしくなって、スイレンは口の端を吊り上げる。こみあげたものをごまかすように、少年はすぐ居住まいを正した。
「――
ただ一言、名乗る。
そのささやきを、川の音がさらってゆく。
無音ならぬ静寂の中で、雌竜がほほ笑んだ。
「スイレンか、よき名だ」
人のもののような竜の足が、なめらかな石を踏み鳴らす。
黄金色の光をまとった彼女は、そして己の正体を明らかにした。
「汝の名をもらったのだから、我も名乗らねばな。
――我が名は、シャンティエーレ。
少年は、息をのむ。人の姿からにじみ出る竜の威を前にして、何もできなくなっていた。そんな彼に、シャンティエーレは白い手を差し出す。
「我は行く。だが、また会うこともあるだろう。息災でな、スイレン」
あまりにもあっさりしすぎてはいないか。
スイレンはそう思ったが、口に出しはしなかった。
気まぐれに世を渡り、色んなことに首を突っ込んでは去っていく――きっと、それがシャンティエーレという竜なのだろう。そう思うことにした。
だから少年は、文句を言う代わりに手を握る。
「ああ。またな、シャンティエーレ」
初めて呼んだ竜の名は、驚くほど馴染んでいた。
これより数年後、青年剣士となったスイレンのもとに、シャンティエーレがひょっこりと姿を現す。
スイレンは彼女と共に「ある組織」を立ち上げることとなるのだが――それは、また別のお話。
標の火~『永遠の青』番外短編集~ 蒼井七海 @7310-428
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