本栖川かおる

 ――雨。

 氷の塊が上空で形成され、地上に落ちる間に溶けて水滴になったもの。もし、地上の気温が低ければ溶けずに氷のまま降り注ぎ雨にはならない。雪であったり、雹であったり。


 ――雪。

 冷たい。一つひとつの結晶が美しい。雪の結晶は同じものが形成されないと言われている。どこかの研究者が人工的に同形の結晶を作ったと、なにかの記事で読んだ覚えがある。自然界では形成されるときの条件が常に変化するので不可能なことらしい。私を洗い流すには軽すぎる。


 雨と雪。

 ――雨は嫌い。それは、雨だから。


***


 私はベッドから起き上がりマグカップに粉を入れた。保温のランプが点いた電動ポットからお湯を注ぐ。男物の大きなシャツだけを身に纏って、枯れ葉が一枚だけ描かれている白いカップに息を吹く。静寂を保っていた褐色の水面みなもが慌ただしく乱され、立ち上っていた湯気がかき消される。そしてまたゆらゆらと何事もなかったように立ち上った。

 冷たい銀色の窓から見える景色は、どんよりとした雲がどこまでも続き、今にも降り出しそうな重たい色が覆っていた。団地ののっぺりとした側壁が、いつもより寂しい灰色に見えるのは気のせいだろうか。


 雨は好きじゃない。しとしとと降りつづく日に良いことはひとつもなかった。十五の時に両親が乗ったバスがガードレールを突き破り谷底に落ちた日も、運命の人とやっと巡り会えたと信じて五年間一緒に暮らした夫と離婚したのも、雨が降る冷たく物哀しい日だった。だから私は雨が好きではない。


 素足のままキッチンにいるせいか、爪先から寒さがこみ上げてくる。冷やされた血液がめぐり、そのまま眠るようにスイッチを切ることが出来たなら、この身体を蝕む寒さから解放されるのかな。そんなつまらないことをぼんやりと考えた。私はカップからひとくちだけ啜ると、ダイニングキッチンのフローリングから毛足の長い絨毯が敷かれている寝室へと向かった。


 入口左手にあるローボード上の針は昼の十二時になろうとしている。隣の薄型テレビの裏に埃を見つけてしまった。今は掃除する気になれない。

 ベッドと隣り合わせの小さなガラステーブルで、不在着信を示す青いランプが脈を打っているのが見える。私はふたくちほど飲んだカップをテーブルに置きそれを手にした。

 不在着信二十四件。名前がなく同じ番号だけが列をなして表示されている。いまだに二つ折りの携帯電話を使っている私は、化粧が終わったコンパクトを仕舞うように上を押さえて静かに閉じた。

 ベッドの上にごろりとうつ伏せに倒れ、誰だったのだろうと思いながらも心当たりはあった。昨日の夜にメモリから消去した彼だろう。呼び出して電話をするだけなので番号なんか覚えていない。誰であるのか予想は出来ても確証はない。消去するのは早計だったのかと少しだけ胸を突いた。


 日曜日なのに、何度も電話してきて大丈夫なのだろうか――

 そんな心配が過ったけれど、もう関係ないんだと自分に言い聞かせた。


 夫の浮気が発覚したのは昨年の四月だった。雲ひとつない晴れた午後のことだ。桜が散り始め、気持ちの良いそよ風に薄緑の葉が見え隠れしていた。開け放たれた窓から見える公園で名残を惜しむように、家族連れがレジャーシートを広げてご飯を食べている。とても楽しそうな笑い声が風に乗って暗く冷たい空気の部屋に届いた。

 リビングテーブルで向かい合わせに座っている夫は何も言わない。私も浮気を認めた夫にそれ以上は何も言わなかった。離婚するとも、激高して目の前のコリンズグラスに入ったオレンジジュースをぶちまけることもしなかった。ただ静かに席を立ち、寝室の扉を音もなく閉めた。


 その日を境に家の中は氷で出来た居城のように、立っていても座っていてもひんやりとした冷気が漂っている空間でしかなかった。生活が営まれている家庭の温かみはどこにもなく会話もない。お互いに仕事を持っていて、各々が外で食事をして帰り、そして勝手にお風呂に入る。お風呂は自分が入りたいときだけ沸かし、終わると栓を抜いて空にした。お互いが顔を合わせないように、共有されるべき場所は必要性がない限り立ち入らなかった。そんな日々が二ヶ月続き、あれから一度も顔を合わせることもなく夫は出て行った。六月の雨が降り止まない中で、テーブルに一枚の用紙だけを残して。


 正直、すべてがどうでも良かった。冷えきった生活の中で精気は失われ、毎日を無気力に過ごし、ただ息をしているだけの一個の生物になっていた。床に伏せて、そのまま朽ちていくような気分だった。そんな私情を会社では見せないようにしていたはずなのに、空虚な私の心を埋めてくれたのは上司である彼だった。弱みを見せないと自分自身に誓っておきながら、大きく開いた穴を無意識に埋めようとしていたのか、朽ちていくことが怖かったのかは分からない。ただ人の温もりに触れ、朽ち果てそうなただの生物ではなく、一人の人間だと言う実感が欲しかっただけかもしれない。だから私は彼に抱かれた。何度も何度も、人であるという感触が戻るまで何度でも求めつづけた。


 ただ抱かれるだけの関係だった存在が、私の中で花開きかけたときに怖くなった。夫であった人の浮気相手と同じことをしている。あんなに許せなかった夫の浮気。上司である彼の奥さんからしてみれば、夫を許せなかった私と同じように彼を許せないだろうし、身体を重ねあう相手の私も許せないはず。自分の愚かな行為が自分を苦しめ続けた行為であると分かったとき怖かった。彼の奥さんがではない。自分自身が怖かった。夫であった人が浮気を認めたとき「浮気をされた私の気持ちを考えたことがあるの?」と訊いた。相手の気持ちが分かっていたら不貞行為は出来ないと思うし、本気であれば不貞行為をする前に別れれば良いんだ。

 私は、自己嫌悪にさいなまれた。痛み、苦しみを知っているはずなのに自分の弱さを隠すようにペンキで塗りまくり、何も見えない何も見通せないのだからと自分自身を擁護した。


 ――違う。


 見えていた。私は見通せていた。認識することを恐れて閉ざしていただけ。少しずつ惹かれていく高揚感、甘美な匂い、温かく優しい肌の感触に酔いしれて現実に戻ることを拒否しつづけていただけなのだ。

 私は、ふと、夫であった人も自分と同じだったのかもしれないと思った。会うことなく別れてしまったけれど、別れるまでの間はホテルや相手の家などではなく、私の住む場所に毎日帰ってきた。だからと言って冷めてしまった愛情が戻るわけではないけれど、一度だけでも会えば良かったと胸あたりが疼いた。


 私からは会いたいと連絡したことはない。昨日は迷ってボタンが押せない指をねじ伏せ「会いたい」と連絡をした。彼は喜んで承諾し、自宅マンションの近くにある小さな喫茶店で会うことにした。


「明日から、以前のように上司と部下に戻りましょう。お互いそれが一番良いと思う」


 今までのことをすべて話した。言えなかったことも、彼の奥さんが感じるであろう痛みのことも。そして、別れの言葉も。

 押し黙ったままの彼を置き去りにしてテーブルの上にあった伝票を掴んで外に出ると、いつものように冷たく寂しい雨が降っていた。喫茶店のドアに付けられたカウ・ベルが小さく鳴り、彼との扉が閉まったことを静かに告げる。数十年流すことのなかった涙が、ここぞとばかりにとめどなく流れ出る。これで良いんだ。これで――


***


 うつ伏せの状態でベッドから手を伸ばし、テーブルに置いていたカップを取る。中身がこぼれないように身体をくねらせながら上半身を起こし、カップに口をつけてひとくち啜った。窓から見える都会の街は、先程まで降っていなかった雨が降り始め、勢いを増し、寂しい灰色に見えた心を濡らしていた。


 私は雨が好きじゃない。今まで雨が降って良いことなどひとつもなかった。両親が交通事故で死んだ日も、五年間一緒に生活した夫と離婚したのも、彼に別れを告げた昨日も、雨が降る物悲しい日だった。だから雨は好きではない。


 私は着ていたシャツを脱ぎ捨て、壁に備え付けられた白いクローゼットの扉を開けて長袖の綿シャツとジーンズパンツに着替えた。窓越しから降りつづく雨粒を見ていたら、今日は雨の中を少し歩いてみようと思った。理由は分からない。傘も差さずに降りしきる雨の中を歩いて、今までの自分を洗い流して綺麗になりたかっただけかもしれない。開いてしまった想いも一緒に流せるのならば。


 サンダルを引っ掛けて外に出ると雨はまだ降りつづいている。手を無理やり押し込まないと入らないポケットから鍵を取り出して自室にかけた。傘は持っていない。道行く人に笑われるだろうか。変な女、危ない女と思われるだろうか。でも、今日はそう思われても構わないから雨の中を歩きたい。マンションのエントランスに向かいながら、そんな事を考えていた。

 嫌いな雨が降っているのに足が軽い。雨に打たれたからと言って汚れた自分を洗い流すことなど出来ないし、想いが消えないのも分かっているのに、雨が降りつづく世界をほっし求めるように歩くのはなぜなのだろう。私は壊れてしまったのかな。


 エレベーターが一階に到着し、重い二重扉が開いた。タイル張りのエントランスは冷たく、さきほどよりも強くなった雨音が聞こえてきた。ずらりと並んだメールボックスの横を通り過ぎると、厚めの大きなガラスが内外気温の差で曇っている。二つに割れて両開きになる自動ドアの正面へ進むと、上部に付けられているセンサーが私に気づきモーター音を鳴らしながらドアをスライドさせる。床に嵌め込まれている銀色のレールが世界を分けている感じがした。その線を超えた先は私の知らない世界だよと言わんばかりに。

 レールから上に伸びている見えないベールを身体全体で押し開くように、私は軽く跳ね飛んでまたいだ。地面を叩く雨音が外に出たことでさらに強くなり、そして正面を向いて一歩を踏み出そうとした視線の先に、ずぶ濡れになった彼がたたずんでいた。


 ――私は雨が好きじゃない。それは雨が降った日には良いことがひとつもなかったから。でも、今日の雨は少しだけ好きになれた気がした。

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本栖川かおる @chesona

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