終章

 台風の暴風雨の影響で基地局がやられていたのか、明け方になると井原さんのスマホの電波が復旧していた。画面上にならぶ着信履歴に彼女は震えおののいていたが、意を決して電話をかけた。彼女はひたすら謝っていた。そのとなりで、俺は手を握ってやることしかできなかった。俺も井原さんにスマホを借りて、母さんに電話をした。

 もうどうすることもできなかったのだ。お金もなくなって、行き場もなくなって、たどり着いた見知らぬ駅で俺たちの逃避行は終わった。

 駆けつけた警察官はふたりの男性だった。俺たちは彼らに指示されたとおりパトカーに乗り込んだ。親御さんがとても心配していたよ、二度とこんなことはやめなさい……街に戻るパトカーのなかで警官の言葉をなんとなく聞きながら、俺の目は彼らの制服についている紋章に止まった。

 日の丸。

 弁当箱に敷き詰められた白米と、その真ん中の真っ赤な梅干し。俺の「貧乏」の象徴。俺はポケットのなかの小銭を握りしめた。宿命からは逃れることはできないんだ。電車に乗っていくら遠くまで逃げたって、自分の背負った運命を放り出すことはできないんだ。俺はとなりに座る井原さんの手を取った。彼女は不思議そうに見返してきたが、すぐに強く握り返してくれた。



 俺たちは翌日からふつうに学校へ行き、ふつうに授業を受けた。

 退屈で窮屈な、檻のなかみたいな世界。なにひとつおもしろいことのない世界。けっきょく井原さんは、この世界から逃げ出すことができなかった。俺が連れ出してあげることができなかった。

 井原さんの援交現場を目撃されたというクラスメイトは、先生にそのことをばらしていなかったらしい。けれど、彼女は今回の問題を起こしたために親戚から見限られ、彼女は遠い街へ引っ越すことになった。

 その原因をつくったのは俺だ。ふたりきりの屋上でそう謝ると、彼女はすこし不機嫌そうな顔をする。

「……高科先輩の、ばか」

「……え?」

 彼女は一、二歩前に出てこちらを振り返る。

「迎えに行くから、くらい言えないんですかっ」

 そう言っていたずらに微笑む。まあ先輩貧乏ですからね、と要らぬ一言を付け足すので、俺はむきになって叫んだ。

「井原美夜っ!」

 はいっ、と彼女が驚いて返事をした。

「いつかかならず、迎えに行ってやるから! それまで俺を待ってろ!」

 晩夏の風が屋上を吹き抜けた。彼女は舞い踊る黒髪を押さえながらしばらく立ち尽くしていた。そして桜色の唇を震わせて、満面の笑みで言った。

「はい。待ってます」



 そうだ、彼女にはこんな景色が似合う。

 きらめくネオンや駅の雑踏、夜の底を照らす切れかけの照明、電光掲示板、スマホの画面、東京タワー、びかびかに光る世界のなかで、むりやり口をひん曲げた彼女の笑顔……そうじゃないんだ。彼女に似合うのは、美しい夜の星空みたいにきらきらと輝く世界のなかに、やさしい灯りをともすような笑顔なんだ。

 そして俺は願う。



 井原美夜。

 もし叶うのなら、このままずっと。

 きらきらのなかで笑っていてね。

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きらきらのなかで笑っていてね 音海佐弥 @saya_otm

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