○○様
〇〇様
あなたが誰なのかも知らず、もう幾日も過ぎました。臆病な私は、きっと最後まであなたの名前すらも聞けないままでいることでしょう。それでも、名前を知らないあなたに、こうして手紙を残さずにはいられませんでした。この手紙があなたのもとに届くのか、そしてあなたが読んでくれるのかはわかりませんが、この地下室に確かに私がいた証拠として置いていきます。もし叶うならば、あなただけには真実を、感謝を伝えたいと思ったのです。そう長くはありませんから、お付き合いいただければ嬉しいです。
さて、この手紙を書いている私は、もうこの地下で暮らし始めて…どのくらい経ったのでしょう。窓もなく光の差し込まないこの部屋では定かにはわかりませんが、おそらく2、3週間ほども経ったのではないでしょうか。あなたも、もう私の食事の準備に慣れたころなのでしょう、いつも美味しい焼き魚やスープ、サラダなど色々なものが出てきます。欲を言えば、未だ主食が出てこないことが少し残念です。こちらには、お米やパンはないのでしょうか…。それでも、獣人の国というのは私の住んでいたところよりも新鮮な魚を扱っているようで、焼き魚はどれも美味しくいただいています。
部屋の中も、あなたの持ってきてくれた花を飾るのに、あんなに有り余っていたコップが足りなくなるほどいっぱいになりました。あなたはどうも、私が花好きであると思っているようです。確かに、花は好きです。でも、好きになったのは、愛でたいと感じたのはここに来てからのことで、その前はそれほど花というものに関心を寄せたこともありませんでした。いいえ、花だけでなく、人や動物、そして食べるという行為にさえ、私は世の中の全てに絶望し、悲嘆し、何に対しても期待や欲を抱かずにさまよっていたのです。
そしてさまよった挙句この国に行きついていたとは、私にも予想していなかったことでした。とにかく、鬱蒼と茂る森で体を休めているところに、勇ましく恐ろしげな姿をした獣の人たちに捕えられてここに連れてこられていました。私がここに来てからの生活についてはあなたも知るところでしょうから、深くは書きません。しかし、生きることに絶望していた私にとって、あなたからもたらされる食事は――最初は食材といったようなものばかりでしたが――私に生きる力を少しだけ取り戻させました。人間の私が獣人の国で死ぬのは……といった考えからです。そしてそれはほどなく、また別の考えに変わりました。あなたが持ってきてくれる食事や可憐な花々に目を覚まされ、死ぬのなら、この場所で精一杯生きて死にたい、と。
ここまで読んで、あなたは疑問に思うでしょう。私が一体どうしてそれほどまでに絶望していたのか、生きる力を失っていたのか。今ようやく真実が言えますが、私の体は不治の病に侵され長くはないと、人間の国の医師にそう告げられていたのです。事実、今筆を執っているこの手も、最近ではもう繊細な動きが難しくなってきているし、気分はずっと良くありません。きちんとした食事を与えられてなお弱っていく私を、あなたはどう見ていたのでしょうか。最近、美味しい食事も残してしまうようになりました。扉の小さな窓から覗くあなたの顔は悲しげで、きっと不味くて残したのだと思ったのでしょうね。しかし、違うのです。体がもう食べることすらおっくうになるほどに弱っていただけで、あなたの持ってきてくれるものは全て美味しく、私を幸せにしてくれました。あの可憐な花々も、私の心を優しく穏やかにしてくれます。
だから、だからどうか、私が弱り切ってしまっても、そしていつか死んでしまったとしても、あなたは自分のせいにしないでください。あなたがくれたこの部屋いっぱいの花に囲まれて逝けるのならば、これ以上の幸せはないと誓って言えます。人生の最後に、この世の美しさ、楽しさ、鮮やかさ…たくさんのものに出会えたこの部屋に感謝しています。そしてなにより、それを与えてくれたあなたにこの上ない感謝を伝えたいのです。本当にありがとう。
追伸
私の名前も秘密です。あなたにもらった花と一緒に、天国に持っていこうと思います。いつかまた、天国で。今度はお互い、自己紹介から始めましょう。
地下室に華 まめつぶ @mameneko
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