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 だいだいから東三条邸までは、それほどのきよはない。

 昌浩は、大内裏を出ると二条大路を東に向かってけ出した。

 火事の煙を見た民人や、さわぎを聞いた殿上人たちが集まってくる中を逆走し、人ごみをき分けて走る。

「異形のものがいるって言うのは、本当か」

 かたに乗った物の怪の問いに、昌浩はがなった。

「わからない! でも、そうえた」

 確信があるわけではない。だが、突然視えたあの情景と、全身をつらぬいて消えたしようそうが真実であるならば、一のひめが危ない。そんな気がする。

「簀子の下に、気配があるって言ってただろう、多分それと関係があるんだ」

 全速力で駆け続け、やがて東三条邸の門が見える。その門前にたたずむぎつしやと従者には、見覚えがあった。

 駆けていく昌浩に、従者が気がついて車中の主に何か奏上している。昌浩が牛車の前にたどり着くとほぼ同時に、が上がって藤原行成が顔を見せた。

「昌浩殿どの、どうしたんだい、そんなに息を切らせて」

 昌浩はれつしそうな肺をなんとかなだめながら、切れ切れに言った。

「道…長さまは…?」

「じきに出てこられる。内裏えんじようとの報が先ほど届いて、参内しようと…」

 せつ。昌浩は心臓がね上がるのを自覚した。とっさに門の向こうに見える建物の屋根に視線を走らせる。ただびとには見えない灰色にこごったしようがはっきりと見えた。

 昌浩は許可も得ぬまま、邸内に飛び込んだ。ここは内覧藤原道長の邸宅。そんなまねをすれば、かんはくだつは必至だろう。だが、ゆうはない。

 中門を抜け庭におどり出ると、やりみずを飛び越えまっすぐ東北対屋を目指す。

 後ろのほうから誰何すいかの叫びと制止の怒号と、昌浩を呼ぶ行成の声とが重なり合って耳に届く。それを振りはらい、わた殿どのの下をくぐって、ようやく対屋が見えたしゆんかんかわいた白木を割るようなえいな音が昌浩の耳にさった。

 彼は色をなくした。

「じい様の術が…!」

 対屋を守るためにほどこされた晴明の術が、今破られた。乾いたあの音は、力ずくで術を破ったあかしだ。

 音を聞きつけ、しんに思った姫が御簾を上げ、外の様子をうかがっている。その目が昌浩の姿をとらえ、おどろいたようにみはられた。

「昌浩?」

 あわてた様子で簀子に出てくる少女に、昌浩は叫んだ。

「ばかっ、出るなっ!」

 耳元で風の音がした。視界のすみに物の怪の白い姿がかすめる。

 物の怪は簀子の下にとつしんしていく。そこのかげになった黒い部分に、いつついの光がらんらんかがやいていた。

 日はじよじよかたむき、空はだいだいいろに染まっていく。今は黄昏たそがれ、──おおまがときだ。

 昌浩の全身がぞわりと総毛立った。

 こごった瘴気のかたまりの中に、あえてその身をひそませて気配をち、さらには晴明の術をいつしゆんで破った異形。

 だが、その姿はあまりにも小さい。黒い瘴気をかくみのにして、ぜんぼうが見えない。

「─────!」

 物の怪のさけびが空気をいた。額の模様が熱を帯びたかのようにきらめく。飛びかっていった物の怪のつめからのがれた異形は、簀子の下から躍り出ると、突然の事態に立ちくす少女に突進した。

 とつじよとして現れた、異形のもの。少女はひっと息をんだまま言葉を失う。

 物の怪が異形の後を追って簀子に飛び上がり、少女をかばって身構えた。異形は瘴気を立ち上らせながら、一対の目だけを不気味に光らせてじりじりと距離を縮めていく。

 昌浩はようやく渡殿から対屋に回ると、今まさに飛びかかってくる異形と少女の間にすべり込んだ。

 右手で結んだけんいんですばやく空にぼうせいを記すと、簀子に横一文字をえがいた。

「禁っ!!」

 重くにぶい音を立てて、見えない何かが彼らの前に立ちはだかった。突進してきた異形は、そのかべはばまれてはじき飛ばされる。

 一瞬、黒い瘴気が薄まった。だが、異形の全貌はすぐさま瘴気に包まれて、判然としない。

 橙色の空は、ただでさえものを見えにくくする。

「ナウマクサンマンダ、センダマカロシャダ、タラタカン!」

 昌浩は衣の合わせからを引きくと、気合もろとも放った。

 符は風のやいばに姿を変えて、異形におそい掛かる。と、異形はいきり立ち、すさまじいたけびを上げた。

 黒く重い瘴気が、大きなつばさのように広がっていく。

「きゃあぁぁぁぁ!」

 少女が悲鳴をあげる。とつぷうが昌浩のしようへきを突き抜け、黒い瘴気がへびのようにうねりながら彼女にせまっていく。

 昌浩は少女をとっさにきかかえた。少女はおびえたようにして、昌浩にしがみつく。

 異形とふたりの間に、物の怪が立ちはだかった。

「もっくん!」

 昌浩が叫ぶと同時に、物の怪がきばき、言葉にできない鳴き声を上げる。首元をいちじゆんするとつこうたくを放ち、額の模様から紅のせんこうがほとばしった。それは瘴気の幕を切り裂いてらす。

 異形が一瞬だけひるんだ。そのすきを昌浩は待っていた。

 ひだりうでで少女をしっかりと抱きしめながら、右手で剣印を結び、昌浩はひとみをきらめかせた。

のぞめるつわものたたかう者、みなじんやぶれて前に在り!」

 えいしようとともに剣印を振り下ろすと、絶大なれいりよくがそのまま光の刃と化して、異形を包む瘴気の塊を切り裂いた。

「────!」

 地の底からとどろくようなだんまつぜつきようまくに突き刺さり、生暖かい突風が駆け抜けていく。

 ちようなどの調度類が風でたおれ、飛ばされて派手な音を立てる。

 しばらくたって、風が収まったころ、少女はおそる恐る目を開けた。

「……今の…なに…?」


「わからないけど、異形のもの」

 昌浩は注意深く周囲の様子をうかがいながら、答える。

 瘴気も気配もじんも残っていない。とりあえずは、退けたようだ。

 ほっと息をき出すと、遠くから、ばたばたと駆けてくる足音が聞こえてきた。叫び声が混じっている。あれは、行成と道長だ。それからにようぼうたちのかんだかい悲鳴が重なっていて…。

 昌浩ははっとした。

 今、自分は少女をしっかりと抱きしめている。対外的に見て、ものすごくまずいじようきようではないだろうか。

「ご、ごめんっ」

 ぱっとはなれて慌ててびると、少女はふるふると首をった。彼女の手は、相変わらず昌浩の衣をつかんでいる。その手が血の気を無くして真っ白になっているのを認めて、昌浩は彼女を安心させる意味をこめて笑った。

「多分、もうだいじよう。後でじい様を呼んで、今までよりも強い術を施してもらえば、あいつはもう一の姫に手出しはできないよ」

 不意に少女は、昌浩の顔を両手で包んで自分の顔に向けさせた。

「わっ?」

 少女はしんけんな顔で言った。

あきよ」

 とっさに声の出ない昌浩に、彰子は言いふくめるようにしてり返した。

「彰子、一の姫なんて呼ばないで。彰子よ、昌浩」

「あき…こ…?」

 彰子のんだ目を見返しながらつぶやくと、彼女はうなずいて花がくように笑う。それを見たたん、昌浩の心臓はきゅうに跳ね上がった。ばくばくと派手に走り始めるどうの音が、なんだかとてもうるさい。

 わけもなく固まってしまった昌浩の後ろで、ものがおやおやとでも言いたげな顔をする。

「…まんざらでもないってか」

 そこに、行成や道長たちが血相を変えてけつけてきた。

「彰子! 大丈夫なのか!?」

 すさまじい叫びや突風という異常事態。さらに、見習いながらもおんみようである安倍昌浩が、わき目も振らずにまっすぐ東北対屋に駆けつけた。

 いったい何が起こったのか、道長にしてみたら気が気ではない。行成にしてもそれは同様で、不自然に固まっている昌浩にめ寄って問いただした。

「昌浩殿どの、いったい何があったんだ」

 答えたのは、彰子だった。

「お父様、行成様、心配いらないわ。昌浩が悪い化け物を退治してくれたの」

 父の顔を見て落ち着いたのか、彰子はおだやかに笑う。

「すごかったのよ、昌浩はすばらしい陰陽師になれるわ」

「なに、本当か?」

 道長に問われて、昌浩はとりあえず頷く。まだ耳が熱い。動きがぎくしゃくしているのがわかった。

 道長は行成と顔を見合わせた。

 すると、こういうことだろうか。だいえんじようとともに、この少年は東三条ていしんにゆうした異形の気配を察知し、ただひとり駆けつけてきて、襲われそうになっていた彰子を守り、その化け物を単身退けた。

「ということで、いいのかな?」

 行成にかくにんされて、昌浩は、ええまぁ、と自信なさげに頷く。

 と、道長が昌浩の手をがしっと摑んだ。

「すばらしいっ! 昌浩、お前はすごいぞ、さすが晴明の孫だ!」

 昌浩は内心かちんときた。ここで晴明の孫を出されるとは。

 だが、ほかだれかならいざ知らず、道長相手にそれを出すわけにはいかないので、昌浩はしゆしような顔で聞いている。

 それを見ながら物の怪は、注意深くあたりの様子をうかがった。

 しようは消えた。異形の気配も残ってはいない。だが、ならばなぜ、この胸の奥にささくれのように残ったしようそうかんは消えないのだろう。

 内裏の炎上と、異形のしゆうげき。これはつながっているのだろうか。

「…晴明に、聞いてみるか」

 見上げた先の夕焼けの空は、血のように赤い。




 内裏炎上の報は、すぐさま晴明のもとに届いた。

 蔵人所陰陽師となってから、晴明はめったに参内しなくなった。もともと参内するのもめんどうでしかたがなかったのだから、義務がなくなってめでたしめでたし、事がない限りは自由気ままに仕事をする日々だ。

 原因がわからないという。近衛このえの役人たちが調査中だが、もくげきしやの話によると、どうやら何もないところにとつぜんほのおが上がったらしい。

 炎はまたたく間に燃え広がり、たくさんの死傷者を出した。

 幸い、みかどは無事であらせられるが、によう付きの女房や警護の者がせいになったそうだ。

「ふむ」

 晴明は難しい顔をして思案した。

 今参内しても、内裏は混乱している。事態の収拾がつくまでは、待ったほうがいいかもしれない。

「内裏炎上とは、また穏やかでない話だが」

 ひとりごちて、晴明はてんきゆうえた。昨夜ゆうべ見上げた空に、このようなちようこうはなかった。星のめぐりが変わったのか、もしくは新星が流れたか。確かめる必要がある。

 晴明は庭に下りると、暮れはじめた空を見上げた。

 内裏から程近い、藤原道長邸でも何事かが起こったようだ。施していた術が何者かに破られた。だが、放った式によると、術を破った異形は、何かを察知して駆けつけた昌浩が退け、事なきを得たという。

 東三条邸の異変に気づいたのは、昌浩ただひとりであったようだ。他の誰も、内裏炎上のかげかくれた異形のしゆうらいけなかった。

 晴明は満足そうにうすく笑ったが、すぐに表情を引きめて空を見上げた。

「……どうやら、れそうだのぅ」

 晴れわたった東の空には、一番星が瞬き始めていた。


  ◆ ◆ ◆


続きは本編でお楽しみください。

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少年陰陽師 異邦の影を探しだせ/結城光流 角川ビーンズ文庫 @beans

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