3_1
3
安倍家末子の元服は、五月末日の
日取りを決めたのは、当代
あの晴明が、それほどに可愛がっている孫。となれば、晴明に
と、
行成は、昌浩の兄の成親より少し年長。だが、あまり変わらないので、昌浩の気分は親しくしてくれる親切な兄貴分、といったところだ。右大弁と蔵人頭を兼ねているだけあって、
しかし。
「なんなんだ、その評判は。どいつもこいつも無責任なこと言いやがって」
昌浩は、ぶすくれた顔でつぶやいた。
それまでの
その
「衣装が変わると
「変わってたまるかっ」
物の怪の無責任な言い分にがおうとほえて、昌浩は冠をうっとうしそうに外した。
安倍邸での儀式が滞りなくすんだ後、初の
元服したとはいえ、さすがに十三歳の昌浩は酒はまだいただけないので、早々に引き上げてきたのだった。
しかし、決まりごとの多い大内裏における所作
「俺は
後から後からひっきりなしに見物に来た貴族の、多いこと多いこと。
「ま、しかたないわな。殿上人っていうのは、基本的に
ただでさえ、注目される立場なのだから。
物の怪がそうなだめると、昌浩は
「ふっ、上等だ。俺が大陰陽師になってから
「まあ、目標にそぐうように頑張れや」
昌浩の肩をぽんぽんとたたいて、物の怪はたたんであった昌浩の
束帯を
「どう?」
鏡がないので、物の怪に聞いてみる。
「ちょっと曲がってる。も少し前にかぶったほうがいい。そのままじゃずり落ちるぞ」
「こんな感じ?」
と、烏帽子がへなっと折れた。烏帽子というのはやわらかい素材でできているので、へたにかぶるとすぐに折れてしまうのだ。
「わーい、へたくそー」
楽しそうに笑いながら、物の怪がまがった烏帽子をぺしぺしとたたく。その手を軽く払いのけて、昌浩はあーでもないこーでもないとかぶり方を研究した。
不意に、人の気配が近づいてくるのがわかった。気づいた物の怪がぴくりと顔を上げると同時に、
加冠がすんで参内してからも、何くれと世話を焼いて大内裏のしきたりや決まりごとなどを事細かに教えてくれた。基本的に
「行成様、どうなさったんですか?」
行成は目をしばたたかせて首を
「いや、
「どうも私の気のせいだったようだ。さほど飲んではいないはずなんだが」
行成は
物の怪は、見えていないのをいいことに、昌浩の
「俺、俺、昌浩としゃべってたの俺よ。え? 見えない? それは残念だなぁ、いろいろと積もる話もしたいのに」
何が積もる話なんだ、と
「どうしたんだい?」
「いえ、ちょっと羽虫が」
「あっ、昌浩ひっでぇ」
べしょっと
「話し声は、
「ああ、なるほど。さすがに晴明
感心しきって何度も
落ち着け俺、行成様に
そっとため息をつき、昌浩は立ち上がった。
「行成様、宴の席に
「主役に言われたくはないなぁ」
「俺まだ酒なんて飲めませんよ。それで父上にも許してもらったんですから」
「確かに」
「すみません」
「いやいや。慣れないとどうしてもね」
いい人だなぁ、と改めて思う昌浩だ。
一方、物の怪は昌浩の足元をうろうろとして行成を見上げながら、時々後ろ足で立ち上がって手を振る。
行成には
すると物の怪は、突然助走をつけたかと思うと、行成の肩に飛び乗った。
さすがにこれには昌浩も
「もっ…!」
物の怪は行成の眼前に手を伸ばして振っている。ずり落ちそうになるのか、残りの足で
自分の肩に、よもや物の怪が乗っているなどとは夢にも思わず、行成はほけほけと笑った。
「明日から参内だろう? わからないことがあったら、なんでも聞きに来てくれてかまわないからね」
「は、はい。あの、でも、行成様はいつも動き回っていて、ひとところに
物の怪は
昌浩の視線が左右に動くので、行成は不思議そうに
「どうしたんだい? 何か…?」
物の怪が、行成の
額に
「そうか、きみは
「いえ、そういうわけでは…」
思いがけない展開に、昌浩は慌てて首を
「すぐに休んだほうがいい。客の見送りもしなくていいように、吉昌殿には私から伝えておこう」
いい人だ。本当になんていい人なのだろう。しかし、そのいい人の肩の上で、物の怪が相変わらず曲芸もどきをくりひろげているのだ。
きびすを返した行成に気づかれないよう手を伸ばし、物の怪の
「もっくんっ!」
「なかなかの動きだっただろう。特にあの一回転なんて、そんじょそこらの奴にはまねできないね」
そういう問題ではない。
「烏帽子にでも引っかかって、もっくんがいることを行成様が気づいたらどうするんだ」
物の怪は、逆さまのまま
「ちったぁ気づくかなーと思ったんだよ。やっぱり気づかなかったけど」
昌浩は物の怪を床に落とすと、そのままへなへなと座り込んだ。
「お? どうした昌浩。気分でも悪いのか? 行成も言ってたし、さっさと横になったほうがいいぞ」
「……」
昌浩は、何も言えずにそのまま床に突っ
安倍晴明は正五位で、陰陽寮の事実上最高位ではあるのだが、日々参内しているわけではない。彼は
ゆえに、陰陽寮に晴明はいないが、彼の名声は
ひと月ほど前に陰陽寮に入寮し、といってもまだなんの役にもついていない見習の昌浩は、毎日毎日雑用に追われていた。
「…なんか、毎日
巻物を数本
見えていない者もいるが、見えていても誰も気にしないのだ。
最初、大内裏に初めて参内した昌浩は、予想もしていなかった光景を
小さい
「…なっ…なっ…なっ…」
言葉が続かない昌浩の背中をぽんとたたき、物の怪が
「だからな、内裏って所はすごいんだって。もし俺がふらふらしてても、誰も気にしないくらいなんだよ」
「…そーかも」
頭痛を覚えながら、昌浩はその
日々雑用に追われている昌浩だが、やるべきことはこなしている。
折角陰陽寮にいるのだからと、時間を作っては様々な書物を読み、過去の天文記録などを
幼い
特に彼が興味を持ったのは、代々の帝を
「やっぱり、じい様の名前が多いよなぁ」
記録書を
「ま、当然だわな。生きてる時間の長さが
ぴしりと
「
「孫言うな」
切り返して、昌浩はふと顔を上げた。
「…なんだ?」
ざわざわと、身体の奥でなにかが
そういうものではない、
昌浩と物の怪は、陰陽寮のはしにある書簡庫にいた。書簡庫といっても、いわゆる
明かり窓から、人の叫び声が聞こえた。それは
「なにかあった!?」
昌浩は立ち上がった。その肩に物の怪が飛び乗る。妻戸を開けて簀子に出た昌浩は、視線を走らせて息を
あれは、帝のおわします内裏の方角ではないか。
「…火事だな」
耳元でささやかれた単語に昌浩はわめいた。
「見りゃわかるっ」
だが、続いて発された物の怪の言葉で、昌浩は冷水を浴びせられた気分になった。
「だが、ただの火事でもなさそうだ」
「…え?」
昌浩の肩から飛び降りて、物の怪は空を見上げると
「火の手が上がっているのは、多分
昌浩ははっとした。
そろそろ日が落ちる頃だとはいえ、夏の
物の怪が振り返った。
「昌浩、気を
昌浩は息を呑んだ。
内裏にも、
たくさんの文官や武官が内裏に向かっていく。
不測の事態に混乱し、右往左往する貴人たちの
陰陽寮は内裏とは
明かり窓に向き、呼吸を整えて、昌浩は手を合わせると目を閉じた。
「ノウボウアラタンノウ、タラヤアヤサラバラタサタナン…」
混乱している人々の思念が伝わってくる。火事は
炎は延焼し、火元はすでに火の海になっている。
苦しいとうめく声が聞こえた。助けてくれと言う叫び、熱いと
そして、それらとはまったく別の──。
「────っ!」
昌浩は目を見開いた。
化生の気配が、残っている。
「…もっくん、あれ、なんだろう」
自分よりはるかに
「わからない。あんなのは、俺も初めて感じる」
──いや、違う。
初めてではない。前にも
そうだ。
昌浩の元服前、左大臣
不意に、昌浩がはっと息を
「──東三条邸…!」
「どうした、昌浩!」
「東三条の、道長様の
「異形のものがいる!」
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます