第三章 その二
【第三章 その二】
凜莉は建物の
背後にいた涼果がはらはらした様子で声を
「たとえ後宮の中でも、夜に無断で部屋から出たのがばれたらまずいです。見つからないようにしてくださいね」
「わかっているわ。でも煌翔様に会うにはこれしかないんだもの。あの
「はい。二日連続で夜にお見かけしたので、今夜ももしかしたら来られるかもしれません」
ここは麗華宮の裏庭にあたる場所だった。
ひっそりとした庭の真ん中にある池に映り込んでいる月が、
「ちょっと
香道省での調合に参加したいと願い出る
「想像ですが、煌翔様はあまり妻を
「気が進まないって……。前もそんな事を聞いたわね。でも皇位を
「煌翔様は妻は自分で決めると言われているみたいです。高官達が煌翔様に妻を選んでもらおうと麗華宮を作られたのですが、見向きもされなくて」
麗華宮の女性達はお世辞にも性格がいいとはいえないが、全員がまごう方なき美女だ。
あれだけの美女に見向きもしないなんて、よほど煌翔の意志は固いのだろう。
涼果と二人でしばらく見張っていると、東屋に入る
「来た! よし、じゃあ行ってくる。涼果はここで待ってて」
「一人で
「ええ。今度こそ
落ち着け落ち着けと自分に言い聞かせて、そっと東屋に近づいた。
「……何だ、この間の
書物を読んでいた煌翔がこちらを向いた。彼が
(危ない危ない。
彼とは
「こんばんは。……
「偶然? さっきから視線を感じていたぞ。なかなか出てこないから、
「面白女じゃなくて、名前は凜莉です。あの、この間は失礼を言ってすみませんでした!」
謝罪の気持ちを込めて頭を下げた。顔を上げると、煌翔が不思議そうな顔をしている。
「謝るとは意外だな。お前はそう間違った事は言っていなかったぞ」
(間違った事は言っていないって……。
てっきり自分の事も客観的に見られない皇太子かと思っていたが、そうでもないのかもしれないと気付く。
「お前だって心の中では、間違っていないと思っているはずだ。それなのにそんなに必死に謝るという事は……何か俺に
あまりの
「自分の意志よりも大切なものがあって、その為に俺に謝って頼み事をしようと
言い当てられて、言葉に
「当たりだな。お前は何でも顔に出るぞ。気をつけた方がいい。美しい
美しい魑魅魍魎と聞いて
(周りをちゃんと見ていて、自分の言動が相手にどう伝わるかわかっていてわざと傲慢な態度をとっている気がするわ。だとしたら、彼の傲慢な言動は相手を
もしそうなら彼はかなり
「急に静かになったな。俺に何か頼みがあったが、そう簡単にはいかないとやっと気付いたというところか。わかったならさっさと帰れ。俺は自分の時間を
煌翔はもう興味がなくなったと言いたげに書物に目を戻す。
机に置いたかすかな明かりで、書物を読んでいるようだった。どうしようかと迷ったが、もう煌翔と二人だけで会う機会なんてないだろう。ここが勝負だと自分に言い聞かせた。
「いいえ、帰りません。お願いがあります」
「妻にしてほしいとか、高価な
目は書物に向けたまま、煌翔が言い放った。
(こういう場面になれている感じがするわ。皇太子だし取り入ろうとする人も多いんだろうな。彼の態度は自分に取り入ろうと近づく人への
「頼み事はありますが、高価なものが欲しいとか
話術でも賢さでもおそらく煌翔には勝てないだろう。だったら、この気持ちを
「お願いです。わたしにも秘宝香を作る許可と、
単刀直入に願いを口にすると、煌翔がようやく書物から目を
「ほう。秘宝香ね。そういえば、お前は木蓮が連れてきたんだったな。
煌翔が意地の悪い
「そういえばあのあと医療所の医師にお前の事を聞いたぞ。医師はお前の事を
どきっとして冷や
「香士とは香を調合するのはもちろんだが、いろんな香料を組み合わせて様々な効能を持つ新たな香を生み出すのも仕事だ。しかしお前は新しい香には決して
煌翔の意地の悪い笑みは更に深まった。
「俺が考えるに、どうやらお前は香士としては〝
冷や汗はどんどんひどくなる。
「それは、あの……」
「木蓮がお前を推薦してきた時に、いろいろ問い
(まずい……! わたしのあの〝秘密〟に気付かれてる。あれを木蓮以外の他人に知られたら、わたしはもう絶対に香士にはなれないわ……!)
真っ青になっていると煌翔が
「お前は半人前だが、女で香を調合できる者は貴重でもあるし、麗華宮に入るのは許した。しかし調香会は国をあげての行事だ。半人前を参加させるわけにはいかない。お前では、貴重な蘭天木を
片手でしっしっと追い
何とか煌翔に考えを変えてもらおうと、頭を
「確かに半人前ですが、香道省の香士よりも秘宝香を完成させるのに一番近い位置にいます」
わざと力強い声を出した。煌翔が書物に目を向けたまま、
「はっ、一番近い位置にいるだと?」
「はい。わたしはいまは蓮凜莉と名乗っていますが、本当の名前は央凜莉です。父の央西堂は、もと香道省の
これを打ち明けるのは
央西堂の
しかし、秘宝香を作る自信がある理由を彼には打ち明ける必要があると思った。
ふいに煌翔が
しばらく
「お前が……? 西堂の娘?」
(あれ? 央西堂の娘だと言ったら、失敗した香士の娘だと
意外な反応だった。万が一父が秘宝香を作り上げていたと煌翔が知っていたとしたら、驚きの中にも秘宝香の手がかりを持っているかもしれないと喜びの表情が入るはずだ。
しかし目の前の彼は、ただ
「待て、お前は本当に西堂の娘なのか。西堂の娘は、彼が死んだあと母親と
秘宝香の完成まであと一歩に
おそらく煌翔も秘宝香の秘密を追って自分達を捜していたのだろう。
「母と下町に身を
煌翔の反応に
煌翔はさきほどまでまったく自分に興味を示していなかったが、いまはこちらに
まずは彼に自分の存在を印象づける事。そして、自分は秘宝香を作れると
こちらの意見を聞いてもらう
「申し訳ありません。麗華宮に入ったのは、調香会に参加する許可を直接煌翔様に頂きたかったからなんです。目的を
深々と頭を下げた。本心からの謝罪を煌翔にはしたいと思っていた。
頭を上げて、
「ですが、罪をおかしてでもどうしても
何百年もの間、たくさんの香士が挑戦しても作れなかった秘宝香。本音を言うと、絶対に作れるなんて自信はない。父の調合の様子だってよく覚えていないし、作れない可能性の方が高いかもしれない。だが不安な様子をみせたら、煌翔は絶対に許可はくれないとわかっていた。
「お願いです。どうかわたしに香道省で秘宝香を作らせてください!」
もう一度頭を下げると、煌翔がようやく我に返ったかのように目を
「ああ、許可か……」
煌翔にしてはなぜか歯切れが悪かった。まるで何か
(どうしたんだろう。わたしの顔を見ているから違う事を考えているわけでもなさそうなのに)
不思議に思っていると、煌翔が口元に手をやって、一つ頷いた。
「そうか。お前が西堂の娘か。西堂の事はよく覚えている。木蓮に、後宮に男の香士がいてはもめるもとになるから、女で調合ができる者を入れてはどうかと進言されて、お前を
「父が秘宝香の調合に挑戦している時、わたしはそばにいました。わたしには絶対
信じてはくれないと思ったが、煌翔は意外にも素直に頷いた。
「ああ、確かにお前は鼻がいい」
「父の顔は
頭を下げると、しばらく間を置いて、煌翔が息をつく気配がした。
「西堂は確かに秘宝香の完成まであと一歩に近づいていた。……一年後に俺が皇位を
宮廷に
そこまでしてでも秘宝香を完成させたいという煌翔の気持ちは本物のようだった。
「瑞獣の称号を持つ三人が揃うと、国が栄えて世界をも制する力を持つという。知っているか? いまは平和そうに見える神瑞国だが……」
煌翔の顔がわずかに
「
「……なるほど。少しは国政も理解しているようだな。そう、湖蘭国とは昔から
それは神瑞国の
しかし湖蘭国が、利権を
「俺は瑞獣の称号を持つ者が三人揃うと、世界をも制する力を持つなんて
煌翔の引き締まった表情にどきりとした。国の事を語る彼は、尊敬に
「そして秘宝香の効能は絶大だ。湖蘭国が
強い武器と呼ばれる効能がどんなものなのか気になった。戦を火種のうちに消せるだけの力があるらしい。聞きたかったが、煌翔の
「隣国と長い間
煌翔の言葉に胸をうたれた。確かにここ数十年、戦は起こっていない。
そのおかげで、真光の下町では貧しいながらもみんな毎日を生き生きと暮らしている。
「父のあとを継いで、戦を起こさない国作りをしたい。父が守ったこの国を俺も守りたいんだ」
煌翔の言葉からは、父である皇帝への尊敬の気持ちが伝わってきた。
彼が望む平和な国は、自分も理想とするものだ。いままで
どきどきしつつ見つめると、煌翔はこちらに
「絶対に俺の代で秘宝香を手に入れ、瑞獣の称号を持つ三人を揃えたい。皇帝となり
言葉を受けて、彼に向かって
「秘宝香を完成させて、わたしが
言い切ると、煌翔が口元を
「お前は本当に
「男だとか女だとかは関係ありません。わたしはわたし、央凜莉です。央西堂の娘で、秘宝香を作るのに一番近い位置にいる者。機会を
必死の思いを言葉に乗せた。この気持ちが伝わってほしいと願いながら。
「そこまで言うならいいだろう」
「本当ですか!?」
「ああ、だがお前は香士ではない。
反論はできなかった。思わず
「だが西堂の
香道省には優秀な香士と木蓮がいる。彼らと協力した方が秘宝香を完成させられる可能性は高い。しかし、香士ではない自分が香道省に堂々と出入りすれば、新たなる問題が起こるのではという疑念もある。おそらく煌翔はそこまで考えているのではと思った。
「わかりました」
だから
「秘宝香の調合に
「調香会にも出ていいんですか? ありがとうございます……!」
嬉しくて胸がいっぱいになっていると、煌翔が冷たい視線を向けてきた。
「喜んでばかりはいられないぞ。いいか、もし調香会までに秘宝香を作れなかったら、相応の
「涼果と木蓮は関係ないんです。二人は何も知りません。わたしは二人にも偽りを……」
言い
「俺に
煌翔は
「────わかりました。必ず秘宝香を作ってみせます。この命に
声は
「いい返事だ。……それにしても、さっき父の顔も曖昧にしか覚えていないと話していたな。どの程度覚えているんだ?」
煌翔の口調がやや
「それが……どうしてだか父の事を思い出そうとすると、ひどい頭痛がするんです。そのせいで、顔もなかなか思い出せなくて」
煌翔が何か考え込むような表情になった。
「……なるほど。そういう事か。秘宝香についてはどの程度覚えているんだ? お前は秘宝香の効能を父から聞いたか?」
どんな敵をも
その効能を知るのは、皇族と香道省の一部の香士のみだという。
「効能は知りません。父から聞いていないのか、
素直に答えると、煌翔がにやりとした。
「
ふざけたような口調だが、目は笑っていないと直感した。
「いいえ。秘宝香の効能は国秘。わたしは教えて頂く立場にありません。父が作っていた秘宝香の材料を鼻で
本当は効能がどんなものか知りたかった。しかしいま、自分は
ここで煌翔に甘えてしまってはいけないと、本能が
「なるほど。いい答えだ」
考えは正しかったのか、煌翔が満足げに頷いた。
「もし教えてくださいと頭を下げるような甘い考えなら、いますぐ
投げかけられた疑問は、実は自分でもずっと不思議に思っていた事だった。
「おそらく父が亡くなった時の
煌翔の視線が
「……そうか。では秘宝香を作りながら、よく記憶を
その言葉はなぜかとても頭に残った。煌翔が再び
「ではもう行け。俺は本を読むのに
「はい。ありがとうございました」
(調合の許可は頂けたわ。でももし失敗したら、わたしだけでなく涼果も木蓮も
東屋に背を向け、気持ちを奮い起こしつつ歩を進めて、涼果が待っている建物の
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