第三章 その一
【第三章 その一】
「凜莉様。こっちには
「後宮からは親兄弟の
「抜け出したのが見つかったら
涼果の話にぞっとした。それでも危険を承知で後宮を抜け出したのには、わけがある。
「ごめんね、涼果。無理を言って。本当なら大人しくしていたいけど、どうしても香道宮に行きたかったの。父さまが秘宝香を作っていた時の事はあんまり覚えてないんだけど、香道宮にある父さまの調合室に行けば、何か思い出すかもしれないから」
香道宮に行くのは、宮廷に来る前から木蓮とも打ち合わせていた事だ。二日目の夜にこっそり抜け出すので、香道宮の門の
涼果の先導で夜の闇の中を、息苦しくなるぐらい
「凜莉様。私は門の前で隠れて見張っています。誰かきたら、すぐにお知らせしますので」
「ありがとう。でも、心配だわ。こんな
「平気です。私は女官なので見つかってもいいわけができますけど、凜莉様は見つかったら死刑なんですから、十分気をつけてくださいね」
「わかったわ。じゃあ、木蓮のところに行ってくる。悪いけど見張っててね」
涼果に見送られて、香道宮に足を
辺りを見回して
「うっ、すごい
鼻を押さえると同時に前方の
「凜莉、よく来たね。早くこっちにおいで」
手招きされて部屋に入る。
「ここって、父さまが昔使っていた調合室じゃないですか?」
奥には木製の机と
雑然とした部屋を見ていると、懐かしい気持ちがこみ上げてきて、
「ああ。ここは香道省の
奥に目を向けると、椅子に座って机に置いた
「いままでは父さまの
父の顔が今度こそはっきり思い出せそうだと思っていると、いつもの頭痛がした。
しかも、今回はかなり
「
「……何でいつも父さまの事を思い出そうとすると、こんなに頭痛がするのかしら」
それは自分でもよくわからなかった。木蓮が頭を
「きっと、西堂様が
父が亡くなったのは十歳の
ようやく気を取り直して立ち上がり、再び部屋を見回す。
「あの緑の垂れ幕をよく覚えています。暗くなってろうそくだけの明かりになると、垂れ幕にろうそくの
部屋の
「わたしはいつもあそこに座って、調合していた父の後ろ姿を見ていました。香の原料が何か不明の時だけ呼ばれて、香りを
父は調合を始めると、食事も忘れてしまう。だからいつもここにいる時は空腹で
目を
「……こんなに父の事をちゃんと思い出したのは初めてかも」
「きっと、凜莉の
木蓮が一歩こちらに近づいた。
「西堂様がここで秘宝香の調合をしていたのを君は見ていたはずだ。何か思い出さない?」
いつもひょうひょうとしている木蓮だが、いまは
(調香会までに秘宝香を作らないと、香道省が
しばらく目を瞑って考え込んでいたが、やがてため息をついた。
「ごめんなさい。秘宝香の記憶はやっぱりないわ。思い出したのは父さまの後ろ姿だけ」
「後ろ姿を見られるほど近くにいたのなら、調合している時の香りを嗅いでいたはずだ。君の嗅覚なら何を材料として調合していたのか、わかっていたはず」
確かにそうだが、どれだけ考えてもあの時どんな香りがしていたかは思い出せなかった。
「やっぱり
そっと目を開けて
「いや、いいんだ。そんなに簡単には思い出せないよね。なにせ六年も前の事だし。でも、君の記憶に秘宝香の手がかりが隠されているはずなんだ。西堂様が守ってきた香道省を私も守りたい。だから協力してほしいんだ」
「もちろんです。記憶にはないですが、秘宝香の材料となった香料を一つ一つ嗅いで確かめれば、必ず思い出せるはずです。わたしの記憶はあてにはできませんが、嗅覚は
下町で手に入る香料では、秘宝香の記憶を呼び
「期待しているよ。まずは煌翔様に調香会への参加を
そう言われて、麗華宮に入った初日にしでかした自分の言動を思い出した。
(わたしけっこう失礼な事を言ってしまったわよね。
思わず血の気が引いた。頭を
「どうしたんだい?」
「いえ、あの……煌翔様って、なかなか
木蓮が目を見開いて、そして
「ああ、もしかして、もう煌翔様にお会いしたのかい? 煌翔様は
「もし
「そうだね。一度嫌われると口も
ぽんっと肩を
(言えない。もうすでに嫌われたかもなんて……。どうしよう!)
これから先の事を考えると、目の前が真っ暗になりそうだった。
「困ったわ。煌翔様に許可を得るにはどうしたらいいんだろう」
昨夜は香道宮に
「間違った事は言ってないと思うんだけど、でも正しいだけでは世の中
そう考えて、息をついた時だった。
ガシャーン!
何かが割れる音がして、
「何かしら?」
怖い気持ちもあったが、何があったのか知りたいという気持ちが勝って、立ち上がる。
おそるおそる部屋の戸を開いた。戸の外は廊下になっていて、その向こうには手入れされた庭が広がっている。そこに数人の男達が駆け込んできた。男達は手に手に刀を持っている。
乱れて
「
あとから駆けつけた兵士数人が大柄な男に話しかけた。しかし男……我嵐は
「こんな
「宮廷の守りを任されている大将軍、
大将軍と聞いて、目を見張った。
「あの人が大将軍……という事は、彼が
国を守るという瑞獣の称号を持つ者は三人。
一人目はこの国を
二人目は大将軍で、軍を
そして三人目が正香士で、仁の心を持つ
よく見ると、我嵐が肩からかけている黒い布には、鳳凰が大きく
「
「はぁっ!」
我嵐のかけ声とともに
「俺が大将軍として鳳凰の称号を戴き軍を仕切っている間は、宮廷で……いや、この国で好き勝手はさせない。連れて行け!」
我嵐の合図で、兵が男達を取り押さえた。涼果が廊下を駆けてきて、すぐ近くで
「大丈夫ですか? 凜莉様」
「ええ、平気よ。盗人が入ったの?」
「はい。宝物庫に忍び込もうとして見つかり、
涼果を部屋に招き入れた。二人で
「我嵐様がいらっしゃいますね。だったら安心です」
「我嵐様ってあの大柄な方よね。大将軍って事は彼が鳳凰の称号を持っているんでしょう?」
「はい。十八歳でお父上から大将軍の座を
涼果の顔に、彼に
確かに我嵐は女性達の注目を集めるほどの
「本当に強いわ。敵を倒したのは
「このぐらいの敵は我嵐様の眼中にないと思います。二年ほど前、やはり宮廷に
我嵐の事になると、涼果は
「百人!? 本当だったらすごいわね」
「本当ですよ。だって、私見てましたもの」
驚いて目を見張った。どうやら我嵐は本当に
庭では男達が
「
槍を上に向け、我嵐が麗華宮の建物に向かって
その様子を見ていて、ふとある事に気付いた。
「危ない! 後ろっ!」
がらっと戸を開いて思いっきり
「縄の縛り方が緩かったようだな。取り押さえたからといって油断するな。もう一度しっかり縛り直して
低い声で
それを見届けた我嵐がこちらに顔を向けた。
「いま、声を上げたのはあなたですか?」
廊下に出て
「ありがとう。あなたは恩人です。名前を教えて頂けますか? 今度礼をしたいので」
「名は凜莉と申します。ですが当然の事をしたまでなので、お礼なんて……」
そこまで口にして、我嵐の表情が突然厳しいものになったのに気付いた。
「凜莉? 蓮凜莉か?」
名前を聞き返されて、驚きつつも頷いた。
「そうですが」
「では、お前が木蓮が連れてきたという、女だてらに
突然言葉がきつくなって
(どうしたのかしら。さっきはすごく優しく笑ってくれたのに)
「凜莉様。軍と香道省は昔からとっても仲が悪いんです。軍は実力主義で、不可思議な効力を持つ香を使う香士達を嫌ってて。我嵐様も木蓮様とは口もお
耳打ちされ、そういえば木蓮からもそんな話を聞いたと思い出した。我嵐が
「木蓮が後宮を裏から
「そんな! 木蓮はそんな方ではありません。出世にも
どう言えばわかってもらえるかと思案していると、我嵐がはっとしたように目を見開く。
「……俺とした事が、場をわきまえずに熱くなってしまったようだ。いまのは女性に向ける言動ではなかった。礼を失して申し訳ない」
口では謝罪したものの、疑わしそうな目つきはそのままだった。
「しかし宮廷の警護が俺の仕事だ。少しでもあやしい動きがあれば、木蓮もお前もすぐに捕らえるぞ。よく覚えておくがいい。では」
木蓮が
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