第三章 その一

【第三章 その一】


「凜莉様。こっちにはだれもいません」

 きゆうていに来て二日目の夜。後宮をけ出した凜莉は前方にいる涼果の声を聞いて、植え込みからそっと顔を出した。月が出ているだけの庭は静かで、もうみんなしずまっているらしく、わたかぎりに人はいなかった。くらやみまぎれて、木のかげかくれている涼果まで歩み寄る。

「後宮からは親兄弟のそうしきでもなければ出られないって聞いたけど、本当なのね」

 となりに立ってささやくと、涼果がそっとうなずいた。

「抜け出したのが見つかったらけいです。だから凜莉様は絶対に見つからないでください」

 涼果の話にぞっとした。それでも危険を承知で後宮を抜け出したのには、わけがある。

「ごめんね、涼果。無理を言って。本当なら大人しくしていたいけど、どうしても香道宮に行きたかったの。父さまが秘宝香を作っていた時の事はあんまり覚えてないんだけど、香道宮にある父さまの調合室に行けば、何か思い出すかもしれないから」

 香道宮に行くのは、宮廷に来る前から木蓮とも打ち合わせていた事だ。二日目の夜にこっそり抜け出すので、香道宮の門のかぎを開けておいてくれるようにたのんでいた。

 涼果の先導で夜の闇の中を、息苦しくなるぐらいきんちようしながら進んだ。何度か見回りの兵を見かけて、そのたびにきもを冷やしたが、何とか香道宮の門の前にとうちやくする。

「凜莉様。私は門の前で隠れて見張っています。誰かきたら、すぐにお知らせしますので」

「ありがとう。でも、心配だわ。こんなけに一人で外にいるなんて」

「平気です。私は女官なので見つかってもいいわけができますけど、凜莉様は見つかったら死刑なんですから、十分気をつけてくださいね」

「わかったわ。じゃあ、木蓮のところに行ってくる。悪いけど見張っててね」

 涼果に見送られて、香道宮に足をみ入れた。

 辺りを見回してなつかしい気持ちがこみ上げたものの、すぐに顔をしかめる。

「うっ、すごいかおり! さすが香道宮ね。いろんな香料の香りが混じり合ってて、気持ちが悪いぐらいだわ。鼻が曲がりそう」

 鼻を押さえると同時に前方のとびらが開いた。慌てて隠れようとしたが、出てきたのは木蓮だ。

「凜莉、よく来たね。早くこっちにおいで」

 手招きされて部屋に入る。せまい室内を見回して、思わず口元がほころんだ。

「ここって、父さまが昔使っていた調合室じゃないですか?」

 奥には木製の机とかべぎわにはこうのはまった窓と緑の垂れ幕がかけられていて、ゆかにはいまにもくずれそうなほど高く書類や巻物が積み上げられている。

 雑然とした部屋を見ていると、懐かしい気持ちがこみ上げてきて、なみだがでそうになった。

「ああ。ここは香道省のおさが代々使っている部屋だ。つまり君の父である西堂様もここで調合にはげんでいた。何度か来た事があると言っていたね。何か、覚えている事はある?」

 奥に目を向けると、椅子に座って机に置いたこうを見つめている父の姿が、頭に浮かんだ。

「いままでは父さまのおくはとてもあいまいで、顔もふわっとした感じにしか思い出せなかったんです。でもこの部屋に来たたん、父さまがその椅子に座っている様子が頭に……いたっ!」

 父の顔が今度こそはっきり思い出せそうだと思っていると、いつもの頭痛がした。

 しかも、今回はかなりきようれつだ。立っていられなくて、思わずしゃがみ込む。

だいじようかい?」

 あわてたように木蓮がけ寄った。かたに手を置かれて、どうにか頷く。

「……何でいつも父さまの事を思い出そうとすると、こんなに頭痛がするのかしら」

 それは自分でもよくわからなかった。木蓮が頭をでてくれる。

「きっと、西堂様がくなった時のしようげきまで思い出してしまいそうになるんじゃないかな。だから頭がその衝撃を思い出すのをきよして頭痛を起こすとか」

 父が亡くなったのは十歳のころだから、何かしら覚えていてもいいはずなのに、その時の事はまったくといっていいほど記憶にない。衝撃が大きすぎて、わざと忘れたのではないかと自分でも思ってはいた。意識して父の事を考えないようにすると、自然と頭痛は治まった。

 ようやく気を取り直して立ち上がり、再び部屋を見回す。

「あの緑の垂れ幕をよく覚えています。暗くなってろうそくだけの明かりになると、垂れ幕にろうそくのかげがゆらゆら映って、こわかった覚えがあります。それと……」

 部屋のすみにある小さな椅子に目を留めた。

「わたしはいつもあそこに座って、調合していた父の後ろ姿を見ていました。香の原料が何か不明の時だけ呼ばれて、香りをがされるんです。原料を言い当てるとまた椅子に座らされて。調合にのめり込んでいる父さまの後ろでいつもおなかをすかせていたな」

 父は調合を始めると、食事も忘れてしまう。だからいつもここにいる時は空腹でつらかった。

 目をつぶると、やさしいけど時々厳しかった父の姿が浮かんだ。

「……こんなに父の事をちゃんと思い出したのは初めてかも」

「きっと、凜莉のきゆうかくがこの独特の香りが入り交じっている香道省のにおいに反応して、記憶を呼び起こしたんじゃないかな。思い出がまった部屋に入って、よけいに記憶がせんめいになった。凜莉の嗅覚は特別だから、ここに連れて来れば何か思い出すと思ったんだ」

 木蓮が一歩こちらに近づいた。

「西堂様がここで秘宝香の調合をしていたのを君は見ていたはずだ。何か思い出さない?」

 いつもひょうひょうとしている木蓮だが、いまはめずらしくしんけんな顔だった。

(調香会までに秘宝香を作らないと、香道省がつぶされるかもって言ってたから、必死にもなるわよね。木蓮の為にも、何とか秘宝香の調合に協力したい。でも……)

 しばらく目を瞑って考え込んでいたが、やがてため息をついた。

「ごめんなさい。秘宝香の記憶はやっぱりないわ。思い出したのは父さまの後ろ姿だけ」

「後ろ姿を見られるほど近くにいたのなら、調合している時の香りを嗅いでいたはずだ。君の嗅覚なら何を材料として調合していたのか、わかっていたはず」

 確かにそうだが、どれだけ考えてもあの時どんな香りがしていたかは思い出せなかった。

「やっぱりだわ。本当にごめんなさい、木蓮」

 そっと目を開けてうつむくと、木蓮が真剣な表情をややゆるめた。

「いや、いいんだ。そんなに簡単には思い出せないよね。なにせ六年も前の事だし。でも、君の記憶に秘宝香の手がかりが隠されているはずなんだ。西堂様が守ってきた香道省を私も守りたい。だから協力してほしいんだ」

「もちろんです。記憶にはないですが、秘宝香の材料となった香料を一つ一つ嗅いで確かめれば、必ず思い出せるはずです。わたしの記憶はあてにはできませんが、嗅覚はしんらいできます」

 下町で手に入る香料では、秘宝香の記憶を呼びもどせなかった。おそらく香道省でしか手に入らないような貴重な香料が、秘宝香を作る為には必要だと思う。木蓮が微笑ほほえんで頷いた。

「期待しているよ。まずは煌翔様に調香会への参加をうつたえないとね」

 そう言われて、麗華宮に入った初日にしでかした自分の言動を思い出した。

(わたしけっこう失礼な事を言ってしまったわよね。ちがってはないと思うから、こうかいはしてないけど、でも絶対に煌翔様はおこっているわ……)

 思わず血の気が引いた。頭をかかえていると、木蓮が首をかしげる。

「どうしたんだい?」

「いえ、あの……煌翔様って、なかなかしようが激しいですよね……?」

 木蓮が目を見開いて、そしてしようした。

「ああ、もしかして、もう煌翔様にお会いしたのかい? 煌翔様はかしこくて武術にもけて、その上あれだけうるわしくて。かんぺきな人物だけど、身内にはなかなかしんらつなんだ。それをおさえるだけの理性はあるようだから、大きな問題にはなっていないけどね」

「もしきらわれたりしたら、お願い事なんて聞いてもらえないかなぁなんて」

「そうだね。一度嫌われると口もいてくれなくなるらしいよ。だからくれぐれも嫌われないようにして。何とか煌翔様に頼み込んで調香会に参加できる許可をとってくれ」

 ぽんっと肩をたたかれて、微笑まれた。しかし返事はできなかった。

(言えない。もうすでに嫌われたかもなんて……。どうしよう!)

 これから先の事を考えると、目の前が真っ暗になりそうだった。






「困ったわ。煌翔様に許可を得るにはどうしたらいいんだろう」

 昨夜は香道宮にないしよで行っていたのでそくだった。凜莉はぼんやりする頭を何とか回転させて、煌翔ともう一度会うにはどうしたらいいか考え込んでいた。

「間違った事は言ってないと思うんだけど、でも正しいだけでは世の中わたっていけないわ。何とかもう一度お目にかかって、おびした方がいいわよね」

 そう考えて、息をついた時だった。



 ガシャーン!



 何かが割れる音がして、おどろいてろうがある方に目を向けた。すぐさまドタドタ足音がする。

「何かしら?」

 怖い気持ちもあったが、何があったのか知りたいという気持ちが勝って、立ち上がる。

 おそるおそる部屋の戸を開いた。戸の外は廊下になっていて、その向こうには手入れされた庭が広がっている。そこに数人の男達が駆け込んできた。男達は手に手に刀を持っている。

 乱れてよごれた服装からしてもきゆうていの者とは思えない。かみみだした男達を追って、一人の男が庭に入ってきた。男は二十代前半で背が高くおおがらだ。短い黒髪にきりりとした黒い目で、鉄の胸当てをした身体からだれ惚れするほどたくましく、右手に持ったやりは男達に向けられていた。

らん様! お下がりください。ここは我々が」

 あとから駆けつけた兵士数人が大柄な男に話しかけた。しかし男……我嵐はうすく笑う。

「こんな盗人ぬすつとふぜい、俺一人で十分だ。お前達こそ下がっていろ」

 ゆうありげな表情で、我嵐は男達をにらみつけた。

「宮廷の守りを任されている大将軍、ごう我嵐だ。宮廷にぬすみに入るとはいい度胸だ。お前達だけでしのび込んだとは思えない。だれかの手引きがあったはず。らえて口を割らせてやる」

 大将軍と聞いて、目を見張った。

「あの人が大将軍……という事は、彼がずいじゆうほうおうしようごうを持っているのね」

 国を守るという瑞獣の称号を持つ者は三人。

 一人目はこの国をべるこうていで、りゆうの称号をいただく。

 二人目は大将軍で、軍をつかさどり国を守る鳳凰の称号を戴く。

 そして三人目が正香士で、仁の心を持つりんの称号を戴く。

 よく見ると、我嵐が肩からかけている黒い布には、鳳凰が大きくつばさひろげている姿が金糸で?《しゆう》されていた。その布をなびかせて、我嵐が不敵に笑う。

めんどうだから全員でかかってこい。万が一俺にひと太刀たちでも浴びせられたら、のがしてやる」

 あつとう的な自信は見ていて気持ちがいいほどだ。男達は顔を見合わせて、我嵐に向き直る。

 いつせいに飛びかかっていく男達に向かって、我嵐が野生の獣のようなはくりよくあるたけびを上げた。

「はぁっ!」

 我嵐のかけ声とともにり出された槍が、男達を見事になぎたおしていく。勝負はまたたきする間に終わった。男達が全員地面に倒れ込んだのを見て、我嵐がふっと息をつく。

「俺が大将軍として鳳凰の称号を戴き軍を仕切っている間は、宮廷で……いや、この国で好き勝手はさせない。連れて行け!」

 我嵐の合図で、兵が男達を取り押さえた。涼果が廊下を駆けてきて、すぐ近くでひざをつく。

「大丈夫ですか? 凜莉様」

「ええ、平気よ。盗人が入ったの?」

「はい。宝物庫に忍び込もうとして見つかり、げてきたようです。でもつかまったようですね。よかった!」

 涼果を部屋に招き入れた。二人でいつしよに外をのぞくと、涼果がふいにほおを赤らめた。

「我嵐様がいらっしゃいますね。だったら安心です」

「我嵐様ってあの大柄な方よね。大将軍って事は彼が鳳凰の称号を持っているんでしょう?」

「はい。十八歳でお父上から大将軍の座をゆずり受け、それ以来三年間軍を取り仕切っておられるんです。宮廷の警護の責任者もされていて、男子禁制の後宮にも皇族以外でゆいいつ許可なく入れる男性なんです。とってもお強いんですよ!」

 涼果の顔に、彼にあこがれていると書いてあった。そんな涼果の気持ちもわかる。

 確かに我嵐は女性達の注目を集めるほどのじようだ。

「本当に強いわ。敵を倒したのはいつしゆんだったもの」

「このぐらいの敵は我嵐様の眼中にないと思います。二年ほど前、やはり宮廷にしんにゆうしたぞく百人をたった一人で倒した方なんですから!」

 我嵐の事になると、涼果はじようぜつだった。

「百人!? 本当だったらすごいわね」

「本当ですよ。だって、私見てましたもの」

 驚いて目を見張った。どうやら我嵐は本当にうでが立つようだ。

 庭では男達がなわでくくられ、連れて行かれようとしていた。

ひめ達。おさわがせしました。すぐにここは片付けさせますので」

 槍を上に向け、我嵐が麗華宮の建物に向かってれいただしくおじぎした。

 その様子を見ていて、ふとある事に気付いた。

「危ない! 後ろっ!」

 がらっと戸を開いて思いっきりさけんだ。我嵐の背後で縄でしばられていたはずの男がとつぜん立ち上がったからだ。縄は地面にはらりと落ちて、男は我嵐の背中に向かって短刀で切りつけようとしていた。我嵐がすぐに背後を向いて、かんいつぱつで男の腕を捕らえてひねり上げ、短刀を取り上げる。そして男のみぞおちに一発こぶしを入れて、気絶させた。

「縄の縛り方が緩かったようだな。取り押さえたからといって油断するな。もう一度しっかり縛り直してろうに連れて行け」

 低い声でいつかつされて、兵がふるえ上がった。兵が今度はしんちように男に縄をかけ、連れて行く。

 それを見届けた我嵐がこちらに顔を向けた。

「いま、声を上げたのはあなたですか?」

 廊下に出てうなずくと我嵐が微笑んだ。男らしい顔立ちがかべるみは、思いの外やさしかった。

「ありがとう。あなたは恩人です。名前を教えて頂けますか? 今度礼をしたいので」

「名は凜莉と申します。ですが当然の事をしたまでなので、お礼なんて……」

 そこまで口にして、我嵐の表情が突然厳しいものになったのに気付いた。

「凜莉? 蓮凜莉か?」

 名前を聞き返されて、驚きつつも頷いた。

「そうですが」

「では、お前が木蓮が連れてきたという、女だてらにこうを調合するというやつか」

 突然言葉がきつくなってまどった。どうやら我嵐はおこっているらしい。

(どうしたのかしら。さっきはすごく優しく笑ってくれたのに)

 こんわくして見つめると、我嵐と近くにいた兵達がこちらに向ける視線を強くした。

 となりにいた涼果があわてたように耳元でささやく。

「凜莉様。軍と香道省は昔からとっても仲が悪いんです。軍は実力主義で、不可思議な効力を持つ香を使う香士達を嫌ってて。我嵐様も木蓮様とは口もおきにならないんです」

 耳打ちされ、そういえば木蓮からもそんな話を聞いたと思い出した。我嵐がうでみをする。

「木蓮が後宮を裏からあやつろうと手の者をねじ込んだともっぱらのうわさだ。昔からどうも木蓮からきなくささを感じていた。あのひょうひょうとした何を考えているかわからん態度で、何かとんでもない事をしでかすつもりではないかとな」

「そんな! 木蓮はそんな方ではありません。出世にもめいにもとんちやくで、香の調合に熱心ならしい香士なんです。……たまに意地悪ですけど」

 かばいたかったが、つねごろのくだらない?うそをつく木蓮が思い浮かんで、歯切れが悪くなった。

 どう言えばわかってもらえるかと思案していると、我嵐がはっとしたように目を見開く。

「……俺とした事が、場をわきまえずに熱くなってしまったようだ。いまのは女性に向ける言動ではなかった。礼を失して申し訳ない」

 口では謝罪したものの、疑わしそうな目つきはそのままだった。

「しかし宮廷の警護が俺の仕事だ。少しでもあやしい動きがあれば、木蓮もお前もすぐに捕らえるぞ。よく覚えておくがいい。では」

 木蓮がせいれんけつぱくな人物だと説明したかったが、兵を連れて庭を後にする我嵐にかける言葉が見つからず、ほうにくれた。

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