第二章 その二

【第二章 その二】


 二日間の後宮入りするためもうとつくんが終わり、今日はいよいよ宮廷へ行く日だった。

 凜莉は、赤い地に白いはながらしゆうが入った着物をまとった自分を、鏡で見つめた。

「お似合いですよ。凜莉様!」

 着付けを手伝ってくれた涼果が鏡しに見つめている。赤い布地は絹でできていた。

 こしを白い帯でめ、すそはふわりと広がっている。きよくきよと呼ばれる形の着物は上質な品で、おそらく自分が一月でかせぐ金額よりも高い値がすると思われた。背中までのくろかみは涼果の手で左右で三つ編みにされ、横でい上げられた。赤と白の花をかたどったかんざしをさし、最後に先がとがったくつへとえる。着物と同じ赤色の靴は小花が刺?されていて、可愛かわいらしかった。

 あれよあれよというまに、鏡の中の自分はそこそこ身分が高そうなによにんへと姿を変えていた。

 仕上げが終わって呼ばれた木蓮は、部屋に入ってきて目を見張った。

「うんうん。綺麗だ。手をかければ、凜莉も見られるね」

「手をかけなければ見られないんですね」

 時々木蓮はとても失礼だと思う。ほおふくらませると、木蓮がしようした。

「すまない。つい正直な感想を……いやいや、とりあえず、着物は他にもたくさん用意したから。かんざしと靴とそうしよく品もあるし、もっていってくれ」

「申し訳ないです。こんなに用意してもらって」

「いいんだ。後宮に入るならそれなりのかつこうをしないと。それにいままでも凜莉にはいろいろ買ってあげたかったけど、いつも断られていたからね。そうそう、お金の心配はいらないよ。実はね、私はある国の皇太子で、かなりの財産があるんだ」

 しんけんな顔になった木蓮の話をいつしゆん信じそうになった。

「……それはあまりに現実味がなさすぎて、いくらわたしでも信じられません」

「ええっ? 凜莉はどんなうそでも信じてしまうところが可愛いのに」

 木蓮がわざとらしく目を丸くした。そしてすぐに苦笑して気を取り直したように口を開く。

「まあ、じようだんはおいておいて、このぐらいは西堂様に受けた恩からしたら安いものだよ」

「恩があるのはわたしの方。木蓮が調合を教えてくれたおかげで、香を売って生活できるようになったし。今回だって身元引受人になってくれたおかげで宮廷に入れるんですから」

 木蓮は、父が亡くなって生活が苦しくて困っていた時に、金銭的なえんじよをしてくれた。

 自立したいという思いを告げると、調合の仕方を教えてもくれた。

 彼は調合のしようであり恩人だ。いま母と二人で何とか生活ができるのは彼のおかげだった。

「凜莉に宮廷で秘宝香を作る手伝いをしてもらいたいと私も思っているんだ。もし調香会で失敗したら、香道省はつぶされるかもしれない。そうしたら、私も失業してしまう。この着物もかんざしも必要な出費なんだから気にしないで」

 木蓮がふと、心配そうな顔つきになった。

「ところで蓮歌様に後宮の事は話したのかい? 蓮歌様は西堂様の秘宝香の成果を認めなかった宮廷にあまりいい感情はもっておられなかった。後宮なんてと反対されたのでは?」

「ええ。きっと言ったら止められると思って、しばらくまりで仕事をする事になったと言ってきました。りよう所の先生にわけを話して、しばらく母さまを預かってもらう事になったんです。最近身体からだの具合もよくないし、静養もしてもらいたくて」

 ?をつくのは心苦しかったが、身体が弱っている母にこれ以上心労はかけたくなかった。

 医療所ならしんらいできる澄明もいるし、宮廷からの寄付金をもらえた事で手伝いの人も増えたらしく、母の世話もしてもらえるという事だった。

「そうか。ではこの事は蓮歌様にはないしよだね。知ったらきっとそつとうするよ。凜莉、私も精いっぱい頑張って秘宝香の秘密を解き明かすから、涼果と三人で頑張ろう」

 三人で輪になってうなずきあった。今日から自分の運命は大きく変わるだろう。しかし何があっても、父のめいを回復させる為に秘宝香を作ってみせるという決意は変わらないとちかった。






 宮廷をおとずれるのは六年ぶりだ。凜莉はきよだいな門を馬車でくぐり、見えて来た宮廷に目を見張る。

「父さまと来た時とぜんぜん変わってない」

 門の中は白い玉じやめた庭になっていた。正面には、黒光りするかわらがのった大きな建物が見える。しゆいろと緑と金というしきさいを組み合わせた巨大な建物は、子どものころに見た時と同じあつとう的なはくりよくを放っていた。ふと、子どもの頃宮廷に来ていた時の事が頭にかぶ。

「父さまはつうなら香木として使わないようなものでも、香料にしようとしてたっけ」

 父が調合にはげむ後ろ姿を思い出すと、すぐにズキリと頭痛がした。

「いたっ……!」

「どうしたんだい?」

 正面に座っていた木蓮と涼果が心配そうに顔を向ける。

「父さまの事を思い出そうとすると、いつもなぜか頭痛がするんです。宮廷に入って父さまの事を少し思い出しかけたんですけど、頭痛のせいで……」

 木蓮が一瞬真顔になった。

「……あまり無理をするとよくないよ。この宮廷には西堂様との思い出もあるだろう。無理に思い出さなくても、そのうちまた頭に浮かび上がってくるさ。それにしても、西堂様はすごいね。香料を娘にがせる為だけに、内緒で宮廷に連れて来ていたんだろう?」

「父さまは何というか……浮き世ばなれしていて、調合の為なら何でもする人だったから」

 ようやく頭痛が治まってきたので、外に目を向けた。いろあざやかな宮廷の建物は、ごうけんらんという言葉がぴったりだった。そんな建物が数え切れないほどあって、まるで一つの街のようだ。

「たくさん建物があるんですね。子どもの頃来た時は、こうどう省ばかりにいたので、こんなにちゃんときゆうていの中を見るのは初めてかも」

「建物はぐうと呼ばれるんだ。それぞれ役割があって、それにちなんだ名前がついている。たとえば、香道省の建物は〝こうどうぐう〟。軍が管理している建物は〝ぐんぐう〟。陛下がおわす宮は〝こうていぐう〟。そして……」

 木蓮が言葉を句切ったと同時に、馬車が止まった。

「ここが煌翔様の後宮として作られた麗華宮だ」

 馬車から見上げると、真新しい朱色の柱が印象的な大きな建物がうかがえた。きんぱくかざられた門の上には、麗華宮の名前が刻まれている。真新しい建物からは、ひのきのかおりがただよっていた。

「できたばかりだと聞いていましたけど、作られてからまだ一月もっていないのでは?」

「よくわかったね。つい二十日ほど前に完成したばかりだ。そんな事も鼻でわかるのかい?」

「はい。木の香りで建築されただいたいの年月がわかるんです。まだ木の香りがみずみずしいから、建ててそう時間は経っていないなと思って。それにしても立派ですね」

 木蓮が先に馬車から降りて、手を差し出してくれる。

 その手を借りて地面に足をつき、改めて麗華宮を見上げた。

 後宮なんて見たのは初めてだ。しかも自分が入る事になるなんて、夢にも思わなかった。

(後宮は女性ばかりでもめごとも多いって聞くわ。こわいけど、夢をかなえる為よ。頑張ろう!)

 改めて決意していると、木蓮がこちらに向き直った。

「じゃあ、私はここで。あとは頑張ってね」

「ええっ!? もう行っちゃうんですか?」

「後宮に入れる男性は、皇族と許可を得た警護の兵だけだ。私が入ったら首を切られるよ」

 冗談めかしているが、それは現実に起こりえる事だった。

「女性達の争いに巻き込まれて、毒を盛られたりしないでね。ああ、それは心配ないか。毒を盛られても、凜莉のきゆうかくならすぐ気づけるし、安心だね」

「ぜんぜん安心じゃないです! 毒以外で何かされたらどうするんですか。っていうか、そんな事が本当に起こるんですか? 後宮ってそんなに危険なところなんですか!?」

「冗談だよ……って言いたいけど、今回ばかりは冗談とも言えないね。死んだりしないでくれよ。ここに連れて来たのは私だから凜莉が死んだりしたらめが悪いし。……何かあったら、涼果にたのんで私に知らせてくれ。たとえここが後宮でも助けにくるから」

 そのひと言は、いまのじようきようでは何より心強かった。

(木蓮……なんだかんだ言って、やっぱりやさしいな)

 たよりになる味方が一人でもいてくれれば、何とか乗り切れるかもしれないという気持ちにもなった。頷くと、木蓮がそっと?に手をれた。

「じゃあ凜莉。気をつけて」

 優しい指のかんしよくが?から去るのがさびしかった。それでもその気持ちをこらえて、平気な顔をした。こわいから帰りたいといえば木蓮は許してくれるだろう。しかしそれでは夢は叶えられない。

 自分で決めた事は、最後までやりげたかった。木蓮を見送ると、涼果が頭を下げる。

「後宮のお部屋にご案内します。凜莉様」

 先導して歩き始めた涼果を見て、思わず首をかしげた。

「涼果は麗華宮にくわしいの?」

「はい。私はもともと翼舞宮で母といつしよに働いていたんですけど、麗華宮ができた時におそうやらひめ達をむかえる準備やらで何度も出入りしていたので」

 涼果のあとをついて、麗華宮に足をみ入れた。傷一つない長いろうは庭に面している。

 手入れされた庭は、さわやかな風がいていて心地ここちよかった。

「中もれいね。まだ新しいし広いし、後宮って思っていたよりもずっと大きいものなのね」

 しばらく歩くと、左手にある庭からはちみつのような甘い香りが漂って来たのに気付いた。

 いい香りだが、思わず顔をしかめる。香りを嗅いで頭に浮かんだのは、みつを吸うはちの姿だ。

 するどい針をかくし持つ蜂は小さくてもきようを感じた。香りが気になって辺りを窺うと、庭にあるあずまに女性達が集まっているのが目に入った。その光景を見て、思わず足を止める。

「すごい美人ぞろいだわ……! さっきの香りは彼女達からみたいね」

 東屋では、女性達がお茶をんでだんしようしている。まるでてんによが集まったかのような光景だ。

 彼女達は自分と年は変わらないように見えるが、たんねんしようほどこし、色とりどりのきよくきよをまとっていて、全身から色気をかもし出していた。声に気付いたのか彼女達がこちらをえた。

「凜莉様。頭を下げてください。みなさん、候補の方達です」

 涼果の小声での忠告にはっとした。

(確か、四妃はこうの次に位が高いのよね。その候補だというなら彼女達はきっと身分が高いんだわ)

 涼果にならってあわててひざを折って頭を下げた。

 できるだけさわぎは起こさず目立たない。それが木蓮との約束だ。

「あら、初めて見る方ですわね」

 東屋から出てきた女性達が、ゆうな仕草で歩み寄り目の前まで来た。

 女性達は三人いた。前に立っている二人の姫ももちろん美しいが、目をうばわれたのは一番後ろにいる姫だ。小さな顔には整ったまゆときりりとしたまなし。

 すらりと背が高く、まるで高価な人形のように品があってかんぺきぼうだった。

(この立ち位置からすると、後ろにいる綺麗な姫が一番身分が高そうだわ)

 さっと状況をあくした。考えが当たっていたのか、向かって右前にいた女性が後ろにいる女性にびるようなみを浮かべた。

「こちらにいらっしゃるのは、すいひめです。さいしようじんこうどく様のご息女よ。わたくしはしゆ。こちらはらんらん。わたくしと蘭々は、しようしよ省のしようじよう、右丞相のむすめなの。あなたはどちらの姫?」

(いまのところ、皇族の次に位が高いのはほうおうしようごうを持つ大将軍で、その次が宰相よね。その宰相の娘って事は、やっぱり後ろにいる翡翠姫が一番身分が高いんだわ。左丞相も右丞相も宮廷では高位だし、彼女達に逆らうとまずそうね)

 二日間で詰め込んだ知識を総動員して、いまの状況を理解した。

「ごげんうるわしく。翡翠姫様。珠華姫様。蘭々姫様。凜莉と申します。香道省の木蓮様のごしようかいで麗華宮に入りました。香を調合する特技を麗華宮で生かすようにと言われております」

 れいただしくあいさつして、失礼はなかったはずだ。しかし姫達の顔色が変わった。

「特技で後宮入りしたの? だったら姫なんて呼ぶ必要ないわね。才人として勤めるのがせいぜいじゃない。女官と一緒だわ」

 つんと顔を上げた珠華に、蘭々がうなずいた。

「ええ。特技があれば身分がいやしくても後宮に入れるなんて、私は反対だわ。麗華宮の質が落ちますもの。ねぇ、翡翠姫」

 翡翠はじっとこちらを見据えている。年は同じくらいだろうが、圧倒的な美しさと迫力あるたたずまいはとうてい同世代とは思えなかった。翡翠の美しい眼差しが、蘭々へと向けられた。

「煌翔様が、麗華宮には一芸にひいでた者も入れたいとおつしやったそうです。煌翔様のお考えに沿うのが、私達四妃候補の務め。ひかえなさい」

 翡翠のすずが転がるような声でいつかつされて、蘭々が慌てて首をすくめた。

「は、はい。煌翔様のお考えにそむくつもりはありません。……ただ、卑しい身分の者が麗華宮に入るのが気になるだけです。麗華宮で何かあれば、煌翔様にもごめいわくがかかるので」

 しどろもどろで答えた蘭々がきっとこちらをにらみつけた。

「だいたい、あなたも挨拶がおそいのよ。あとから来た者は、先に来た者に頭を下げて教えをうのが後宮の習わし。もっとちゃんとしなさい」

(ええ!? 挨拶はちゃんと教えられた通りにしたし、何も失礼な事はしていないわよ。翡翠姫におこられたから、こっちに八つ当たりしてるだけじゃないの?)

 そう思ったものの、口答えはしない方がいいと頭を下げた。

「申し訳ありません。至りませんで……」

「凜莉様はとうちやくされたばかりでおつかれです。お許しください」

 涼果も頭を下げたが、その言葉がまたしても蘭々をげきしたようだった。

「疲れているですって? 挨拶もろくにできないくらい疲れているの?」

「それは……」

「たかが女官の分際で口答えなんて身分をわきまえなさい。なんて失礼なんでしょう。あなたみたいな女官がこの麗華宮にいるなんて許せないわ。だれかこの女官を追い出して。……いえ、それだけじゃつまらないわ。下着だけにして、外にほうり出しなさい」

 蘭々の声に、東屋で控えていた女官が数人集まってきて、涼果のうでを羽交いじめした。

「待ってください。涼果は……」

 慌てて止めようとしたが、ばした手を蘭々にはたき落とされた。

「逆らうおつもり? 私達は、身分も美しさも認められてこの後宮に来たのよ。四妃候補としてね。あなたはせいぜい才人どまりでしょう。煌翔様と会う事さえ叶わず後宮で一生を終えるのよ。後宮で出世したければ、私達の言う事を聞きなさい」

 後宮で生きていくためには、この場を何とかやりすごすのがかしこいとわかっていた。

 しかし、なみだかべていやがっている涼果の姿をだまって見ているのはもう限界だ。

 立ち上がり、涼果の腕をつかまえていた女性の手をほどく。

「何をするの!」

「さっきの会話で涼果が口答えしたとは思えません。それなのに、下着姿で放り出すなんて」

「まあ、どういう口のき方かしら。あなた、自分の立場をわかっているの」

 女官達もふくめると、十人以上の女性達に囲まれて恐かった。しかしここでひるむわけにはいかない。涼果をはずかしめる彼女達を何とか止めなければと心を強くもった。

「四妃候補の姫様達とは口を利くのもおそれ多いと思っています。ですが姫様達がどれだけ身分が高いとしても、何をしてもいいという理由にはならないと思います」

 なるべく冷静に、言葉を発した。蘭々達と同じように感情的になってはならないと思った。

「生意気な! 後宮で私達に逆らったらどうなるかわかっているの」

「十分わかっています。ですが罪のない涼果がばつを受けるのはなつとくいきません」

 静かなこわいろうつたえると、珠華と蘭々の顔がいかりで赤く染まった。

「何ですって……!」

「待ちなさい」

 珠華と蘭々がぴたりと動きを止めた。翡翠が持っていたおうぎで品よく口元を隠した。

「もうそのぐらいにしなさい。あまり騒がしくすると、麗華宮の品位が疑われるわ」

 そのひと言に、珠華と蘭々はすぐに口を閉じた。翡翠が美しい黒いひとみでじっと見つめる。

「凜莉と言うのね。忠告しておくわ。あなたのような性格では後宮では長生きできなくてよ」

 珠華や蘭々の嫌がらせの言葉より、翡翠のひと言の方がふるえるほどこわく感じた。

 翡翠が背を向けて歩きだすと、珠華と蘭々がしぶしぶついていく。東屋にもどった彼女達を見届けて、着物をはだけさせられた涼果を立たせた。すぐに彼女達の目が届かない場所に移動する。

「凜莉様。助けてくれてありがとうございます。でも翡翠様達を敵に回してしまいました。どうしましょう。目立たないようにと木蓮様に言われていたのに。私のせいですね……」

 うつむいて涙を浮かべた涼果のかたに、そっと手を置いた。

だいじようよ。涼果が無事だったならそれでいい。これからの事はまた考えましょう」

 涼果は目的をいつわって後宮入りすると知っていて協力してくれる仲間だ。危険な目にあっているのを、どうしても黙って見ていられなかった。泣きじゃくる涼果をそっときしめる。

「涼果はすごく助けてくれてる。ここにきた目的は煌翔様に調ちようこう会への参加を認めてもらうことよ。右も左もわからない後宮では涼果の協力は必要不可欠なの。一緒にがんりましょう」

 二人で目を合わせて頷きあう。どうやら後宮での生活は波乱の幕開けとなったようだった。






 後宮であたえられたのは、しよう箱と文机があるだけの殺風景なせまい部屋だった。

 凜莉はその部屋を見回して、目をきらきらとさせた。

あまりしないし、すきま風が入らないし、かべに穴があいてない! 感動だわ!」

 下町の長屋とはとうてい比べものにならなくて、どこに座ったらいいものかと落ち着かないでいた。そわそわしつつ、入り口の戸を見つめる。

「涼果にとんや生活に必要な物をとってくるから、時間がかかるけどしばらく待っててって言われたのよね。……だけど木蓮が、蘭天木がきゆうていに届くのは明日あしただから、明後日あさつてから秘宝香の調合にちようせんするって言ってたわ。できたらわたしも明後日から香道省に入りたい」

 一月後にはこうていと皇太子が参加する調香会がある。それまでに木蓮を筆頭とした香道省の香士と、いつぱんから選ばれたゆうしゆうな香士達が協力して、秘宝香を完成させなければならない。

「調香会に出るには陛下か煌翔様の許可をとらなくちゃ。でも二人とも、わたしなんかが簡単に会える方達じゃないわ。会って、しかも訴えを聞いてもらう為には準備が必要よ」

 入り口の戸をそっと開いた。傷一つないろうが左右に延びている。知らない場所に一人でいるのは、不安だった。しかしその気持ちを深呼吸して心から追いやった。

「落ち着いて。夢をかなえる為なら何でもしようって決めたじゃない。……ここは煌翔様の後宮だもの。うまく待ちせできたら、お目にかかれる機会はきっとあるはず。まずは麗華宮がどういう作りになっているか調べて、どこで待ち伏せすれば煌翔様に会えるか考えよう」

 調香会まで時間がないと思うと、あせりが心と身体からだかした。

 涼果が帰ってくるまで待っていればいいのだが、その時間すらしく感じる。

 いま自分にできる事をしようと、廊下に一歩み出した。そして辺りをもう一度見回す。

 外観からすると、麗華宮はかなりの広さのようだ。とりあえず部屋の周りだけでもどうなっているのかかくにんして、自分一人でも自由に動けるようになりたかった。

 部屋から出た正面は庭に面していた。麗華宮は開放的な作りで、廊下は庭に面している事が多いようだ。手入れされた庭は、白い玉じやと緑の植木が目にやさしかった。

 涼果の話ではここにはひめ達が十人ほどと、彼女達に仕える女官数十人が住んでいるらしい。

「やっぱり広いな。これは覚えるの大変そう。道に迷ったらどうしよう。…………あれ?」

 廊下を歩いて辺りを観察していたが、しばらくしてふと立ち止まる。そして振り向いて目をまたたかせた。何度か廊下の角を曲がったが、どこをどう曲がったかわからなくなっていた。

?うそ!? もう迷ったの?」

 建物の中なので、そうそう迷子にはならないだろうと思っていたが、来た道を戻っても同じような光景が続くだけで、自分の部屋がどこかわからなくなっていた。

「うわっ、どうしよう!」

 頭をかかえつつ、誰かに会わないかとうろうろしてみたが、人の気配すらなかった。

「麗華宮には百人ぐらいいるはずなのに、どうして誰にも会わないんだろう。困ったな……」

 混乱しつつ廊下を行き来していると、ふいに鼻がすっきりするような刺激のあるかおりがした。

「甘いけどしくて、背筋がぴんとのびるようなきんちようかんを持つ香りだわ。これはにおい香ね」

 火をつけなくても常温で香る香を小さなふくろに入れたのが匂い香だ。

 むなもとに匂い香を入れて持ち歩き、上品な香りをただよわせるのが貴族の間では流行はやっていた。

「匂い香の香りがするって事は、……つまり、この香りの先には誰かいるってしようだわ!」

 改めて自分のきゆうかくに感謝した。つうの人なら気付かないようなかすかな香りだが、絶対嗅覚を持つ鼻は、香りの持ち主がどこにいるかを正確に教えてくれる。

「よし、ここがどこか教えてもらおう!」

 あわててけ出した。しばらく廊下を進んで角を曲がると、どんっと何かにぶつかる。

「いたっ!」

 勢いよく背後にひっくり返ろうとしたが、誰かが腕を引っぱってくれたおかげで、何とか転ぶのはけられた。勢い余ってそのまましゃがみ込むと、頭の上から声がする。

「何をそんなに慌てているんだ」

 声には聞き覚えがあった。見上げると、皇太子である煌翔がじっとこちらを見つめていた。

「こ、煌翔様……!?」

(なんて幸運なの……! こんなに早く皇太子様に会えるなんて。そういえば焦っていて気付かなかったけど、この香りは前にりよう所でいだ煌翔様のものと同じだわ。うわぁ、あの時と同じ、赤いかみはいかつしよくの瞳。整った顔に優しい……ん?)

 うるわしい煌翔に見つめられてうっとりしそうになったが、ふとまゆを寄せた。

 煌翔の表情が、医療所で見た時のような優しいものではなかったからだ。煌翔はまるで相手を鹿にでもしているかのような顔で、大きなため息をつきつつ、うでみをした。

「どこを見ている。この俺にぶつかるなんていい度胸だな」

 冷たい表情と声は、こごえるようなはくりよくがあった。

 乱暴な口調は、医療所で会った煌翔とはまったく別人のようだ。

「は? え? あの?」

(も、もしかして、煌翔様によく似た別人? いやいや、だって赤い髪と灰褐色の瞳なんて皇族にしかいないし。それにこの匂い香の香りは、ちがいなく前に会った時と同じだわ)

 ぼうぜんとしていると、煌翔がふんっと鼻を鳴らした。

「返事もできないような女官は俺の後宮にはいらん。色気もへったくれもないようなむすめはさっさと出て行け。……まったく、後宮なんてまだ必要ないといっているのに作ったあげく、この程度の女官しか集められないなんて信じられん無能だな。宮廷の馬鹿どもは」

 低い声からは、うんざりしている様子が伝わってきた。

 やわらかいふんの優しくてきらきらした皇太子は、いったいどこにいったのかとまどった。

「ここは俺の私室の近くだ。俺の許可がない者は近づいてはならん決まりだ。そんな決まりも守れないなんて、使えない女官だな。お前は」

 さきほどからの言葉を頭ではんすうして、信じられない思いでいっぱいだ。

 混乱しつつも、ここに来た目的を思い出して、何とか立ち上がって口を開いた。

「わたしは凜莉と申します。あの……」

 調香会の話をしようとする前に、煌翔の片眉が上がった。

「名乗る必要はない。俺が名前を覚えるにあたいしない女だろう。だからお前でいい。それともお前は俺が名前を覚えるほどの価値が自分にあると思っているのか?」

 さきほどからぐさぐささる言葉のやいばに、くずおれそうな自分を何とか律した。

(いくら皇太子様でもそんな言い方はないんじゃないの!?)

 馬鹿にされているのだろうと思うと腹は立ったが、何とか気持ちを落ち着かせた。

 相手は皇太子だ。れいを忘れないようにしなければと、深呼吸する。

「許可なく私室近くに来た事はおびします。迷ってしまったんです。ただ、わたしは女官ではありません。そもそも女官だとしてもあなたと同じ人間です。お前呼ばわりは……」

 何とか落ち着いた声を出したが、煌翔はふっとみをかべた。

「皇族である俺とお前が同等だと?」

「同等だとはいいません。あなたは皇太子ですから。ですがそれは生まれの問題で、あなたの徳が皇太子にふさわしいかどうかはまた別の問題です。きっとあなたの周りには……あっ」

 言い過ぎたと気付いて、慌てて口元を押さえた。徳の高い皇帝には、ずいじゆうの加護があるというのが神瑞国の言い伝えだ。ぎであるこの皇太子に、その徳があるかどうか疑問だと思ったので、つい口をついて出た。おそるおそる見上げると、煌翔はおこっている風ではなかったが、まるで初めて見る生き物を観察でもするかのような視線を向けてきた。

おもしろい女だな。俺に向かってそんな口をやつは初めてだ。まだ何か言いたいんだろう。お前の話は面白いから聞いてやる。思った事を言ってみろ」

 うながされて迷ったものの、正直に自分の気持ちを口にした。

「きっとあなたの周りには、そのごうまんさをいさめる人がいないのでしょう。だったら、あなたが気の毒です。あなたの傲慢さをばつを受けるかくを持って諫める人がいないという事は、周りの人にめぐまれていないという事でしょうから」

 考えを言葉にすれば、罰を受けるかもしれないとわかってはいた。それでも勇気をしぼった。彼は一年後にはこの国の皇帝となる。皇帝になっても傲慢さを改めず、それを諫める人もいないのでは、この国はどうなってしまうのだろうという不安が大きかった。

 煌翔がいつしゆん真顔になった。しかしすぐにしようする。

「本当に面白い女だ。名前は凜莉だったな。覚えておこう。大人しそうだが、案外気は強そうだ。今日は急ぐから、これぐらいでかんべんしてやる。今度会った時は、お前のその鼻っ柱を折ってやるから覚悟しておけ」

 廊下を去っていく煌翔は後ろ姿さえ美しかったが、彼の心は外見とはまったく違うようだ。

「どうしよう。怒らせちゃったわよね。しかも、調ちようこう会に参加したいって言い出せなかった」

 追いかけようかと思ったが、自分に対していい感情はもっていないだろう煌翔に、いま調香会の話をするのは得策ではないと思った。時間をおいて改めてこうしようする方がいいと息をつく。

「ああ、わたしの馬鹿。間違った事は言ってないけど、何のためにここにきたのよ」

 廊下に面した庭に向き直り、思わずしゃがみ込んでらくたんの声を上げた。



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