序章

【序章】



 緑の木々に囲まれた小さな庭には、真ん中にはすの花がかぶ池があった。

 池のほとりに座ったは、目の前のこうから立ち上るかおりを胸いっぱいに吸い込む。

 甘くてやさしい香りは心地ここちいい気分にさせてくれたが、うつむげんで首を横にった。

「いい香りだけど、これじゃないわ。びやくだんきやじやこうりゆうぜんこう、そしてじんこう。これをみんな混ぜ合わせたら、父さまががせてくれたあの香りに近いものができると思ったんだけど、ぜんぜんちがう。あの香りはもっと〝せつない〟香りだったもの」

 以前父が嗅がせてくれたのは、昔から伝わるとても貴重な香で、古すぎて効力はないもののかすかに香りだけはするというものだった。あまっぱいその香りを嗅いだ時、さびしい、悲しい、つらい、でもうれしい、というよくわからない感情で胸がいっぱいになって、なみだがこみ上げた。

 そして最後に残った感情を言葉にすると〝せつない〟だった。

 どうしてもあの香りを再現したくて何度もちようせんしているが、なかなかうまくいかない。

 考え込んでいると、がさっと音がした。振り向くと十歳の自分より少し年上の少年がいた。

(あれ……? 何だか顔が……)

 すぐ近くにいるのに、なぜだか少年の顔がゆがんで見えて、思わず目をこすった。

「甘くて品のいい香りだな」

 声変わりもまだなのか、少年の声はやや高い。

「そうでしょう。でもこれが完成じゃないの。何かが足りないのよね」

 少年が近くにきても、やはり顔や姿が歪んで見えて、知り合いか初めて見る相手かすらわからなかった。だが不思議とこわいとは思わない。なぜだろうと考えて、ふとある事に気付く。

「あなたから優しい香りがするわ。でも悲しんでいる香りもする。何かあったの?」

「香り? 香りで他人の気持ちがわかるのか? そんな鹿な」

「馬鹿じゃないわ。わたしの特技は〝絶対きゆうかく〟なのよ。ようするに、とっても鼻がくの。あなたからただよってくる香りで、あなたの気持ちがなんとなくわかるの。父さまはわたしの鼻が、相手のあせの香りの変化を嗅ぎ分けるんだろうって言ってた」

「信じられない話だな。……だが確かに悲しい事はあった。それで辛い気持ちになっている。でも顔にも態度にも出していないし、だれも気付かなかったのに」

 そっと近づいて再び香りを嗅ぐと、頭に冷たい雨にうたれてふるえている子犬が浮かんだ。

「悲しみの香りが強くなっていくわ。とても辛くて寂しい思いをしたのね。……泣かないで」

 顔ははっきりしないが、少年が涙を浮かべた気がした。手を差し出すと、少年がまどいつつも手をにぎる。少年の手は冷えていて、そこから彼の悲しみが伝わってくるような気がした。

「泣いてたなんて、誰にも言うなよ」

 ぶっきらぼうだが、強がっているのが伝わってくる声だった。

「うん、絶対に言わない。だから、まんしなくていいよ」

 なぜか他人とは思えなくて、感情が高ぶって涙がこみ上げた。両手を握り合って寄りい、額をこつんとあわせる。額にじんわり少年の熱を感じながら二人で泣きじゃくった。

 少年の悲しみに寄り添って、どれぐらいっただろう。少年がようやく泣きんだ。

「悲しい気持ちをかくしていたのに気付かれたのは初めてだし、いつしよに泣いてくれた人も初めてだ。すごく嬉しかった。……そういえば、君は名前はなんというんだ?」

 少年の名前を自分も知りたいと思った。彼がどこに住んでいて、どういう風に育って、いつもどんな遊びをしているのかも。初めて会った相手にそんな気持ちを持つなんて初めてで、戸惑いつつも彼の名前を聞くにはまず自分から名乗るのがれいかと、胸に手を当てた。

 名乗ろうと口を開いたしゆんかん、がさがさっと植木が折れそうなほどの大きな音がした。目をやると、黒しようぞくの男が数人立っている。顔を隠している彼らからは〝危険〟な香りがした。

つかまえろ!」

 男達の視線が少年に向かっているのに気付いて、とっさに香の灰を彼らに投げつける。

「誰か! 誰か助けてーっ」

 大人の男を前にしてこわくて足がすくんでいたが、精いっぱいの大声を上げた。きようよりも、悲しい思いをしている少年を、これ以上辛い目にあわせたくないという気持ちの方が強かった。





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