第一章 その一
【第一章 その一】
「助けてーっ」
見慣れたその光景が、この数年ずっと暮らしている自分の部屋だとわかってほっとした。
「またあの夢を見たのね……。子どもの
常に少年の顔は歪んでいてわからない。彼との会話は夢のたびに変わるが、必ず少年を捕まえようとする男達が現れて目が覚める。首を
「ただの夢だし、まあいいか」
いつもと同じ結論に
「お
思わず
小さな窓を開けると、同じような古びた長屋が建ち並び、
それでも、真光に住む人々は毎日元気だった。
「今日も
みんなに負けじと気合いを入れ、さっそく朝食を作る
「食事の後片付けは、わたしがするわ。母さま」
凜莉は食器を持って立ち上がり、母の
「
「でも顔色が悪いわ、また熱が出ているんじゃない?」
四十に手が届こうとしている蓮歌は、細身で背も低く、顔立ちはまるで少女のようだった。
「平気よ。凜莉は頑張ってお仕事しているんだもの。家事ぐらいは私がしなくちゃ」
頑張り屋の母だが、昔から
「お仕事っていっても、大好きな香を調合しているだけだから、ぜんぜん苦じゃないわ。あんまりお金にはならないから
手を差し出すと、蓮歌が
「ありがとう。じゃあ、凜莉に甘えちゃおうかしら。それにしても、凜莉は女の子だけど
この
香を調合して様々な効能を発揮させる者達を香士と呼び、彼らは医師と同じくらいに尊敬されていた。
実は父は以前、その香道省の
母の思い出話を聞くと、
「お父様は私の
子どもの頃の話で、そんな事を言った事すら覚えていない。しかし母を守りたいという気持ちはいまも変わっていなかった。蓮歌が窓の外へと目を向ける。
「お父様が事故で亡くなって、もう六年ね……」
蓮歌の言葉で、父の顔を思い浮かべようとした。その途端、頭がズキリと痛む。
思わず顔をしかめそうになったが、何とか
(危ない危ない。頭痛がするって言ったらまた母さまが心配するわ。だけど、どうしていつも父さまの事を思い出そうとすると、頭が痛くなるのかな……?)
頭痛を堪えつつ思い出した父の顔はかなりおぼろげだ。父と遊んだりした
(あの時は特別だよって言われて喜んでいたけど、いま考えるとわたしの嗅覚を調合に生かしたかっただけよね。だって宮廷の思い出と言えば、散らかっている父さまの調合室でいろんな種類の
香の種類は大きくわけて二つある。一つは香木と呼ばれる
そしてもう一つは、
父はたまに、何の木を原料として作られた香木かわからないものを手に入れてくる。その香木を調べ、原料として予想される種類をいくつか
香木の香りを嗅いで原料が何か当てると〝凜莉の嗅覚はすごいな!〟と父は
「母さま。そろそろ香の時間よ。最近
父が亡くなってから、母は
「あら、凜莉。今日は直接火をつける香じゃないのね」
「ええ、練り香を作ってみたの。香料を粉末にして
練り香を炭の上に置くと、しばらくして奥ゆかしい香りが部屋いっぱいにたちこめた。
香りを吸い込むと、静かな池のほとりで一羽の水鳥が羽を休めている光景が頭に
「いい香りね。甘すぎずきつすぎず、とても
蓮歌の肩から力が
「さすが母さまね、当たりよ。練り香に伽羅を入れてみたの。伽羅はいつもは高くて買えないんだけど、この間
医療所では医師と香士が協力して
「凜莉の調合の才能もお父様
蓮歌の声が凜として
「秘宝香……。神瑞国に伝説のように語り
それは神瑞国に伝わる、小さな子どもでも知っている話だった。
秘宝香はどんな敵でも
香道省の長だった父は、その秘宝香の調合を成功させようと命をかけていた。
「わたしも父さまは秘宝香を完成させていたと信じているわ。父さまの顔もよく覚えていないけど、〝凜莉、秘宝香がとうとう完成したぞ!〟って言って喜んでいたのは覚えているもの」
何百年も
「でも父さまは
秘宝香が完成したと自分を
「父さまは確かに秘宝香を完成させていたのよ。だけど秘宝香の
「そうできたらお父様の
心配そうな顔つきの蓮歌に大きく
「ええ。父さまの顔も満足に覚えていないけど、わたしには記憶以外に
それは父が亡くなった時からずっと考えていた事だ。その為に毎日香の勉強に
蓮歌が心配そうな顔のまま、首を
「でも秘宝香に使うような香料は特別なものばかりで、香道省にいないと手に入らないってお父様から聞いたわ。香道省に入るには香士にならないといけないけど、凜莉は女の子でしょう。女の子は香士にはなれないわ」
それは父の名誉を回復させたい自分にとって、たちはだかる大きな
口元に手を当てて考え込む。
「香道省で働く為には、まず国試を受けて香士の資格を取らないといけないのよね。だけど、国試は男性しか受けられない。その上、宮廷で働く為には科挙に受かって官人にならないといけないけど、それもまた男性しか受けられない」
努力で解決できるならどんな事でもするつもりだ。しかし女だから香士になれず、宮廷にも勤められないと言われては、どうする事もできなかった。
「香士として宮廷の香道省に入らないと、秘宝香を作るのに必要な材料も道具も手に入らない。いまのままだと父さまが正しかったって証明するのは不可能に近いわ。だけど、わたしは
決意は固かった。蓮歌が、ようやく
「凜莉の意志の強さはお父様譲りだものね。あなたの事を信じているわ。凜莉の嗅覚は特別だってお父様もよく言われていたもの。でも、あまり危ない事はしないでね」
「わかってるわ。あっ、もうそろそろ行かなくちゃ。母さま、ゆっくりしててね」
約束していた時間が
真光の医療所は今日も人でいっぱいだ。凜莉が裏口の戸を
「ああ、凜莉。やっと来たか。待ってたんだ!」
白い衣服の中年男性は、この医療所の
「
「いつもありがとう。凜莉が調合する香は、
声には心の底から残念そうな響きがあった。
「でもわたしが香士になったら、こんなに安い値段で医術に使う香は手に入りませんよ」
医療所には医師とともに香士がいるのが
しかし正式な香士が調合する香は自分が調合する香の倍の値段がする。
だから効き目はばっちりだという事を確認して、澄明は内緒で買ってくれていた。
「それを言われると痛いな。ここは貧民街の医療所で薬だってまともに買えないんだから」
「先生! 患者さんがお待ちですよ!」
戸の中から声がして、澄明が慌てて頷いた。そして声を
「今日も
「小遣い稼ぎって〝あれ〟ですか? でもあれっていろいろまずいと思うんですよね……」
ひそひそ話しながら
「そんな事を言わないで。実は今日は大切なお客様がいらっしゃるんだ。だからそれまでに診察を終えたいんだけど、患者でごったがえしてる。手伝ってくれよ」
小さな医療所に患者がごったがえすわけは、澄明が金がないならつけでいいと言ってくれるからだ。下町の人々は、総じて生活が苦しい。それをわかっているからこそ、澄明は
「大切なお客様っていったい誰なんですか?」
「聞いて
澄明が
「煌翔様って皇帝のご子息の煌翔様ですか!? そんな
煌翔は皇太子として国内だけにとどまらず、国外でも評判が高いと聞いていた。
見た事はないが、
「知り合いの知り合いの知り合いに
ぶしょうひげの澄明は見かけは
「なるほど。じゃあ今日は気合いを入れないとですね。ではわたしにできる事はお手伝いします。先生にはいつもお世話になっているし」
「ありがとう。じゃあ、診察に来た患者にいつものやつを頼むよ」
澄明に慌ただしく招き入れられて、裏口から医療所に足を
凜莉は、
「先生が来るまでにもう少し時間がかかるので、先にお話を聞かせてくださいね」
白衣をまとい帳面と筆を持って、目の前に来た少年を見つめた。少年は十二、三歳で、
(痛みを
「
少年が顔を上げて、目を
「まだ何も言っていないのに、どうして痛いってわかるの?」
不思議そうな顔をしている少年に向かって、
(痛みを堪えていると独特の
その微妙な違いを、自慢の嗅覚は
開放された空間でもわからない事はないが、息がかかるほど近くに相手がいないと難しかった。そして複数の人間がいる
澄明に頼まれて、何度かこの嗅覚を使って
だから
「右腕の
少年が右腕を上げた。
腕を軽く
(この汗の香りからすると、痛みはそうひどくないみたい。骨折まではしてないようね)
これなら、急いで澄明が
「じゃあ、痛みをとる
部屋に備えてある
ほどなくして、白い
「……いい香りだね。何だか痛みが遠のいていっている気がするよ。────ありがとう」
目を
閉めた戸に背をもたせかけて、少年の言葉を思い出すと、ふわりと心が温かくなった。
「ありがとう、か」
医療所でこの言葉を聞くたび、香の調合ができる事に感謝する。小さな時から父のような香士になりたいと思っていたが、医療所で香の効能を
「女は香士の国試を受けられないのよね……」
国試に受かって初めて、堂々と香士と名乗れる。
蓮歌ともその話をしていたが、やはりいまの自分では香士の資格をとるのは無理だった。
「何とかできないかしら……」
考え込みつつ、少年の怪我の事を報告しようと、澄明のいる診察室に足を向ける。
待合室を通ろうとすると、人だかりができている事に気付いて足を止めた。
「何かな……? あ、もしかして!」
「わあ! かっこいい……!」
思わず
「そうよね。煌翔様って
興奮した女性が、
その話通り、皇太子の姿はここにいるたくさんの人々の
髪と瞳の色もそうだが、龍の末裔と言われるのも頷けるほど
年はおそらく
背の高い彼は
「……これだけたくさんの人をあなた一人で診察するのは大変でしょう」
聞こえて来た煌翔の声も、低音の美声だった。澄明が
「ええ。真光の町に住む人々は、あまり
煌翔が気の毒そうな顔をしつつ、澄明の
「わかりました。この医療所へ寄付金を納めましょう」
「本当ですか!?」
「ええ、あなたのような徳の高い医師のお手伝いができるのは
澄明の顔がぱあっと明るくなったのを見て、こちらまで嬉しくなった。
(やったわね! 先生。これで少しは経営状態もよくなるんじゃないかしら。もう一人医師が欲しいって前からずっと言ってたし。それにしても、優しそうな皇太子様だわ。言葉も
ふと
「皇太子様を見たのは初めてだけど何かひっかかるのよね。うまく言えないけど。……ん?」
なぜか煌翔を見ると、もやもやした。考え込んでいると、ふと右手から
本当ならこんなに大勢の人がいたら、汗の香りが混ざり合ってよくわからなくなるはずだ。
それでも気付いたという事は、近くにいる人物がそうとうひどい発作を起こしたのだ。右手を見ると、さきほど煌翔を見て?を染めていた女性が、赤黒い顔色になって目を
「ううっ……!」
女性が
「大丈夫!? しっかり!」
「どうした!? 凜莉」
やってきた澄明が同じく隣でしゃがみ込む。
「先生、この人胸の病気でしょう。呼吸がしにくくて苦しんでいる時の香りがする」
「そうだ。肺が悪いんだ。呼吸ができていないのか!?」
澄明が口元に手を当てた。そして
「急いで息をさせないと!」
澄明が女性の鼻を押さえて、口うつしで息を
「わたしいいものを持っているわ。香炉をちょうだい!」
手元に持っていた
それに包みの中にあった
香炉を女性の
するとしばらくして、少しずつ女性の顔色が生気を取り
「……よし、自力で呼吸ができるようになってきた。これなら大丈夫だ。おい、彼女を運ぶぞ」
澄明が呼ぶと、白衣をきた手伝いの男が数人やってきた。
全員で女性をそっと
「凜莉、助かったよ。最後は完全に呼吸が止まっていたから、私の処置だけでは
「いいえ。先生の処置が早かったんです。香はあくまで
澄明と話していると、ふいに背後から声がした。
「凜莉? 凜莉なのか?」
「あっ、お久しぶりです。木蓮!」
思わず
「久しぶりだね。凜莉。最近
「ええ。……あの、わたしに話しかけたりして
(木蓮は五年前、真光にいたわたし達を訪ねてきたのよね。父さまには世話になったって言って、そのあとも何度も様子を見に来てくれて。わたしに香の調合の手ほどきをしてくれた
見上げると、木蓮が
「大丈夫だよ。私は急病で来られなくなった薬道省の
片目を瞑った木蓮は、まるでいつも家に来てたわいない話をしている時と同じ口調だ。
さすがに皇太子が近くにいるのにまずいのではと
「木蓮、彼女は?」
一人であたふたしていると、皇太子の煌翔に声をかけられた。
木蓮が振り向いて
(うわっ! どうしよう。皇太子様がこんな近くに……!)
緊張でがちがちに
「彼女は凜莉と申します。私の知り合いでして」
整った顔立ちの煌翔にじっと見つめられて、内心では
「凜莉というのか。さきほどは見事だったな。
柔らかい口調と表情の煌翔が首を
「いえ、あの、はい……」
病気の〝
「そうか。それにしても香を焚く技術も
どうやら手放しで
嬉しくなって、両手を組んで頭を下げるという最上級の礼を
「皇太子様からお褒めの言葉を
「ほう。ずいぶん
木蓮がこちらに目をやった。
「彼女はもともと貴族の生まれなのです。女性ですが香の調合も上手で、もし女性も国試を受けられるなら、いい香士になれるのにもったいないと思っているのです」
「なるほど。確かに素晴らしい腕前だった。女性が香士となるのはさすがに無理だが、これからも
皇太子の言葉に深々と礼をする。彼が背を向けたのを見て、心の中で言われた事を
(女性が香士となるのはさすがに無理か────。やっぱりどれだけ努力しても女性は正式な香士にはなれないのかな)
いつか女性も香士になれると信じて
「凜莉、用があるから、あとから家に行くよ。いい?」
「ええ。医療所の手伝いが終わったらもう帰るから、夕方は家にいると思う」
「わかった。じゃあ、あとでね」
木蓮が軽く手を振って、煌翔のあとに続いた。彼のように、みんなに認められる香士になって香道省に入り、秘宝香の研究をしたい。その夢は、自分が女性というだけで
それが
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