第一章 その一

【第一章 その一】


「助けてーっ」

 さけんだたん、凜莉は目が覚めた。かたいきをしつつぼうぜんとしていたが、ようやく辺りを見るゆうができる。せまい室内はところどころ小さな穴があいていてすきま風がひどかった。

 見慣れたその光景が、この数年ずっと暮らしている自分の部屋だとわかってほっとした。

「またあの夢を見たのね……。子どものころから何度も見てるけど、いつも黒装束の男達があの男の子を捕まえようとしたところで目が覚めるわ。何で同じ夢ばかり見るんだろう」

 常に少年の顔は歪んでいてわからない。彼との会話は夢のたびに変わるが、必ず少年を捕まえようとする男達が現れて目が覚める。首をひねって考えていたが、やがて息をついた。

「ただの夢だし、まあいいか」

 いつもと同じ結論に辿たどり着いて、立ち上がってびした。そしてくんくんと鼻を鳴らす。

「おとなりの朝ご飯はおかゆね。ほうれん草入りだなんてごうだわ。うらやましい」

 思わず微笑ほほえんだ。黒いひとみは大きくてぱっちりしているが、顔立ちはそこそこで十六歳の割には女らしくないやせぎすの体型。背中までのくろかみつややかだと言われるが、びんぼうなおかげでかみかざり一つもっていないので、いつも頭の上で一つに結んでいる。特別美人なわけでもなく色気もない。そんな自分が人にまんできる事と言ったら、どんなにおいも嗅ぎ分けるこの鼻だけだ。

 するどい嗅覚は窓を開けなくても、長屋の隣に住む家族の朝食が何かき止められた。

 小さな窓を開けると、同じような古びた長屋が建ち並び、せいのいい声があちこちから聞こえてきた。ここはしんこうと呼ばれる町だ。しよみんが住む下町で、決してみんなゆうふくではない。

 それでも、真光に住む人々は毎日元気だった。

「今日もいそがしいけど、がんらなくちゃ!」

 みんなに負けじと気合いを入れ、さっそく朝食を作るために部屋を出た。






「食事の後片付けは、わたしがするわ。母さま」

 凜莉は食器を持って立ち上がり、母のれんに顔を向けた。机をこうとしていた母が微笑む。

だいじようよ。凜莉は仕事もあるんだし」

「でも顔色が悪いわ、また熱が出ているんじゃない?」

 四十に手が届こうとしている蓮歌は、細身で背も低く、顔立ちはまるで少女のようだった。

「平気よ。凜莉は頑張ってお仕事しているんだもの。家事ぐらいは私がしなくちゃ」

 頑張り屋の母だが、昔から身体からだが弱くてすぐに熱を出す。無理をして欲しくなかった。

「お仕事っていっても、大好きな香を調合しているだけだから、ぜんぜん苦じゃないわ。あんまりお金にはならないからぜいたくはできないけど、母さまとわたしだけだったら何とか暮らしていけるし。だから何も気にしないでゆっくりしてて。机はわたしが拭くから」

 手を差し出すと、蓮歌がしようしつつきんわたしてくれる。

「ありがとう。じゃあ、凜莉に甘えちゃおうかしら。それにしても、凜莉は女の子だけどたくましいわね。そういうところはお父様そっくり。お父様もお仕事が大好きだったの。立派な香士としていろんな人のなやみや苦しみを香で解決していらしたのよ」

 このしんずいこくでは、薬と同等に香がちんちようされている。

 香を調合して様々な効能を発揮させる者達を香士と呼び、彼らは医師と同じくらいに尊敬されていた。きゆうていにも香道省と呼ばれるゆうしゆうな香士達が集まる部署があるぐらいだ。

 実は父は以前、その香道省のおさだった。

 母の思い出話を聞くと、みが浮かんだ。母の話しぶりからは父への愛情が伝わってくる。

 なかむつまじいふうだったらしく、二人の間に生まれたのは幸福だと思えた。蓮歌が目を細める。

「お父様は私のほこりだわ。お父様がくなった時は悲しくて何日も泣き暮らしたけど、凜莉が〝母さま、大丈夫だよ、わたしが守ってあげるよ〟ってなぐさめてくれたから、もう一度前に進もうって思えるようになったの」

 子どもの頃の話で、そんな事を言った事すら覚えていない。しかし母を守りたいという気持ちはいまも変わっていなかった。蓮歌が窓の外へと目を向ける。

「お父様が事故で亡くなって、もう六年ね……」

 蓮歌の言葉で、父の顔を思い浮かべようとした。その途端、頭がズキリと痛む。

 思わず顔をしかめそうになったが、何とかこらえた。

(危ない危ない。頭痛がするって言ったらまた母さまが心配するわ。だけど、どうしていつも父さまの事を思い出そうとすると、頭が痛くなるのかな……?)

 頭痛を堪えつつ思い出した父の顔はかなりおぼろげだ。父と遊んだりしたおくはほとんどないが、ないしよでよく宮廷に連れて行ってもらったのは覚えている。

(あの時は特別だよって言われて喜んでいたけど、いま考えるとわたしの嗅覚を調合に生かしたかっただけよね。だって宮廷の思い出と言えば、散らかっている父さまの調合室でいろんな種類のこうぼくかおりをいだ事だけだもの)

 香の種類は大きくわけて二つある。一つは香木と呼ばれる心地ここちよいほうこうを放つ木材だ。香木はいろんな木の枝や根をかんそうさせたり、木材を地中にまいぼつさせてじゆぎようしゆうさせて作られる。そのままけずって加熱し、香りを出すのがいつぱん的だ。

 そしてもう一つは、り香と呼ばれる香木や香料などを粉末にして混ぜ合わせて加熱し、香りを出すものだ。ほかにもいくつか種類はあるが、その二つをそうしようして香と呼ぶ事が多かった。

 父はたまに、何の木を原料として作られた香木かわからないものを手に入れてくる。その香木を調べ、原料として予想される種類をいくつかしぼりこんだあと、自分の出番となった。

 香木の香りを嗅いで原料が何か当てると〝凜莉の嗅覚はすごいな!〟と父はめてくれた。

 なつかしい思い出にひたりつつ机を片付けて、たなに置いていたこうを持ってくる。

「母さま。そろそろ香の時間よ。最近ねむりが浅いって言ってたでしょ。気持ちを落ち着ける香を用意したから、ためしてみて」

 父が亡くなってから、母はきが悪くなったり眠りが浅くなったりしていた。もともと身体がじようではないので、すいみんがとれないと体調をくずしやすい。だから昨夜、父から教わった気持ちが落ち着いてよく眠れる香を調合していた。机に置いた香炉はとうで出来ていて、手の平に収まる大きさだ。朝食の用意をする時に使った炭のかけらをばしはさんで香炉に入れる。

「あら、凜莉。今日は直接火をつける香じゃないのね」

「ええ、練り香を作ってみたの。香料を粉末にしてみつで練って丸めたのよ。炭の上に置いてじわじわ温めて香りを出すの。効果が出るまで時間がかかるけど、たまにはいいかと思って」

 練り香を炭の上に置くと、しばらくして奥ゆかしい香りが部屋いっぱいにたちこめた。

 香りを吸い込むと、静かな池のほとりで一羽の水鳥が羽を休めている光景が頭にかぶ。

「いい香りね。甘すぎずきつすぎず、とてもてき。……これはきやじゃないかしら?」

 蓮歌の肩から力がけたのをかくにんして、ほっとする。

「さすが母さまね、当たりよ。練り香に伽羅を入れてみたの。伽羅はいつもは高くて買えないんだけど、この間ぐうぜん安く手に入って。他にもいくつか香料を仕入れたから、痛みをとる香も作ったの。あとでりよう所に行って買い取ってもらうわ。今日はごちそうが食べられるわよ」

 医療所では医師と香士が協力してしんさつにあたる事も多く、薬とともに香も用いられていた。

「凜莉の調合の才能もお父様ゆずりね。お父様はとても優秀な香士だった。香道省の長で、宮廷でも一目置かれるほどだったんだから。本当だったら、正香士になる事だって夢ではなかったのよ。だって、お父様は『ほうこう』を完成させていたんだもの」

 蓮歌の声が凜としてひびいた。秘宝香という言葉に身が引きまる思いがして、思わずつぶやく。

「秘宝香……。神瑞国に伝説のように語りがれる香。すべての香士達が求めてやまないけど、完成させた者はいまだかつていない」

 それは神瑞国に伝わる、小さな子どもでも知っている話だった。

 秘宝香はどんな敵でもげき退たいできるという強大な力を持つらしい。らしいというのは、くわしい効能を知るのは皇族と香道省の一部の香士だけで、一般のたみには知らされていないからだ。

 香道省の長だった父は、その秘宝香の調合を成功させようと命をかけていた。

「わたしも父さまは秘宝香を完成させていたと信じているわ。父さまの顔もよく覚えていないけど、〝凜莉、秘宝香がとうとう完成したぞ!〟って言って喜んでいたのは覚えているもの」

 何百年もだれも成功しなかった秘宝香を作るというぎようを成しげた父は、香士の頂点である正香士を名乗れるはずだった。

「でも父さまはこうてい陛下に秘宝香をろうしようとして失敗し、宮廷でうそつき呼ばわりされた」

 くやしさでくちびるんだ。

 秘宝香が完成したと自分をかかえ上げてはしゃいでいた父は、決して嘘はついていなかった。

「父さまは確かに秘宝香を完成させていたのよ。だけど秘宝香ので失敗したあと、すぐに事故で亡くなってしまったから、秘宝香作りに成功したってしようはない。でもね、母さま。わたしは絶対に父さまが秘宝香を作り上げていたって証明してみせるわ」

「そうできたらお父様のめいも回復できるからうれしいけど、でもそんな事が本当にできるの?」

 心配そうな顔つきの蓮歌に大きくうなずいた。

「ええ。父さまの顔も満足に覚えていないけど、わたしには記憶以外にたよりになるものがあるわ。わたしの〝絶対きゆうかく〟は父さまが秘宝香作りの時に使っていた香料を覚えているはず。鼻が覚えている通りに調合して秘宝香を作り上げたら、父さまは正しかったって証明になるわ」

 それは父が亡くなった時からずっと考えていた事だ。その為に毎日香の勉強にはげんでいる。

 蓮歌が心配そうな顔のまま、首をかしげた。

「でも秘宝香に使うような香料は特別なものばかりで、香道省にいないと手に入らないってお父様から聞いたわ。香道省に入るには香士にならないといけないけど、凜莉は女の子でしょう。女の子は香士にはなれないわ」

 それは父の名誉を回復させたい自分にとって、たちはだかる大きなかべだった。

 口元に手を当てて考え込む。

「香道省で働く為には、まず国試を受けて香士の資格を取らないといけないのよね。だけど、国試は男性しか受けられない。その上、宮廷で働く為には科挙に受かって官人にならないといけないけど、それもまた男性しか受けられない」

 努力で解決できるならどんな事でもするつもりだ。しかし女だから香士になれず、宮廷にも勤められないと言われては、どうする事もできなかった。

「香士として宮廷の香道省に入らないと、秘宝香を作るのに必要な材料も道具も手に入らない。いまのままだと父さまが正しかったって証明するのは不可能に近いわ。だけど、わたしはあきらめない。きっと何か方法はあるはずよ。絶対に秘宝香を作ってみせるわ」

 決意は固かった。蓮歌が、ようやく微笑ほほえむ。

「凜莉の意志の強さはお父様譲りだものね。あなたの事を信じているわ。凜莉の嗅覚は特別だってお父様もよく言われていたもの。でも、あまり危ない事はしないでね」

「わかってるわ。あっ、もうそろそろ行かなくちゃ。母さま、ゆっくりしててね」

 約束していた時間がせまっている事に気付いて、あわてて荷物を取りに自室に向かった。






 真光の医療所は今日も人でいっぱいだ。凜莉が裏口の戸をたたくと、すぐに中から開いた。

「ああ、凜莉。やっと来たか。待ってたんだ!」

 白い衣服の中年男性は、この医療所のおさちようめいだ。

おそくなってごめんなさい。香を持ってきました」

 ぬのぶくろを開けていくつもの白い包みを見せると、澄明はさっと確認してから受け取った。

「いつもありがとう。凜莉が調合する香は、かんじやさん達に大好評だよ。女性の香士も認められれば、凜莉は立派な香士になれるだろうにね」

 声には心の底から残念そうな響きがあった。

「でもわたしが香士になったら、こんなに安い値段で医術に使う香は手に入りませんよ」

 医療所には医師とともに香士がいるのがつうだが、澄明の医療所には香士をやとうだけのゆうはなかった。本来なら、香士の資格がない自分が作った香を買うのはとがめられるこうだ。

 しかし正式な香士が調合する香は自分が調合する香の倍の値段がする。

 だから効き目はばっちりだという事を確認して、澄明は内緒で買ってくれていた。

「それを言われると痛いな。ここは貧民街の医療所で薬だってまともに買えないんだから」

「先生! 患者さんがお待ちですよ!」

 戸の中から声がして、澄明が慌てて頷いた。そして声をひそめる。

「今日もづかかせぎしていかないか? いそがしくて忙しくて私一人では手が回らないんだよ」

「小遣い稼ぎって〝あれ〟ですか? でもあれっていろいろまずいと思うんですよね……」

 ひそひそ話しながらしぶい顔をすると、澄明が拝むように両手を顔の前であわせた。

「そんな事を言わないで。実は今日は大切なお客様がいらっしゃるんだ。だからそれまでに診察を終えたいんだけど、患者でごったがえしてる。手伝ってくれよ」

 小さな医療所に患者がごったがえすわけは、澄明が金がないならつけでいいと言ってくれるからだ。下町の人々は、総じて生活が苦しい。それをわかっているからこそ、澄明はしんりよう代を待ってくれる。しかしそのせいでまともに薬や香が買えなくて、自分のような資格なしの香士もどきから必要なものを買わなければならない事態におちいっていた。

「大切なお客様っていったい誰なんですか?」

「聞いておどろけ。神瑞国の皇太子、こうしよう様が医療所を視察にいらっしゃるんだ」

 澄明がまんげに胸をそらせた。その名前を聞いて、思わず耳を疑う。

「煌翔様って皇帝のご子息の煌翔様ですか!? そんなえらい方がなぜこんな下町の医療所に?」

 煌翔は皇太子として国内だけにとどまらず、国外でも評判が高いと聞いていた。

 見た事はないが、うるわしくてれいただしく、父である皇帝のとして政治や外交にかかわっているという。下町に住む自分にとっては、まさに雲の上のような存在だ。

「知り合いの知り合いの知り合いにたのんで、医療所に国から寄付金をもらえないか頼んだら、どういうわけか煌翔様が視察にいらっしゃる事になったんだ。今日の視察がうまくいけば、多額の寄付金を頂けるかもしれない。その金があったら、もう一人医師も雇えるし設備も増やせるし、もっと患者も受け入れられる。今日は正念場なんだ」

 ぶしょうひげの澄明は見かけはこわそうだが、とても患者の事を考えるやさしい医師だった。

「なるほど。じゃあ今日は気合いを入れないとですね。ではわたしにできる事はお手伝いします。先生にはいつもお世話になっているし」

「ありがとう。じゃあ、診察に来た患者にいつものやつを頼むよ」

 澄明に慌ただしく招き入れられて、裏口から医療所に足をみ入れた。






 凜莉は、せまい診察室の窓を閉めた。本当はさわやかな風を入れたいが、そうはできない事情がある。準備が終わったころ、診察室の戸が開いて患者が入ってきた。

「先生が来るまでにもう少し時間がかかるので、先にお話を聞かせてくださいね」

 白衣をまとい帳面と筆を持って、目の前に来た少年を見つめた。少年は十二、三歳で、うすよごれた着物を着ている。用意されたにおずおず座った少年を見て、鼻をくんくんさせた。

(痛みをこらえているかおりがするわ。みぎうでかばっているみたい。もしかしたら……)

うでが痛いの?」

 少年が顔を上げて、目をまたたかせた。

「まだ何も言っていないのに、どうして痛いってわかるの?」

 不思議そうな顔をしている少年に向かって、あいまいに微笑んだ。

(痛みを堪えていると独特のあせが出るのよね。その汗の香りでわかるなんて信じないわよね)

 身体からだに起こった様々な変化によって、出る汗の香りがみようちがう。

 その微妙な違いを、自慢の嗅覚はぎ分ける事ができた。澄明に便利な鼻だと感心されるが、実はそうそう何でも都合良くわかるものでもない。まず相手の汗の違いがわかるには、密閉された部屋に二人でいなければならない。だからこの部屋の戸も窓も閉め切っていた。

 開放された空間でもわからない事はないが、息がかかるほど近くに相手がいないと難しかった。そして複数の人間がいるかんきようではよほど相手の汗の香りが強くないと、他人のものと混じり合って香りが変化するので嗅ぎ分けるのは厳しくなる。

 澄明に頼まれて、何度かこの嗅覚を使ってしんだんの手伝いをしていた。汗の香りを嗅いでや病気の内容をさぐり、いますぐ治療が必要か、それとも少し待ってもらってもだいじようか判断するのが仕事だ。医療所はいつも人であふれていて、澄明が一人で全員をすぐにるのは不可能だ。

 だからきんきゆうかそうでないかの判断をしていた。

「右腕のひじより下のところが痛いの。農作業してて転んじゃって」

 少年が右腕を上げた。そでをめくると、肘の下辺りに青黒いあざができている。

 腕を軽くさわりつつ、顔を少年に近づけた。少年の汗の香りが、さらにわかりやすくなった。

(この汗の香りからすると、痛みはそうひどくないみたい。骨折まではしてないようね)

 これなら、急いで澄明がしんさつする必要はないかと思った。

「じゃあ、痛みをとるこうくわ。それを嗅ぎながら先生を待ってて」

 部屋に備えてあるこうに、さきほど持ってきた香を入れ、火打ち石で火をつけた。

 ほどなくして、白いけむりが上がり始める。その煙を嗅いだ少年がそっと目を閉じた。

「……いい香りだね。何だか痛みが遠のいていっている気がするよ。────ありがとう」

 目をつぶったまま微笑んだ少年にうなずいて、そっと部屋を出た。

 閉めた戸に背をもたせかけて、少年の言葉を思い出すと、ふわりと心が温かくなった。

「ありがとう、か」

 医療所でこの言葉を聞くたび、香の調合ができる事に感謝する。小さな時から父のような香士になりたいと思っていたが、医療所で香の効能をの当たりにするようになってからは〝人をやす香士〟になるのが夢になった。ただ、夢をかなえるためには一つ、大きな問題がある。

「女は香士の国試を受けられないのよね……」

 国試に受かって初めて、堂々と香士と名乗れる。

 蓮歌ともその話をしていたが、やはりいまの自分では香士の資格をとるのは無理だった。

「何とかできないかしら……」

 考え込みつつ、少年の怪我の事を報告しようと、澄明のいる診察室に足を向ける。

 待合室を通ろうとすると、人だかりができている事に気付いて足を止めた。

「何かな……? あ、もしかして!」

 びして人だかりの先を見つめた。そして思わず目を見開く。

「わあ! かっこいい……!」

 思わずれた言葉に、となりにいた女性が頷いた。

「そうよね。煌翔様っててきだわ。こんな間近で見たの初めてよ!」

 興奮した女性が、ほおを染めて前方に目をやっている。視線の先にいるのは、赤毛のちようはつを背中で一つに結び、はいかつしよくの切れ長のひとみをした青年だ。神瑞国のたみはみな黒いかみと黒い瞳をしているが、皇族だけは違う。彼らはりゆうまつえいといわれ、民とは違う髪と瞳の色をしていた。

 その話通り、皇太子の姿はここにいるたくさんの人々のだれとも違っていた。

 髪と瞳の色もそうだが、龍の末裔と言われるのも頷けるほどはくりよくげんがあった。

 年はおそらく二十歳はたち前後だろう。整った男らしい顔立ちで、はくいろの地に皇族のみが着る事を許されるのぼり龍のしゆうが入ったちよくきよを身につけている。

 背の高い彼はやわらかな物腰も相まって、きらきらかがやいて見えた。

「……これだけたくさんの人をあなた一人で診察するのは大変でしょう」

 聞こえて来た煌翔の声も、低音の美声だった。澄明がしんみような顔で頷く。

「ええ。真光の町に住む人々は、あまりゆうふくではありません。しかし病気や怪我は誰でもするものです。医療所はどんな人間も受け入れるかくで続けています。ただ、やはり人件費と薬や香にかかる経費をねんしゆつできなくて」

 煌翔が気の毒そうな顔をしつつ、澄明のかたに手を置いた。

「わかりました。この医療所へ寄付金を納めましょう」

「本当ですか!?」

「ええ、あなたのような徳の高い医師のお手伝いができるのはうれしい限りです。お一人でよくがんっておられると感心いたします」

 澄明の顔がぱあっと明るくなったのを見て、こちらまで嬉しくなった。

(やったわね! 先生。これで少しは経営状態もよくなるんじゃないかしら。もう一人医師が欲しいって前からずっと言ってたし。それにしても、優しそうな皇太子様だわ。言葉もていねいで柔らかいし。みんなから人気があるのもわかるくらい素敵な方ね。でも……)

 ふとまゆが寄った。

「皇太子様を見たのは初めてだけど何かひっかかるのよね。うまく言えないけど。……ん?」

 なぜか煌翔を見ると、もやもやした。考え込んでいると、ふと右手からいやな香りがする。鼻をつんとつく香りは、人が何かのほつを起こす際に一気に汗をかいた時のものだと気付く。

 本当ならこんなに大勢の人がいたら、汗の香りが混ざり合ってよくわからなくなるはずだ。

 それでも気付いたという事は、近くにいる人物がそうとうひどい発作を起こしたのだ。右手を見ると、さきほど煌翔を見て?を染めていた女性が、赤黒い顔色になって目を?いていた。

「ううっ……!」

 女性がのど?きむしるようにして、ばったりとたおれ込む。

「大丈夫!? しっかり!」

 あわててしゃがみ込んで女性をあおきにさせた。女性は気を失っているようだ。顔色がだんだんと黒ずんでいっている。彼女の首筋に鼻を近づけた。放たれる香りには覚えがあった。

「どうした!? 凜莉」

 やってきた澄明が同じく隣でしゃがみ込む。

「先生、この人胸の病気でしょう。呼吸がしにくくて苦しんでいる時の香りがする」

「そうだ。肺が悪いんだ。呼吸ができていないのか!?」

 澄明が口元に手を当てた。そしてうなるように声を上げる。

「急いで息をさせないと!」

 澄明が女性の鼻を押さえて、口うつしで息をき込んだ。

「わたしいいものを持っているわ。香炉をちょうだい!」

 手元に持っていたぬのぶくろから、気道の通りをよくする香の入った包みを取り出した。

 りよう所の手伝いの女性が、心得ているのかすぐに香炉を差し出す。

 それに包みの中にあったり香を入れて火打ち石で火をつけると、白い煙が上がり始めた。

 香炉を女性のかたわらに置くと、すっきりとしたげきのある香りがただよった。何度も直接息を吹き込む動作をり返す澄明の隣で、香炉から上がる煙が女性へいくよう持っていた帳面であおぐ。

 するとしばらくして、少しずつ女性の顔色が生気を取りもどし始めた。

「……よし、自力で呼吸ができるようになってきた。これなら大丈夫だ。おい、彼女を運ぶぞ」

 澄明が呼ぶと、白衣をきた手伝いの男が数人やってきた。

 全員で女性をそっとかかえ上げて、隣の診察室へと運ぶ。

「凜莉、助かったよ。最後は完全に呼吸が止まっていたから、私の処置だけではだったかもしれない。彼女が息を吹き返したのは、お前の香のおかげだ、ありがとう」

「いいえ。先生の処置が早かったんです。香はあくまでしんりようの補助ですから」

 澄明と話していると、ふいに背後から声がした。

「凜莉? 凜莉なのか?」

 り返ると、見知った顔があった。年のころは、二十代後半。肩までのまっすぐな黒い髪。細身だが背は高く、眼鏡をした黒い瞳はやさしげに細められている。彼の名はせいもくれん。香道省の香士達が着るむらさきくみえりじゆくんを着た木蓮は整った顔立ちだが、わずかに垂れた目が優しい印象をあたえる青年だった。

「あっ、お久しぶりです。木蓮!」

 思わず微笑ほほえんだ。しかし辺りを見回して首をすくめる。木蓮の後ろには皇太子の煌翔がいて、護衛らしきくつきような兵士や立派な着物を着た官人もいる。だが木蓮は気にした様子もなかった。

「久しぶりだね。凜莉。最近いそがしくて会いに行けなかったけど、元気だったかい?」

「ええ。……あの、わたしに話しかけたりしてだいじようですか? お仕事で来てるんでしょう。木蓮は香道省のおさなんだから」

 きゆうていには香士達を集めた部署がある。それが香道省だ。木蓮はその香士達をとうかつする長で、この国一番の香士と言っても過言ではなかった。身分が高い貴族でもある彼は、本当なら口をくのもおそれ多い存在だ。しかし彼とは昔から親しくしているあいだがらだった。

(木蓮は五年前、真光にいたわたし達を訪ねてきたのよね。父さまには世話になったって言って、そのあとも何度も様子を見に来てくれて。わたしに香の調合の手ほどきをしてくれたしようでもあるし)

 見上げると、木蓮がにゆうな表情で微笑んだ。彼は身分など気にしないひょうひょうとした男だった。初めて会った時に身分の高い彼を前にしてきんちようして話していたら、自分の事は呼び捨てでいいよと言ってくれた。それでも最初はえんりよして木蓮様と呼んでいたが、いつしか木蓮さんになり、いまでは呼び捨てにていこうもなくなってまるで家族のような存在になっていた。

「大丈夫だよ。私は急病で来られなくなった薬道省のくすの代わりに来ているだけだし。それよりいまのは凜莉の特技を使ったんだろう? 何の病気かまでぎ分けるなんてさすがだ」

 片目を瞑った木蓮は、まるでいつも家に来てたわいない話をしている時と同じ口調だ。

 さすがに皇太子が近くにいるのにまずいのではとあせった。

「木蓮、彼女は?」

 一人であたふたしていると、皇太子の煌翔に声をかけられた。

 木蓮が振り向いてひざまずき礼をしたのを見て、慌ててそれにならう。煌翔が目の前まで近寄った。

(うわっ! どうしよう。皇太子様がこんな近くに……!)

 緊張でがちがちに身体からだかたくしていると、木蓮が一度頭を下げた。

「彼女は凜莉と申します。私の知り合いでして」

 整った顔立ちの煌翔にじっと見つめられて、内心ではずかしいやら恐れ多いやらで大混乱だった。国を守るためにはほのおのように熱く情熱を燃やし、政治の事になると氷のように冷静な判断をするといううわさの皇太子は、民の人気も絶大だ。特に女性からはそうとうな支持を受けていて、それは彼の男らしい顔立ちのせいもあるだろうと容易に想像できた。いままで会った男性の中で、ちがいなく頂点に立つほどの整った顔立ちに、思わずれてしまった。

「凜莉というのか。さきほどは見事だったな。しゆんしようじよういて、処置する医師のとして、症状にあった的確なこういた。……それにしても肺の病気の発作で倒れたとどうしてわかったんだ? 知っていたのか?」

 柔らかい口調と表情の煌翔が首をかしげた。

「いえ、あの、はい……」

 病気の〝かおり〟がしたんですと言っても信じてもらえないだろうと、あいまいに微笑んでうなずく。

「そうか。それにしても香を焚く技術もばやくて見事だった。うでまえに感服したぞ」

 どうやら手放しでめられているようだった。

 嬉しくなって、両手を組んで頭を下げるという最上級の礼をくした。

「皇太子様からお褒めの言葉をたまわるなんて、身に余る光栄です」

「ほう。ずいぶんれいがなっているな。しよみんとは思えない」

 木蓮がこちらに目をやった。

「彼女はもともと貴族の生まれなのです。女性ですが香の調合も上手で、もし女性も国試を受けられるなら、いい香士になれるのにもったいないと思っているのです」

「なるほど。確かに素晴らしい腕前だった。女性が香士となるのはさすがに無理だが、これからもしようじんするといい」

 皇太子の言葉に深々と礼をする。彼が背を向けたのを見て、心の中で言われた事をはんすうした。

(女性が香士となるのはさすがに無理か────。やっぱりどれだけ努力しても女性は正式な香士にはなれないのかな)

 いつか女性も香士になれると信じてがんっているが、こんな時はくじけそうになった。

「凜莉、用があるから、あとから家に行くよ。いい?」

 くちびる?みしめていると、木蓮がそっと耳元でささやいた。はっとして、慌てて頷く。

「ええ。医療所の手伝いが終わったらもう帰るから、夕方は家にいると思う」

「わかった。じゃあ、あとでね」

 木蓮が軽く手を振って、煌翔のあとに続いた。彼のように、みんなに認められる香士になって香道省に入り、秘宝香の研究をしたい。その夢は、自分が女性というだけでかなえられない。

 それがくやしくて悔しくて、たまらなかった。

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