第一章 その二
【第一章 その二】
家に帰り着いたら、母は
ようやく
「凜莉、木蓮だけど、いいかな?」
返事して戸を開けると、下町には不似合いな高級な着物を着た木蓮が立っていた。部屋に招き入れ、机の前にある
「あれ、蓮歌様は?」
「いま眠ってるんです。
「そう。では小さな声で話そうかな。起こすと悪いから」
木蓮らしい
「いい香りだね」
「でしょう。茶屋で一つ一つ香りを確かめて買ったんです。安くてもいいお茶はあるんですよ」
香道省の長である木蓮も香りにはうるさい。その彼に褒められるのは、何より
椅子に座って木蓮と向き合いながら、お茶を口に
「ところで、用って何ですか?」
首を傾げると、木蓮がふいに真顔になって眼鏡を押し上げた。
「実は……ここだけの話にしてほしいんだけど、香道省の長をクビになったんだ……」
悲しげな顔をしている木蓮に、目を見開いた。
「ええ!? 本当ですか? いったいどうしてそんな事に?」
「陛下の食事があんまりおいしそうで、ついつまみ食いしちゃって……」
「何でそんな事をするんですか!?……って、あれ? いい大人がそんな事をするっておかしいですよね。それって本当ですか?」
「いや、
にっこり笑われて、がっくり
「何でいつもそういうくだらない嘘をつくんですか!」
「毎回、本気で
にこにこ顔の木蓮は、
「もう! からかいにきたのなら、
「そう
木蓮の顔が急に
「
「ええーっ!」
部屋に
「しーっ。静かにして。これは香道省以外に
慌てて口元を押さえて、速くなった心臓の動きを
「蘭天木って、あの蘭天木でしょ? 本当なんですか? まさかまた?なんじゃ……」
「これは本当だよ。秘宝香の主原料のあの、蘭天木が手に入ったんだ」
その名前を聞くだけで、身が引き
「秘宝香……それがあれば、どんな強大な敵をも
それはくしくも今朝、母の蓮歌とも話していた内容と同じだった。
「そう。秘宝香は数百年もの間、たくさんの香士が作ろうとして失敗してきた香だ。強大な力を持つと言われる効能を手にしたい
宮廷にある
だが香道省が作られた一番の目的は、秘宝香を作る為だと、以前父に聞いた事があった。
その香道省をもってしても、何百年もの間秘宝香を完成させられなかった。
原因は、主材料の蘭天木が
「蘭天木は確か二十年に一度しか花が
興奮を抑えられなくて
「そう。花が咲いた直後の枝しか香木にはならないんだ。しかも蘭天木は都から
「すごい! それがあれば秘宝香の研究が進むんじゃないですか?」
「ああ。だけど、それでもそこそこの量だ。大量にあるわけじゃない。使い切ったら、また二十年待たないと香木は手に入らないんだ。それで、いまいろいろ宮廷でもめていてね」
木蓮が困った顔で目を
「何でもめているんですか?」
「香木の量が限られているから、それを使って調合に
「調香会?」
香士の資格を得た者は、ほぼ全員が香道省に入りたいと願っていると言ってもいい。
香道省に入れば、宮廷でしか手に入らない
しかし宮廷はいままで、科挙に受かった香士しか香道省に入るのを許していなかった。
それなのに今回は一般の香士も
「ようするに、調香会までに秘宝香を完成させろと
木蓮が大きなため息をついて、
「もし陛下も参加される調香会までに秘宝香を作れなかったら、きっと軍はこれ幸いに香道省を
肩を落としている木蓮に、思わず顔を近づけた。
「いくら軍がそんな横暴な事を言ったって、陛下がお許しになるはずありません。陛下はとても香がお好きで、香道省の運営にも力を入れていると昔父から聞いた事があります」
「それはそうなんだけど、今回ばかりは風向きが悪いんだ。実は皇太子の煌翔様が、一年後に皇帝になられる事が決まってね」
昼間に見た皇太子を思い出す。優しげで
「
「そうなんだけど、ここだけの話、あまり陛下の体調がよくないようなんだ。いまでも皇帝としての実務は煌翔様が引き受けておられるくらいだ。陛下は一年後に退位して、煌翔様を新たな皇帝に
皇帝が体調が悪いなんて、
「それで、煌翔様が皇位を継がれる時までには、どんな敵をも撃退できる強大な力を持つ秘宝香を完成させて国力を上げたいというのが陛下のお考えのようだ。だけど調香会まではあと一月ほどだ。時間的にも厳しいし、完成させる自信はないんだよね」
それは香道省の
「でも秘宝香を完成させないと、香道省が潰されてしまうかもしれない。私は君のお父さん……
父の名は
「わたしも……わたしも秘宝香の調合に挑戦させてください」
「そう言うと思っていたよ。秘宝香は西堂様が一生をかけて調べていたものだからね」
木蓮はそこで言葉を句切って、じっと見つめてきた。
「だけど、秘宝香作りに挑戦できるのは香士だけなんだ。西堂様の調合を見ていた凜莉なら、何か手がかりをもっているかもしれない。だから手伝ってほしいのは山々だけど、国試を受けていない凜莉を宮廷に呼ぶ事はできないんだ」
ぐっと
「でもわたしの鼻は、父さまが調合をしていた時に使っていたものの
胸に手を当てて、木蓮に詰め寄った。
「父さまは秘宝香を完成させていました。それをわたしは証明したいんです!」
父が亡くなってからずっと
「確かに凜莉の
「確かにそうですけど、でも材料と時間さえあれば、必ず分量も調べてみせます。お願いです! わたしに秘宝香を作らせてください!」
蘭天木なんて、宮廷ですら入手するのに苦労するぐらいだ。
「凜莉の気持ちはわかるけど、女性を香士として宮廷に迎え入れるわけには…………あっ!」
木蓮が上げた声に目を見開いた。
「どうしたんですか!?」
「いや、うーんと。女性でも香士として宮廷に入れる方法があるかもなんて思いついて……」
木蓮にしては珍しく歯切れが悪かったが、
「それっていったいどんな方法ですか!?」
木蓮は
「ちょっとお
「難しいかどうかは聞いてから自分で決めます。教えてください!」
母は自分の前では平気な顔をしているが、夫を亡くした悲しみをまだ引きずっているらしく、夜も満足に
夜中にふと目が覚めると、母が声を殺して泣いているのに気付く事もある。
(秘宝香の調合を完成させたいのはもちろんだけど、父さまが秘宝香を作り上げていたって証明したい。父さまの
幸い自分には、絶対嗅覚という才能と、調合の
「お願いです。木蓮。わたしに秘宝香を完成させる機会をください!」
強い意志を込めて訴えると、木蓮が
「すごく正直に言うと、秘宝香を作れるとしたら凜莉が一番近い位置にいると思うんだ。蘭天木は二十年に一度しか手に入らないから、秘宝香作りに挑戦できるのはいまだけ。香道省をあげての大事業になる。もしこれで作れないなんて事になったら本当に香道省の存続は
「だったら、わたしに手伝わせてください。香道省だって、父が勤めていた思い出深いところです。潰されるなんて
「いや、それが香士になれるわけではなくて……ちょっと
「特殊って?」
木蓮がようやく顔を上げ、思い切ったように口を開いた。
「
問いかけられて、思わず考え込んだ。
「女性ばかりの場所?
「厨房には男性だっているよ。そうじゃなくて、その建物には女性だけで、出入りできるのは決まった男性だけ。それ以外の男性がこっそり入ろうものなら、首を切って落とされる。そんな危険で、だけどこの国で一番
考えたあげく、ふとある事を思いついた。
「もしかして、後宮ですか? 皇帝陛下の
木蓮が
「その通り。実は皇太子が皇位につく際は、必ず妻を
後宮と聞いて思い
「それで后妃候補の
木蓮が人差し指を立てて、じっとこちらを見つめた。
「
そこまで聞いてはっとした。
「じゃあ、わたしも后妃候補になれるって事ですか?」
「ああ。ただし、貴族である事が大前提だ。君はもとは貴族だけどいまは下町暮らし。本当なら後宮には入れないけど、私が身元引受人になれば、何とかなるかもしれない」
言葉を句切った木蓮が、そっと
「何より凜莉は才能がある。さっき
「後宮入りしたら、調香会に出られるんですか?」
「そう簡単にはいかないよ。陛下や煌翔様に直接お目にかかり、調香会に出たいと
その言葉を聞いて、ふと不安が心によぎった。
「それって、とても危険な事ですよね。調香会に参加したいが
おそるおそる問いかけると、木蓮が
「ああ、しかもそれだけ危険をおかして後宮に入っても、身分の高い方達に会えるとは限らない。でも香士でもない凜莉が秘宝香作りに参加しようと思うなら、それぐらい
厳しい言葉だったが、本当の事でもあった。木蓮が腕組みする。
「宮廷の外へ蘭天木を持ち出すのは禁止されているから、ここには持ってこられない。調合するのに特別な道具もいるから、宮廷以外の場所での調合は不可能だ。秘宝香の調合に
確かにそれしか方法はないように思えた。後宮なんて見た事もない世界に足を
「父の名誉を回復する為にできる限りの事をしたいんです。後宮に入る事で秘宝香作りに挑戦できる可能性があるなら……わたしは行きます」
思いの
「でもいまさらだけど、後宮は怖いところだよ。后妃候補の姫達がにこにこ笑いながら、びしばし火花を散らして
「わたしも
決意を言葉にすると、木蓮がようやく表情を
「わかった。では私にできる精いっぱいの
夢への第一歩を踏み出す為、さっそく木蓮と二人で今後の作戦を練る事にした。
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