第一章 その二

【第一章 その二】


 家に帰り着いたら、母はねむっていた。凜莉は起こさないようにそっと部屋の片付けをする。

 ようやくれいになったとほっとしていると、入り口の戸から声がした。

「凜莉、木蓮だけど、いいかな?」

 返事して戸を開けると、下町には不似合いな高級な着物を着た木蓮が立っていた。部屋に招き入れ、机の前にあるに座るよう手でうながす。木蓮がそこにこしけつつ、辺りを見回した。

「あれ、蓮歌様は?」

「いま眠ってるんです。昨夜ゆうべあんまり眠れてなかったみたいだから」

「そう。では小さな声で話そうかな。起こすと悪いから」

 木蓮らしいづかいに感謝した。お茶をれて持って行くと、木蓮が破顔した。

「いい香りだね」

「でしょう。茶屋で一つ一つ香りを確かめて買ったんです。安くてもいいお茶はあるんですよ」

 香道省の長である木蓮も香りにはうるさい。その彼に褒められるのは、何よりうれしかった。

 椅子に座って木蓮と向き合いながら、お茶を口にふくんだ。

「ところで、用って何ですか?」

 首を傾げると、木蓮がふいに真顔になって眼鏡を押し上げた。

「実は……ここだけの話にしてほしいんだけど、香道省の長をクビになったんだ……」

 悲しげな顔をしている木蓮に、目を見開いた。

「ええ!? 本当ですか? いったいどうしてそんな事に?」

「陛下の食事があんまりおいしそうで、ついつまみ食いしちゃって……」

「何でそんな事をするんですか!?……って、あれ? いい大人がそんな事をするっておかしいですよね。それって本当ですか?」

「いや、?うそだよ」

 にっこり笑われて、がっくりかたを落とす。木蓮の性格を思い出して、いかりがこみ上げた。

「何でいつもそういうくだらない嘘をつくんですか!」

「毎回、本気でだまされてくれる凜莉の素直さが可愛かわいくて、つい」

 にこにこ顔の木蓮は、やさしくていい人だが、時折とてもくだらない?をつく。そのたびに騙されて心配してり回される自分の、素直といえば聞こえのいい単純さがうらめしかった。

「もう! からかいにきたのなら、いそがしいんですから帰ってください!」

「そうおこらないで。本当に用事はあるんだよ。実は……」

 木蓮の顔が急にしんけんみを帯びた。そしてやや声をひそめる。

らんてんぼくが手に入ったんだ」

「ええーっ!」

 部屋にひびわたるほどの大声を上げてしまい、木蓮があわてたように口元に人差し指を当てた。

「しーっ。静かにして。これは香道省以外にらすとまずい話なんだから」

 慌てて口元を押さえて、速くなった心臓の動きをおさえようと一度深呼吸した。

「蘭天木って、あの蘭天木でしょ? 本当なんですか? まさかまた?なんじゃ……」

「これは本当だよ。秘宝香の主原料のあの、蘭天木が手に入ったんだ」

 その名前を聞くだけで、身が引きまる思いがした。背筋をばして、ひざに手を置く。

「秘宝香……それがあれば、どんな強大な敵をもげき退たいできるというまぼろしの香。だけど、いまだそれを作り上げた香士はいない事から、本当は実在しないのではといわれている……」

 それはくしくも今朝、母の蓮歌とも話していた内容と同じだった。

「そう。秘宝香は数百年もの間、たくさんの香士が作ろうとして失敗してきた香だ。強大な力を持つと言われる効能を手にしたいきゆうていも、香士達に協力してきた」

 宮廷にあるこうどう省は、いろんな効能を持つ香を研究し調合するのが仕事だ。

 だが香道省が作られた一番の目的は、秘宝香を作る為だと、以前父に聞いた事があった。

 その香道省をもってしても、何百年もの間秘宝香を完成させられなかった。

 原因は、主材料の蘭天木がめつに手に入らないせいだ。

「蘭天木は確か二十年に一度しか花がかないって聞きましたけど」

 興奮を抑えられなくてめ寄ると、木蓮が頷いた。

「そう。花が咲いた直後の枝しか香木にはならないんだ。しかも蘭天木は都からはなれた山奥にしか育たないし、数もかなり少ない。だから香木はほとんど手に入らなかった。今年は二十年に一度の花がようやく咲いたらしくて、そこそこの量の香木が手に入ったようだ」

「すごい! それがあれば秘宝香の研究が進むんじゃないですか?」

「ああ。だけど、それでもそこそこの量だ。大量にあるわけじゃない。使い切ったら、また二十年待たないと香木は手に入らないんだ。それで、いまいろいろ宮廷でもめていてね」

 木蓮が困った顔で目をつぶった。

「何でもめているんですか?」

「香木の量が限られているから、それを使って調合にちようせんする香士をゆうしゆうな者だけに限定したいらしいんだ。香道省の香士だけでなく、いつぱんの香士達にも呼びかけて優秀な者を集め、こうていぜんで調香会を開いて成果をろうさせるようなんだ」

「調香会?」

 香士の資格を得た者は、ほぼ全員が香道省に入りたいと願っていると言ってもいい。

 香道省に入れば、宮廷でしか手に入らないめずらしい香料や高価な道具を使えるからだ。

 しかし宮廷はいままで、科挙に受かった香士しか香道省に入るのを許していなかった。

 それなのに今回は一般の香士もむかえるという。それはかなり特別な事だった。

「ようするに、調香会までに秘宝香を完成させろとせまられているんだよ。一般の香士の手を借りてでもね。実は香道省は軍からにらまれていてね。実力主義の彼らからすると、香なんてわけのわからないものを使う香士なんてなんじやくやつは宮廷から出て行け! って感じなんだ」

 木蓮が大きなため息をついて、ほおづえをついた。

「もし陛下も参加される調香会までに秘宝香を作れなかったら、きっと軍はこれ幸いに香道省をつぶしにかかろうとするだろう。だけど、数百年もなぞだった秘宝香がそう簡単に作れるとは思えないんだ。もちろん努力はするけどさ」

 肩を落としている木蓮に、思わず顔を近づけた。

「いくら軍がそんな横暴な事を言ったって、陛下がお許しになるはずありません。陛下はとても香がお好きで、香道省の運営にも力を入れていると昔父から聞いた事があります」

「それはそうなんだけど、今回ばかりは風向きが悪いんだ。実は皇太子の煌翔様が、一年後に皇帝になられる事が決まってね」

 昼間に見た皇太子を思い出す。優しげでうるわしくてかんぺきな皇太子だった。

つうは皇帝がくなられてから、皇太子が皇位をがれるのではないんですか?」

「そうなんだけど、ここだけの話、あまり陛下の体調がよくないようなんだ。いまでも皇帝としての実務は煌翔様が引き受けておられるくらいだ。陛下は一年後に退位して、煌翔様を新たな皇帝にえるおつもりのようだ」

 皇帝が体調が悪いなんて、うわさでも聞いた事はなくておどろいた。木蓮が眼鏡を押し上げる。

「それで、煌翔様が皇位を継がれる時までには、どんな敵をも撃退できる強大な力を持つ秘宝香を完成させて国力を上げたいというのが陛下のお考えのようだ。だけど調香会まではあと一月ほどだ。時間的にも厳しいし、完成させる自信はないんだよね」

 それは香道省のおさである木蓮の本音のようだ。木蓮がため息をついた。

「でも秘宝香を完成させないと、香道省が潰されてしまうかもしれない。私は君のお父さん……西さいどう様から香道省を預かったんだ。西堂様はらしい香士だった。私もいろいろ勉強させてもらった。西堂様から受け継いだ香道省を私の代で潰すわけにはいかないよ」

 父の名はおう西堂という。下町に移り住んでからはれん凜莉と名乗っているが、自分の本当の名前は央凜莉だった。父の調合している後ろ姿を思い出し、いつもの頭痛をこらえつつもある思いが心に生まれた。どうにも自分の中に収めておけなくて口を開く。

「わたしも……わたしも秘宝香の調合に挑戦させてください」

 しんな目と言葉を木蓮に向けた。木蓮は驚いた顔もしていなかった。

「そう言うと思っていたよ。秘宝香は西堂様が一生をかけて調べていたものだからね」

 木蓮はそこで言葉を句切って、じっと見つめてきた。

「だけど、秘宝香作りに挑戦できるのは香士だけなんだ。西堂様の調合を見ていた凜莉なら、何か手がかりをもっているかもしれない。だから手伝ってほしいのは山々だけど、国試を受けていない凜莉を宮廷に呼ぶ事はできないんだ」

 ぐっとくちびるんだ。国試を受けていないのではない。女性だからと受けられなかったのだ。

「でもわたしの鼻は、父さまが調合をしていた時に使っていたもののかおりを覚えています。普通なら手に入らないような貴重な香料ばかりだろうから、いままで何もできなかった。だけど蘭天木が手に入ったいまなら、きっとわたしは役に立ちます」

 胸に手を当てて、木蓮に詰め寄った。

「父さまは秘宝香を完成させていました。それをわたしは証明したいんです!」

 父が亡くなってからずっとかかえてきた思いをうつたえると、木蓮がうでみして考え込んだ。

「確かに凜莉のきゆうかくなら調合に必要なものをぎ分けられるだろうけど、分量まではわからないだろう? わずかな分量のちがいでまったく違う香りと効能になってしまうのが香だ。いくら鼻が覚えていても、何をどれだけ混ぜ合わせるのかがわからないと同じものは作れない」

「確かにそうですけど、でも材料と時間さえあれば、必ず分量も調べてみせます。お願いです! わたしに秘宝香を作らせてください!」

 蘭天木なんて、宮廷ですら入手するのに苦労するぐらいだ。

 しよみんとして暮らしていたら、見る事すらかなわない。この機会をのがしたくなかった。

「凜莉の気持ちはわかるけど、女性を香士として宮廷に迎え入れるわけには…………あっ!」

 木蓮が上げた声に目を見開いた。

「どうしたんですか!?」

「いや、うーんと。女性でも香士として宮廷に入れる方法があるかもなんて思いついて……」

 木蓮にしては珍しく歯切れが悪かったが、くらやみの中でゆいいつの光を見付けた気がした。

「それっていったいどんな方法ですか!?」

 木蓮はしぶい顔のまままゆを寄せていた。

「ちょっとおすすめはできないな。凜莉には難しいだろうし、何より……」

「難しいかどうかは聞いてから自分で決めます。教えてください!」

 母は自分の前では平気な顔をしているが、夫を亡くした悲しみをまだ引きずっているらしく、夜も満足にねむれなかったり体調をくずす事が多い。

 夜中にふと目が覚めると、母が声を殺して泣いているのに気付く事もある。

(秘宝香の調合を完成させたいのはもちろんだけど、父さまが秘宝香を作り上げていたって証明したい。父さまのめいが回復されれば、少しは母さまの心もおだやかになるはずだわ)

 幸い自分には、絶対嗅覚という才能と、調合のうでがある。

「お願いです。木蓮。わたしに秘宝香を完成させる機会をください!」

 強い意志を込めて訴えると、木蓮がうなって天をあおいだ。

「すごく正直に言うと、秘宝香を作れるとしたら凜莉が一番近い位置にいると思うんだ。蘭天木は二十年に一度しか手に入らないから、秘宝香作りに挑戦できるのはいまだけ。香道省をあげての大事業になる。もしこれで作れないなんて事になったら本当に香道省の存続はあやうい」

「だったら、わたしに手伝わせてください。香道省だって、父が勤めていた思い出深いところです。潰されるなんてなつとくいきません。女でも香士になれる方法があるんですか?」

「いや、それが香士になれるわけではなくて……ちょっととくしゆというか」

「特殊って?」

 木蓮がようやく顔を上げ、思い切ったように口を開いた。

きゆうていには、基本は男しか仕えられない。だから仕える官人は男ばかりだ。しかし女性ばかりが集まっている場所が一つだけある。どこだかわかるかい?」

 問いかけられて、思わず考え込んだ。

「女性ばかりの場所? ちゆうぼうとかですか?」

「厨房には男性だっているよ。そうじゃなくて、その建物には女性だけで、出入りできるのは決まった男性だけ。それ以外の男性がこっそり入ろうものなら、首を切って落とされる。そんな危険で、だけどこの国で一番ごうけんらんな場所だ」

 考えたあげく、ふとある事を思いついた。

「もしかして、後宮ですか? 皇帝陛下のこう様とか側室とかが住んでいらっしゃるという」

 木蓮がしんみような顔でうなずいた。

「その通り。実は皇太子が皇位につく際は、必ず妻をめとっている事という決まりがあるんだ。煌翔様は一年後に皇位を継がれるけど、まだ独身でいらっしゃる。だからそうそうに身を固めてもらおうと煌翔様の後宮が作られる事になったんだ」

 後宮と聞いて思いかぶのは、かざった女性達がゆうに暮らしているのだろうという事ぐらいだ。下町で暮らす自分には遠い世界過ぎて、それ以上の事は想像もできなかった。

「それで后妃候補のひめ達が続々と集まっているんだけど、まず后妃候補として認められるには、大きく分けて二つの条件がある。一つは身分だ。宮廷でも高位についている方のむすめや妹などが后妃候補として認められる。そしてもう一つの条件は」

 木蓮が人差し指を立てて、じっとこちらを見つめた。

ひいでた才能を持っている事。たとえばこうになれるほどの知識と技術を持っているとかね」

 そこまで聞いてはっとした。

「じゃあ、わたしも后妃候補になれるって事ですか?」

「ああ。ただし、貴族である事が大前提だ。君はもとは貴族だけどいまは下町暮らし。本当なら後宮には入れないけど、私が身元引受人になれば、何とかなるかもしれない」

 言葉を句切った木蓮が、そっとかたに手を置いた。

「何より凜莉は才能がある。さっきりよう所で女性を助けた時の事を煌翔様がとてもめていただろう。あのあとも、側近達の間で君のぎわがよかったと話題に出ていた。その実績もあるから、もしかしたら後宮入りできるかも」

 とつぜんの話に目を白黒させた。

「後宮入りしたら、調香会に出られるんですか?」

「そう簡単にはいかないよ。陛下や煌翔様に直接お目にかかり、調香会に出たいとじか談判する必要がある。かなり難しいけど、何もしないで下町で手をこまねいているよりは、後宮に入って機会をうかがう方が調香会に出られる可能性は高いかもしれない」

 その言葉を聞いて、ふと不安が心によぎった。

「それって、とても危険な事ですよね。調香会に参加したいがために後宮に入るなんて。もしうまく説得できなくてこうていや皇太子のいかりを買えばしよけいされてもおかしくないのでは……?」

 おそるおそる問いかけると、木蓮がしんけんな顔で頷いた。

「ああ、しかもそれだけ危険をおかして後宮に入っても、身分の高い方達に会えるとは限らない。でも香士でもない凜莉が秘宝香作りに参加しようと思うなら、それぐらいかくしないと」

 厳しい言葉だったが、本当の事でもあった。木蓮が腕組みする。

「宮廷の外へ蘭天木を持ち出すのは禁止されているから、ここには持ってこられない。調合するのに特別な道具もいるから、宮廷以外の場所での調合は不可能だ。秘宝香の調合にちようせんしたいのであれば、凜莉が宮廷に来るしかない」

 確かにそれしか方法はないように思えた。後宮なんて見た事もない世界に足をみ入れるのは、本音を言うとこわかった。だけど、そのきようを押し殺してでもかなえたい夢がある。

「父の名誉を回復する為にできる限りの事をしたいんです。後宮に入る事で秘宝香作りに挑戦できる可能性があるなら……わたしは行きます」

 思いのたけを口にすると、木蓮がまたしても渋い顔をした。

「でもいまさらだけど、後宮は怖いところだよ。后妃候補の姫達がにこにこ笑いながら、びしばし火花を散らしてにらみ合ってる。その争いに凜莉が巻き込まれたらと思うと心配だよ」

「わたしもこわいです。ふるえるほど。だけど、恐いからといって立ち止まっていたら、前には進めないと思います。秘宝香を完成させる為なら、わたしはどんな事でもします」

 決意を言葉にすると、木蓮がようやく表情をゆるめて、頷いた。

「わかった。では私にできる精いっぱいのをするよ。秘宝香を作り上げる為にがんろう!」

 夢への第一歩を踏み出す為、さっそく木蓮と二人で今後の作戦を練る事にした。



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