第四章
【第四章】
凜莉は足の
「調合する時に使う
何より嬉しいのは、下町では絶対に手に入らない貴重な香木だ。十ほどある木箱いっぱいにその貴重な香木が入っているようだ。木箱の中でも、
「これが秘宝香の主原料となる蘭天木……」
「力強い香りだわ。
心のどこかにもしあの時父が作っていたのが
二十年に一度しか手に入らない蘭天木。当時はごくわずかしかなかった香木を、父が
「蘭天木の香りを嗅いで父さまの事を思い出すなんて。やっぱりわたしの
大好きだった父の事をもっと思い出したい。その気持ちを胸に蘭天木を見つめる。
「問題は、蘭天木の
香料の分量がわずかに違うだけでまったく別の香りがするのが香だ。父が作っていた香りを覚えている鼻を頼りに、何十種類もある香料を嗅ぎ分けて同じものを作る。言葉では簡単なように聞こえるが、実際は気の遠くなるような作業だった。だけどわくわくが止まらない。
「香の調合って、まるで事件の
こんな事で興奮する自分は、間違いなく父と血が
「さあ、時間がないし、秘宝香の効能だってわからないままだけど、絶対にやってみせるわ! 父さまは正しかったって証明してみせる」
「失礼します。凜莉様」
戸を開けて顔を出したのは涼果だった。なぜだか顔色が悪い涼果が気になった。
「どうしたの?」
「あの、それが……あ、お待ちください!」
涼果が背後に向かって声を上げたが、すぐに戸ががらっと開いた。立っているのは珠華と蘭々、そして相変わらずため息が出るほど美しいが、どこか冷めた目をしている翡翠だった。
「今朝、煌翔様から
珠華がまなじりを決した。
「もらったのは香の材料と調合の道具です。わたしは香の調合ができるから麗華宮に入れたので、それでこれを使えと煌翔様に頂いたんです」
秘宝香を調合しているとは言わない方がいいと思った。
「香ですって? 本当に? 煌翔様に取り入って、高価なものを頂いたのではなくて?」
疑わしい目をした蘭々が、いろんな香りが
「
頭が痛いといいつつ、蘭々と珠華が部屋に入ってくる。
「待ってください。ここには貴重な材料があるので、すみませんが外に出てください」
「まあっ!? 私達に向かって出て行けなんて」
「申し訳ありません。ですが……。あ! それには触らないで!」
蘭々が蘭天木の入った箱に手を
「これはとても高価な香料です。少ししかないんですから、触らないでください!」
「何を触ろうと、とやかく言われるいわれはないわ。本当に生意気ね。みんな
蘭々が声をかけると、さっと部屋に入ってきた女官達が
「何をするの!」
「煌翔様からの贈り物なんて、私達だってまだもらった事もないのに、どうしてあなたが? 本当にもらったのが香の道具だけなのか調べさせて頂くわ。よほどこの香木が大事みたいだけど、この下に何か
珠華が蘭天木が入っている木箱に手を入れた。そして一本取り出して鼻に近づける。
「なかなかいい香りがするわね。これ」
「やめて! 放して!」
さすがに数人がかりで捕まえられていては、身動きができなかった。涼果が慌てて部屋に入ろうとしたが、外に
「香料だっていうなら、燃やしてあげるわ。きっといい香りが麗華宮を包むわね」
「やめてください! それは本当に貴重なんです。もう手に入らないんですから!」
蘭天木を運んできた従者から予備はもうないと言われていた。もし燃やされたら、調香会までに秘宝香を作れなくなる。そうなったら煌翔はあの冷たい目で、自分達を
「よっぽどこのひからびた枝が大事のようね。どこで燃やそうかしら?」
蘭々が
「そこの庭でどうかしら。焚いたらどんな香りがするか確かめましょう」
「やめてください! お願いです。翡翠
珠華と蘭々は何を言ってもやめてくれないだろう。止められるとしたら、彼女達より身分が高い翡翠だけだ。だが翡翠は珠華達の行動に加わるでもなく止めるでもなく、ただ無表情で様子を見ているだけだった。
「お願いです、翡翠姫! わたしの夢がかかっているんです!」
それでも何とか珠華達を止めたくて言い
「夢? 夢って何かしら?」
「翡翠姫、
「私は、凜莉に聞いているの」
ぴしゃりと言い切られて、珠華が慌てたように口を
「あなたには夢があるの? もしかして、煌翔様の
表情があまり変わらないので、翡翠の気持ちを読み取る事は難しかった。
「煌翔様の妻になりたいわけではありません。香士になりたいという夢の為に来たんです」
何とか気持ちを
「女が香士になんて、無理に決まっているじゃない。この国ではね、身分の高い方の妻になって守ってもらうのが、女性としての幸せなの。そんな夢なんて見るだけ
どこか
「わたしはそうは思いません。夢は
翡翠の表情がわずかに動いた。目を見張って、息を
「自分の夢は自分の手で?みます。……夢なんて見るだけ無駄なんて、そんな悲しい事を言わないでください。自分の人生は自分だけのものなんですから」
煌翔の妻となる為に集まった彼女達には、理解してもらえないかもしれない。しかし女性は自由に夢を見られないのが当たり前なんて常識で育った彼女達は、
視線を向けると、翡翠がまるで何かに押されたように一歩下がった。珠華が声を上げる。
「翡翠姫に向かってなんて失礼な! 翡翠姫、この
呼びかけられても、翡翠は何か考えているように、そのまま動きを止めていた。
「何をしておられるのですか?」
翡翠の背中の方から声がした。翡翠がそちらを見る為に
「見回りでございます。何かございましたか?」
我嵐は言葉は
ただ一人、我嵐の眼力に動じない翡翠が、ゆっくりと彼と向かいあう。
「何でもありません。もうすぐ
「凜莉
じろりと
「わかりました。煌翔様がそう
翡翠がこちらに向き直った。そして珠華と蘭々に目を向ける。
「放してあげなさい」
「ですが……」
「香の調合は煌翔様のご命令です。邪魔をして煌翔様に
「煌翔様の妻になる気がないっていう言葉がもし
翡翠が部屋を出て行くと
座り込んでいた涼果を
「ありがとうございました。助けて頂いて」
「煌翔様は、お前が後宮でつつがなく調合に
先日も敵意を向けられたが、今回はかなりあからさまだった。思わず
「どうしてそんなに香士を嫌うんですか? 軍と香道省は仲が悪いって聞きましたけど、わたしは正式な香士でもないし、
「ああ。お前に恨みはない。だが、お前の父親には思いっきり恨みがある」
言い切られて、目を見張った。
「父にですか?」
「そうだ。お前が央西堂の
(父さまは香士としては
ちらりと我嵐を見上げた。
「もしかして、父にとんでもない効能がある香を内緒で
「な、何を
口では否定しているが、表情は思いっきり
「……ごめんなさい。父はよく言えば熱心で努力家だけど、悪くいえば調合を成功させる為なら手段は
深々と頭を下げると、我嵐が
「お前が謝る必要はないだろう。悪いのは、あの人を人とも思わない西堂だ」
「それはそうなんですけど、でもやっぱり親子なので、父がご迷惑をかけたのならお
微笑むと、我嵐が
「何だと?」
「父が実験台に選ぶのは、まじめで嘘をつかない人なんです。
「何を言う! 俺は大将軍、
我嵐が目を
「……どこか痛いんですか?」
我嵐から香る
「……俺は健康だ。どこも痛いところなんてない」
すました顔をしているが、汗の香りはごまかせない。
「ちょっと待ってくださいね」
部屋に
「この布袋の中に、痛みを
「痛みなどないと言っているだろう! もし痛みがあったとしても香になど
「香は、よく
我嵐が目をそらした。どうやら言っている事は当たっているようだ。
「人を
その時の
「あなたは香の持つ別の力を最初に経験してしまったから、本来の力を受け入れられないんでしょう? でも、香には無限の可能性があるんです」
じっと見つめると、我嵐の目がはっとしたように見開かれた。
「痛み止めのお薬を常に飲んでいると身体に障りますが、この香はいくら使っても身体に害はありません。我嵐大将軍のお身体の為にも、使ってほしいです」
「そんなものは、俺は……」
それでも
「
そっと頭を下げて、
「……くだらん。こんなものは使う気にはなれん!」
戸の向こうから強気な言葉が聞こえて、我嵐が立ち去る気配がした。
凜莉は再び夜の裏庭を
右手に月が映った池を見ながら
「煌翔様、読書の
「申し訳ないと思うなら邪魔するな」
冷たい物言いに
まともに相手をしているといつまでも本題に入れないので、さっそく用件を口にする。
「宮廷には薬草畑があると聞きました。香料に使える薬草があるかもしれないので入りたいんですが、許可がないと
調合を始めて三日目。まだまだ秘宝香の香料を特定する作業の途中だった。
我嵐の言葉が効いたのか珠華達の邪魔は入らなくなったものの、秘宝香作りは難航を
「こちらに一筆、わたしが薬草畑に入ってもよいという許可を書いて……」
「この俺に筆を持って許可状を書くという手間をかけさせるなら、何か見返りがないとな」
煌翔がこちらに顔を向けて、にやりと笑った。とても嫌な予感がして思わずため息が出る。
「見返りって何ですか?」
「俺に対する手間賃を
「それなりのものと言われましても、皇太子様に満足して頂けるような物はもっていません」
「物はいらん。俺に手に入らない物なんてないからな。……そうだな。お前の子どもの
煌翔にしては意外な言葉だった。普通に
しかし皇太子として育った彼が普通の人生に興味を持つのは、確かに理解はできた。
「子ども時代ですか。わたしが何歳ぐらいの時の話にしましょうか?」
「十歳ぐらいは何をしていた?」
答えが早くて
首を
「……父が生きていた時は、貴族としてそこそこ立派なお
「友達はいたか?」
「それがあまり友達と遊んだ記憶がなくて。いつも父の調合を手伝っていたので、ほとんど外に出る事はなかったんです」
「本当に? 誰か一人くらいいただろう」
(何だろう。ずいぶんしつこく聞くのね。皇太子として〝友達〟とか呼べるほど近しい存在がいなかったろうから、友達の話を聞いてみたいのかな?)
「……すみません。実はその頃の記憶が
頭を下げると、煌翔はしばらく何か考えている様子だったが、やがてこちらに目を向けた。
「いい。お前の頭のできはよくないようだから、その程度の記憶しか残っていないんだろう」
にっこり
さすがに腹が立って言い返そうとすると、煌翔がふいに立ち上がった。
「しっ。こっちにこい」
手招きされて東屋に入ると、
「どうしたんですか……?」
「
煌翔の視線は、建物の
「煌翔様はどちらに行かれたのだ。翡翠達の
ため息混じりの功徳が、やや声を
「煌翔様には絶対に翡翠を
背後にいた兵達数人が辺りに散った。功徳も周囲を
(見つかりたくないのかな。だったら静かにしてないと。でもすごく密着してるんですけど!)
(うわぁぁぁ! 皇太子様に抱きしめられているなんて……! 体温とか香りとか、こんなに身近で感じるなんて。どうしよう!)
頭の中は混乱していた。男性とこんなに近づいた事はいままでなかった。
煌翔からは以前の
その香りを
これはきっと彼自身の香りだろう。心臓が飛び出しそうなほどどきどきしていて、じっとしているのは最大級の努力が必要だったが、顔を真っ赤にしつつも何とか堪えた。
「……ようやく行ったな」
どのぐらいそうしていただろう。やっと煌翔が手を放してくれたので何とか立ち上がった。
「いいんですか? お捜しのようでしたが」
「かまわない。部屋にいると、功徳が後宮に行けとうるさいから、ここにいるんだ」
「どうして後宮が
一度も参加していないが、
「彼女達がほしいのは、后妃としての
厳しい物言いだが、本当の事でもあった。煌翔がふいにこちらを見つめた。
「お前はどうだ。後宮に入ったのは、もちろん秘宝香の事もあっただろうが、俺の気を
どう答えていいか迷ったが、
「正直に言いますと、まったくそんな気は起きなかったんです。秘宝香作りに
本音を口にすると、煌翔が
「欲がない
そんな姿を見て、ふとある事に気付いた。
「……後宮が嫌な理由ってそれだけですか? それだけが原因じゃない気がするんですけど」
考え込むように口元に手を当てると、煌翔が驚いたような顔をした。
「どうしてそう思う?」
「后妃になれば利権を手にできるって当たり前の事です。嫌だからって
煌翔という人物と会ってまだ日が浅い。だがなぜか彼の考えている事がわかる気がした。
「あなたは本当に嫌なら、
「ほう。では、俺はどうしたいと思っているんだ?」
面白そうな目つきの煌翔に首を横に
「そこまではわかりません。ただ、何かお考えがあるのだろうなと思っただけで」
「なるほど。……では、俺がどうして後宮を避けているのか、理由を当ててみろ。もし当てられたらこの場で薬草畑に入ってもいいという許可状を書いてやるぞ」
「えっ! 本当ですか!?」
喜んだものの、煌翔が何を考えているか当てるのは難しいと思い直した。
(煌翔様って不思議な方なのよね。傲慢だけど国を大切に思う皇太子としては尊敬できるし。女性にすごくもてそうだけど、後宮の美女を避けている。彼女達に興味がないのかな?)
「……たとえば、心に決めた女性がいるとか」
しかし煌翔の驚いたような顔を見て、もしかしたら本音を言い当てたのかもと気付く。
「ええ!? 本当にそうなんですか?」
まじまじと見つめると、煌翔がやや視線をそらした。
「ええ!? ええ!? それってどんな女性ですか? 聞きたいです!」
失礼だとは重々承知だ。だがどうしても
いつも相手を
「……昔の話だ。
煌翔が
それは、白地に
香合は香を入れて持ち運ぶもので、煌翔のものは
「
「これをくれた女性の事が忘れられない。……もう何年も前の事なのに」
大事そうに香合に目をやった煌翔の顔は、見た事がないほど
(何!? いまのきゅっていったい、何なの!?)
「そ、その女性は、どこにいらっしゃるんですか?」
何とか気持ちを落ち着けて、気になっている事を口にした。
煌翔はなぜか、再び眉根を寄せている。そして小さく
「彼女は……どこの
彼がこんなに
「彼女と会えなくなって、もう六年ほど
「……でも辛そうな顔をされています。何とかその女性を捜せないんですか?」
煌翔のこんな顔は初めてで、心配になって声をかけた。煌翔はしばらく無言だったが、やがて口元を嫌な
「────本気にしたのか? 単純な奴だな」
「え!? 嘘だったんですか?」
目を見開くと、煌翔がくっくっと
「俺がそんなくだらん初恋を引きずっているわけないだろう。後宮に行くのが嫌なのは欲に目がくらんだ貴族どもが送り込んだ女達の相手をするのが
「笑わないでください! 本当に悲しんでいると思って、こっちまで泣きそうになったのに」
「そう
本来の目的を思い出して、慌てて紙と
「ほら、許可状」
差し出された紙を受け取って、じっと見つめると煌翔が首を
「何だ、まだ何か用か?」
「いまの初恋の話、本当なんじゃないですか。照れ
煌翔がやや目を丸くした。
「どうしてそう思う」
「うまく言えませんけど、煌翔様が初恋の女性の話をしていた時の目がとても綺麗でした。嘘をついていたとは思えないくらい。……でもこれ以上は
頭を下げて東屋を出た。驚いた顔をしている煌翔に、一度だけ振り向く。
「質問があります。さっきの話がもし本当だとして、もう一度彼女と会えたらどうしますか?」
それは純粋な疑問だった。煌翔はふっと真顔になった。そして右手を胸の前でぐっと
「彼女ともう一度会えたなら、この
彼らしい言い方だと、思わず笑みがこぼれた。
「ええ。本当の話だったらですね。では、失礼します」
背を向けて立ち去りながら、煌翔の意外な面を見たと驚きを隠せないでいた。
「初恋の女性を思い続けるなんて、案外純粋なんだわ。あんなに情熱的な顔と声で、放さないとか言われたら、きっとその女性は幸せだろうな」
まだ恋というものをした事がない。父が死んでからは生活するのに精いっぱいでそんな
そんな自分を想像して、凜莉の顔は真っ赤になった。
続きは本編でお楽しみください。
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