第四章

【第四章】


 せまい部屋は、さきほど運び込まれたいくつもの木箱と調合の道具でいっぱいになった。

 凜莉は足のみ場もなくなった部屋を見て、目をかがやかせる。

「調合する時に使うにゆうばちと乳棒も新品だし、こうはいろんな大きさと種類がある。火道具もうるしりの一番高価な物だし、いままで手が届かなかった最高級の香の道具がそろっているわ! 煌翔様に感謝しなくちゃ。お願いしたのは昨夜ゆうべなのに、もう道具を届けてくださるなんて」

 何より嬉しいのは、下町では絶対に手に入らない貴重な香木だ。十ほどある木箱いっぱいにその貴重な香木が入っているようだ。木箱の中でも、きんぱくすみられた特別なものが一つだけある。高鳴る胸を抑えつつそれを開けると、白い布に包まれた香木があった。

「これが秘宝香の主原料となる蘭天木……」

 はしぐらいの細さと長さのひからびた木の枝が十本ほどあった。さわるのもおそれ多い気持ちになったが、震える手で一本手に取ってかおりを嗅ぐと、頭に晴れた空にたかの姿がかんだ。

「力強い香りだわ。さわやかで命のぶきを感じる。……この香りは、父さまが調合していた時に香っていたのと同じだわ。やっぱり父さまはわたしを香道省に連れて来た時に、秘宝香を調合していたのよ。この蘭天木を使って!」

 心のどこかにもしあの時父が作っていたのがちがうものだったらという不安があった。だが蘭天木の香りが父の調合の際もしていたという事は、父が秘宝香を作っていたというあかしだ。

 二十年に一度しか手に入らない蘭天木。当時はごくわずかしかなかった香木を、父がこわれものでも触るかのように大事にあつかっていたのをふと思い出した。

「蘭天木の香りを嗅いで父さまの事を思い出すなんて。やっぱりわたしのきゆうかくと記憶は連動しているみたいね。秘宝香作りが進んだら、もっと何か思い出せるかも」

 大好きだった父の事をもっと思い出したい。その気持ちを胸に蘭天木を見つめる。

「問題は、蘭天木のほかにどの香料をどれぐらい混ぜ合わせて調合していたかよね。それに香をく方法も何種類もある。直接火をつけて焚くのか、それとも温めて香りを出すのか、常温でも香る香もある事だし、どうやって香りを出していたのかもき止めなくては」

 香料の分量がわずかに違うだけでまったく別の香りがするのが香だ。父が作っていた香りを覚えている鼻を頼りに、何十種類もある香料を嗅ぎ分けて同じものを作る。言葉では簡単なように聞こえるが、実際は気の遠くなるような作業だった。だけどわくわくが止まらない。

「香の調合って、まるで事件のなぞを解いているみたい。答えである父さまの秘宝香の〝香り〟に辿たどり着くまで、容疑者である〝香料〟を調べ上げて、事件を起こすに至った〝分量〟を見つけ出す。それが揃えば、真実がおのずと見えてくる。真実に辿り着くのが楽しみだわ」

 こんな事で興奮する自分は、間違いなく父と血がつながっていると実感する。調合のためなら何でもしていた父同様、自分も変人なのかもしれない。だが香をきわめられるならそれでもいい。

「さあ、時間がないし、秘宝香の効能だってわからないままだけど、絶対にやってみせるわ! 父さまは正しかったって証明してみせる」

 うでまくりをしていると、戸の向こうから声がした。

「失礼します。凜莉様」

 戸を開けて顔を出したのは涼果だった。なぜだか顔色が悪い涼果が気になった。

「どうしたの?」

「あの、それが……あ、お待ちください!」

 涼果が背後に向かって声を上げたが、すぐに戸ががらっと開いた。立っているのは珠華と蘭々、そして相変わらずため息が出るほど美しいが、どこか冷めた目をしている翡翠だった。

「今朝、煌翔様からおくり物が届いていたでしょう。いったい、何をもらったのかしら?」

 珠華がまなじりを決した。あわててひざをついて頭を下げる。さわぎは起こしたくなかった。

「もらったのは香の材料と調合の道具です。わたしは香の調合ができるから麗華宮に入れたので、それでこれを使えと煌翔様に頂いたんです」

 秘宝香を調合しているとは言わない方がいいと思った。まぼろしの香として有名で、絶大な力を持つという秘宝香を悪用したいと考える者もいるかもしれない。

「香ですって? 本当に? 煌翔様に取り入って、高価なものを頂いたのではなくて?」

 疑わしい目をした蘭々が、いろんな香りがじゆうまんしている事に気付いたのか、顔をしかめた。

においがきつすぎて頭が痛いわ。よくこんなところにいられるわね」

 頭が痛いといいつつ、蘭々と珠華が部屋に入ってくる。

「待ってください。ここには貴重な材料があるので、すみませんが外に出てください」

「まあっ!? 私達に向かって出て行けなんて」

「申し訳ありません。ですが……。あ! それには触らないで!」

 蘭々が蘭天木の入った箱に手をばした。それを見て、彼女の腕を慌てて?つかむ。

「これはとても高価な香料です。少ししかないんですから、触らないでください!」

 げきしないようにと思うが、貴重な蘭天木に何かあったらと考えると、血の気が引いた。

「何を触ろうと、とやかく言われるいわれはないわ。本当に生意気ね。みんなつかまえて!」

 蘭々が声をかけると、さっと部屋に入ってきた女官達がりよううでを掴んだ。

「何をするの!」

「煌翔様からの贈り物なんて、私達だってまだもらった事もないのに、どうしてあなたが? 本当にもらったのが香の道具だけなのか調べさせて頂くわ。よほどこの香木が大事みたいだけど、この下に何かかくしているんじゃないんでしょうね」

 珠華が蘭天木が入っている木箱に手を入れた。そして一本取り出して鼻に近づける。

「なかなかいい香りがするわね。これ」

「やめて! 放して!」

 さすがに数人がかりで捕まえられていては、身動きができなかった。涼果が慌てて部屋に入ろうとしたが、外にひかえていた女官達に前をふさがれる。珠華が蘭天木を軽くった。

「香料だっていうなら、燃やしてあげるわ。きっといい香りが麗華宮を包むわね」

「やめてください! それは本当に貴重なんです。もう手に入らないんですから!」

 蘭天木を運んできた従者から予備はもうないと言われていた。もし燃やされたら、調香会までに秘宝香を作れなくなる。そうなったら煌翔はあの冷たい目で、自分達をらえてしよけいせよと命じるだろう。必死になって女官達の腕を振りほどこうとしていると、珠華がにやりとした。

「よっぽどこのひからびた枝が大事のようね。どこで燃やそうかしら?」

 蘭々がおもしろがっている目つきで、外に右手を向けた。

「そこの庭でどうかしら。焚いたらどんな香りがするか確かめましょう」

「やめてください! お願いです。翡翠ひめ、二人をとめてください!」

 珠華と蘭々は何を言ってもやめてくれないだろう。止められるとしたら、彼女達より身分が高い翡翠だけだ。だが翡翠は珠華達の行動に加わるでもなく止めるでもなく、ただ無表情で様子を見ているだけだった。まゆ一つ動かさない翡翠に向かって再び声を上げる。

「お願いです、翡翠姫! わたしの夢がかかっているんです!」

 それでも何とか珠華達を止めたくて言いつのると、初めて翡翠がこちらに視線を向けた。

「夢? 夢って何かしら?」

 すずが転がるような美しい声で問いかけた翡翠に、珠華が近寄った。

「翡翠姫、いやしい身分の者の話なんて……」

「私は、凜莉に聞いているの」

 ぴしゃりと言い切られて、珠華が慌てたように口をつぐんだ。

「あなたには夢があるの? もしかして、煌翔様のきさきになる事かしら?」

 表情があまり変わらないので、翡翠の気持ちを読み取る事は難しかった。

「煌翔様の妻になりたいわけではありません。香士になりたいという夢の為に来たんです」

 何とか気持ちをうつたえようとしたが、翡翠は表情は変えぬまま、小首をかしげる。

「女が香士になんて、無理に決まっているじゃない。この国ではね、身分の高い方の妻になって守ってもらうのが、女性としての幸せなの。そんな夢なんて見るだけだわ」

 どこかあきらめたようなひびきがある口調だった。思わず首を横に振る。

「わたしはそうは思いません。夢はかなえる為にあると思っています。無理だと思ったらそこで何もかもが終わってしまいます。だからわたしはどんなに無理だと言われても諦めたくない」

 翡翠の表情がわずかに動いた。目を見張って、息を?んでいる。

「自分の夢は自分の手で?みます。……夢なんて見るだけ無駄なんて、そんな悲しい事を言わないでください。自分の人生は自分だけのものなんですから」

 煌翔の妻となる為に集まった彼女達には、理解してもらえないかもしれない。しかし女性は自由に夢を見られないのが当たり前なんて常識で育った彼女達は、可哀かわいそうだと思った。

 視線を向けると、翡翠がまるで何かに押されたように一歩下がった。珠華が声を上げる。

「翡翠姫に向かってなんて失礼な! 翡翠姫、このこうぼくを燃やしてしまいましょう」

 呼びかけられても、翡翠は何か考えているように、そのまま動きを止めていた。

「何をしておられるのですか?」

 翡翠の背中の方から声がした。翡翠がそちらを見る為に身体からだを動かしたので、彼女の背後にある庭がうかがえた。そこには、やりを持った我嵐が立っている。

「見回りでございます。何かございましたか?」

 我嵐は言葉はていねいだが、目つきがするどくて姫達がふるえ上がるのが見ていてわかった。

 ただ一人、我嵐の眼力に動じない翡翠が、ゆっくりと彼と向かいあう。

「何でもありません。もうすぐまいのおけいがあるから、凜莉姫をおむかえに参りましたの」

「凜莉殿どのは、煌翔様から香の調合をらいされておいでです。その為、舞などの後宮の稽古事はめんじよされます。もし調合のじやをするような者がいれば、げんばつに処すともうかがってますが」

 じろりとにらまれて、翡翠がやわらかな微笑ほほえみをかべた。

「わかりました。煌翔様がそうおつしやるなら、舞のお稽古にさそうのは控えましょう」

 翡翠がこちらに向き直った。そして珠華と蘭々に目を向ける。

「放してあげなさい」

「ですが……」

「香の調合は煌翔様のご命令です。邪魔をして煌翔様にしかられてもいいの?」

 やさしい物言いだが、を言わさぬはくりよくがあった。腕を押さえていた女官達が慌てたようにはなれていく。珠華がくやしそうな表情で蘭天木を箱にもどしてから、耳元でささやいた。

「煌翔様の妻になる気がないっていう言葉がもし?うそだったら、許さないから」

 翡翠が部屋を出て行くとほかの姫達もあとを追う。ようやく静かになった部屋で息をついた。

 座り込んでいた涼果をうながして立たせてろうに出る。庭には我嵐がおう立ちしていた。

「ありがとうございました。助けて頂いて」

「煌翔様は、お前が後宮でつつがなく調合にはげめるようにとおおせになっている。俺はその命令に従っているだけだ。……だが、かんちがいするな。俺は香士がきらいだ。命令でなければ、だれがお前などの様子を見にくるか」

 先日も敵意を向けられたが、今回はかなりあからさまだった。思わずめんらう。

「どうしてそんなに香士を嫌うんですか? 軍と香道省は仲が悪いって聞きましたけど、わたしは正式な香士でもないし、うらまれる覚えはありませんが」

「ああ。お前に恨みはない。だが、お前の父親には思いっきり恨みがある」

 言い切られて、目を見張った。

「父にですか?」

「そうだ。お前が央西堂のむすめだと煌翔様から伺った。くなった人間を悪く言いたくはないが、あいつは最低最悪だ。あいつの香のせいで何度もとんでもない目にあった」

 き捨てるような言葉を聞いて、とてもいやな予感がした。

(父さまは香士としてはゆうしゆうだけど、人間性はけしていいとは言えないわ。香の調合のためならとんでもない事を平気でしちゃう人だった。たとえば、娘をないしよきゆうていに連れて来たり、初めて作った香をぜんぜん関係ない人でためしたり)

 ちらりと我嵐を見上げた。うでみした彼は、いかりを隠してもいなかった。

「もしかして、父にとんでもない効能がある香を内緒でがされたりしました? どんなしんけんな場面でも笑いが止まらなくなる香とか、大事な場面でねむりしちゃう香とか」

「な、何を鹿な事を! この俺がそんなけな事をするはずないだろう!」

 口では否定しているが、表情は思いっきりこうていしていた。

「……ごめんなさい。父はよく言えば熱心で努力家だけど、悪くいえば調合を成功させる為なら手段はいとわない人で。調合した香を自分で試したら、客観的に状態を観察できないからって、関係ない人でよく試してたんです。ごめいわくかけました!」

 深々と頭を下げると、我嵐があわてた様子をみせた。

「お前が謝る必要はないだろう。悪いのは、あの人を人とも思わない西堂だ」

「それはそうなんですけど、でもやっぱり親子なので、父がご迷惑をかけたのならおびしないと。でも父に香の実験台にされたのだったら、きっとあなたはいい人なんだと思います」

 微笑むと、我嵐がまどったように目をまたたかせた。

「何だと?」

「父が実験台に選ぶのは、まじめで嘘をつかない人なんです。なおな人ほど、香の効果が出やすいので。何度も父の香の実験台にされたあなたは、とてもいい人なんですね」

「何を言う! 俺は大将軍、ごうの我嵐だぞ!」

 我嵐が目をいてめ寄った。息がかかるほど間近にせまった彼から、ふとあるかおりがした。

「……どこか痛いんですか?」

 我嵐から香るあせの香りが、痛みをこらえている時のものだと気付く。外なので汗の香りには気付かない事が多いが、彼が近くまで来たのと、かなり強い痛みを堪えているようで汗の香りが強くなっていた為に感じ取る事ができた。見上げると、我嵐が目を見開いている。

「……俺は健康だ。どこも痛いところなんてない」

 すました顔をしているが、汗の香りはごまかせない。

「ちょっと待ってくださいね」

 部屋にもどって、自宅からゆいいつ持って来たぬのぶくろたなから出し、廊下に出て我嵐に差し出す。

「この布袋の中に、痛みをしずめる香が入っています。使ってください」

「痛みなどないと言っているだろう! もし痛みがあったとしても香になどたよらん」

 かたくなな我嵐だったが、布袋をにぎめてゆっくりと語りかけた。

「香は、よくねむって心身をせいじようにし、精神を統一して災いを除くとされています。薬と違って常に用いてもさわりがありません。先日は痛みを感じている様子はなかったから、その時は痛み止めのお薬を用いられていたのでは? 今日は飲みそこねたかお薬が切れてしまったのですね」

 我嵐が目をそらした。どうやら言っている事は当たっているようだ。

「人をやす香士になりたいと思っています。病気や心身の乱れでつらい思いをしている人達を香の力を使って癒やすお手伝いがしたいんです。後宮に来る前は、りよう所でお手伝いをしていました。わたしの作った香で心身の不調が解決できると、みんなうれしそうな顔をするんです」

 その時のかんじやの顔は、いまでも容易に思い浮かべられる。自分が作った香で、身体の不調で辛い思いをしている人達を、少しでも楽に生活できるように導きたかった。

「あなたは香の持つ別の力を最初に経験してしまったから、本来の力を受け入れられないんでしょう? でも、香には無限の可能性があるんです」

 じっと見つめると、我嵐の目がはっとしたように見開かれた。

「痛み止めのお薬を常に飲んでいると身体に障りますが、この香はいくら使っても身体に害はありません。我嵐大将軍のお身体の為にも、使ってほしいです」

「そんなものは、俺は……」

 それでもきよしようとする我嵐の手に布袋を押しつけた。

で申し訳ないですが、もらってください。……ご自愛ください、我嵐大将軍。あなたのかたに、この国を守る軍の命運がかかっているのですから」

 そっと頭を下げて、じようきようを見守っていた涼果を促して部屋に戻って戸を閉めた。

「……くだらん。こんなものは使う気にはなれん!」

 戸の向こうから強気な言葉が聞こえて、我嵐が立ち去る気配がした。






 凜莉は再び夜の裏庭をおとずれていた。

 右手に月が映った池を見ながらあずまに向かうと、ひとかげを見付ける。

「煌翔様、読書のちゆうで申し訳ありません」

「申し訳ないと思うなら邪魔するな」

 冷たい物言いにひるんではいられなかった。

 まともに相手をしているといつまでも本題に入れないので、さっそく用件を口にする。

「宮廷には薬草畑があると聞きました。香料に使える薬草があるかもしれないので入りたいんですが、許可がないとだと言われて」

 調合を始めて三日目。まだまだ秘宝香の香料を特定する作業の途中だった。

 我嵐の言葉が効いたのか珠華達の邪魔は入らなくなったものの、秘宝香作りは難航をきわめていた。煌翔に、持ってきていた筆と紙を差し出す。

「こちらに一筆、わたしが薬草畑に入ってもよいという許可を書いて……」

「この俺に筆を持って許可状を書くという手間をかけさせるなら、何か見返りがないとな」

 煌翔がこちらに顔を向けて、にやりと笑った。とても嫌な予感がして思わずため息が出る。

「見返りって何ですか?」

「俺に対する手間賃をはらってもらう。皇太子の時間をもらうのだから、それなりのものをな」

「それなりのものと言われましても、皇太子様に満足して頂けるような物はもっていません」

「物はいらん。俺に手に入らない物なんてないからな。……そうだな。お前の子どものころの話でもしてみろ。俺はほとんど宮廷から出ないで育ったから、つうの人生というものに興味がある。普通の子ども時代がどんなものか聞いてみたい」

 煌翔にしては意外な言葉だった。普通にあこがれるようなせんさいな心を持っているのかとおどろきだ。

 しかし皇太子として育った彼が普通の人生に興味を持つのは、確かに理解はできた。

「子ども時代ですか。わたしが何歳ぐらいの時の話にしましょうか?」

 おくさぐる為に頭をめぐらせていると、煌翔がさっと書物を閉じた。

「十歳ぐらいは何をしていた?」

 答えが早くてめんらった。まるで質問を用意していたようだ。

 首をかしげつつ、十歳ぐらいは父が亡くなった辺りだなと思った。

「……父が生きていた時は、貴族としてそこそこ立派なおしきに住んでいました。でもぜいたくな暮らしをしていた覚えはなくて。父はお金とか地位とかにはとんちやくな人でしたし。父の調合する後ろ姿ばかり見ていた気がします」

「友達はいたか?」

「それがあまり友達と遊んだ記憶がなくて。いつも父の調合を手伝っていたので、ほとんど外に出る事はなかったんです」

「本当に? 誰か一人くらいいただろう」

(何だろう。ずいぶんしつこく聞くのね。皇太子として〝友達〟とか呼べるほど近しい存在がいなかったろうから、友達の話を聞いてみたいのかな?)

「……すみません。実はその頃の記憶があいまいなんです。父が亡くなった時のしようげきで、記憶が混乱しているんだと思います。だからあんまり何をしていたのか覚えていなくて。……楽しいお話ができなくてすみません」

 頭を下げると、煌翔はしばらく何か考えている様子だったが、やがてこちらに目を向けた。

「いい。お前の頭のできはよくないようだから、その程度の記憶しか残っていないんだろう」

 にっこりがおはまさに理想の皇太子だが、放つ言葉は相変わらず最悪だった。

 さすがに腹が立って言い返そうとすると、煌翔がふいに立ち上がった。

「しっ。こっちにこい」

 手招きされて東屋に入ると、うで?つかまれて身をかがめるように合図される。

「どうしたんですか……?」

だまってろ。さいしようが来る」

 煌翔の視線は、建物のかげに向けられているようだ。ほどなくして、そこから一人の男が出てきた。男は宰相の壬功徳だ。確か翡翠の父だと聞いた事があった。

「煌翔様はどちらに行かれたのだ。翡翠達のまいをご覧頂こうと思ったのに。……煌翔様には困ったものだ。せっかく後宮作りをしようとしているのに、まったく興味を示されない」

 ため息混じりの功徳が、やや声をひそめた。

「煌翔様には絶対に翡翠をこうとして選んでもらわねば。……さがせ!」

 背後にいた兵達数人が辺りに散った。功徳も周囲をわたしながら、こちらに近づいてくる。

(見つかりたくないのかな。だったら静かにしてないと。でもすごく密着してるんですけど!)

 せまい東屋に二人でしゃがみ込み、煌翔に背後からきかかえられるようにして、口をふさがれていた。背中に煌翔の胸がぴったりとくっついていて、彼のどうが聞こえてきそうだ。

(うわぁぁぁ! 皇太子様に抱きしめられているなんて……! 体温とか香りとか、こんなに身近で感じるなんて。どうしよう!)

 頭の中は混乱していた。男性とこんなに近づいた事はいままでなかった。

 煌翔からは以前のにおい香のかおりはしなかった。代わりに、甘いけれどどこかするどい香りがした。

 その香りをいだたん、天かけるりゆうの姿が頭にかんで、はくりよくげんにひれしそうになる。

 これはきっと彼自身の香りだろう。心臓が飛び出しそうなほどどきどきしていて、じっとしているのは最大級の努力が必要だったが、顔を真っ赤にしつつも何とか堪えた。

「……ようやく行ったな」

 どのぐらいそうしていただろう。やっと煌翔が手を放してくれたので何とか立ち上がった。

 あわてて辺りを見回すと、裏庭は静けさを取り戻していた。

「いいんですか? お捜しのようでしたが」

「かまわない。部屋にいると、功徳が後宮に行けとうるさいから、ここにいるんだ」

「どうして後宮がいやなんですか? 皇位をぐ時には妻をめとっていなければならないという決まりがあると聞きました。そのために煌翔様の後宮を作ったとも。美女ぞろいの後宮ですし、翡翠ひめ達は煌翔様にお見せする舞の練習をいつしようけんめい行っておられましたよ」

 一度も参加していないが、とう場できらびやかな舞をおどる翡翠達を何度か見かけていた。

「彼女達がほしいのは、后妃としてのめいと権力だ。后妃が親族にいれば、その一族は様々な利権を手にできるから、美しいむすめを持つ貴族達はこぞって俺に差し出そうとする。自分の意志すらもたない妻などいらん」

 厳しい物言いだが、本当の事でもあった。煌翔がふいにこちらを見つめた。

「お前はどうだ。後宮に入ったのは、もちろん秘宝香の事もあっただろうが、俺の気をいて后妃としての権力を手に入れようと少しでも思わなかったのか?」

 どう答えていいか迷ったが、うそをついたりごまかしたりできる相手ではないとわかっていた。

「正直に言いますと、まったくそんな気は起きなかったんです。秘宝香作りにたずさわるにはきゆうていに入る必要がありましたが、女では香士にはなれないし香道省にも入れない。だから才人として後宮に入るしかなかったんです。いまでも香士として香道省に入りたかったと思ってます」

 本音を口にすると、煌翔がしようした。

「欲がないやつだな。お前は本当におもしろい女だ」

 そんな姿を見て、ふとある事に気付いた。

「……後宮が嫌な理由ってそれだけですか? それだけが原因じゃない気がするんですけど」

 考え込むように口元に手を当てると、煌翔が驚いたような顔をした。

「どうしてそう思う?」

「后妃になれば利権を手にできるって当たり前の事です。嫌だからってげ回っていたって、結局は受け入れなければならないものだとわかっているはずです」

 煌翔という人物と会ってまだ日が浅い。だがなぜか彼の考えている事がわかる気がした。

「あなたは本当に嫌なら、こうていの座を継ぐのに后妃が必要という決まりをくつがえすだけの意志の強さと力を持っているはず。だけど、いまはただ後宮をけているだけ。だから妻を娶る気がないわけではない……ような気がします」

 ごうまんではっきりものを言う煌翔にしては、逃げ回るような態度はおかしな感じがした。

「ほう。では、俺はどうしたいと思っているんだ?」

 面白そうな目つきの煌翔に首を横にった。

「そこまではわかりません。ただ、何かお考えがあるのだろうなと思っただけで」

「なるほど。……では、俺がどうして後宮を避けているのか、理由を当ててみろ。もし当てられたらこの場で薬草畑に入ってもいいという許可状を書いてやるぞ」

「えっ! 本当ですか!?」

 喜んだものの、煌翔が何を考えているか当てるのは難しいと思い直した。

(煌翔様って不思議な方なのよね。傲慢だけど国を大切に思う皇太子としては尊敬できるし。女性にすごくもてそうだけど、後宮の美女を避けている。彼女達に興味がないのかな?)

「……たとえば、心に決めた女性がいるとか」

 じようだんのつもりだった。傲慢な皇太子がそんなに純情なはずはないと思った。

 しかし煌翔の驚いたような顔を見て、もしかしたら本音を言い当てたのかもと気付く。

「ええ!? 本当にそうなんですか?」

 まじまじと見つめると、煌翔がやや視線をそらした。

「ええ!? ええ!? それってどんな女性ですか? 聞きたいです!」

 失礼だとは重々承知だ。だがどうしてもこうしんの方が勝った。

 いつも相手を鹿にしたような態度を取る彼が好きな女性とは、いったいどんな人かと。

「……昔の話だ。つらい思いをしていた時に、気持ちを落ち着かせるこうをくれた女性がいた」

 煌翔がふところに手を入れた。取り出したのは、黄色のぬのぶくろだ。それを開けて、中身を取り出す。

 それは、白地にむらさきふじの花のがらが入った小さな香合だった。

 香合は香を入れて持ち運ぶもので、煌翔のものはとうでできていた。

れいな香合ですね」

 なおに感想を口にすると、いつしゆん煌翔がまゆを寄せた。首を傾げると、煌翔が目を伏せる。

「これをくれた女性の事が忘れられない。……もう何年も前の事なのに」

 大事そうに香合に目をやった煌翔の顔は、見た事がないほどやさしい表情だった。

 いとおしげな目つきに、胸がきゅっとめ付けられたような気がした。そんな自分におどろく。

(何!? いまのきゅっていったい、何なの!?)

「そ、その女性は、どこにいらっしゃるんですか?」

 何とか気持ちを落ち着けて、気になっている事を口にした。

 煌翔はなぜか、再び眉根を寄せている。そして小さくくちびる?んだ。

「彼女は……どこのだれかわからない。子どものころぐうぜん会っただけだから。だが、初めて会った時からずっとこいしていた」

 彼がこんなにじゆんすいおもいをかかえていたなんて、信じられなかった。恋した女性に長い間会えないなんて、どれだけ辛いのだろうと考えると、胸の苦しさがひどくなった。

「彼女と会えなくなって、もう六年ほどつ。ずっと思い続けているせいか、どうしてもほかの女性に目がいかない。このままではだと自分でもわかっている。俺は皇太子だ。妻を娶って皇帝の座を継ぐ為に、この気持ちは忘れなければと思っている」

「……でも辛そうな顔をされています。何とかその女性を捜せないんですか?」

 煌翔のこんな顔は初めてで、心配になって声をかけた。煌翔はしばらく無言だったが、やがて口元を嫌なみの形にゆがめた。そしていつもの馬鹿にしたような表情になって、うでみする。

「────本気にしたのか? 単純な奴だな」

「え!? 嘘だったんですか?」

 目を見開くと、煌翔がくっくっとこらえきれないように笑っている。

「俺がそんなくだらん初恋を引きずっているわけないだろう。後宮に行くのが嫌なのは欲に目がくらんだ貴族どもが送り込んだ女達の相手をするのがめんどうだからだ。ああ、面白かった。お前の心配そうな顔のけさと言ったら」

「笑わないでください! 本当に悲しんでいると思って、こっちまで泣きそうになったのに」

「そうおこるな。久々に笑わせてもらった礼に、薬草畑に入っていいという許可状を書いてやる。ほら、筆と紙を出せ。俺の気が変わらないうちに」

 本来の目的を思い出して、慌てて紙とすずりと筆をわたす。煌翔が、あずまの机に紙を置いて約束通り許可状を書いてくれた。その姿を見ていて、ふとある思いが芽生えた。

「ほら、許可状」

 差し出された紙を受け取って、じっと見つめると煌翔が首をかしげた。

「何だ、まだ何か用か?」

「いまの初恋の話、本当なんじゃないですか。照れかくしにごまかそうとしたんでしょう」

 煌翔がやや目を丸くした。

「どうしてそう思う」

「うまく言えませんけど、煌翔様が初恋の女性の話をしていた時の目がとても綺麗でした。嘘をついていたとは思えないくらい。……でもこれ以上はせんさくしないようにします。その女性との思い出は大切なものでしょうし、他人にあまり知られたくないだろうから」

 頭を下げて東屋を出た。驚いた顔をしている煌翔に、一度だけ振り向く。

「質問があります。さっきの話がもし本当だとして、もう一度彼女と会えたらどうしますか?」

 それは純粋な疑問だった。煌翔はふっと真顔になった。そして右手を胸の前でぐっとにぎる。

「彼女ともう一度会えたなら、このうでいて放さない。……さっきのが本当の話だったらな」

 彼らしい言い方だと、思わず笑みがこぼれた。

「ええ。本当の話だったらですね。では、失礼します」

 背を向けて立ち去りながら、煌翔の意外な面を見たと驚きを隠せないでいた。

「初恋の女性を思い続けるなんて、案外純粋なんだわ。あんなに情熱的な顔と声で、放さないとか言われたら、きっとその女性は幸せだろうな」

 まだ恋というものをした事がない。父が死んでからは生活するのに精いっぱいでそんなゆうはなかった。いつか自分も煌翔のような情熱的な顔つきで、好きな人の事を語るのだろうか。

 そんな自分を想像して、凜莉の顔は真っ赤になった。








続きは本編でお楽しみください。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る