コミカライズ記念描き下ろしショート・ストーリー



神瑞国しんずいこくの皇太子である煌翔こうしようの後宮。それが麗華宮れいかぐうだ。凛莉りりはその庭でため息をついた。

「もうすぐ調香会なのに、秘宝香の調合が進んでないわ。間に合わなかったらどうしよう」

 素性を偽って後宮に入ったのは、伝説の秘宝香を作り上げる為だ。運良く煌翔から調香会への参加も取り付けられたのに、肝心の秘宝香の調合に苦戦している。

 不安で押しつぶされそうだったが、首を振って深呼吸した。

「ううん。弱気になっては駄目。秘宝香を作る為に、木蓮もくれんが麗華宮に入れてくれたのよ。頑張らなくちゃ」

「私がどうかした?」

 声をかけられて、びくっとした。

 振り向くと、木蓮がいる。肩までの髪に、優しげな顔立ち。眼鏡をかけた木蓮は香の師匠だ。

「どうして麗華宮に? ここって後宮ですよ。勝手に入っていいんですか?」

「勝手に入ったらもちろん死刑だよ。でも大丈夫。許可はもらっているから。煌翔様に命じられた、調香会の資料を持って来たんだ」

 神瑞国では香が珍重されていて、宮廷にも優秀な香士達を集めた香道省があった。

 木蓮はその香道省の長だ。

「それと凛莉が調合に苦戦してるって言ってたから、ささやかな贈り物をしようと思って」

 木蓮が取り出したのは、調合に使う香匙こうさじだ。

 それには見覚えがあった。

「これ、わたしの香匙でしょう。下町の家にあるはず……」

「そうだよ。新しい香匙が使いにくいって言っていたから、君の家まで行って取ってきたんだ。少しの配合でまったく違う香りになるのが香だ。手に慣れた物を使うのが一番だよ」

 受け取って思わず微笑んだ。

「わざわざありがとう。これがあれば調合が進む気がするわ。……木蓮、秘宝香が完成できたら、一緒にお祝いしましょうね」

 笑いかけると、木蓮が軽く目を見開いた。

 そして一度息をついて、手をこちらに伸ばす。木蓮の指がそっと頬を撫でた。

「そうだね。でもその日が来たら、君は……」

 木蓮の言葉がふいに途切れた。

(あれ? 木蓮から悲しい香りが……?)

 唯一の特技は、人の感情すらも相手が発する香りで嗅ぎ分けられる絶対嗅覚だ。

 だが木蓮から悲しい香りがしたのは一瞬だった。

 気のせいかと首を傾げると、頬に当てられていた木蓮の指が移動して鼻を摘んだ。

「いたっ……!」

「ぼんやりしていないで、これを使って調合に励んでおいで。私もそろそろ行かないと、煌翔様に怒られてしまう。では、またね」

 木蓮が足早にその場を立ち去った。

「何か変な感じだったわ。まるで隠し事をしているような……? いや、まさかね」 

 凛莉は気を取り直して、調合の為にさっそく自室に向かった。 

 

◆◆◆


 凛莉は自室の近くまできて、足を止めた。

 部屋の前に仁王立ちしているのは、大将軍の我嵐がらんだ。彼は男らしい顔立ちで、大柄な体格をしているので迫力があった。

「我嵐様、何かご用でしょうか?」

 恐る恐る声をかけた。何度か会っているが、いい印象は持たれていないと知っている。

「……煌翔様がお呼びだ。来い」

「え!? わ、わかりました」

(もしかして、秘宝香について聞かれるのかも。まだ調合があまり進んでいないのに……)

 気は重いが仕方なく我嵐についていくと、彼がこちらを向いた。

「この間は……」

 そこで言葉が途切れたので、首を傾げた。

「この間? あ、痛み止めの香を差し上げた事ですか? 効きましたか?」

 問いかけると、我嵐がさっと前を向いた。

 そして、懐から布袋を取り出す。

「痛み止めの香はもらったが、香が入っていた布袋は返す。また何かに使えるだろう」

(律儀な人ね。わざわざ返さなくても……)

 そうは思ったが、いらないとも言えない。布袋を受け取って、ふと違和感を覚える。

「何か入ってるわ……」

 中を覗くと、小さな髪飾りが入っていた。

「この髪飾りはわたしの物ではありません」

「いいや。お前の物だ。……俺は物をもらったら、お返ししろと言われて育ったんだ」

 ぶっきらぼうな物言いにはっとした。

「もしかして、香のお返しですか? それはいけません。何かが欲しくて香を差し上げたのではないですし」

「西堂の娘に借りを作りたくないんだ。……気に入らないか? 何を贈れば女性が喜ぶかわからなくて、ずいぶん悩んだんだが……」

「え?」

 最後の方が小声だったのでよく聞き取れなかった。我嵐がこちらに顔を向ける。

「何でもない。いらなければ捨てろ」

(つんけんした言い方だけど、わたしの事を嫌がっている香りはしないわ。我嵐様は怖いと思っていたけど、義理堅いしいい人かも)

 戸惑いつつも頭を下げた。

「とんでもありません。とても可愛らしいです。ありがとうございます」

 銀細工の髪飾りは派手ではないが、愛らしくて使いやすそうだ。

 微笑んで頭を下げると、我嵐が立ち止まって、目をそらした。

「気にするな。借りを作るのが嫌いなだけだ。……煌翔様の部屋についたぞ」

 戸の前で我嵐とともに跪く。

「煌翔様、お連れしました」

「入れ」

 我嵐が戸を開けた。緊張しつつ中に入る。

「失礼します。お呼びでしょうか?……あっ」

 煌翔は戸のすぐ近くにいた。彼の目の前に立つ事になって驚きつつ、すぐに跪く。

龍の血を引くと言われる皇族は、民とは違う姿を持っている。

 煌翔も赤くて長い髪に、灰褐色の瞳をしていた。整った容貌は、まるで神が渾身の力をこめて造りあげた人形のようだ。

「挨拶は不要だ。立ってくれ」

 促されて立ち上がると、煌翔が微笑んだ。

(あれ? 笑った。そういえば、何だか最近優しい気がするのよね。後宮に来たばかりの頃は、嫌みとか怒ってばかりだったのに)

 不思議に思っていると、煌翔は腕組みしたまま、じっとこちらを見つめた。 

(えーと、どうして無言なの? どうして穴が空くほどわたしを見るの?)

 沈黙に耐えられず、恐る恐る口を開ける。

「ご用は何でございましょう」

 煌翔が何度か目を瞬かせた。

「ああ、用か。……そういえば用があって呼んだんだったな」

(煌翔様、やっぱり変だわ。そういえば調香会に参加したいって訴えた頃から、様子がおかしい気がするけど、何かしたかしら?)

 考えていると、煌翔が何かを差し出した。

「これをお前に見せようと思って」

 手にしているのは敷物のようだ。

「この敷物に見覚えはあるか?」

 煌翔の目が、なぜか期待に満ちているような気がした。

「……いえ、ないですが。これが何か?」

「手に取ってよく見てみろ。たとえば……同じ物を持っていなかったか?」

 戸惑いつつ受け取ってよく観察してみる。

 敷物はどうやら古い物のようだ。

「あれ? この香りは、どこかで……?」

 かすかではあるが、甘酸っぱい香りがする。

 その香りを知っている気がした。

「煌翔様、これは何なんですか?」

「……それは俺の命の恩人が忘れていった品だ。俺はその人を探している。お前の絶対嗅覚なら、手がかりが掴めるのではないか?」

 そういう理由で呼ばれたのかと納得して、敷物を鼻に持っていき、香りを吸い込んだ。

「香りはしますが、何年も前のもののようでかなり薄いです。これでは何もわかりません」

 煌翔が一瞬寂しそうな、切なそうな表情をした。

(こんな表情をするなんて……よほどその恩人は大切な人なのね)

「……お役に立てなくて申し訳ありません」

 項垂れると、煌翔がふっと息をついた。

「いや、いい。もう六年も待ったんだ。焦らないでおこう」

 意味がわからず首を傾げると、煌翔が肩を竦めた。

「その敷物はお前にやる」

「え!? でも大切な物なんでしょう?」

「ああ、何か気づいた事があったら教えてくれればいい。だが大切に使えよ。汚しでもしたら、即刻打ち首だ」

 厳しい言葉に背筋がぞっとした。何を考えているのかわからないが、皇太子の言葉に逆らうわけにはいかない。頷いて、敷物を大事に抱きしめると、煌翔が顔をのぞき込んできた。

「……何かわかったらすぐに来い。いいな」

 何かを願うような熱い目だった。見つめられると、なぜか心の中がうずいた気がした。

(その命の恩人は本当に会いたいんだろうな。少しでも探す手伝いができたら……)

「わかりました。その方とまた会える事を祈っています。では、これで失礼します」

 礼をして背を向けようとすると、声がした。

「……もう会えてはいるがな」

「煌翔様、何か仰いましたか?」

「いいや、何でもない。……凛莉、お前が後宮に来てよかった」

 一瞬、どういう意味かと目を瞬かせたものの、すぐに笑みを浮かべた。

「では、これからもそう思って頂けるように、この絶対嗅覚を使って、煌翔様のお役に立てるよう頑張ります」

 絶対嗅覚を信じて敷物の事を話してくれたのだろう。

 煌翔に信頼されているようで嬉しかった。煌翔は軽く目を見開いて、苦笑する。

「……まあいい。そういう事にしておこう」

(さっきから、どうも煌翔様と話がかみ合わないわ。何を考えていらっしゃるのかしら)

 首を傾げつつ、部屋を出ようとして、敷物をもう一度見つめた。

「今日はいろんな人から、いろんな物を頂けた日だわ……」

 何気なく口にした。木蓮からは香匙を、我嵐からは髪飾りを、そして煌翔からは敷物を。

 それぞれの気持ちが伝わってくるような贈り物ばかりだ。

 小さな声だったのに聞こえたのか、煌翔が駆け寄ってきた。

「おい、待て。いまのはどういう意味だ? 俺以外から誰に何をもらったんだ」

「え!? どうしてそんなに怒るんですか?」

 煌翔の迫力に目を見開いた。

 わけがわからないでいると、煌翔が一度目を伏せた。そしてさっと顔を背ける。

「お前は俺の後宮の才人だ。勝手に贈り物なんてもらうな。今度からは全部俺に報告しろ」

(……すごく怒りを感じている時の香りがするわ。まるで嫉妬しているみたい。いや、まさかそんな事があるはずないわね)

「は、はい。わかりました」

 慌てて頭を下げつつ、心の中で呟く。

(怒っているけど嫌われている香りはしないわ。よかった。……ん? どうしてよかったなんて思うの!? 煌翔様には麗華宮に来た時から嫌みばかり言われて苦手だったはず!)

 最近の煌翔は変だが、自分もどうやらおかしいようだ。

 凛莉は混乱しつつ慌てて煌翔の部屋をあとにした。

 

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

祝! コミカライズ連載開始記念!!(月刊ミステリーボニータ/秋田書店掲載) 特別書きおろしSS公開!!/伊藤たつき 角川ビーンズ文庫 @beans

★で称える

この小説が面白かったら★をつけてください。おすすめレビューも書けます。

フォローしてこの作品の続きを読もう

この小説のおすすめレビューを見る

この小説のタグ