学問  Tシャツ


「やあやあ、待たせたねぇ」


 ちゃらけた様子で応接の間に現れた“道真みちざね”は、へらへらとした笑顔を浮かべながら座布団の上に腰を下ろした。


「……なんだその恰好は」

「うん? これかい? Tシャツっていうんだよ。なかなかにイカしてるだろ」

「イカ……なんだ?」

「イカしてるだろ、って。いい感じだろ? って意味だよ」

「色が目に刺さる」


 ショッキングピンクのTシャツから目を逸らしながら、毘沙門びしゃもんは顔をしかめた。


「ええ、そうかい? ボクはこれ結構気に入っているんだけど」

「また箱庭に降りたのか。くだらない物を持ち帰って」


 毘沙門は責めるように言ったが、道真は気にする様子もなく首を縦に振った。


「これも勉強だよ、お勉強」


 道真は言いながら、自分のTシャツの襟をぴらぴらとつまんで見せた。その下の豊満な乳が、妙に強調された。毘沙門は道真の乳を一瞥してから、視線を道真の顔に戻す。


「何の勉強だ」

「箱庭の文化さ。時々顔を出さないと置いて行かれちゃうだろ」

「ついてゆく必要がどこにある。人間は勝手に我々を崇めて、勝手に都合よく我々の言葉を捏造し、勝手に救われるだけだ」


 毘沙門の言葉に道真はからからと笑った。


「違いない。でも『必要』の話をし始めたらキリがないのは君も分かってるだろ。すべての物は、『生まれたから』そこにあるんだよ」


 道真が右手を上げると、どこからともなく酒の入ったとっくりと二つのおちょこが現れた。慣れた手つきでおちょこに酒を注いで、片方を毘沙門に寄越す。


「人間の作った酒か。低俗な品だ」

「え、そう? 美味いよ? デリシャスってやつ」

「デリ……なんだ?」

「デリシャス。美味しいってことね」

「なぜわざわざ言い換える……」


 毘沙門は呆れたように息を吐いて、おちょこに口をつけた。そして、すぐに眉をぴくりと動かした。


「ね? 美味いでしょ」

「……まあ、思っていたよりは、悪くはない」

「普通に美味いって言えばいいのに」


 道真は肩をすくめてから、ぐいとおちょこを傾けた。


「んー……バリ美味」

「バリ……なんだ?」

「ものすごく美味しいってこと」

「お前の言葉はややこしい」


 毘沙門が顔をしかめるのを指さして、道真はにんまりと笑った。


「ボクの言葉じゃない。箱庭の人間の言葉さ。面白いだろ」

「面白くはない。言葉は伝わらなければ意味がない」

「伝わらないのは君が勉強不足だからさ。言葉のせいにしてはいけない」


 再びおちょこに酒を注いで、道真はそれを傾ける。


「面白いことに、箱庭の人間たちの言葉は独自進化してるんだよ。時代が変わると共に、その時代の人間に馴染む形で変わっていく。とても興味深い」

「必要のない進化だ」

「まーた『必要』の話をする。君は元も子もないことを言うのが好きだな」


 道真はわざとらしくため息をついた。


「必要がないのに進化するから面白いんだろ? 必要に合わせて進化するのは当然だ。当然のことをするだけの何が面白いんだよ」

「面白いことに必要性を感じない。お前も先ほど自分で言ったはずだ。すべての物は『ただそこにあるだけだ』と」

「そんなことは言ってない。ボクは『生まれたから』そこにあるんだって言っただけ。生まれたからには、好き勝手に生きるべきだ。そこに価値がある」


 少しの沈黙の後、毘沙門は溜め息をついて、空のおちょこを道真に差し出した。道真は何度か頷いてから、もう一度右手を上げた。道真の前にあるものと同じ酒が現れる。


「なんだかんだで、気に入ったんだろ。この酒だって、君の言う『必要性のない行動』の産物さ」


 言いながら、道真はとっくりを毘沙門の方に放る。とっくりは空中をスライドするように浮遊して、毘沙門の前でゆっくりと停止した。

 酒を受け取って、毘沙門は自分でそれをおちょこに注いだ。


「悪くはないが、神酒みきの方が美味い」

「神酒だって」

「言っておくが、人間からの捧げ物の『神酒』ではない。神が作った酒のことだ」

「神が作ろうが人間が作ろうが、美味い物は美味いだろうに」


 道真は下唇を出して、首を振った。毘沙門は道真のその様子を一瞥して、舌を鳴らした。


「私は、無意味なものが嫌いだ」

「知ってる。でも、無意味なものが嫌いなんて言ってたら、大抵のものが嫌いなんじゃないの?」

「その通りだ」


 毘沙門は酒を煽ってから、道真を指さした。


「お前のその意味不明な格好も、男でも女でもないくせに好んで女の身体をしているところも嫌いだ」

「ボクは君のそのボロ雑巾をまとってるみたいな格好もどうかと思うけどね」

「最低限の服だ。私としては、服を着る必要性すら感じていない」

「いろいろ丸出しで歩きたいって? やめてよね」


 道真は可笑しそうに笑ってから、急に真顔に戻って、言う。


「意味なんてないんだよ、毘沙門。ボクたちだって、箱庭の人間と一緒さ。なぜか箱庭の人間達を統制する立場に回っているだけで、彼らよりもボクたちの方が偉いのか、そもそも誰によってボクたちが作られたのか、もしくは、勝手に生じたのか、誰にも分からないんだから」

「お前は、人間だったはずだ。人間だったものが、なぜか人間に崇められ、概念になった」

「そう。つまり、ボクは人間に作られたってことになるのかもしれない」

「馬鹿を言うな。お前は神だぞ」

「神を作るのは人間さ。ただ、彼らが作る前から、神はここにあった。ただ、それだけ」


 酔いが回っているせいか、毘沙門の道真に対する反論はめちゃくちゃだった。道真はそれに気付いているが、指摘はしない。それこそ、無意味だと思った。

 道真はもともとは人間であった。と、記憶していた。学問を専らとして、政治を執り、詩を詠み、風流を愛した。その副産物として、偉業を成し遂げると共に、道真は自らも知らぬうちに神となっていた。おかしな話だ。ただ、それが真実であったし、自分がどうして神になったのか、ということは道真にとって、さして重要なことではなかった。

 結局、神になっても、することは変わらなかった。

 学問を専らとして、人間の動向を見守り、詩を詠み、風流を愛している。


「ボクは、無意味なことが好きだよ」


 道真は口ずさむように、そう言った。


「無意味の中に、すべての生物の、真価がある」

「そのすさまじい色の『ていしゃつ』とやらを着ることに、お前の真価があると?」


 毘沙門の指摘に、道真は声を出して笑った。


「そうだね、つまりは、そういうことかもしれない」

「その乳房も、お前の真価にかかわるのか」

「どうだろう。ただ、人間の時には胸はなかったし、今つけてないものが下半身についていたから、面白いよ」


 道真は答えてから、いたずらっぽく微笑んだ。


「というか、毘沙門。ボクの身体的な性別にやけに頓着するじゃないか。それに、無意味が嫌いだと言いながら、特に用事もないのにボクのところに酒を飲みに来るのはどういうことなんだい」


 道真の問いに、毘沙門は眉をぴくりと動かして、無言でおちょこを煽った。


「キミ、結構ボクのこと好きなんじゃないの」

「神は恋愛をしない。性別も存在しない」

「そういうことになってるだけさ。ほら、ボクって美人だろ? ん?」

「黙れ。胸を強調するな、気色悪い」


 毘沙門がふいと道真から視線を逸らすのを見て、満足げに頷く道真。


「思春期の人間の男の子みたいで、毘沙門は面白いな」

「人間と一緒にするな」

「大した差はないよ。住んでる世界が違うだけだ」

「滅多なことを言うものじゃない。他の神にそんなことを言ってみろ。下手をすれば懲罰を受ける」


 毘沙門の忠告に、道真はへらへらと答えた。


「そりゃ、他の神には言わないさ。キミだから言えるんだろ」

「……そうか」


 複雑な表情で視線を落とす毘沙門に視線をやって、道真はさらに満足げに頷いた。そして、自分の前にあったとっくりとおちょこを、指を鳴らして消し去る。


「さて、そろそろボクは仕事をしないといけないからね。キミはそこで飲んでていいよ。必要ならいくらでもおかわりを出すからね」


 そう言って、道真は目の前にずらりと、黒い文字の書かれた木の板を召喚した。毘沙門は驚いたように後ずさった。


「またそれか。それは仕事なのか」

「それ、じゃなくて“絵馬”だよ。いい加減覚えてほしいな」

「人間の悪習の名を覚える必要性を感じない」

「そうかい」


 道真は気のない返事をしながら、絵馬に視線を落としている。絵馬には、箱庭の人間が書いた言葉がびっしりと書き込まれていた。


「すべて読むのか? 願いを叶えてやるわけでもあるまい」


 毘沙門が酒を啜りながらそう言うと、道真は視線だけを毘沙門に寄越した。そして、再び絵馬に目を落としながら、答える。


「これは、ボクに宛てて書かれたものだろう。ならば、ボクが読むほかないじゃないか」

「読んだところで、どうなる。無意味だ」


 道真は首を横に振りながら、小さく笑った。


「確かに、願いが叶わないという点では無意味かもしれないね。結局、勉強は自分でしてもらうしかないんだから」


 道真は学問の神として崇められていた。道真を祀る神社にかけられた絵馬には、毎年『成績が上がりますように』だとか、『志望校に受かりますように』だとかの願い事がびっしりと書き込まれていた。


「ただ、僕に宛てて人間がメッセージを送ってくれるというのは、悪い気がしない」

「メッセ……なんだ?」

「手紙のようなものだよ。ボクに宛てた言葉のこと」


 横文字を言うたびに訊き返してくる毘沙門に苦笑しながら、道真は絵馬を一つ一つ眺めていく。


「確かに、ボクに学力向上をお願いするのは無意味かもしれない。ただ、ボクに宛てた手紙をボクが読まなかったら、本当に、完全に、無意味になってしまうだろ」

「無意味になると、何か困るのか」


 毘沙門の問いに、道真は目を丸くした。言葉を失ったように、口をぱくぱくとさせてから、笑みを浮かべた。


「その質問は……面白いな。考えたこともなかった。べつに、困らないね、確かに」

「お前は無意味を愛しているんだろ」


 畳みかけるような毘沙門の言葉に、道真は両手を上げた。


「ああ、降参。ちょっと偉そうなことを言ったよ。単純に、ボクが読みたいだけだよ、これを。それでいいだろ」

「どうして読みたいんだ」

「うるさいなキミは。意味ばっかりを求めて、まるで人間みたいだ」


 道真が眉をくいと押し上げてそう言うと、毘沙門は露骨に顔をしかめる。


「人間と一緒にするな」

「いいや、キミは人間みたいだよ。無意味を嫌うところとか、何にでも意味を見出そうとするところがね」

「見出そうとしているわけじゃない。無意味だと言っているだけだ」

「意味のあることがしたいんだろう? ならば意味を求めるところから始まるじゃないか。一緒さ」


 道真はまくし立てるように言ってから、一度ゆっくりと息を吐いて、頭を垂れた。


「ごめん、ごめん。別に責めてるわけじゃないよ。落ち込まないでよ」

「落ち込んでなどいない」


 毘沙門はぶっきらぼうに答えて、酒を煽った。もうおちょこに注ぐのはやめて、とっくりからそのまま飲み始めている。酔いが回っているのが道真からも見て取れた。


「意味なんてないよ。そうしたいから、するだけだ」


 道真はそう言いながら絵馬に視線を流した。そして、その中の一枚に目を奪われる。自然と、道真の口から笑いが漏れた。


「強いて言うなら、こういうのがあるから、好きなのかもしれない」


 道真は一枚の絵馬を手に取って、ゆっくりと目を通してから、毘沙門に見せた。

 毘沙門は立ち上がって道真に近づいて、目を細めながらその絵馬の文字を読む。


『冬も深まって参りました。天満大自在天神様も、どうか風邪などひかぬよう、暖かにお過ごしください』


 毘沙門は眉を寄せた。


「神は風邪などひかぬ」

「でしょ、ものすごく余計なお世話なんだけどさ……でも」


 道真は微笑んで、絵馬をじっと見つめた。その視線は絵馬を飛び越えて、箱庭の人間を見つめているようだった。


「ものすごく無意味だけど、最高に人間らしくて、良い言葉だよ」


 道真はそう言って、絵馬を優しく撫でた。

 道真のその微笑みを毘沙門はじっと見つめて、すぐにふいと目を逸らす。


「……私には、無意味な文字の羅列としか思えない」

「そうだろうね」

「だが、お前にとって重要だということは、なんとなく分かった」


 毘沙門が言うと、道真は一瞬ぽかんとしたのちに、破顔した。


「らしくないこと言うじゃないか」

「酔っているだけだ」

「酔っぱらって普段らしからぬことを言うなんて、やっぱり人間みたいだ」


 道真がからかうように言うと、毘沙門は無言で道真をにらみつけて、また酒を煽った。


 引き続き絵馬を眺める道真と、道真の見つめる絵馬を交互に見やりながら、毘沙門は酒を飲んだ。


『第一志望に受かりたい!!』

『楽して頭良くなりてぇです』

『ひとみ♡よしき For Ever♡』

『仕事を休みたい』


 明らかに他力本願な願いや、毘沙門には読めない文字や、学問に関係のない願いがずらずらと書き並べられていて辟易としたが、楽しそうに読んでいる道真を見ると、まあ、こんな絵馬でも役には立っているのか、と毘沙門は思いなおした。


「あ、見てこれ」


 道真が一枚の絵馬を手に取って、毘沙門に見せた。


「『道真公を萌えキャラ化したら、もっと参拝客が増えると思います』だってさ。これアリだよなぁ」

「もえきゃら、というのはなんだ」

「可愛い女の子の偶像ってことだよ。まあ、実際ボクはカワイイんだけどね」

「お前は男でも女でもない」

「真実はどうでもいいんだよ、見た目がカワイイことに意味がある」


 道真はいたずらっぽく笑って、毘沙門を見た。


「毘沙門も、ボクのこの見た目、結構好きだもんね?」

「勝手なことを言うな」


 けらけらと笑う道真を横目に、毘沙門も少し頬を緩めた。





 数年後、『ミチザネちゃん』というキャラクターが箱庭で大ブレイクした話を道真から聞いて、毘沙門は愕然とした表情を浮かべることとなった。

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