意識と認識の箱庭

しめさば

序文

ラムネ


 小見川おみがわが本のページをぺらりとめくった。

 その音は小さな部屋の中で、やけにはっきりと響いて、それから、羽山はやまの鼓膜を少しだけ揺らす。


 日の傾いた茜色の空、グラウンドを駆け回る運動部の喧噪、カラスの鳴き声、窓の外に見える木の枝が揺れて葉の擦れる音、廊下を歩いてゆく数人の生徒の談笑。

 すべてがバックグラウンドと化して、羽山の耳には、小見川が本を読み進める音のみがはっきりと聞こえていた。

 飽きるまでその音を聴いてから、羽山は再び万年筆をとった。かりかりと、紙の上にインクが滑ってゆく。

 原稿用紙の上で、主人公は言った。「神様がいるなら」そこまで記したところで、万年筆が止まる。神様がいるなら。紙の上でそう言った彼の言葉の続きは、なんだろうか。羽山は、いつも続きを想像しないままに登場人物を語らせてしまう。悪い癖だ、と小見川によく言われていたのを思い出した。


「神様がいるなら、どうして僕と君を会わせてしまったんだろう」


 結局、羽山はそう記した。

 そして、すぐに息を吐いて、原稿用紙をくしゃくしゃに丸めた。部室の端に置いてある筒状のゴミ箱にそれを投げ入れて、伸びをした。

 手に持っていた万年筆を置いてから、羽山は横目で小見川を見た。ちょうど、彼女が小さく息を吸って、そして、吐いて、本を閉じるところだった。

 羽山の視線に気付いて、小見川は首を傾げた。


「なに」


 羽山は片眉を上げて、首を横に振った。


「横顔がチャーミングだったから、見惚れてた」

「この際だから言っておくけれど」


 小見川は文庫本を机の上に置いてから、羽山の目を射貫くように見て言った。


「そういう台詞が似合う顔してないから、君は。やめたほうがいいよ」

「それは違う。言ってるうちに、馴染んでくるんだよ。言葉が、僕の顔に。因果関係が、逆」

「それっていつ? 10年後?」


 小見川は鼻を鳴らして、机の上に置いてあった『ラムネ』の缶を手に取って、それに口をつけた。学校の購買の横の自販機で売っている、なんとも胡散臭い味のする炭酸飲料だ。学校内の自動販売機の中では最も安値の80円で買えることから、男子生徒の間では人気のある飲料だが、羽山はどうもその薬臭さが苦手で、あまり買うことはなかった。

 小見川はその『ラムネ』を好んで飲んだ。毎日、部活動が始まる前に自動販売機でそれを購入して、部活の時間いっぱいを使って、ゆっくりとそれを飲む。彼女の中の『文芸部』の活動には「ラムネを飲むこと」も含まれているに違いない、と羽山は思っていた。


「毎日そんなの飲んでて、よく飽きないよな」


 羽山がラムネ缶を指さしてそう言うと、小見川はうっすらと目を開いて、肩をすくめた。


「そういう君も、毎日そうやって原稿用紙をくしゃくしゃにしてゴミ箱に投げ捨てる遊び、よく飽きないよね」

「うるさいな……これは好きでやってるわけじゃない」

「私は好きで飲んでるの。とやかく言わないで」


 ぴしゃりと言ってから、小見川は窓の近くに鉄パイプ製の椅子を移動させた。窓の鍵を開けて、彼女が窓を開放すると、外から風が吹き込んで彼女の髪を揺らした。羽山はそれをぼんやりと見つめて、綺麗だなと胸中で呟いた。


「私、思ったんだけど」


 窓枠に頬杖をついて、小見川が口を開いた。

 なんてことのない言葉を言うような口調で、ただ、その横顔は何か大切なことを悟ったような、そういう雰囲気だった。


「この世界って、全部無意味なのかもしれない」


 羽山はぽりぽりと頭を掻いてから、少しの間を置いて、首を傾げた。


「なんて?」

「だから、この世界に意味はないのかもしれないって言ったの」

「何を急に、そんなこと」


 脈絡がなさすぎる、と羽山は思った。

 先ほどまで彼女が読んでいた本にそんなことが書いてあったのだろうか。目を細めて文庫本のタイトルに目を凝らす。「あいつをブッ殺す方法」と書いてある。多分だが、誰かをぶっ殺す話だ。世界が無意味だなんだ、という話ではなさそうだと羽山は一人頷いた。


「ほら、私がここで本を読んでいても、世界は勝手に回るでしょう」

「そりゃ、そうだ」

「私が何をしなくても、サッカー部のエースの彼は、勝手にシュートを打つ」

「シュートを打つのは彼の自由だ」


 小見川の視線が窓の外でちらちらと揺れていた。おそらく、サッカー部の練習を眺めているのだ。小見川の横顔からは、羽山を引き付ける特別な雰囲気が放たれていた。小見川がどこかを眺めている横顔を、いつも羽山はじっと眺めている。


「もっと言えば、サッカー部がなくても誰も困らないし、経済は勝手に回る。経済なんてなくても人間は生きられるし、人間が生きなくても、地球は勝手に回る。地球なんてなくても、宇宙はある」

「待って、なんの話?」

「世界が無意味って話」


 たかが数秒の言葉で、あまりに大きくなっていく話のスケールに羽山はついてゆけなくなった。小見川の言葉を羽山が遮ると、小見川はムッとした顔で言った。


「最初から言ってるでしょ」

「ある意味がないから、無意味ってこと?」

「そう」


 羽山は小さく呻って、手癖のように万年筆を手に取った。それをくるくると、手の上で弄ぶ。


「サッカー部は、あると楽しい。サッカーをする奴らがね。経済はあると便利だ。こう……ないよりも、社会的に、効率的に生きられる。地球があると、たくさんの生物が生きられる。宇宙は……元からあった」


 羽山が順に答えてゆくと、小見川は首を横に振った。


「そういうことじゃない」

「どういうことだよ」

「サッカー部があって、楽しいのは分かる。経済があると便利なのも分かる。地球があるのが素晴らしいのも分かるよ。でも、それって、誰にとって『良い』ことなのかな」


 小見川は視線を窓の外にやったまま、淡々と続ける。


「人間が楽しいのも、効率的に生きるのも、人間が勝手にやってるだけでしょ。人間が文化的に生きてることで得をするのって、誰なんだろう」

「人間だろ」

「じゃあ、なんで人間は生まれたの? 人間が楽しく、文化的に生きるために生まれたの?」


 小見川はそこまで言ってから、小さく息を吐いた。

 羽山も、言葉を詰まらせる。

 今の世の中を、考える。

 人間が他の動物や、植物、そして環境を支配して、文化的に生きているのが今の世の中だ。歴史の中で、人類はいつだって『今より良くあろう』としてきた。原始人が火を起こすことを覚え、狩りを覚え、物々交換を試し、硬貨を作り、経済を構築した。社会を作り、法律を作り、世界を取り決めた。

 羽山は思った。

 誰の為だろう。考えるまでもない、人間の為だ。

 だとしたら、その人間は、なんのために、誰を、満足させるために生まれたのだろうか。


「神様、とか」


 ふっと思い浮かんだ言葉を口にした羽山に、小見川はちらりと視線をやってから失笑した。


「神様が人間を作ったってこと?」

「当てずっぽうだよ」

「人間が神様に頼ることはあっても、神様が人間に何かを求めているとは思えない」

「僕は、なんとなく小説を書くよ。小説に何かを求めているわけじゃない。それと、同じじゃないかな」


 羽山の言葉に、小見川は顔をしかめた。


「君、いつも『なんとなく』で書いてたの? 毎日毎日書いてばかりだから、良い小説を書こう、とかそんなこと考えてるのかと思ってた」

「いや、そりゃ、良い小説を書きたいけどさ」


 羽山は苦笑を漏らしつつ、言う。


「でも、これを書いたからどうなるってわけでもないじゃないか。君みたいに言うなら、『僕が小説なんて書いてなくたって世界は回る』ってこと」

「じゃあなんで書くの」


 小見川が、答えの分かりきった質問をした。羽山は首を振りながら、答えた。


「書きたいからに決まってる」

「じゃあ、神様もなんとなく、人間が作りたくなって、作ったってこと?」

「そうかもしれないよ。分からないけど」


 小見川は再び窓の外に視線を戻して、髪をゆるやかな風に揺らされながら、考え込んでいる。

 すべてのことが無意味だというのなら、この問答も無意味だろう。この空間も、無意味だろうか。そんなことはない、と羽山は思った。

 窓際で考え込む小見川は、絵になった。この瞬間を切り抜いて、永遠に保存したいと思えるほどに、羽山はこの光景を感慨深く目に映した。


「人間は、人間が便利に生きるためにいろんなものを作ったけど」


 小見川が唐突に口を開いた。考え込んでいたと思ったら、突然話し出す。彼女はいつもそうだった。


「それってつまり、神様が、それを作らせるために人間を作ったってことなのかな」

「はは、そうだとしたら面白いな」


 羽山は肩を揺らして、手に持った万年筆を眺めた。


「万年筆を作らせるために、人間を作った。なんかロマンチックじゃないか」


 そう呟いてから、小見川の机の上に置いてあるラムネを見て、失笑した。


「でも、その胡散臭いラムネを作らせるために人間を作ったわけではないんじゃないかな。さすがに、無駄が過ぎると思う」


 羽山が言うと、小見川はムッとした表情を返した。


「私だって、ラムネを飲むために生まれてきたわけじゃないんだけど」


 そう言ってから、小見川は急に神妙な顔をして、小さな声で続けた。


「私は、なんのために生まれたんだろう」


 考えてもしようもないことだと、羽山は思った。ただ、それを口にすることはできなかった。小見川の横顔を見れば、簡単に分かった。彼女にとっては、それがとても重要なことなのだ。

 羽山は頭を掻いて、肩をすくめた。


「僕に会うためとか?」

「だからそういうのほんと似合ってないって。というか、割と気持ち悪い。鳥肌立つ」

「容赦ないな」


 茶化すことしかできなかった自分に少し呆れながら、しかし、小見川が少し笑ったのを見て、羽山は安堵した。

 会話をしている間に、日はさらに傾いていた。部室の中には橙色の光がうっすらと充満している。

 風が窓の近くの木を揺らす音、窓を開けたことでよく聞こえるようになったグラウンドの喧噪、さらに赤みの増した空の色、窓のそばでそとを眺めている小見川の横顔。すべてが、じわりと、名状しがたい感情になって、羽山の胸に流れ込んだ。無意味ではないと、思った。


「自分で決めればいいと思うよ」


 気付けば、羽山はそう口にしていた。

 小見川が視線を窓の外から、羽山に移す。


「何を」

「全部だよ」


 羽山は言ってから、窓を指さした。


「原稿用紙飛びそうだから、窓閉めて」


 小見川は羽山の不十分な言葉に不満げな表情を浮かべつつも、窓を閉めた。


「全部って、なにが」

「話の流れから考えなよ、文芸部部長だろ」


 羽山は意地悪にそう答えて、万年筆のキャップをはずした。原稿用紙に、インクを滑らせてゆく。具体的に何も考えずに、思うままに万年筆を走らせた。


 サッカー部。

 経済。

 地球。

 宇宙。

 彼女の横顔。

 生まれた意味。

 万年筆。

 ラムネ。

 文芸部。

 僕の小説。


 好き放題に言葉を羅列して、羽山は一人、小さく笑った。


 きっと、意味なんてないのだ。

 宇宙はいつからかそこにあって、その中に地球が生まれた。神様はいるのかもしれないし、いないのかもしれない。神様が作ったとしても、そうでないとしても、植物が生まれ、動物が生まれ、人間が生まれた。人間は進化を続けて、今の文化を作り上げた。

 羽山という人間がいて、小見川という人間がいた。羽山は毎日部活でこの小部屋にやってきては、小説を書いている。小見川は、毎日ラムネを飲みながら読書をした。小説は家で書いているのだと言う。羽山は気ままに小説を書けるこの空間が好きだったし、小説に行き詰まったら読書をする小見川の横顔を眺めるのが好きだった。加えて言えば、小見川の書いてくる小説も好きだったし、彼女そのものも、好きだった。

 理由はある。挙げれば、キリがない。ただ、そこに意味はないと思った。羽山にとって、『意味』は重要ではなかった。


 羽山は再び、原稿用紙をくしゃくしゃに丸めて、ごみ箱に投げ入れた。


 神様がいるなら。


 急に、羽山の脳内で、主人公が口を開いた。


 今も、どこかで僕たちを見ているのかな。


 羽山ははっと息を吸って、新しい原稿用紙を取り出した。万年筆を走らせる。


「神様がいるなら、今も、どこかで僕たちを見ているのかな。何を、思っているのかな。笑っているのかな、それとも泣いているのかな。僕がこんなに悩んでいる間に、神様は何を考えているんだろう」


 主人公は、ぼろぼろと涙をこぼしながらそう言った。淀みなく、万年筆が原稿用紙の上で走った。

 とり憑かれるように万年筆で原稿用紙に物語を綴ってゆく。ふと集中が途切れて羽山が顔を上げると、30分ほどが経過していた。下校時刻が近い。

 一気に意識が物語から現実に戻って来て、自分が呼吸をしていることを思い出し、耳が周りの音を拾い始めた。羽山がゆっくり息を吸うのと、同時に。


 ぺらり。


 羽山が視線を動かすと、小見川は、再び文庫本に目を落としていた。彼女がページをめくった音が、はっきりと、心地よく、羽山の耳に届いた。


「ああ」


 本当に、小さな吐息を羽山は漏らした。


 この音を聴くために、僕は生まれてきたのかもしれない。

 そんなことを、羽山は思った。勝手に、自分で、そう決めた。


 下校時間を告げるチャイムが鳴った。

 小見川は現実に引き戻されたように、文庫本から顔を上げた。


「帰ろうか」


 羽山が言うと、小見川は名残惜しそうに何度か文庫本に視線をやったが、諦めたように首を縦に振った。


「家でも読めるだろ」

「家では読書はしないの。小説を書くから」


 小見川は短く答えて、鞄に本をしまった。

 窓から差し込む橙色の光が彼女の横顔を照らした。羽山は目を細めて、それを見た。


 神様がいるなら。


 羽山は、小見川の横顔を見つめながら、考えた。


 今も、どこかで僕たちを見ているのだろうか。

 見ている方が、良いと思う。

 彼女の横顔は、こんなにも、綺麗なんだから。


 そこまで考えて、羽山はくだらないな、と思った。


「なに」


 羽山の視線に気付いた小見川が、訝しげに視線を返す。


「横顔がチャーミングだから」

「またそれ」


 小見川は羽山の言葉を遮って、やれやれ、と首を振った。


「そういう上っ面のお世辞が、一番無意味だと思う」


 小見川は言いながら、部室の鍵をちゃりちゃりと鳴らして、ドアを開けた。羽山が部室から出るのを待ってから、小見川も部室を出て、ドアに施錠をする。


「君にとって無意味でも、僕にとっては意味がある」


 羽山が廊下の窓から空を覗き込みながらそう言った。

 小見川はその横顔を眺めて、曖昧な表情をしてから、首を横に振る。


「何万回言っても、そういう台詞は君の顔には馴染まないって」

「僕が何万回か言った後に、もう一回言ってよ」


 羽山は受け流すようにそう言って、小見川の肩をぽんと叩いた。


「じゃ、また明日」


 鍵を職員室に返すのは部長である小見川の仕事だった。羽山はいつも小見川を待たずに、さっさと帰ってしまう。

 羽山の背中を見送りながら、小見川は小さな声で言った。


「また明日」


 この約束のような言葉も、無意味だろうか。

 小見川は、先刻の自分の言葉を思い出す。


 考えてみて、すぐに結論は出る。


 意味なんて、どうでもいいと思った。


 少しだけ残ったラムネをぐいと飲みほして、小見川は小さく息を吐いた。

 吐息から、薬品のような甘い香りが、喉や鼻を通して香った。

 ラムネは、部活の味だった。部活の味は、羽山の味だ。

 小見川は失笑して、職員室に足を向ける。


 やっぱり、全部無意味だ。

 ただ、とても重要だと、小見川は思った。





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