第13話 木星の二階

十三 木星の二階


 目を開ければ、布団の上だった。おれの部屋のおれの布団だ。おれは真っ裸で布団の上にいた。

「なんだこりゃ」

 間抜けなせりふが口をついて出た。

 布団の脇には、おれが昨日着ていた服とマスターの白いシャツがきちんと畳んで置いてあった。シミひとつない。そして足元には松尾可先輩の浴衣が脱ぎ散らかされていた。

 わけがわからないのはもう慣れっこだ。夢であってもなくても、構うものか。ともかくソーダを探すのだ。あの猫畜生、これで本当の鬼ごっこだ、などとふざけたことを言っていた。

 まったくの気の迷いだけれども、おれは自分の服でなく先輩の浴衣を着て外に出た。なんとなくそれがふさわしいような気がしたのだ。今度はちゃんと右前だ。

 もうすっかり陽は昇っていたが、空気は朝の清潔なそれだ。けやき並木を抜ける。いつのまにか駆け足になっていた。うらなりの前を通り過ぎる。もちろん店はまだ開いていない。マスターとじいさんは、まだびっくりガードの奥でのんびり朝食を食べているのかもしれない。昨日の雨で石畳はまだ濡れていたが、朝日を受けてきらきらと光っていた。

 踏切を渡って、旧高田小の脇を抜け、一丁目に向かう。朝の住宅街は静かだ。走りながら、横目で寒月湯をにらむ。こちらもまだやっていない。当たり前だ、銭湯は夕方からやるものだ。では松尾可先輩が沸かしていたのはなんだったのだろう? 

 ソーダがどこにいるか。根拠はない。けれども、かすかな予感を頼りに走った。角を曲がる。ブロック塀。きのう新たに『亡霊黒猫』を見つけたその壁だ。

 ——果たして『亡霊黒猫』のラクガキは消えていた。影も形もない、染みひとつない。ただのブロック塀である。

 けれどもそこに、黒い太った猫がいた。猫は丸まって眠っていた。

「……おい、見つけたぞ」

 そう声をかけて抱き上げる。重たくて、ぐにゃりと温かい。生きている。たしかに生きている。血液が流れ、内臓がうごめく、筋肉がきしむ。生き物の身体がそこにあった。

 猫はにゃあと鳴いて、目を開けた。青と茶色の視線でこちらを見上げ、大儀そうにあくびしてみせた。


 さて、佐藤ミユキに何と連絡したものか。

 ——猫を見つけましたよ、みんなあなたの仕業だったんですね? お姉さんの猫なんですね? いったいどういう目論見だったのですか?

 もしかしたら、もっと早くにおれが気づくと思っていましたか? よくよく思い出せば、最初のねこ探していますのチラシと、飼い主を探していますのチラシはそっくりでしたね。本当は、チラシも街中にまいたりはしていなかったのですよね? うらなり以外で一度も見かけませんでしたから。なるほど、ヒントはあちこちにあったのですね? そういえばあなたははじめに、猫は好きですかと聞きましたね。おれが猫なんか好きじゃないと言ったらどうするつもりだったのです? あるいはおれが猫をいじめたら?

 ……でもそんなことはないだろうと、おれは猫と仲良くなってくれるだろうと。あなたが「文通」と呼んだ仕事の文章を通して、あなたはおれという人間をすっかり見抜いていたというのでしょうか? そもそもおれに猫を預けて、いったいどうするつもりだったのでしょう?

 奇妙な飼い主探しを口実にして、あなたはおれと話をしてみたかったのだと——、おれが書いたデタラメな文章をあなたは気に入ってくれていたのだと——、おれはあなたの絵からあなたを見つけることができるだろうと、そう思ってくれていたのですか。おれがどんな人物だか、猫を通して知りたかったとでもいうのでしょうか。

 とんでもなくまわりくどくてヘンテコな方法で、あなたはおれに会いにきてくれたのですか。そう思って良いのですか。おれは、少しはうぬぼれても良いのでしょうか。

 佐藤ミユキに話したいことは山ほどあった。心臓がうるさく鳴った。

 ああ、そうだった。誰かと話をしたいと思うこと。その人のことを知りたいと思うこと。自分のことを話したいと思うこと。おれはそういう気持ちをすっかり忘れていた。そうか、そういう単純な動機でよかったのだ——。

 そう思ったところで、ふと何かに呼ばれた気がして後ろを振り返った。通りの奥には古びた美容室があって、その二階はアパートになっているらしい。美容室はジュピターという店だった。

 ——木星。前に佐藤ミユキが話していたスーパーボールのことを、不意にくっきり思い出す。二階の窓を見上げれば、水玉模様のワンピースが干されていた。

 郵便受けを確認するまでもない。おれはソーダを抱えて、階段を昇っていった。静かなアパートだ。通りを駆けていく子どもらの声が響いた。もう学校に行く時間なのだろう。

 玄関のチャイムを押す。うちとちがって、ちゃんと鳴る。ぴんぽん、とよそゆきの音がすると、へんに緊張する。だけどなぜだか、笑いがこみ上げてきた。

「——はい」

 ドアが開くと、出てきたのはやはり佐藤ミユキだった。おれとソーダを見て少し驚いた顔をする。

 さて、何と言おうか。一瞬の逡巡を、ソーダがにゃあと鳴いてさえぎった。だからおれは結局、ごく単純な言い方をした。

「……ミユキさん、猫を探してきました」

 アパートは東向きで、太陽がまぶしい。部屋の奥からテレビの音だろう、天気予報が聞こえてきた。関東地方は晴れ、梅雨明けが間近です——。

 そうか。雨はもう、止んだのだ。



 〈幕外〉


 この話はここで終わる。後日談はある。蛇足なので手短に話す。

 ソーダはミユキの姉のところに帰った。その後は脱走していないらしい。姉のアヤコさんは北参道に住んでいて、ミユキとおれはしばしばソーダに会いに行くことができた。

 結局おれは竹宇地に頼んで、乙女ロードの観光案内を書かせてもらっている。ついでに編集部の使い走りのような仕事を任され、ライターの真似事を始めた。ときどき梅打と飲む。そういう合間に、投稿用の小説を書いている。相変わらずミユキはいろいろなところに挿し絵を描いていて忙しい。けれども猫の絵を描いて楽しそうだ。

 うらなりのマスターは相変わらず青白い顔でコーヒーを作り、じいさんはやけにいい声で接客をしている。寒月湯には何度か行ったけれど、松尾可先輩には会えなかった。

 雑司が谷に『亡霊黒猫』が増えることはもうなかった。残った猫の影は、雨や風で次第に薄れていった。消えていく猫たちを見ているのは、なんだかさみしくもあった。

 そういうわけで今朝、おれはミユキにこう言ったのだ。今年もミユキが鬼子母神で買った朝顔が、ぽっかり咲いた朝だった。

「おれたち、猫を飼おうか」

 ミユキはニッコリ笑った。


〈了〉

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猫を飼う オカワダアキナ @Okwdznr

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