第12話 胎内めぐり

十二 胎内めぐり


「おーい! おーい!」

 声を上げてみるが、誰の返事もない。壁を叩いてみても、ソーダのように身体がめりこむことはなかった。通路がふさがってしまったとなると、いずれ空気が薄くなるのではないか——、背筋に汗を感じた。そう思ってしまうと、本当に酸素が足りない気がしてくる。まずい。こんなわけのわからないところで生き埋めになりたくない。夢なら早く覚めてくれと思って頬をつねるが、痛いだけで何も変わらない。

 落ち着こう。そう思ってソーダの座っていた椅子に腰掛けた。すると、椅子の足になにやら緑色のものが絡みついているのが目に入った。

 それは何か植物のツルであるようだった。やわらかい葉がついていて、ツルは地面から生えていた。何気なくツルを引っ張ってみたが、細い見た目に反して針金のように頑丈だった。地面の土がぼろぼろと崩れた。

 穴は掘れるのかもしれない。両手でツルの周りの土を削れば、存外もろい土だった。爪に土が入るが構ってはいられない。地面はどこまでも掘れたし、緑のツルはどこまでもつづいていた。

 しばらく穴を掘っていると、急にぼこんと穴が空いた。下に空間があるようだ。ここに来るまでおれは、いくつも階段や坂を上り下りした。どこか通路につながっているのかもしれない。ツルは下の空間に伸びていた。

 おれはツルをつたって、下に降りた。やはり通路だった。かなり天井は低く暗いが、どこかにつながっているのだろう。ツルはずっと奥から生えているらしい。ともかくたどってみることにした。

 通路は下り坂になっていて、どこまでも続いた。

 なんだか胎内めぐりのようだな、と思った。きのうの夜からずっと、ぐにゃぐにゃと道に迷ってばかりだ。数珠の手すりの代わりに、緑のツルだ。いったいおれはどうしてしまったんだろう? どこで迷ってしまったんだろう? これは夢なんだろうか? まさかおれは死んでしまったのではあるまいな?

 びっくりガードからこんな変な空間に迷い込んで、ここは雑司が谷の裏口だという。猫がヒトの姿をして現れ、また消えた。佐藤ミユキはおれのことを知っていた。そしておれは今、胎内めぐりのようにツルをつたって暗闇をさまよっている。

 胎内めぐりだとして、それではここは誰の胎内なのだろう? 大仏か、菩薩か、あるいは——、

「——お前の好きな女の子の中かもしれないね?」

 狭い通路の出口だった。出口の向こうから声がした。声の方へ出ると、がらんと開けていた。

 そこは墓場だった。墓石がたくさん並んでいる。墓石に絡みつくように朝顔がたくさん植わっていた。緑のツルは、朝顔のツルだったのか。こんなに地下深くに朝顔が咲いているのは奇妙な光景だ。ざわざわと風が吹き、朝顔の花が揺れた。

「ここは雑司が谷霊園だよ」

 声の主は、亀山だった。

「久しぶりだな、鶴森」

 亀山は大ぶりのコートを着ていた。暑くないのだろうかと思ったが、たしかにここは少し涼しい気もする。

「猫を追っているんだろう?」

 亀山が言った。またざわざわと風が鳴る。風はどこから吹いているのだろう。

「なぜ知ってる?」

「そりゃあ、鶴森、おれは今や、何でもお見通しだよ。なにせもう死んでいるんだからね」

「……お前は、自分が死んだという自覚はあるんだな?」

「ははは!」

 亀山は大げさに笑った。

 びっくりガードの奥の奥に墓場があるなんて、そこに死んだ友人がいるなんて、おれはやはり夢でも見ているか、あるいはどこかで頭でも打って死んでしまったんだろうな、と思った。そういえば——今気がついたことだけれど——松尾可先輩に着付けてもらったこの浴衣は、左前じゃないか。

 亀山はポケットに手を突っ込んで歩き出した。後をついていくが、行けども行けども墓だ。

「まったく鶴森はひどい言い草だ。おれが出てきて、少しは驚いてくれると思ったのに」

 亀山は振り返って口をすぼめた。

「……いろんな変なことが重なっているからな。お前が出てきたくらいではもう驚かないぞ」

「はは、そうか。じゃあ、これはどうだ?」

 そう言って、コートの内側から、何か取り出した。シューッと煙が上がる。

「はい、一丁上がり」

 猫だった。亀山がスプレーで墓石に絵を描いたのだ。スプレーの黒猫。ラクガキの黒猫。

 それは、『亡霊黒猫』じゃないか。

「お前が描いていたのか!」

 さすがに驚かざるを得なかった。亀山はくすくす笑う。

「この猫の絵は、入り口であり出口なんだ。これを通って、猫は表の雑司が谷と裏の雑司が谷を行き来している」

「墓にラクガキしていいのか」

 おれはつい、どうでもいいことを口走ってしまう。亀山はますます笑った。

「大丈夫。だって、これはおれの墓だもの」

 たしかに墓には亀山三四郎と彫られていた。

「どうしてお前の墓が雑司が谷にあるんだ? お前はこの辺に縁もゆかりもないだろう」

「冷たい男だな。誰がどこに墓を建てようが勝手だろう。もっとも、表の雑司が谷からはこの墓は見えないけどね」

 亀山はぺたぺたと墓をなでた。思わずおれも手をのばす。ひんやりと冷たい。

「……死んだときって、痛かったか?」

 思わずそんなことを聞いていた。

「さあ、死んじゃったから覚えてないな。鶴森、お前は死ぬのが怖いかい?」

「そりゃあ怖いさ。最近、おれの周りで急にみんな姿を消して行く。死ぬのってそんな感じなんだろうか。急に、まちがった曲がり角をまがってしまって、落とし穴に吸いこまれてしまうような。もしかしておれも——」

 小説も書けず、無職で、猫にも去られ、おれの文章を読んでくれていた人の心の内はわからぬまま、おれはいつのまにかもう——、

「鶴森。死ぬときは、案外ゆっくり死ぬんだよ。急に消えたりしない」

 亀山は言った。

「由比ヶ浜に行った日、みんなで刺身を食ったのを覚えているか?」

 亀山は唐突に昔の話を始めた。たしかに食った。三人とも金もないのに、やたら豪華な活け造りを注文したのだ。由比ヶ浜で誰一人オンナノコに声をかけられなかった腹いせに。

「魚の口がまだぴくぴく動いていたな。あの魚は死んでいたのか? 生きていたのか?」

 生きていたのだろう、動いていたのだから。おれが言うと、亀山はおかしそうに言う。

「でも、あの魚は切り刻まれてもう泳げないんだぜ。魚の命はお終いじゃないのか」

「それはそうだけど」

「あるいは単に反射で、体が部分的に動いていただけかもしれない。でもそうすると死ぬという定義が難しいな? 体のどこが駄目になったら死といえるんだ? 口の筋肉に命はないのか?」

「わからん」

 わからなかった。

「おれだってそうだよ。一気に全部死んだわけじゃないんだ。脳が死んでから、ほかの内臓が死ぬまで時間があった。おれはゆっくり、ちょっとずつ死んだんだ」

 亀山は朝顔を一輪ちぎった。

「煙のように消えてしまうなんてことはないんだ。そんなに格好良く消えたりしないよ。少しずつ死んで、少しずつ忘れられていく。お前が思うよりずっと、死は潔白ではないよ」

 亀山のちぎったムラサキの朝顔は、たちまちぐにゃりとしぼんで茶色くなった。

「だから、お前は猫のことを考えていればいいよ。どうやって死ぬのかなんて、どうでもいいことだ」

 言いながら、亀山は地面にスプレーで猫を描いた。すると猫の絵がむくむくとふくらんで、茶色い縞の猫が現れた。

「ほら、猫はこの絵を通ってここに来る。お前の探している猫も、おれの絵を通ったはずだよ」

 縞の猫は、すばしこくどこかへ走り去った。

「……どうしてお前が猫を描いているんだ? 入り口だか出口だかを、お前はなんのために作っている?」

 亀山は首をかしげた。

「どうしてって、仕事だよ。ここではいろんな人がいろんな仕事を任されているんだ」

 たしかにマスターはもうひとつの店と言っていたし、先輩も銭湯でバイトしていると言っていた。

「鶴森。猫のことを教えてくれよ。どこへ行ったかわかるかもしれない。鶴森が追いかけているのはどんな猫だ?」

「……黒猫だよ」

 亀山はふんふん、とうなずいた。

「成り行きで預かっていたんだったな?」

「うん。佐藤ミユキという女がおれに連れてきた。本当は、その女の姉が飼っている猫らしい」

「そうか。雄? 雌?」

「雄だよ。さっきは少年の格好をしていたが」

「なるほど」

「黒猫で、でぶで、左右の目の色がちがうんだ」

 右目が青で、左目が茶色。青い目がソーダみたいに透き通った青だから、ソーダという名前らしい。きんたまが大きい。顔つきがふてぶてしい。落ち着きがなく、飯をねだってうるさい。すぐ家の中のものをひっかく。けれど足音はない。静かに悪さをする。佐藤ミユキには甘えた仕草をする。人が食っているものを食べたがる。暑いのに布団の中に入りたがる。丸まって眠る。変ないびきをかく。しっぽをゆらりと立てる。しっぽに触るといやがる。身体がよく伸びる。ぐにゃぐにゃと柔らかい。抱き上げると、毛と肉の向こうで小さな心臓がどくどくいっているのがわかる。温かい。このけものはたしかに生きている。

「——お前はその猫が気に入っているんだな」

 亀山は微笑んだ。

「……うん、そうかもしれない」

 そうだった。おれはソーダがいなくなって、さみしかったのだ。いろんなものが消えてしまうのがこわかった。こわいから、認めないようにしていた。おれは、ソーダのことが好きだったのだ。そしてソーダをおれに連れてきた佐藤ミユキにも、話したいことがあった。佐藤ミユキに会いたいと思った。ソーダを連れて、会いに行かねばと思った。

「そうか。なら大丈夫だな」

 言うと、亀山は自分の墓石の裏にもう一匹、スプレーで黒猫を描いた。そして、絵の黒猫に両手で触れた。ぐっ、と左右に押し広げるようにすると、黒猫の絵は大きな穴になった。

「よし、開いた。ここを通って行くといいよ。まっすぐ行くんだ。きっとその先にいるよ」

 亀山がこじあけた穴の入り口は、人が一人通れるくらいの大きさだった。中は真っ黒く、ごうごうと渦巻いている。

「ここに入るのか?」

「大丈夫大丈夫」

 亀山は無責任に言う。少なくとも死んだりはしないよ、と。

「……わかったよ」

 穴の中は風が吹いているらしい。のぞいただけで、風が髪をごおっと揺らした。どうにか身体をもぐりこませたとき、亀山に肩を叩かれた。

「なんだ?」

「じゃあな」

 言って、亀山が笑った。そして穴の入り口はずずずっと閉じてしまった。

「……じゃあな」

 亀山に聞こえたかはわからない。けれども今度は、さよならを言った。


 風の吹く穴の中を、ともかく歩いた。真っ暗で、今度はツルもない。やはり足元はぬかるんでいた。泥のようにねばついて歩きにくい。遠く、水音が聞こえる。通路はやがて下り坂になった。

 ふたたび胎内めぐりのことを思い出す。寺にはたしかこう書いてあった——仏さまの胎内を模した通路を歩き、最後に外に出るともう一度生まれ直すことができるのです——。あのとき馬鹿馬鹿しいと思った。今だってそう思う。そんなことで生まれ直せるのなら安いものだ。だけど——。

 実際に暗い道を歩くのは、しんどいことだった。よく見えない足元はぐちゃぐちゃと不安定で、坂や階段が続いて筋肉がきしんだ。歩くということ。自分の身体、それ以上でもそれ以下でもない。新しい人生が始まると書いてあった。そうかもしれない。自分の身体でしんどい思いをして、肉体は肉体であるとごく当たり前のことを本当に実感したのなら、歩いた先の景色はたしかに新しいものだろう。何度通った道であれ今日この身体で歩くのは初めてで、二度と同じ時間は繰り返せない。やがて朽ちていく肉体を、動かなくなるまで動かすということ。

 そんなことを考えながら歩いていたら、目の前に光があった。出口らしい。

 ホッとしたのが良くなかった。間抜けにもつまづいてしまった。そして道は下り坂だった。ごろんと転がって、出口から落ちるような格好だ。頭を打ちそうになる。おれは思わず目をつぶった。

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